第8章 手紙
第1節 ニュートンの恋
ここからは、僕しか知らない物語。
あれから数年が経ち、バルトが日本に帰ってきた。その情報を新屯は元会長から聞いていた。しかし、全ての意味で遠くにいってしまった旧友が、自分の元に戻ってきてくれるとは思えない。
(少し寄った程度だろう、どうせ。もう私の事は覚えてもいない。彼は、戻ってはこないのだ)
新屯の元に。
協会の会長を任されている新屯は、誰よりも早く会場に来てまとめる資料があった。今日も一人で会場に着き、黙々と作業をしていると、扉が開いた。
(蓮さんかな)
顔を上げる。だが、そこにいたのは蓮ではなかった。しかし、見覚えのある人物。
「バルト……」
誰もいない会合の場で、その男は新屯の前に現れた。驚いている自分と比べて動揺していない事から、新屯がここにいる事は事前に知っていたようだ。緊張した、揺るがない眼差しがそれを伝えている。
新屯が立ち上がり、バルトが足を踏み出し、二人の距離は縮まっていく。
あの青年だったバルトが、貫禄を持って今、ここにいる事をにわかには信じられない。
「ニュートン先生、これ」
バルトは、突然ある物を差し出した。
「これは?」
「通信機です。これで、誰にも見られずにやり取りできます。外の電波を介さず、お互いの発する波だけで通信するので、他人の電波は受け取らないし、他人に内容を覗かれる事もありません。しかも、やり取りが一往復すると、自動的に中身が暗号化されます。そのデータは全て僕の方に送られてくるので、僕が死ぬまでデータは洩れません」
青年時代より深みを持った青い目が、緩んだ気がした。
「もっと詳しいシステムを聞きたいですか?」
新屯は首を横に振る。システムも気になるが、今は目の前の男に聞きたい事があった。
「なぜ、そこまで?」
緊張だか、感激だか、恐怖だか分からない感情が揺れ動く。震える手をきつく握りしめた。青に、吸い込まれてしまいそうだった。
「僕が、あなたと繋がっていたいから。それが僕の、一番の幸せだって気づいたんです」
「ニュートン先生、全ては僕が間違っていました。もう一度、やり直したいです。もう遅いですか」
キッパリと首を横に振って、「そんな事はない」と伝える新屯。それを見て、バルトの表情が少しばかり和らぐ。
「僕たちは歳の差がありますよね。他の人たちに比べたら、別れが近い事は免れようのない事実です。でも僕は、先の別れを恐れるより、今の幸せがいい。あなたと生涯にわたって、共に過ごしたいのです」
彼は、歴史を繰り返さないつもりだ。今度こそを、叶えようとしている。
「私は、」
新屯環は……
「私は、君が好きだ」
大切なものを失ってまで、守りたいプライドはない。ましてや社会的地位など、どうでもよかった。
「ニュートン先生……!」
バルトが腕を広げて抱き着く。以前より肉が付いたかもしれない。その老いさえ、数語では語れないほど愛おしい。
「君に出会ってから、私は長年、困惑している。私は人が変わってしまったみたいだ。これは何という症状だね」
数字に埋め尽くされ、研究と心中する予定だった新屯には、一人では解明できそうもない謎があるのだった。
「それは恋ですよ。誰のものでもない、ニュートン先生の恋です」
二人の恋が実るまで十五年以上かかった。彼らにとっては、長くて短い歴史である。
「先生、いいですか」
「……ああ」
その隙間を埋めるように、二人は唇を重ねるのだった。
それからまた数年後、二人の通信機はあっけなく壊れてしまった。だが、彼らの絆は太く繋がったままだ。
「それで、僕がまた呼ばれたと」
飯振は、新屯の横に立っている美しい男をジロジロ見ながら言った。
「ああ。私は日本を離れるつもりはないが、バルトは旅人だ。私たちが離れている間だけ、君が手紙を運んでくれないか。金はある」
自己紹介もなしに単刀直入すぎる依頼をされてしまった飯振。しかし、その頼みが何を意味するのか、彼には分かった。コンピュータや電子がはびこるこの時代に、アナログでやり取りするという事は、どうしても死守したい個人情報があるという事だ。
(ああ、この二人はそういう関係なのか。じゃあ、新屯さんを変えたのは……)
「あの、すみませんでした!」
バルトが急に頭を下げた。
「何ですか、いきなり。会うのは初めてですよね?」
「そうですけど、飯振さんの事は先生たちから聞きました。僕、あなたを勘違いしてました。先生の恋人だと……」
「ええ、確かに新屯さんは魅力的なお方ですよ。ですが、僕はただの助手です」
無理な誤解に、飯振は内心で盛大に驚く。狭い額が浮き上がる。
「ですよね。僕、あなたが先生の恋人なら、大病を患ってしまえばいいなどと思ってしまいました。誠に申し訳なかったです」
綺麗な顔から凄い発言が出てきた事に、再び驚く。
「それ言わなくていいと思いますけどね! まあ、いいや。それで僕は、二人のプライベートのために、そんな原始的で不便な『手紙』を配達すればいいんですね」
「そうだ。金は出す」
新屯が無表情で答える。
(どんだけ金で解決しようとするんだこの人。変わってないな)
「お二人でずっと住もうとは、考えなさらないのですか」
「はい! 僕たち二人は、お互いに科学と不倫してるので」
バルトがニコニコして答える。眩しい笑顔に、飯振は目を逸らす。
「よく分からないけど、分かりました。これ以上は聞きません」
飯振は、これから国じゅうを何百往復もするであろう未来に絶望を感じながらも断る事ができなかった。なぜなら、今まで殆ど笑わなかった新屯が、何物にも代え難い、幸せそうな笑みを浮かべていたから。
歳の開きが少ないバルトと飯振は、すぐに仲良くなった。時々、ご飯に行ったり、遠くに出掛けたり。それを新屯は嫉妬する事もなく、微笑ましいものと捉えていた。それは、ただ二人を心から信じているからだった。
ある日、飯振は久しぶりに新屯とバルトの家にお邪魔していた。人間の生活をしない新屯と、お坊ちゃま育ちのバルトは、家事がとことん苦手だった。飯振はその、家事代行で呼ばれたのだ。
「僕、疲れたから、ちょっと寝るね」
リビングの掃除をしていると、バルトが声を掛けてきた。最近は密度の高い仕事が詰まっていたから、疲れているのだろう。
「分かりました。おやすみなさい」
それから三十分ほどして、新屯が帰ってきた。
「バルトは?」
新屯は決まって、「ただいま」よりも先にバルトの所在を尋ねる。飯振は慣れていた。
「ご自分の部屋ですよ。睡眠を取られてます」
「分かった」
何が分かったのか、彼はバルトの部屋の前まで行き、扉をノックした。
(今、寝てるって言ったんですけど~?)
飯振はずっこけそうになったが、ふと、二人の会話を盗み聞きしてみたくなった。彼が恋人とどんな会話をするのか。名も無き天才科学者は、恋人とどんな会話をするのか。
「起きているかい」
新屯は問答無用で扉を開けて、中に呼び掛けた。
「寝てますー」
暗闇から、とぼけた声が聞こえてくる。
「……そうか。残念だ」
ガバリと起き上がった音がした。
「寝てる人が返事するわけないでしょ!」
「冗談だ」
「えっ、ニュートン先生が冗談を!? え、僕、実は寝てる!? これは夢?」
「ふふ」
どんな人種の人間でも、恋人との時間は他の誰とも変わらないのではないかという、僕の仮説が出来上がっただけだった。
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