第4節 仮説の集大成
徹夜後の朝。新屯の元に郵便が届いた。覚えのない彼は、袋の裏を見た途端に察知した。長年、友人だった岩渕の訃報だった。
少し重みのある袋を開けると、二つの物が出てきた。一つは手紙。もう一つは、何かが包まれた長細い物体。新屯はまず、手紙を開ける事にした。
『おいは、理系の才能を持つ君が羨ましかった。これまで、君が関わった数々の論文を読ませてもらい、実験もいくつかはこの目で見た。でも、その全てを完全に、己の学びにする事は不可能だった。というのも、自分には数学の能力がないんだ。数字の魅力には取り憑かれているのにも関わらず。数字に憧れる事はできても、君みたいに数字と思うように踊れなかった。数字が持つ無限大の可能性や、底なしの奥深さを、おいは気づいているとは感じてる。だが、君のような、その世界に生きている者から見れば、おいの視界に映る世界はごく限られたものなのだろう。
君は知っているのか。科学を愛し、科学に愛されるという奇跡の喜びを。片想いではなく、両想いを完成させて干からびた残骸でもなく、お互いに愛し合っているのに、また、お互いに相手に好かれていると気づいているのに、付かず離れず成長の種を撒きあう幸せを。君は、科学に取り憑かれてしまったと自分を責めていたが、それは君自身が望んで成した事なのではないかとおいは考えている。なぜって? なぜなら、君から科学を取ったら、何が残ると言うんだい? 君が望んでいなかろうが、今まで君の前に現れた人々は、どうして君の前に現れたのか。君の手で生み出した科学の真理が、逆らえない引力で彼らを引き付けたからだろう。君が掻き分けてきた道に間違いはない。君が科学に取り憑いたんだ』
『いいかい。最後だから言うよ。
君自身は、君の所有物だ。
自分を占める割合に他人を入れるかどうか、それも君だけが決められる。であるから、また、君が生み出した財産は、目に見えるかどうかに関わらず、君だけのものだ。誰にも取る権利はない。だから、生きる事をそんなに怖がらないで欲しい。君の過去はもちろん知っている。でも、生きる事が、戦う事だなんて、常に思う必要はないんだよ。少なくとも、今、君が信頼している人たちだけでも信じ抜いてやってくれ。
説教臭くなってしまって申し訳ないね。中途半端に終わらせたくなくて。これが、本来のおいの性格なんだ』
『見えもしない物を追いかけ、少々の休息もせず、また追いかけ。おいは、そんな君を遠くから見ていて幸せだった。できるなら、君と追いかけてみたかったけどね!』
『もう書き終えるよ。老人にペンは重くて。おいがこれらを手書きで残したのは何を隠そう、人嫌いのくせに愛情欲しがりな君に、少しでもおいの愛情を知って欲しかったからだよ。数字と、憎らしいヤングな数学者で頭がいっぱいな君が、愛情という言葉がこの世に存在する事を知っているかは想像の範囲を越えないけれど』
『君に、最も忠実な友人より』
その手紙を畳んだ時、包装物の方が目に入った。開けてみると、中身は一本の定規だった。
「来週、青森の実家に帰るんですけど、来ます?」
飯振は、新屯の家にお邪魔していた。彼は、友を失った新屯が、憂鬱の沼に沈んでいるのではないかと心を痛めていた。誰かが連れ出さなければ、新屯は永遠に研究と引きこもっていそうなものである。
いまや飯振は、もうあの頃の大学生ではない。立派な社会人で、科学雑誌の出版を任されている、科学の伝道師だ。
「僕の両親も、新屯さんにお礼がしたいって言ってました!」
「……」
振り子を眺めていた新屯の首が、頷いたのが見えた。
二人は飯振の実家へ向かうため、青森まで来て、コンクリートの坂を上っていた。
「はあ、まだか……」
「もうちょっとですよ」
既に若くはない新屯は、思ったよりも長い坂に息を切らせている。だが、足を動かすのに必死で、自分を煩わす物事を考えずに済んだ。
「その『もうちょっと』は、あと何回聞けばいい?」
「ほら! あそこ! 今度は本当にもうちょっとですよ!」
丘になっている場所に出ると、リンゴの木々に囲まれた家が見えた。ここから少し下っていけば、すぐに着くだろう。
「私たちは今、登山をしていたのか?」
ここまでの道のりを振り返り、新屯は大きく息を吐いた。
(ここは、少し懐かしい感覚がする)
坂を下りながら、なぜ、初めての場所にも関わらず、ここを懐かしく感じるのか考察してみる。
(田舎だからか、自然に囲まれた広い土地だからか)
牛や馬や羊と共に育った幼少期の自分を思い返して、あの風景に今の風景を重ねてみる。家業を継いでいたら、あの焦燥も、この苦悩も、知らずに生きられたのか? どうしても自分を苦しめるような思考に傾いてしまう。
(私は、死ぬまで科学に命を注ぐと決めたのだ)
己を奮い立てるように、前を歩く飯振の方を真っ直ぐ見る。
「私は、独立しようと思う」
「え? はい?」
飯振は、急に何の話かと思った。
「この歳で独立は遅いと、誰もが言うだろう。しかし私は、自分のやりたい研究をしたい」
(研究所の話か)
「新屯さんが言うなら、誰も止めないと思います。大学側も、新屯さんを快く送り出してくれますよ」
新屯はニコリともしないが、飯振の賛成を嬉しく感じているに違いない。眉間の皺が和らいでいた。
飯振の実家は、リンゴの木の間を縫って行くと現れた。
「ただいま」
玄関を開け、息子が声を掛けると、中から両親が嬉しそうに出てきた。
「おかえり! おろぉ! 新屯さんんん!」
飯振の両親は二人揃って、床に手を付いた。
「お待ちしておりましたあ! 本当に、うちの子がお世話になっております! 長旅でしたでしょう!? ゆっくりしていってぐださいい!」
まるで命の恩人に接するように、玄関先で土下座を繰り返す二人。
「そんな、大した事は……」
「いいえ! 貧乏な家に学費を出してもらって、更に院まで行がせていただき……もう何とお礼をして良いか分がりません……うっ、うっ」
「新屯さん」
横から、飯振が話し掛ける。
「二人の言う通りです。大袈裟じゃなく、本当に感謝しています。僕を立派な社会人にしてくださって、ありがとうございます」
最近、ろくに飯振の顔を見ていなかったが、彼の顔はきちんとした大人の顔になっていたと、今、知った。
「君が立派かは知らない。が、君が社会人になったのは、君の努力があったからだ」
こんな事を言う日が、子供のいない自分に来るとは。新屯は心の奥がつんとした。
「今日はあずましい天気でございます。おてんとさんは出てるし、風も少ない。絶好の日向ぼっこ日和です。お外で、お茶でもどうですか?」
飯振の母が、にっこりしながら二人に提案した。
「それ良いね。新屯さん、外に行きましょう。僕が高校生の時に作った机と椅子が、庭にあります」
「君が?」
「新屯さんほどじゃないですが、器用なんですよ。僕」
青森の庭は、午後の温かな日差しで満たされ、柔らかい風が時たまそよいだ。涼しい晩夏を心ゆくまで味わう事を許される。新屯は、この景色がとても好きになった。
「ここにしましょう」
飯振のDIYで作った机と椅子を並べ、お茶を入れる事にした。野郎二人のアフタヌーンティーが始まる。新屯が思っていたよりもリンゴの木は高く、実が頭に落ちてきたらひとたまりもないと予想していたが、飯振は、収穫が終わった木の下に机を設置してくれた。
「君のご両親は、元気そうだな」
「元気過ぎて困ってるくらいです」
「良い事だ」
昔のように、二人は向かい合っている。ただ、昔よりはポツポツした会話があった。何度も途切れては、気まずさのない沈黙を紅茶と共に啜る。
新屯は、喋ってみようと思った。自分の研究成果の集大成を。飯振なら、きっと批判しないでくれる。
「最近、仮説を作ったんだ」
「え、仮説嫌いの新屯さんが?」
「まあ聞いてくれ。数字でも宇宙でもないんだ」
落ち着いた口調で、スキエンティアメメントモリについて語り始めた。
「人は生まれ変わる時、一つの魂の構成粒子がそのまま新たな肉体に宿るとは、私は思っていない。だが、核となる記憶があると思うのだ」
飯振は、何の話をされているのか分からなかった。だが、とりあえず頷いた。今日は新屯のためなら、できるだけ力になりたいと思っている。
「人が、ある一人を深く想う事があるのは、かつて己の魂が相手の肉体に宿っていたからではないか。肉体から離れた際に分裂し、磁石のように元の成分を求め合う。つまり、過去に想っていた相手に、自分の魂は核となり、生まれ変わる。もちろん、未来で、だ。でないと、この世界はいつまでも過去をグルグル繰り返して、未来など名前も与えられないだろう」
しゃにむに頷く飯振。
「その時、新たな自分は過去の自分のままとは限らず、追い求めた相手に生が寄る。だが、それも完全とはいかない。いくらかは自分のままであるから、個体としては新たな配合を備えた初めての個体になる。それならば、もはやまっさらな新魂と言えるかもしれない。しかし、もしこれが全生物に当てはまる公式なら、運命というものは存在しないだろう。全ては完全新作の命になってしまう。それは、“創造主”が望む事だろうか。ここで言う“創造主”が神だろうが、その他だろうが、私はそうでないと推測する。なぜなら、人が神秘的な喜びを感じる時、それは、現代では説明不可能な何かが働いているからだ」
二人の数メートル前に立っていた木から、リンゴが落ちた。
土の上に、ボトリと着地する。
「……実ってしまったリンゴは、必ず落ちる。綺麗なまま永遠に実り続ける事はできない。しかし、再び新たな果実は実る。私たち人間も、同じ運命なのかもしれないな」
「想いは、形を越えて受け継がれるって事ですか?」
ポツリと言った飯振を見て、新屯は目を大きくした。
「あ、馬鹿なこと言ってたらすみません。本当はよく分かっていないです、僕」
変なところで口を挟んでしまったかと、飯振は汗を飛ばしながら謝罪する。新屯はというと、
「……そうだね。言うなれば、想いの集合体を形而下のリンゴと仮定して、木から落ちたリンゴは、そのまま下の時代に落下していくのかもしれない。だが、形而上では、それは一意のリンゴではない……生まれ変わりは、私たち人間が思っているより単純なものではないよ」
その時、飯振は見た。見えない真理に、恐怖と興奮を感じる、一人の研究者の顔を。
「言葉では分かりづらいな。数字にしてみよう」
常人にはとても理解不能な計算式を書きつける新屯は、笑顔こそないものの、その表情は子供のように楽しんでいた。
この仮説を証明できる時代は、いつか来るのだろうか。
飯振に話した事で、少しは心が開放された新屯。青森から帰ってからは、研究所の手続きに追われていた。その合い間でも、科学に関する速報は漁っている。自分がいなくても進歩する世界は、自分がいる事で更に進歩する。近頃は、前向きに科学と向き合うようになった。
ある時、情報の波の中に、バルトの名前を見つけた。
『味覚、嗅覚資料の完全化!? 失敗からの大発見!』
居ても立っても居られなくなった新屯は、科学系ニュース番組を表示させる。すると、自信に満ちたバルトの笑顔が映っていた。新屯の知らない、仲間たちと共に。
彼の笑顔は何年ぶりに見ただろう。記憶の彼よりは歳を取っていたが、やはり、新屯が惚れた黄金比が崩れる事はなかった。
『失敗からどのように逆転したのでしょう。CMの後、専門家と解説していきます……』
アナウンサーの声は、もう新屯には聞こえていない。既に記事を読み終えた彼に解説は不要だ。
(メモリー効果、か。そこに目を付けるとは)
新屯たちの時代では、メモリー効果が起こってしまうニカド電池やニッケル水素電池ではなく、メモリー効果がほぼ起こらないリチウムイオン電池が主流である。メモリー効果が起こる根本的な原因は不明だったのだが、リチウムイオン電池を使う事でメモリー効果の影響を受けずに済むため、原因は追究されず闇の中であった。バルトたちは全く違う角度から、図らずもその原因を発見し、保存資料の発展に応用させたのだ。
(君が、新たな時代を切り開く科学者だ。これは、旅の寄り道で発明したおもちゃに過ぎないのだろう)
端末が震えた事に、ハッとした。画面を見る。
ニコラオス・バルト。
彼から、久しぶりの連絡が入ってきた。書かれていたのは、たった一文。
「僕は、ファティオを超えます」
歴史のカーテンに隠された科学者。アイザック・ニュートンを本気にさせた男。
(ファティオは、私の方だったのではないか)
「本当に、胆力がある男だ」
嫉妬もさせないほど、今のバルトは偉大な科学者なのだと認めざるを得なかった。それを嬉しく感じてしまうのは、自分とは違い、世に貢献する彼に、己の役割を委ねる事ができると確信できるからだろうか。それとも、愛する者が認められていく世界なら、好きになる事ができるからだろうか。
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