第3節 君と見たかった
良く晴れた昼。新屯の元には晴丘が訪れていた。この晴れ男が新屯を訪れる時はいつも、知恵を借りたい時だ。
「やっぱりあなたは天才デス! 新屯ドクターと話していると、どんどん研究が進み、どんどん謎が出てくる!」
「そんなことを仰って下さるのは、晴丘さんくらいですよ」
「そんなことないです! 岩渕さんだって、ドクターバルトも! あなたをいつでも褒めていました!」
バルトの名前が出てくると、新屯は途端に胸が締め付けられる。どこが人生の選択だったのか分からないまま、大切な方を捨ててしまったのではないかと追憶しては、気が塞ぐ。神のサイコロを慰めにしても、どうしても朧気な分岐点が引っ掛かってしまう。
無意識に下を向く。
「……私は今まで、ずっと二択を間違え続けていた気がします。更には、本当は二択ではないのに、自ずから選択肢を狭めてしまっていたとまで言える。愚かな人生でした」
ひたすらに自分を隠してきた新屯の、本音が出た瞬間だった。晴丘は、彼の独り言のような懺悔を聞いて、この化物にも人間の一面があるのだと分かった。
「私は何も成せない。皆が期待するほど、名を残せる器ではなかった」
中途半端な才能は、身を滅ぼす。
頭を垂れる新屯の絶望を、晴丘が同じように感じる事はできない。それでも、長年連れ添った恩人に掛ける言葉を探した。
「……世に名前が出る人は皆、運が良かった天才です。ニコラ・テスラやロバート・フックだって、消されたけど、静かに名を響かせていマス。一部の世界で」
錆で汚れた指で頬を掻く晴丘。遠回しの説得は、新屯には通用しない。
「何が言いたいのかと言うと、ワタシは新屯さんを忘れないという事です。数え切れない恩がたくさんありますから。新屯さんは運がとても良かったとは言えない人生かもしれませんが、ワタシはあなたを信じます。新屯さんの頭脳がなければ、今のワタシの発見はありませんでした。感謝します、sir」
新屯は顔を上げた。お気楽そうな顔の天文学者は、かしこまった笑顔を見せていた。毀誉褒貶を受けた人生の中で、自分を忘れないと言ってくれる人間が、目の前にいる。
「それは私に? それとも、私の才能に?」
晴丘は、とびっきりの笑顔で頷く。
「ワタシの友達に!」
そして、新屯の手を取る。
「恩人の
これまでにないほど、心より深く、晴丘はお辞儀をしたのだった。
(あなたは、大切なものを守るため、戦場を駆け巡る
ある午前中、新屯は、用事で東京まで来た妹と待ち合わせをしていた。彼女とは、母が亡くなってからは初めて会う。
「え、早くない?」
「君こそ」
二人は、集合時間の二十分前に落ち合った。
共通の母を持った二人は、己の近況を報告し合った。何のしがらみもなく話せている事を、新屯は不思議に思うが、小さく幸福を感じる。
「じゃあ、環さんは自分の研究所を持つんだ? 凄い!」
食後のアイスコーヒーをストローで混ぜながら、彼女は笑った。悲しみに引きずられているようには見えない。
「まとまった金が入ったからね。でも、この歳だ。遅い方だよ。とても」
新屯は、コーヒーから流れる湯気を見ていた。
「中途半端な私がどこまでゆけて、どこまでゆきたいのか、私にも分からないのだが」
(ここで言っても仕方がないのは分かっている)
鼻で笑う。
「……私、ずっと環さんが羨ましかったんだ」
彼は視線を動かさず、耳だけ集中させる。
「私は出産するまで、ずっと熱中できるものも無かったし、好きな事も移り変わっていった。何かに固執する事も無い。長い時間をかけて積み上げたいものも無かった。でも、環さんは違う。昔から科学の、私の知らない世界にいる人で、その中で生きている環さんは、私から見て特別な人だったよ。苦しい時も、楽しい時も、いつも科学と一緒だったよね。正直に言うと、羨ましかったな」
静かに、時間は流れていく。
「住む世界が違う人なんだって、思ってた」
「環さんも色々あったと思う。でも、それでも科学から離れられない辺り、きっと環さんが、それを望んで選択してきたんだと思う。辛くても、思ったような結果が出なくても、その努力は環さんがしてきた宝物だよ」
前回よりも前を向いている彼女は、新屯を見ている。
「……君は今、何か熱中できるものを見つけた?」
耳が従う歳になったからだろうか。彼は、彼女の言葉をフィルターなしに聞き取れる。従うかは、また別の話だが。
「今は子育て、も落ち着いてきたから、ペットでも飼おうかなって。私、何かをお世話するのが好きみたい。もっと早く気づいていれば保育士にでもなったのに」
彼女は、窓の外の、遠くに目を向けた。
「遅くないよ」
新屯に目を戻す。
「今から勉強しても遅くない。おじさんになっても宇宙飛行士になれるし、ノーベル賞も取れるのだから。ましてや、君は賢い。人生はこれからだ」
湯気から視線を上げた兄は、優し気な瞳をしていた。
「……なんだ。環さんも、答えが出てるじゃないの」
「いや、私は宇宙飛行士になりたい訳ではないし、賞にも興味はない」
「うふふ、分かってるよ! そうじゃないの!」
今日一番の笑顔で、彼女は兄を見つめた。
「ありがとう。頑張ってみる。“お兄ちゃん”も頑張って!」
新屯から見える世界が、少しだけ広がった気がした。
「ありがとう」
こんなに温かいコーヒータイムは久しぶりだった。
午後、妹と別れた新屯は、大学で教鞭を執っていた。
現在の彼の講義には、十人の学生が揃っていた。まだまだ少ない事には変わりないが、昔の彼からは想像がつかないほどの出席率である。
「では、次までに復習しておくように。以上」
終わりのチャイムが鳴る。いつものように、学生より早く教室を出ようとすると、一人の女子学生が彼を呼び止めた。
「何だ」
責めるつもりはないが、無表情の圧が出てしまっている。
「……この、ラプラス変換が分からなくて」
女子学生は手が震えている。震える指先が示すのは、たった一つのs。
「真面目に聞いてました、でもっ、私、馬鹿だから……すみません」
若かりし頃の新屯であれば、理解できない人間は視界に入れる事もせず、通り過ぎるか、攻撃して追い出すだけだった。それでも批判してくる相手には、二度と反論できないよう、徹底的に遣り込める。そうする事でしか、自分を守れないと思っていたのだから。
身体の正面を、女子学生に向ける。
「……sは、複素数だよ。講義の前半で話した指数関数の減少の話は覚えているかい」
静かに、声を掛けていた。
「すみません! 今日、電車が遅れて後半から入ったので、聞いていませんでした……すみません……」
彼女は今にも泣きそうだ。
「では、そこから説明しよう。この後の時間は」
「あ、空いてます! 大丈夫です!」
新屯は頷く。
「確か、この教室も空いていたはずだ。説明するから、分からない箇所は手を挙げるように」
固陋だったはずの教授は、一人の学生のために壇上へ戻った。
「はい! ありがとうございます!」
学生の笑顔を、これまでいくつ犠牲にしてきていたのだろう。新屯はぼんやり考えた。
ふと、瞼が軽くなった。身体の苦痛が久しぶりに和らいでいる。夢かと錯覚したが、硬い天井があって、見慣れた家具がある。どうやら現実のようだ。
窓の外を見ると一つだけ、小さな流れ星が過ぎていった。これは錯覚でも構わないと思った。
(あと一年は生きたかったよ、新屯)
「何故ですか」と聞く、新屯の幻影。
(何故ですか、だって?)
岩渕は、笑った。
「ハレー彗星を、君と見たかったから」
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