第2節 アナグラム

 新屯は、岩渕に言われた「数学者ファティオ」の歴史を調べていた。しかし、いざ深く調べようとすると壁が立ちはだかった。残存している文献が少ないのだ。これが、伝記にも残らなかったファティオという男。

 面倒臭い。この時間を重動力学の証明に使いたい。彼はそう思った。


 だが、先日の、別れ際の岩渕の顔が、どうしても忘れられなかった。悲しみと期待。祈りが込められたような瞳。腐れ縁ではあるが、長年付き合ってきた彼の、あのような表情は初めて見た。

(仕方ない)

 新屯は重い腰を上げ、図書館でデータを調べる事にした。




 “Nicolas Fatio de Duillier”


 最近打ち慣れてきた名前を検索にかける。すると、彼の名前が登場する資料がいくつか、本当に少数だが見つかった。

 誰も借りた事がないであろうそれらの資料を請求し、データ上で送ってもらう。全文を読むのは気が進まないため、飛ばし読みする。すると、彼の人物像や生涯が大まかに分かってきた。


 スイスの裕福な家庭に生まれ、若いうちから数学の才能を持ち、パリにてホイヘンスやカッシーニらと共に研究に励む。二十四歳の時、王立協会の会員となる。


 その年に、アイザック・ニュートンと出会う。


 二人は互いに惹かれ合い、これまでにないほど丁寧で熱い手紙を往復させた。自然哲学(科学)以外でも、錬金術や神学など、両者の間には共通の興味が息をしていた。しかし、手紙の内容は消されている部分がある事や、明確に愛を綴った言葉が無いため、彼らの関係性は不明。アイザック・ニュートンはファティオとの同居を提案し、ファティオはそれを断りながらも、ニュートンの心を試そうとしたであろう文章を残している。


 一六九三年は、二人の区切りの年となってしまう。


 唐突に友情は終わりを告げ、ニュートンは精神の錯乱期に入り、ファティオにも多大な負担が掛かる。手紙のやり取りは続けているようだが、以前ほどの熱量は感じられなくなった。

 この後、ファティオは宗教団体に深く入り込み、社会的地位と信頼を失う。巡礼と布教の旅に出、イギリスに戻ってからも科学への興味は尽きる事なく、死ぬまで研究は続けた。しかし、昔ほどの注目を浴びる事は二度となく、孤独と貧困に囲まれてこの世を去った。


(バルトは、この人物に己を重ねているのか)

 専門家を唸らせるほどの才能を持ちながら、歴史の宇宙に消えていった一人。


 ファティオは死の床で、何を考えただろう。自分の信じた道を突き進んだ達成感に浸った? 幸福だった青年時代までを思い返した? イギリスを離れて団体に陶酔した事を後悔した? 歴史に名を残した偉大な人物の心を、一度でも奪った過去を誇った?


 たった一瞬だけだったとしても、とても愛した人に、会いたいと思った?


 あの手紙に「はい」と言っておけばよかった? 一緒に暮らせばよかった? つまらないチキンレースなんかしていないで、胸の内を晒しておけばよかった? 何よりも彼を優先していればよかった? あの人が頑固なのは分かっていたのだから、自分が折れてあげればよかった? 大人のくせに我儘なあの人のために、自分が背伸びをして許してあげればよかった? あの時、感情的になって別れなければよかった?


 資料が少ないぶん、殆どの事は想像するしかない。だが、もしかしたら、本当に孤独だったのは、アイザック・ニュートンではなく、彼だったのかもしれない。


(似ている)

 新屯は、ニュートンとファティオに、自分とバルトを重ねていた事に気づく。

(私たちは繰り返しなのか?)

 過去に燃えていた、二つの魂の。







 ファティオ、いや、バルトはその頃、国の官僚たちも集まる高貴な食事会に参加していた。

「ついに、ここまで来たな」

 ヘンドリックがバルトに語り掛ける。

「うん。皆のおかげだよ。ヘンクも、ありがとう」

「礼を言うのは俺の方だ。オランダまで来て、チームになってくれてありがとう」

 それを聞いて、バルトは嬉しそうに笑う。

「たくさん迷惑かけちゃったけど、続けてよかった」

「一時期はどうなるかと思ったな。ニコラが『死にたい』って言った時は」

 あれから、バルトは数学の感覚を徐々に取り戻し、こうして復帰できている。これも、近くで支えてくれた仲間たちのおかげだ。また、心に住まわっている存在のおかげでもある。


「やあ、二人共。食べてる?」

 食事会の細々とした計画をしてくれた関係者が、二人に話しかけてきた。手にはワインを持っている。

「もうすぐ発表だね」

「はい。僕たちのしてきた事には意味がありました。皆さんのおかげです」

 優等生の答えを出すバルト。

「ところで、申し訳ないんだけど、バルト君」

「はい?」

 男はゴソゴソと、スーツの懐から何かを取り出した。


「これね、雑誌に載ってた暗号クイズ。これ難しくて。バルト君やってみてくれない? 当たれば、抽選でウィーン旅行なんだ!」

「いいですよ」

 雑談の延長で、バルトは暗号解読に挑戦してみる事にした。隣では、ヘンドリックが難しい顔をしてクイズを覗いている。


「ふむふむ。これ、多分、アナグラムですよ。このアルファベットを並べ替えると、何かしらの言葉になるのでは?」

「そうか、並び替えか! ずっと文字変換か、シーザー暗号だと思い込んでた。ありがとう!」

「いえいえ。ウィーン旅行、当たるといいですね」

「こうしちゃいられない! 早速、解読の続きだ!」

 バルトは笑顔で見送る。

(アナグラム。久しぶりに見たなあ。昔はよく、アナグラムの手紙を、あいつとしてたっけ)

 若くして命を失った、故郷での友を思い出す。


(手紙……そういえばニュートン先生、元気かな)

 あの手紙を開いて以降、彼は新屯が頭から離れなくなっていた。新屯に関する物全てが、バルトに“二人でいた日々”を思い出させる。宇宙、光、石、書きかけの論文、トマト、リボン、赤色、アイザック・ニュートン。


(ん? 待て? アイザック・ニュートン……)

 バルトは、小さい頃に何度も読み込んだ「アイザック・ニュートンの伝記」を思い返した。秘密主義だったアイザック・ニュートン卿は、何かにつけて隠し事をしていた。手紙、手記、論文……彼が文章を隠す際に、よく利用した手段があった。


 アイザック・ニュートンは、アナグラムを頻繫に用いていた。


 瞬間の光が頭を貫く。

「ヘウレーカ!!」

 部屋中に、バルトの声が響く。隣のヘンドリックは肩をびくりとさせた。

(手紙……! あの手紙の赤インクは、飾りじゃない!)

「すみません! 僕も失礼します!」

 大きな声が出ていた。

「おお、おお。天才は次々に天啓が降ってくるんだねえ。お気を付けてー」

 近くにいた誰かが、そう言った。ヘンドリックは何も言わず、思考が忙しい友に手を振っただけだった。




 宿に帰り着いて、バルトは机に向かう。椅子を引いて、座る事なく机上を引っ搔き回して手紙を探す。

「よし!」

 手紙を発見したら、もう一度、文章に目を通す。それだけでなく、下の図と数式にも。

(この数式、よく見たら、アイザック・ニュートン先生が公式化したやつばっかじゃないか!)


 ぐちゃぐちゃに見える図を数式に落とした下段が、バルトには新屯のメモに見えていた。しかし、それは単なるメモではなく、この文章に隠れた秘密を解き明かすためのヒントだったのだ。

(こんなに彼の式を使っているのは、この手紙は「アイザック・ニュートンのようにアナグラムしてある」って意味だったんだ!)


 分かったところで、図と方程式に注目する。図には、教科書のように、質量と力に数が代入されていた。

(ma=Fに当てはめればいいんだから簡単。a=9だ!)

 とりあえず目に慣れている計算をしてみたが、何が「9」なのか、考える。

({ma=F}={ma=m・d^2r/dt^2=F}だから、d^2r/dt^2=9としてみる?)

 一分間、頭で計算候補を出すが、どれもしっくりこない。

(わっかんない! 先生、何が言いたいの!?)


 そこで視点を変え、赤インクの文字たちに共通点があるのではと考えてみる事にした。赤い文字は全部で31文字。「な」が4つ。「ま」が1つ。「る」が6つ。「て」が6つ。「い」が7つ。「し」が5つ。「す」が1つ。「あ」が1つ。これらに共通するのは、全てひらがなという事だ。

(これ全部でアナグラムをするのは難しそう。31文字もあったら、何通りも文章が通ってしまう)

「と、いうことは?」

 先ほど求めた「9」に着目する。

「多分だけど、この中から9文字が必要って事かな」

 すると、赤インクの文字は8種類しかないのであるから、どれかを二回使う事になる。

(どれを二回使うんだ)

 紙に文字を書き出したまでは良いが、手が止まってしまった。


(ん? これ、よく見返してみると、不自然な箇所がある)

 バルトが注目したのは、「持ち合わせている」と「分かりあえた」の文章だった。

(どうして、前者の「持ち合わせて」の「合」は漢字で書いてるのに、「分かりあえた」の「あ」は、ひらがな?)

 たまたま間違えたと言えなくもないが、バルトには、何か意味があるのだと思える。

(もしかして、どうしても「あ」を使って欲しかったんじゃ……この手紙の中で、他に「あ」を使う箇所がなかったから、わざわざここだけをひらがなにしたんだ!)

「ってことは! 一文字しかない言葉は、絶対使うのかな?」

 つまり、二回以上使われている赤インクのひらがなのどれかを、二回使うという事だ。

(まず、「ま」と「す」と「あ」は一文字しかないから、絶対使うとする。じゃないと、赤で書いた意味がないもんね。だから排除して、あと残ってるのは、「な」と「る」と「て」と「い」と「し」の五つか)

 全てを当てずっぽうではめていっても、いつかは答えが出そうではある。しかし、効率の悪い事を数字で避けられるのなら、彼は数字で導きたかった。

「んー……ダメ! 次のヒント下さい!」




 バルトは、落書きのようなメモの中に次のヒントを求めた。だが、新屯の字は、寝ながら書いたようなクオリティの形態で、こちらも解読するのに手こずった。

(字が汚いよぉ、ニュートン先生……)

 だが、数式を追いかけていると、どうやら微分している事が分かった。

「え! ちょっと待ってよ! 途中までしか書いてないじゃん! 積分定数どうすんの?」

 手紙を持ち上げて振り回すバルト。単純に、テストが解けない悔しさに移り変わりつつある。


(あれ、何か、紙の一部がパリパリしてる?)

「僕、手汗が滲むほど持ってないよ!」

 誰に訴えているのか、大事な手紙を汚したのは自分ではないと主張せずにはいられなかった。


(本当に持ってないのに。大切な手紙だから……)

 だんだんと涙が滲んでくる。


(泣いちゃダメ! 雫が落ちたら手紙が濡れちゃう!)

 急いで目を擦る。その時、脳の回路が繋がった。

(持ってないのに濡れたって事は、既に濡れてたって事?)

 岩渕に手紙を貰った時、あの時は雨が降っていた。手紙が濡れていても仕方ないが。


(いいや。岩渕さんに渡された時、手紙は濡れてなかった。これだけは言える。岩渕さんが、しっかりノートに挟んでいるのを見たんだから)

 その証拠に、封筒も全く濡れていない。つまり、手紙は、新屯が意図的に濡らしたという事か。


「あ……」

 バルトの頭では、今は亡き友と交換していたアナグラムの手紙を思い出していた。彼との手紙は、アナグラムに加えて「炙り出し」という、機密情報も驚きの手段を使っていた。炙り出しを使った手紙というのは、いつも濡れて、パリパリになっていた。

(火! 火はどこだ!)

 部屋を見渡すと、記念品で貰ったマッチ箱が目に入った。

(これだ!)

 はやる手で火を通してみる。すると、パリパリの部分に、文字が浮かび上がってきた。とても見づらいが、「f」が見えた時点で、微分の続きができると歓声を上げた。

(来た! 条件だ!)

 現れた数字に食いつき、脳内で荒っぽく計算していく。


「出た! 7だよ! 7が出たよ! ニュートン先生!」

 叫んで、正気に戻る。

(だから、何? どこに7を使うの?)

 また振り出しに戻ったような気持ちになり、しゃがみ込んで悩む。

(7……7か。何が7なんだろう)

 頭を掻きながら、腰を上げる。彼の髪はボサボサだ。

(どっかで見たんだよな、7)

 手紙全体を見回して、無闇に計算して、何も出ない。

(頑張れ、僕。ここまで出てるんだ。僕だって天才だろ!)

 そこで、先ほど自分がメモをしていた紙が目に入る。その中に、7はあった。

「『い』は、7つある……」

 口元をツンツンして、場合分けしてみる。どの答えが一番しっくりくるのか。

「7つあるのは、『い』だけ……」

 ピクリと、耳が動いた。


「ヘウレーカ!!」


 無意識に足が浮いた。

「二回使う文字が『い』なんだ!」

 気づいたバルトは、自分の仮説を証明する段階に入った。

 「あ」、「ま」、「す」、「な」、「る」、「て」、「し」、「い」×2の9文字を181440通りに並び替える。すると、ある言葉が浮かんできた。


 “すまないあいしてる”


「すまない、愛してる……」

 間違っているかもしれない。別の文章のつもりで、彼はアナグラムを仕組んだのかもしれない。しかし、盲目のバルトには、この言葉しか取り出せなかった。答え合わせは、『愛を込めて』で済んでいるのにも気づいていない。

「ニュートン先生」

(もう、僕は眼中にありませんか。どうでもよくなってしまいましたか。科学の殻に、再び閉じこもってしまいましたか)

 窓に歩き寄り、空を眺める。

(まだ間に合うのなら、うん。あの人が一番、喜ぶのは……)

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