第8節 終戦

 新屯は、協会の会合に出席する事がろくになくなっていた。ただ、会長に泣きつかれ、会員証を投げ捨てる事はできなかった。それどころか、出席できなくなった服部の代わりに事務局長を引き継いでさえいる。いつの間にか、議論に参加はしないが、裏で関わるスタンスが身に付いていた。

(このまま、腐っていくのかもしれないな)

 漠然と不安になり、焦燥感が吹き出る。手が震え始める。発作が始まると、彼はいつも動悸がしてくるのだった。

(考えるな、考えるな……!)

 視界が狭まり、世界の音が遠くなっていく。


 ピンポーン。


 ハッと目を見開いた。家のチャイムが鳴ったのだ。その音に救われたように、視界が広がり、聴覚も戻った。

(誰だ)

 よろけながら立ち上がり、玄関の前に立って、体重を掛けるようにして扉を押し開ける。


「……蓮さん!」

 チャイムを押したのは蓮だった。久ぶりに見る蓮は杖をついており、全体的に老いが感じられてはいたが、新屯に向ける眼差しは変わらない。

「いらっしゃって良かった。お元気ですか、新屯さん」

 その声に、彼の心は洗われる。張り詰めていた糸が緩められる感覚がした。




 新屯が人を家に招き入れるのは、前回を忘れるくらい久しぶりの事だった。飯振が社会に出てからは、彼も滅多に顔を出さなくなっていた。「新屯さんを一人にするのは心配だから」という飯振の言いつけで、一カ月に一回の連絡を取るくらいだ。


「どうぞ」

 使えそうなカップがなかったため、いつも自分が使っているカップで茶を出す。

「ありがとうございます」

 紳士的な動作で、蓮は口をつける。そういえば、彼はこんな男だったと、新屯は友の特性を思い出していた。

「連絡に気づかず、すみません」

「いいんですよ。僕が気まぐれで来ただけですから」

 柔らかい言葉に加え、微笑みも忘れない。どこまでも穏やかな性格をしている彼に、新屯は何度も救われてきた。


(まだ、本調子ではなさそうかな。だいぶ良くなってはいるけど)

 蓮はカップを置いた。

「そうだ。バルトさんの記事は見ましたか」

 新屯の曇った顔を見て話を変えようと考えた蓮は、つい昨日読んだニュースの科学記事を思い出した。その記事は、「ニコラオス・バルトが、新たな重力の可能性を見つけ出しそうだ」と騒ぎ立てていた。


「見ました」

 迷いなく答える新屯。バルトの研究動向は、先取権論争と共に追い続け、全て暗記している。

「僕は、つい震えてしまいました」

「私もです」

 先程まで申し訳なさそうな瞳で言葉を返していた新屯が、今度は食い気味に言葉を放つ。

「あの重力理論を引っ張り出して、あんな転換を考えるなんて、正気の人間ではできません。あ、褒めてますよ?」

 蓮の話を聞き終わる前に、新屯は言葉を準備し始めていた。

「元々、本来の重力の持つ力では、あれほどの衝撃を与えれば、どう分散してしまうか理解が及ばなかった。誰も、否定された理論を持ち出そうとは考えないだろうから。彼は、否定された理論はそれとして、取捨選択が上手いのです。例えば、衝突する微粒子。そもそも、物質の質量との比例関係は……」

 雄弁に語り始めた彼を眺め、蓮は頷き続ける。


(これだ。これだよ、本来のあなたは)


 かのアイザック・ニュートンも知る事ができなかった重力の秘密。重力の正体。その一歩が、バルトの手によって導き出されようとしている。その、胸を熱くする興奮に、二人は会話が止まらなかった。

「科学界は、今後もっと面白くなりそうですね。僕も、まだまだ長生きしなければ!」

 蓮は今年で七十一になる。しかし、彼の好奇心と学びを求める力は衰えるところを知らない。新屯はますます蓮を尊敬して、自分はやはり腐っていくだけなのではないかと先の暗を思った。


「バルトさんがここまで大物になるとは。今では、僕たちの方が追いかけなくてはいけなくなりましたね」

 新屯は口を止める。追いかけても追いつけないとは分かっている。しかし、こうしているうちにも、追いかけてしまっている自分がいた。科学者としても、一人の人間としても。

「もうバルトさんが日本に帰ってくる事はないだろうと、皆が言っています。僕はまた、彼に会いたいと思っていますけど。彼の方がね。どう思うか」

 蓮の言葉は、新屯に一つの考えを落とす。

(バルトが求める刺激を十分満たしてやれる者は、もはやこの日本にはいないだろう。彼は……違う世界に行ってしまった)

 新屯はバルトの事を考えると、沈黙と会話を始めてしまうのだった。その集中力は、時計を煮ながら手中の卵を睨んでいた時や、いつの間にか手綱だけを引いて馬小屋に到着した時より強いものだった。







 オランダにいるバルトは、明らかな不調を感じていた。体調ではない。才能に、だ。

(全然、ピンとこない)

 アムステルダム大学主席の学生が書いた論文を読んで、その計算式と、自分を渦巻く数字の並びとの整合が見えない。

(見えない、見えない見えない……)

 バルトは、論文や他人の理論を頭に入れる時はいつも、自分の中で途中式を組み立てて、その仮定を本来の結果と照らし合わせる方法を取っていた。しかし今回は、最後の最後まで読んでも、自分の途中式が組み立てられなかった。以前の彼ならば、序文を読んだだけで答えまでの数式が見えていたのだ。


「バルトくんも、それ読んだ?」

 チームの仲間が、ステップを踏みながら尋ねてきた。

「あ、はい。あの、この論文、どう思いますか」

 バルトの手は少し震えている。この論文だけならいいのだ。だが、これから全て見えないとなると、「引退」の二文字も、彼の頭に浮かんでくる。

「え? 良くできてると思うよ。ま、私たちの論文ほどじゃないけどね!」

 彼女が言っているのは、現在、自分たちが完成させたばかりの論文の事だ。長い研究期間に、ひとまず終止符を打つ。そのための論文。バルトたちは、この論文を発表するため、かなり前から準備して、半年後には正式に公にする予定である。


「……」

 バルトは何も言えなくなった。

「バルトくん?」

「あ、そうだ。ニコラ、今度の食事会の件で聞きたい事があったんだ。ちょっと来て」

 近くで話を聞いていたヘンドリックは、バルトを連れ出した。




「どうした」

 誰もいない部屋を見つけ、ヘンドリックはバルトを椅子に座らせた。

「ヘンクは、あの論文をどう思った?」

 学生の論文に固執する彼を、ヘンドリックはどう解釈してよいか考えた。

「俺は、お前がどうして震えているのか聞いてるんだ」

「あの論文をどう思った?」

 再び同じ質問。

「はあ……そうだな。全体的には正しい事を言ってると思う。でも、学術研究としては飛躍した理論が見えるかな。あれでノーベル賞は取れないよ」

 バルトを落ち着かせるのが先だと思った彼は、聞かれた事に、本音と慰めを混ぜて答えた。

「……」

 完全に、首が下を向いてしまったバルト。

「本当にどうしたんだよ。最近、変だと思ってたんだ」

 友の肩に手を置く。


「僕、変になっちゃった」

「は?」

 バルトは下を向いたまま、肩を強く震わせ始めた。

「……ぇない、んだ」

「何?」

「み、えない、の」

 椅子を蹴り飛ばして立ち上がると、バルトはヘンドリックの肩を食い込むほど強く掴んだ。

「解法が見えないの! どうしても見えないの!!」

「落ち着けって」

 ヘンドリックは驚きで一歩引いてしまう。

「どうして!? 今まで見えてたのに! どうして急に分からなくなっちゃったの!?」

 青い目が、泣いている。才能を操作できない無力さに。

 青い目が、怒っている。生まれ持ったギフトを、突然取り上げられた悲劇に。

「ニコラ、」

「あんな夢見たせいだ! 悪夢のせいだ! 僕は! 僕は!!」

 しゃくり上げて、感情を爆発させる。

「この先! どうすればっ、いい……んだよ……」

 崩れるバルトを、彼はすんでのところで支えた。

「こんな僕! いる意味ない! 生きてる意味がない!」

「そんなわけない。落ち着け」

 力のままに胸を叩いてくるバルト。ヘンドリックは、身体と心の痛みに耐えた。


「見捨てられるっ! 何もできない! “先生”に捨てられちゃうよ!!」


(こんな時にも、あいつが出てくるのか)

 ヘンドリックは、暴れる友を抱きしめる。彼より強く。

「僕なんかゴミだ! こんなゴミ! 死んじゃえばいいんだ!」

「そんなこと、言わないでくれよ」

 できるなら、自分も泣いてしまいたかった。何なら、代わってやりたかった。才能を持って生まれ、それを消失する恐怖に震える人生を。そしてこの、努力しても一定数は越えられない秀才の人生と取り換えてやりたい。

「死にたい……」

「殺してよ、ヘンク……」


「ニコラオス!!」


 恐らく一生分の怒号だった。バルトは肩をびくつかせ、口をつぐむ。

「大丈夫だから。理由は二つ」

 声が震えないよう、しっかり息を吸う。

「一つ、お前の大尊敬するニュートン先生は、そんな事でお前を捨てたりしない。ニコラが選んだ人なんだ。絶対だ」

「二つ、ニコラの才能の不在は、今だけだ。今までスランプを経験した事がないんだろ。ストレスが掛かって、視野が狭まってるんだよ。お前にばかりストレスを掛け過ぎたのは、俺たちの責任だ。しっかりケアしてやるべきだった。ごめんな」

 バルトは動きを止めたままだった。合わさっている胸から呼吸が聞こえる。


 すん、すんと、沈黙の中で聞こえる。

「……ごめん。取り乱した」

 バルトは、目を涙で溢れさせて言った。

「問題ない。俺の息子よりは聞き訳が良いみたいだから」

「僕、大人だよ?」

「知ってる」

(子供だったら、こんな感情、抱いてない)

「ありがとう」

「こんなの、何でも」

 泣き腫らした目が、ヘンドリックの胸を締め付ける。

「落ち着いて考えたいから、ちょっと一人にしてもらってもいい?」

「分かった」


 扉を閉める時、彼は意図的にバルトと目を合わせた。

「大丈夫。死なないから」

 本音を隠すような笑顔が、怖い。初めて、この美しい男に恐れを抱いた。

「……信じるぞ」

 扉を閉めた後は、ひたすら後ろを向かないように、その場を後にした。


「悪夢って、何だよ」

 叩かれた胸は、ずっと痛かった。







 新屯は、協会に宣言する文章を送った。


『計画は倒れました。不乱無さんは頑張ってくれましたが、私の期待が大きすぎたのです。未熟者には、それに合った期待をすべきだと、この歳になって気づいたことが恥ずかしいくらいです。無念ではありますが、他の研究者に引き継がせる事として、私は自分の研究に専念いたします事をお許しください』


 これ以上、不乱無と協力する事は無理だった。早めに見切りを付けた方が、互いにとって良いと判断したのだ。新屯には、次から次に依頼が舞い込むのだから。




 そして遂に、先取権論争の方にも最期が訪れた。

「ランゲ氏は亡くなりました。戦いは終わったのです」

 中立を貫いていた蛍壁が、日本の科学者たちに終戦を伝えた。誰に利益を与えるでもない争いは、実に十年以上続いた末に、話し合いで終了する事もできなかった。当事者の死を以て、強制的に終わらせられたのだ。


(勝った。私は勝ったんだ)

 新屯は、たった一瞬の達成感を浴びた。

(しかし、何故だ。この気持ちは……)




 一方のバルトは、日本から遠い場所で、ランゲ氏の死を確認した。

(これで、先生は勝った)

 面白くないのに、口角はつり上がる。しかし、笑いは起こらない。

(勝った。勝った……でも、何で)


(何で、虚しいんだろう)


 争いを大きくし、皆が傷つき、長引いた戦いの末に得たものは、勝利という名の空虚だった。多くの犠牲の上に成り立った、贅沢な空虚である。

 バルトは、膝から崩れ落ちた。

(どうして気づかなかったんだろう。こんな事しても、先生は戻ってこないのに)

 自ら汚した手は、洗っても綺麗にならない。バルトは、自分のした愚かな行為を悔いた。

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