第7節 二人の関係

 着信が入った。岩渕からだ。いつもは取らないが、見えない力に動かされたようにボタンを押した。

「もしもし」

『新屯。近く、会えない?』

 自分と会うためのアポなど取り付けない彼が、約束をしようとしている。これは行かねばなるまいと感じた。







 次に会った時、岩渕は車椅子で登場した。

「どうされたのですか」

 新屯は、初めて見る岩渕の健康が欠けた姿に困惑した。新屯の中では、彼はいつまでも記者として全国を走り回っているイメージだったからだ。

「老いって、やだねぇ」

 ガーゼが張り付けられている頬で笑顔を作る。反応はいつも通りの彼だったから、新屯は不安が和らいだ。




 お決まりのレスベラトロールに入る。席に着くのに、以前より時間がかかった事が、新屯を再び不安にさせた。つい最近まで、岩渕が一方的に雑談しながら二人で席に着いていたのに。

「ごめんね」

 車椅子を入れるために、取り付けの椅子を移動しただけだ。岩渕が謝る事ではない。


「この歳になると、段々周りもいなくなってさ。おいも自分の事を考え始めたんだ」

 新屯が何も話せないでいると、岩渕が喋り出す。これも、いつもの事であるのに、新屯には、心に何かが刺されたような感覚がした。

「いつでも新屯と話せるのが、当たり前じゃなかったんだってね」

 他人事のように、岩渕は述べる。

「しつこいぐらいに、付き合ってくれてありがと」

 そんな言葉を、彼の口から聞きたくはなかった。実感も湧かなかった。

「岩渕さんは」

 一息吸って、新屯は話し始める。

「よく分からない数字の話をしこたま聞かされて、楽しかったのですか。私は、あなたを付き合わせたつもりはありませんが、結果的にはそうなっていたように思えます」

 岩渕は、長い睫毛を瞬かせた。

「確かに、おいは数字に弱い。でも、それが科学を好きになってはいけない理由にはならないと思ってる。新屯が、おいに新しい世界を教えてくれたんだ」


 岩渕は最初、新屯の住む世界を少しでも理解したいがために、数字抜きで物理学を理解しようとした。蛍壁や蓮に教わり、仕事の合間を縫って努力を重ねた。結果は、やはり一般人並みにしか理解できなかったが、広い科学の世界を楽しむ事ができるようになっていた。それが嬉しくて、楽しくて、彼はいつまでも青春の気分でいられたのだ。だから、もっと科学を知りたかった。


「本当は、こんなに早く身体を壊すはずじゃなかった」

 軽い雰囲気で言ってみても、目がどうしても笑えない。

「ストレスかな。記者という仕事は、皆が思ってるよりもストレスなもんだよ。誰かのストレスになる事は、自分にストレスを掛けるよりずっとストレスだから。ま、おいが抱えるストレスは、記者である事だけじゃないけどね!」

 雰囲気は変わらない。それでも、漂う哀愁の匂いが拭えない。新屯は、いつもより返答に困ってしまう。

「そう、ですか」

「って、こんな暗い話をしに来たんじゃないよ! 話を変えよう」

 岩渕は、本題を用意していた。


「そういえば、バルトとは連絡取ってる?」

「……たまに」

 答える新屯の目は、沈んだまま泳いでいる。

「彼ほど奥ゆかしい人も中々いない。大事にしな」

「奥ゆかしい? 御冗談。彼は、自慢話ばかりする人です。出会った時から」

 初めて青い目の青年を見たあの日から、まさか未来の結末がこうなる事など、誰も想像できなかっただろう。誰かの歴史を繰り返している訳ではないのなら。

「確かにそうかもしれない。でも、記者の目を持つおいは、客観的に彼を見て分かった。バルトは、この期に及んでも、自分をファティオだと思ってる。歴史に名を残す成果をいくつも出しながら」

「ファティオ……」


『世界的な発見をしてなくても、伝記に載っていない人だって、存在してなかったことにはならないですよ。それこそ、アイザック・ニュートン先生の親友だった“ファティオ”も』


「アイザック・ニュートンの友人ですね」

 初めてその名を聞いた時の事を思い出す。教えてくれたのは、まだ若すぎるバルトだった。

「知ってたのか」

「はい。調べた事があります。ファティオはあまり知られていない数学者ですが、彼が残した記録は受け継がれ、今なお、科学の重要な発展に貢献しています」

「……そうだけど、新屯、ちゃんと調べた?」

 岩渕は前のめりになって尋ねる。

「え? はい。私の調べられた限りでは調べました」

「アイザック・ニュートンとの関係は?」

「友人だったのですよね。四年間親密な関係を続け、その後で別れたのだと。しかし、二人の関係性は不明だと、伝記には書かれていました」

 聞かれた事に素直に答える新屯。


「それだけ?」

「はい」

「知らないのかあぁぁー」

 落胆の声と共に岩渕は崩れた。コーヒーカップが、かちゃん、と鳴る。

「さっきから何ですか。言いたい事があるなら仰ってください」

 遠回りな会話を、バッサリと切り捨てた。岩渕の目は「しょうがないなあ」と言っている。

「二人は恋人同士か、両片想いの関係だったんじゃないかって話は、科学者史界の中では有名だよ」

 人差し指を振りながら、鈍感野郎にも分かるように説明した。

「岩渕さんは、政治哲学専門ですよね?」

「趣味の幅は広いのさ」

「そうですか」

 面倒臭い話になりそうなので、適当に返事をした。


「それで? 二人の関係がどうかしたのですか」

「二人の関係はそれ以上でも、それ以下でもない。もう終わってしまった話だし。でも、君たち二人の関係は変えられる。まだ、君たちは生きている。しかも、二人ともだ!」

 鈍感石頭野郎の頭には、クエスチョンマークがはっきりと浮いている。

「……本当に、科学以外には脳を使わないよね。そんな新屯が好きだけど」

「何が言いたいのか分かりにくいです。簡潔に話してください」

「ファティオという歴史を、もう一度よく調べてみな」

 岩渕は、優しく笑った。







 初めに感じたのは、肌寒さだった。バルトは目を開ける。広がったのは、ぎっしり敷き詰められた曇り空。

「寒い」

 吐く息からは、白い体温を感じる。だが、その体温に若干の違和感を持つ。


「これを着なさい」


 突然、後ろから厚手のコートのような物をかけられた。

「あ、ありがとうございます」

 誰かは分からないが、温かい心遣いに感謝を述べる。

(ん? 今の、英語? イギリス英語かな)

 反射で、咄嗟に英語で礼をしたが、気づいてみると、日本語でもフランス語でも、最近習得しつつあるオランダ語でもなかった。


 そんな事を考えていると、今度は後ろから抱きしめられた。

「……!」

 息が止まった。

「まだ、寒いか」

 耳元で、優しく囁かれる。

 顔の見えない人物に抱きしめられているこの状態に、バルトは混乱しながらも、命の危機は感じない事で落ち着きを取り戻そうとした。

「いいえ! 大丈夫ですっ」

(やっぱりイギリス英語だ。ちょっと訛りがキツイけど、ギリギリ分かる)

 バルトは、大昔に短期間だけ滞在したロンドンを思い出した。当時に言語のチャンネルを合わせる努力をしてみる。


「今日は、あまり喋らないのだな」

 顔は見えずとも、後ろの彼がクスッと笑ったのが分かった。それが、バルトを安心させる。

(え、何か、これ、恋人みたい?)

 そう思うと、急激に体温が上昇し始めた。

(どうしよう、ドキドキする)

 声の質、低さから、背後の人間は知らない人物だと推測した。だが、己の身体は喜んでいて、「この人しかいない!」と、必死に自分へ訴えてくる。


「あの」

「――のことを、教えてくれ。君の全てを知りたい」

(え? 最初の部分、聞き取れなかった)

 自分の事を呼んでいるのだとは理解できるが、発音の問題なのか、ノイズが入ったのか、名前がクリアに聞こえない。


「すみません、もう一度、言ってもらえますか」

 恥を承知で聞き返す。何となく、てきとうに返事をしてしまっては相手に失礼だと思った。

「ん? 君の全て教えて欲しいのだ。愛しい――よ」

(どうして。重要な部分だけ聞こえない)

 だが、意識とは反して、身体は歓喜に溢れ、「お前の意思はどうでもいいんだ、“僕”が嬉しいんだ」と、幸福感が満たされていく。

(まるで、僕の意識と身体が別人みたい)

 頬や耳にキスの雨を降らせてくる男は、とても自分を愛してくれているのが感覚で分かる。

(あ、これ、僕の身体じゃないんだ)

 気づいて、やっと体温の違和感に納得がいった。

(それなら、この身体の持ち主は幸せ者だな。こんなに、この人に愛されて)


(……いいな)


 バルトは、この身体の人物に羨ましさを感じた。そこで、かつて自分も、似たような幸せを持っていた事をぼんやり思い出してきた。

 食事を共にして、挨拶を口実にして頬に触れて、大好きな数学を語り合って、一時期だが同棲をして、髪を触り合って、笑い合って、甘い言葉は無いが、互いを大切にしていた。

(僕にも……)


 そこで、全身を包んでいた温かさは、空に吸い込まれたように消えた。


(え)


 驚いて後ろを振り返ると、今まで抱きしめてくれていた“愛しい人”の後ろ姿が遠くに見えた。

(待ってください)

 バルトは声を掛けようとした。しかし、先程までとは打って変わって、声が出ない。それどころか、身体も自由に動かない。泥沼の中を歩いているようだった。


(待って!)

 もがいて足を動かそうとしても、身体の主が言うことを聞かない。


(何で! 止めないと! “あの人”が行ってしまう!)

 たった一瞬、一度だけ、“あの人”がこちらを振り向いた。


「……!!」


 苦悩に満ちた、力強い瞳。病める師。肖像画の中では、何度も目を合わせた。彼の名は……


(あれは、そんな……じゃあ、この身体は……)


 渾身の力を振り絞って、バルトは足を動かそうとした。しかし、指の先までピクリとも動かなくなってしまった。

(行かないと! 止めないと!)

 バルトは叫び、暴れた。だが、やはり身体は微動だにしない。冷たい風だけが、バルトの冷や汗を冷やす。

(今止めなきゃ、一生、後悔する!)

「ふ……うぅ……っ」

 一粒、涙だけが、頬を伝った。馬車の音が、出発してしまう。

(今なら……!)

 全身の力を、小さく動いた声帯へ一気に溜めた。

(行かないで)




「「ニュートン先生!!!!」」







 今度は、目から開いた。その後で寒さを実感する。

「……ん」

 バルトは机から顔を上げ、暗い部屋を見渡す。棚に並んでいる、オランダに渡ってから受け取った賞状や記念品、名誉碑は闇に覆われて見えない。まだ、夜明けには早い時間帯だ。


 心臓が痛いほどバクバクと動いている。額に薄っすら汗もかいている。頬には、一筋の涙。仕切り直して眠りに就くには、あと一日必要だろう。

「悪夢だ……最悪」

 暑いのか寒いのかも分からないまま、両腕で己を抱きしめる。今は、誰かに抱きしめて欲しかった。

(怖い……こわい)

 歯がガチガチと鳴る。肩が震える。誰かをなくす経験はこれまでもしてきた。しかし、今回の夢は、酷く心を抉っていった。

(助けて)

 強く目を瞑る。その時、暗い瞼の裏に浮かんだ顔があった。


 目を開けるのと同時に椅子を飛び出し、棚の奥に隠していた引き出しを開けた。垂れてくる長い髪を耳に掛け、目的の物を探し出す。

(あった)

 雨の中、岩渕が渡しに来てくれた、新屯からの手紙。時間が経てば経つほど勇気が出なくなり、開けないまま十年が過ぎていた。しかし、今のバルトは、人間味のある何かを強く欲している。悩んだのも一秒、その手紙を開ける事にした。


『君は、土砂降りの中をゆく鳥のようだ』

 意外と詩的な書き出しで始まったのは、新屯の心の内。


『向こう見ずで、甚大なまでの自尊心を振るわせて羽ばたいていく。しかし、それは、私には到底成し遂げることのできない躍然と勇気を持ち合わせている君だからできるのだ。私から見れば、君は気鋭な旅がらす。君という数奇な科学者と、長い歴史の中で一瞬でも分かりあえた事を光栄に思う。この先、君の活躍は人々を引き付けるだろう。君が己の努力と才能で、この世界に貢献してくれるのが、私が最も所望している事だ』


 これだけか。濃密な時間を過ごした人物に送る手紙は、これだけか。だが、これだけで、筆の主が悩み、自分と譲歩しながら書き上げたのが伝わってくる。


『最も頑愚で誠実な友人より、愛を込めて』


(僕は、愛されていた)


(ただ僕が、欲張っていただけだ)


(先生は、愛してくれていた。それが、どんな形であっても)


 彼なりの丁寧な字で、その手紙は綴られていた。しかし、そこら辺にあった書きかけのメモ用紙を使ったのだろう。下の方、空いた行に、ぐちゃぐちゃな図形と数式が躍っている。

 バルトは気づいた。この手紙は、点々といくつかの文字だけ赤色のインクで書かれている事に。

(赤は、あの人が好きな色だったな)

 黒の文章の中に、赤の文字が水玉のように浮いている。その光景がまるで子供の絵画そのもののようで、遊び心を感じる。

(あんな堅物の顔で、ユーモアを演じたって)

 決して笑わないと評判の顔を思い出す。仏頂面で可愛いサプライズをしている男が愛おしくて、つい笑ってしまった。


「もう、遅いですよ……」

 一つ一つ、記憶を甦らせる。一つ一つ、その分の雫が溢れ、ぽろぽろと落ちる。

 あの時、諦めずに信じていれば、未来は変わっていたのだろうか。


 神はサイコロを振らない。


 科学とは全く離れたところで、偉大な科学者の言葉を胸に刻みつける事になるとは夢にも思わなかった。

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