第25話

 この世に生まれてきて、俺は、一度も世界で一番と言えるほど大切なものを失ったことなんてなかった。

 家族、友達。みんないつも近くにいることが当たり前なのだと、自分の中で思い込んでいた。だから俺がクリスティーナと2人で戦争から逃げても、彼らとはいつでも帰れば会うことができると思っていた。もちろんクリスティーナとも、いつまでも共に人生を歩んでいけると…


 クリスティーナ。俺は今、君を失いかけている。



 小さな少年を庇い、瓦礫の下敷きになってしまったかクリスティーナは、周囲にいた彼女の偉業を見た者たちによって病院に運ばれた。意識を失っている彼女が治療室へ運ばれた後も、人々は彼女を褒め称え続けた。

 しかし、そんなことをしても彼女は目覚めない。


 「君、あの子が下敷きになった時一番近くにいたらしいけど、知り合いかい?」


 いきなり話しかけられ、言葉を発しそうになったが、グッとこらえ頷いた。


 「私は医師だ。ついさっきまで彼女を治療していた。…辛いだろうが、彼女の命が助かることはおそらくないだろう。頭部だけでなく、身体中大怪我をしていた。だから、早く彼女に・・・」


 彼が言い切る前から、何を言いたいのか察することはできた。


 『彼女の命の灯火が消える前に、彼女に会ってあげなさい。』


 もちろん、言われなくてもそうする。彼女は俺の…


 バンッ!とドアを開け、クリスティーナの寝かされているベッドへ駆け寄った。


 身体中血で汚れているというのに、まるで眠っているかのようだ。


 「クリスティーナ!お願いだ。生きてくれっ!」


 声をかけると眠たげな目をうっすらと開け、まさかの笑顔を作った。


 「あ、アルティオム。来てくれたんだ。あんまり大きな声出さないでよ。私、そろそろ眠くなってきたんだ。お母さんと、ヨセフに会えるんだよ。」


 「2人の分まで生きるって決めたろ!生きろっ。お前がいなきゃ俺はっ…」


 そう言った時、彼女の雰囲気がすぅっと暗くなった。瞳の奥が黒くなった。


 「ちょっと、おしゃべりしよう。

  橋を渡った時のこと、覚えている?あなたがロシア人のことをどうしたいって聞いた時、私はあんな綺麗事を言ったけどさ、心の中ではおんなじ目に合わせてやりたいって思ってしまった。復讐してやりたいって。だからね、これは私が私へ下す罰。心がまだ純粋な小さな少年を助ければ、私の醜い心も少しは洗われる。彼のために死ねば、家族に顔を合わせれる。嘘ついて、ごめんね。」


 キッパリと言い切る彼女は今までにないくらい悲しそうだった。


 「これだけは言わせてくれ。俺も、君に嘘をついた。君を助けるのは、君の心が誰よりも綺麗だったからだ。ずっとそばにいたから分かる。君の心は醜くなんかない!俺が保証する。それに、君は俺の、最愛の人なんだ。だから、そんなこと、言わないでくれっ」


 声が震えてしまったのが自分でもわかった。自分の頬を温かい何かが伝うのを感じた。


その時、冷たくなりかけた手が俺の頬に添えられた。


 「泣かないで、アルティオム。私、そろそろ終わりみたい。不思議ね。全然体が痛くないの。あとね、私の一番の願いはね、あなたが長生きすること。天国へ行ったら神様にお願いしてあげる。今までありがとう。アルティオム。さようなら。」


 頬に添えられた手の力が抜けていく。冷たくなっていく。


 「最後に、最後にこれだけ言わせてくれ!」


 『戦争という地獄の中で、君に出会うことが出来たから、俺は変われた。君に出会うことが出来たから、人を殺さなくて済んだ。地獄の中で、君に出会うことができて、本当に良かった。』


 パタッ。静かにクリスティーナの手がベットの上に落ちた。


 そして、笑った。


 旅の中で、何度も見た笑顔。それなのに、今はとてつもなく美しいものに見える。


 「やっぱり君の笑顔は、向日葵みたいだ。」




 

 

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