第7章 左様なら

第1節 服部の生涯

 蓮と話して、人間の感覚を取り戻した新屯は、岩渕の記者人生の「最後のインタビュー」を受けていた。彼が最後のステージに選んだのは、レスベラトロール。


「新屯が最近、気になっているニュースはある?」

 岩渕は、瘦せた手でメモを取っている。

「線形代数の発展と、ベルヌーイの定理の連続性の限界についてと、後は、ナビエ・ストークス方程式の解など」

 新屯は、わざとバルトの研究には触れなかった。インタビュアーが岩渕でなければ、話していたかもしれない。

「ナビエ・ストークスの解探しは、君が協会に入った時からずっと『見つかる見つかる詐欺』してるよね」

「そういうものです」

 新屯たち科学者が住んでいる世界は、幾人もの学者たちが何十年、何百年かけて答えを見つけていく世界だ。これがデフォルトである。


「科学の歴史の流れは、人間の時間の流れと、質が違っている気がする。もしや、人間がやる仕事ではないのでは?」

 岩渕は、少し意地悪な質問でちょっかいを掛けてみた。こんな質問は、長く付き合ってきた岩渕にしかできない。

「そう思います」

「はは、否定しなよ」

 愚痴や皮肉は雄弁な新屯が、腰を据えたままだ。岩渕にとっては物足りない。

(気を遣ってるのか?)

「……」

「……」

 いつもより言葉が進まない岩渕。他に話したい事はいくらでもあるのに、仕事の話では、できる内容が限られている。

「もしかして、気を遣われてる?」

「そんな事ありません」

(ああ、この男も丸くなった。歳のせいか、おいのせいか)


(おいが変わらず、元気な能天気者だったら、新屯は変わらないままで接してくれてたかな)


 己の、不自由になった足を見る。新屯の前では、動いていた時間の方が長かったのに。


「最後の質問だよ」

 録音ボタンのスイッチを切る。

「新屯はこれからも、科学の世界を生きるのかい」

 新屯の肩は一瞬だけ止まり、すぐに動いた。

「はい」

「それは、正真正銘、君の意志で?」

「先程の質問が、最後ではなかったのですか」

 無表情で返されるが、怒っている訳でない事は岩渕も分かっている。「増えちゃった」という表情で、岩渕はニヤッと笑う。

「……やはり、私は、真理への憧れを捨て切れないのです。真理は私の友であり、とても手の届かない存在であり……死ぬまで、離れる事はできないでしょう」

 彼にしては抽象的な例えを使ってきたと、岩渕は感動した。なぜなら。

「おいにも、そんな存在がいるよ」

 二人の男は、しばらく見合った。


「ふは、インタビューは終了だよ! ご協力ありがとうね」

 足が動いていた時の癖で、車椅子を動かした。

「いいえ」

 新屯は顔を逸らす。

「……お疲れ様でした」

 その言葉は、確実に、目の前の友からのものだった。

「……ありがとう、新屯」

 こちらから手を差し出すと、おずおずと彼の右手が伸びてきた。

「また、連絡するよ」

「はい」

 この後に講義が入っている新屯は、岩渕と別れなければならない。彼はゆっくり立ち上がると、出口に身体を向ける。


「じゃあね。バルトによろしく」

 しかし、岩渕が声を掛けても、立ち上がった彼が動く気配はない。顔は扉を向いているのに。

「どうした? ほら、行きなよ」

 腕を上に伸ばし、トンッと、背中を押してやる。やっと一歩が出た。

「……はい」

 何が引っかかっているのか、新屯は煮え切らない声で返事をした後、足を引きずるように外へ出ていった。


(最後くらい、君の笑顔が見たかったな)

 若い頃から銅像のように表情を変えない友の顔を、彼は目に焼き付けた。


 目を机に戻すと、新屯のコーヒーカップの下には紙幣が挟まっていた。

「ホント、真面目だね」







 中途半端に晴れている午後のこと。服部は、自分の先が長くない事を悟っていた。毎日毎日、考えた理論や自分がしてきた実験内容をまとめて、ベッドの上で自分が生きた痕跡を残そうとしていた。


「よ、服部」

 突然聞こえた声に顔を向ける。

「会長!」

 彼は、服部の前に歩いて来ると手を挙げた。元気そうに振る舞っている彼も、まだ自分で歩けてはいるが、いつ動けなくなるか分からない。彼は、若い頃には想像もしていなかった。あれほど友人たちと走り、叫び、本気でバカをやっていた自分が、おじいさんになってトボトボと歩いているなど。


「あれ、今日って確か、T大学に出張講義じゃ?」

「この後、行くんだ」

 老齢になってもパワフルに活動する彼を、服部は更に尊敬する。自分には、叶わない未来だった。

「服部も真面目だな。身体がそんなになっても書き続けるのか」

 服部の前には、資料が並べられていた。

「後世の科学者たちに残したいですから。俺ができなかった事、やり残した事を受け継いでもらうために」


(俺が存在していなかった事になんて、させない)


 弱い身体とは対照的に、気持ちは歳を重ねるごとに強くなっていく。

「お前のそんなところに、うちの協会は支えられてたんだ」

 しんみりと、会長は言った。


「俺、会長を引退しようと思ってる」


「え」

 服部は驚いたが、会長の歳を考えても、妥当だと思い直した。ただ、もうそんな時期かと思っただけだ。

「お前とは本当に長い付き合いだったな。こんなこと言うの、柄じゃないのは分かってんだ。でも、言わないと多分、後悔するから言わせてもらう。一人で突っ走る俺に付いてきてくれて、ありがとう」

「へ、何言ってるんですか。会長は俺の憧れなんですよ! 付いてきて当たり前です」

 服部は愉快に笑った。自分は本当に付いていけていたのか、不安を隠しながら。

「服部は、今世紀の科学者の中で、最高の一人だ。会長が言うんだから間違いないぜ。俺は日本科学のトップ・オブ・トップだ!」

 服部は、その言葉をとても光栄に思って受け取った。


「これ、やる」

「何ですか」

 差し出された手から転がってきたのは、日本科学アカデミー協会の会長を示すバッジだった。会長が、いつもそれを付けて会合や発表会に参加していたのを、服部は見てきた。いつか、あの地位に立てたらと、憧れを抱きながら。

 それは、日本内で限られた人にしか与えられない、名誉科学者の証だ。

「えっ、こんな! いいんですか!?」

 服部は手が震え、貴重な歴史的史料を与えられた気分だった。

「生物学の本が三冊。天文学の本が二冊。物理学の本が一冊。地図学の本が一冊。世に出した論文は数知れず。その他、チームでの成果は数え切れず。ここまで幅広く、また、成果を出す学者先生は、そういるものじゃない。服部は歴史に名を残した! これが、その証拠になる」

 信じられないという表情で、服部は彼を見つめ続けた。とても、言葉が出ない。


「……有り難き、幸せでございます」

「科学界を進展させてくれてありがとう、服部博士」

 会長は大きな手で、一人の博士の肩を叩いた。




 服部は、会長が病室を出て行った後、彼から貰ったバッジを握りしめた。

「……っ、有り難き、幸せです」

 声を殺して、一人、泣いた。自分の人生は、すり潰すだけの時間だったのではないかと不安になっていた夜が、報われた気がした。偏心な性格も、有理点を見つけられない人生設計図も、燃やされる事はない。永遠に残り続けるのだ。「自分の人生」として。

(俺は、認められていた。認めてもらえた。ずっと見ていてくれた人がいたんだ。俺の人生は無駄じゃない。辛かった事は無駄じゃない……!)




 享年六十八歳の出来事だった。

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