第3話 アオの激情

「アカネ」


 久しぶりに聞く無機質な声。


「…生形うぶかたさん」


 その日は雨が降っていて、私はゴミ捨て場の横の踊り場で、雨宿りするように読書をしていた。傘を差したアオが私を見下ろしている。相変わらず感情を削ぎ落とした仏頂面だった。


生形うぶかたは、仮の名前」


 接点はなくても、彼のことはずっと見てきた。2年離れていたとしても、何が言いたいのかは大体分かる。


「本当の名前で呼んでってこと?」

「そう」

「やだよ」

「理由」

「他の女子の嫉妬とか怖いし。それに、生形さんは私のこと嫌いでしょ? 嫌いな奴にどう呼ばれようが不快なだけだよ」

「違う」

「…え?」


 頭を抱えてしゃがみ込む彼に、目を見開く。


「ボクにそれはない。ダメだった」


 傘に溜まった雫が足元に落ちた。


「全て。似てない。本物じゃナイ」


 裏返った傘が、土砂降りの雨を受け止める。彼は自身の顔を掻きむしり、目尻から黒い液体を流した。

 私は驚いて、慌てて彼の側に駆け寄った。雨に濡れながら、傘を拾ってアオに被せる。内側にあった水滴が、私たちに落ちた。


「ちょ、どうしたの?」


 アオに肩を強く掴まれ、私は尻込みする。

 視線がぶつかる。

 捉われる感覚。怪物の瞳孔に、私が映る。


「…アカネになりたい。本物に。ボクは偽物。化け物。似てない。似てない。似てない。アカネになりたい。どう、すれば…」


 呪詛と共に彼の体が溶けていく。小さい頃に見た物体へ変わっていく。笑顔も明るさも何もない、黒い有機物へと変化する。


 その姿に、まさかと思った。


「…ずっと、無理して笑ってたの?」

「…」


 雨と混ざった彼の手が、私の頬を撫でた。小さい頃と同じ、模倣しようとする手だ。

 黒い波から見える水晶玉の瞳は、黒い液体で歪んで、泣いているようだった。

 初めて触れる彼の激情に戸惑いながら、私は頬に添えられた彼の手を両手で包む。あの頃と同じで、彼は私から体温を吸収して暖かくなっていく。


「…ねえ、アオ」

「何」


 ノイズのかかった平坦な音。思わず口をついて出た。


「偽物でも何でも、関係ないよ。アオは、アオだよ」

「違う。本物のアカネには、一生理解できない」

「理解できなくても」


 アオの手を握り込む。

 彼が今までなんの為に動いて、何に悩んできたのかは分からない。

 それでも、無感動の瞳の奥に不安そうな子供を見た気がして、私は安心させるために無理やり笑った。


「理解できなくても、話してよ。私はアオの事をもっと知りたい。話したくないなら話さなくて良いから。私のことをコピーしてくれて構わないから」


 私にだけ無表情だったのは、無理しなくて良いと思ってたからだよね。

 私はアオの事情を知っているし、模擬し尽くしたから、警戒対象じゃないって、思ってくれたんだよね。

 例えアオにとって私が、サンプル以外の何者でもなかったとしても、それがすごく嬉しいんだよ。


「どんな時でも良いよ。ちゃんと、聞くから。何も話さなくてもいいから。私は、アオが本物だろうと偽物だろうと、ちゃんと側にいる」


 途中から告白みたいになっていることに気づいて、顔から火が出るほど熱くなった。


「と、友達としてだからね!? 友達として、幼馴染として、支えたいってだけで…」

「…そう」


 両手の中で、黒い泡が美しい手に変わる。

 濡羽色の個体から白い顔が浮き出て、形の良い唇から吐息が漏れる。背骨の形を確かめるように、黒い雫が彼の体を這う。

 耳の裏が熱い。速くなる心臓の鼓動が、彼の心音と混ざる。私は思わず瞼を閉じた。

 彼の形が、作られていく。

 ゴソゴソと洋服を着る音が止んだので、目を開く。

 いつの間にか顔を覗き込まれていて、ヒュッと息が引き攣った。鼻の頭が触れそうだ。


 アオは、徐に私の額を人差し指でなぞった。

 小さく声が漏れて、彼の触れた箇所が茹る。


「その感情は、何?」


 純粋な眼差しに、冷水をかけられた気分になった。

 アオが欲しいのは「感情」なのか。

 腑に落ちる。だから、心情変化の激しい私だったのだ。情ではない。ただ、都合が良かっただけ。


「ゆ、友情、かな。愛情かも」


 いつも通りを装って答える。

 泣きたいやら恥ずかしいやらで、ぐちゃぐちゃになりそうだった。


「そう」


 彼は傘を私に持たせて、土砂降りの中を立ち上がった。

 濡れた髪を掻き上げて、何かを思案している姿さえ、綺麗だった。


「もう行く」

「傘は?」

「いらない」


 次の瞬間には、アオは消えていた。

 私は、土砂降りが音を消してくれるのを良いことに、うわあああと声を上げながら顔を両手で覆った。


「何だよ、側にいるからって!! か、完全に告白じゃん! アオも気づかないしいいいい!」


 ジタバタと暴れる。体は雨で湿っているのに、燃えそうなほど熱い。アオに触れられた指と額の熱がぶり返す。

 色々、傷つく発見はあったけど、結局それだ。彼が感情を探しているのは、薄々感づいてはいた。真っ向から突きつけられてしまったけど、やっぱり、私はアオを諦めきれない。


 本物になれないことに悩んでる癖に、「感情がない」は違うでしょ。

 なら、私も少しは希望を持って良いのかな。

 機械がエラーを報告してる感じだったから、やっぱり望みは薄い?


 本当に、アオは不思議な存在だ。

 姿を変える事といい、転校してきた事といい、一体、どんな力を使ったのやら。分からない事だらけだし、アオは私に言うつもりがないのだろう。


「もどかしいなあ…」


 雨で湿った体を摩りながら、私は熱った頬を叩いた。

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