第6節 岩渕の過去

 蓮は、久々に足を速めて歩いていた。あまり動かなくなった足を酷使するのは避けていたのだが、今は別だ。杖を振って、帽子を掴み、先を急ぐ。

(病院の廊下は、どうしていつも足を重く感じさせるのだろう)

「失礼」

 人にぶつかりそうになって避ける。あちらの返事を聞く前に、目的の病室へ足を進めた。いつもの彼なら、相手の目を見て謝り、無事を確認して見送るところまでしただろう。しかし今日は、そんな余裕はない。




「服部」

 病室に入ると、その友はベッドの上にいた。上半身だけ起こして、スケッチブックに何かを描き込んでいる。

「蓮、来てくれたのか」

「服部、血を吐いたって本当」

 挨拶をする暇もなく、蓮は詰め寄った。

「おう。でも、たまにある事だし。そんなに心配すんなって」

「でも君も、いい歳だろう。そろそろ考えないと」

「お前の方が歳だろ! はははは!」

 楽観的に笑う彼を、蓮は不安そうな眼差しで見つめる。

 服部が弱い身体で生まれてきた事を、彼は知らなかった。しかし、服部の振る舞いや話の内容から、普通の身体でない事は医師免許を持つ彼には容易く想像できた。極めつけは、いつも青白い顔と小さな身体。


「にしても、タイミングが良かったな」

 服部が、笑ったままの口で喋る。

「何の?」

 蓮は帽子を取りながら、近くの椅子を引き寄せる。

「何のって。入院だよ。晴丘との研究中に発症しなくて良かった。協会の仕事は休まなきゃいけないけど」

「僕は、入院にベストタイミングなんてないと思う」

「あ? やんのか?」

 服部はベッドの上で楽しそうに、笑顔を向けた。その純粋な笑顔で誰とも接していれば、もう少しは平穏な研究生活を送れたのにと、蓮は考える。服部の真面目な性格も、もっと皆に知れ渡るべきだった。


「本当に、絵が上手いな」

 服部が大事そうに抱えているスケッチブックに目を向ける。そこに描かれている絵は、窓から見える風景でも、昔、好んで観察していた微生物でもなかった。

「僕、だろう?」

 描かれていたのは、蓮だった。

「よく分かったな」

「だって上手だもの」

 スケッチブックの中で微笑む蓮は、現実の彼よりも幸せそうで、優しい顔をしていた。しかしそれは、服部から見えている蓮なのだ。


「何で、僕を」

「分かんねぇ。勝手に手が動いた」

(それにしては、良く描けている)

 蓮は、スケッチブックに住む蓮になりたかった。絵に描かれた自分なら、隣に好きな人をたくさん描き込めるし、その人たちと半永久的に生きられる。消したければ、いつでも消せる。


(君も、僕を置いていくのか)


 しかし、その言葉は口にしないと決めていた。なぜなら、本当に無念なのは、この世を去る方であって、遺される方ではないのだから。後者は、いくらでも人生の挽回が可能であるが、前者は、もうどうする事もできない。できる事と言えば、記憶に想いを馳せるか、想いを誰かに託すのみ。


「これ、蓮にやるよ」

 無口になった蓮に、服部は用紙を破り取って渡した。

「俺、いらねえし」

 幸せな蓮が、蓮に渡される。

「喜んで、頂くよ」

 絵の中で微笑む蓮は、泣きそうな蓮を慰めるように笑った。

「喜ぶほどのもんでもねぇよ」

 服部は、ぷいと外へ顔を向けてしまう。

(似顔絵をあげるなんてガキみたいだけど、俺ができる事って、これくらいしかないから)

 自分の人生を振り返って、複雑な気持ちになる服部だった。

(俺は、この世に何を残せただろう)







 岩渕は、タイミングをずらして訪れる体調不良を恨んでいた。一昨年は片耳が聞こえなくなった。昨年は玄関に立つだけで鼻血が出る日々が続いた。そして今年は、足が悲鳴を上げている。いっそのこと、全てが一度に来てくれれば、死へ踏み切れたかもしれないのに。今は、現在の足の故障と、次に来る見えない苦しみに準備をしなければならない。

(次は目でもやるのかな、おいは)

 それでも、手が動く事には感謝していた。手が動けば記事は書けるし、大切な人の手を掴む事もできる。


 彼は、自分の人生に課した使命を果たす事ができたとは言い切れなかったが、自分のできる限りは果たしたと感じている。

(ここまで、長くて短かったなぁ)

 政治哲学を述べ、現在の教育制度を変える事が、彼の夢だった。それは、誰に貰った夢でもなく、自分が産んだ夢だ。







 岩渕が産まれたのは、自然豊かな田舎町だった。親は教育熱心で、岩渕少年は幼少期から英才教育を施された。日本語を覚える前から多言語を詰め込まれ、父が法律家だった事から、自分も法律家になるのだと言い聞かされていた。

 幸い、と言ったらおかしいのかもしれないが、当時の彼は引っ込み思案で、休み時間は一人で本を読んでいる事が多かった。そのため、勉強をやめて友達と遊びたいとは思わないでいられたのである。


 少年は両親を愛していたが、父は暴力的な面を持っており、理由なく子を殴る事が時々あった。母は、可哀想な我が子をいつも慰めてくれた。狭い世界に住む岩渕にとって、一番美しい人間は母だった。




 中学生になると、彼にも友達ができていった。周りの友達は趣味や好きなものができ、自分も、それらのキラキラした世界に触れてみたいと考え始めるようになった。

『お父様、勉強をやめたいです』

 ある日、そう父に相談した。様々な世界を知りたいから、教育のための勉強に閉じ込められたくないと。しかし、その言葉は父を逆上させるだけだった。

『お前は将来、貧乏になってもいいって言うのか!? 未来の子供を温かい家に住まわせてやりたいと思わないのか!?』

 体中を痣だらけにされた彼は自室に閉じ込められ、ノルマを達成するまで出る事は許されなかった。


 深夜、扉を優しくノックする音だけが救いの瞬間だった。

『まだ起きてる?』

 慈悲深い母は、寒い冬には温かいココアを、暑い夏には喉を潤す麦茶を差し入れてくれた。少年はそれを、たまに涙を流しながら飲んだ。

『お父様はね、自分の子供に幸せになって欲しくて、厳しく接するの。あなたが嫌いなのではなく、好きだから鞭を取るの。自分のように苦労して欲しくないって、あの人はいつも言ってる。ね、分かってあげて。良い子だから』

 大好きな母の願いだ。息子は喜んで頷いた。




 彼の通っていた学校は、毎年行われる「Challenge制度」というものがある。自分の一年上の生徒と、テストの成績を比べ、一定以上の開きがなければ互いに進学できる。だが、大きな開きがあった場合、下になった者は留年だ。この制度の卑怯に思えるところは、大きく出し抜いた成績優秀者は、トップ階層に登れるというところだ。この学校の者は皆、トップを目標にしてテストにしゃぶりつく。蹴落とされる者は永遠に下層に留まる。つまり、死ぬ気で勉強しなければ、いつまで経っても進学が不可能なのだ。いつでも尻に火を点けられている状態と言えるだろう。


 愛情深い恐ろしい父と、焦燥感溢れる学校教育の中で、彼は何とかエリートの道を歩く事ができた。順位の高い生徒は教師に好かれ、益々教育に力を入れられる。終わりのない道のりを、彼は考えないようにした。目の前の暗記事項をとにかく飲み込んで、大人に好かれる回答を出し、いつこの道から飛び出そうかとばかり考えた。脱落していった「負け組」と呼ばれる人たちが「自由な鳥」に見えたのは、気のせいだろうか。




『ぼく、医者になる事になった』

 ある日、友人が言った。

『え? でも、ファッションデザイナーになるって……』

『親に、ダメって、言われたんだ』

 その日から、友人の目は輝きを失ったように見えた。それも気のせいなのだろうか。




 大きな転機が訪れたのは、中学三年生の時。彼は、たまたま入った教室で、一人の生徒を目撃してしまった。その生徒は、身体が宙にぶら下がっており、首が伸びていた。

 後から知った事だが、その生徒は、その年の「Challenge制度」に失敗していたらしい。勉強に追われ、行き詰まってしまった結果だ。


(この世界の教育は……暴力と、何が違うんだよ)


 心から、自分が身を置いているこの世界が地獄に思えた。しかし、反抗心を持っているにも関わらず、自分は何でもない顔をしてトップにいるのがやるせない。


(自分が、変えなきゃ。この教育制度を)


 そして、教育制度を変えるために何をできるか考え始めた。

(この国は、良い大学を出ないと、満足な収入を得られる職に就けない。学歴が高くないと、本人の信用が得られない仕組みになっている。ということは、自分の主張を通したいなら、自分が高学歴にならないと……!)

 考えを改めた少年は、ただ飲み込むだけの勉学をやめて、自分に役立つような知識を吸収していった。また、いつか教育制度に革命を起こすため、関連本を読み漁った。先人たちがどんな思想を持ち、どんな思いで啓蒙活動をしていたか。


(政治と教育は、結びついている)

 根本的に世界を変えるには、小手先では力不足だ。政治家になれば、ミイラ取りがミイラになるだろう。腐り切ってはいないが、臭い政治界だ。入ってしまえば己が腐る。

 内側から変えられないなら、外側から攻める。そして、教育に殺される子供が一人でも減るよう、自分にできる最大限を果たそうと決めた。説得力を得るには、当事者の経験談、教育制度を変えたいと願う同士、発信力、他人からの信頼が必要だ。彼の視界に「記者」という文字が入ったのは、その頃からである。




 だが、そんな目論見も、父にしてみれば馬鹿げた戯言。進路の話になると、父は会話にならないほど手を上げた。

『今まで、誰のおかげで生きてこられたんだ? 俺たちの努力を無駄にするのか? 親不孝め』

 父は怒鳴りつけた後、もう精神的には自立していた息子を書庫に閉じ込めた。

『そこにある全ての本を読め。そうしたら出してやる』

 大きな音を立てて閉められた扉に、青年は痛む身体を寄り掛からせる。

(もう、こんな狭い勉強なんてごめんだ。外の世界には、知らない事が広がっているのに。世の中には、まだまだ知らない知識が広がっているのに!)


 棚から落ちてきた本が、頭に当たった。

『いて』

 転がった本の表紙を見る。


 “統治二論”


 テストのために暗記した著書。一六八九年刊行。著者は、ジョン・ロック。


 むしゃくしゃした彼は、その本を取って、床に投げつけようとした。

(こんな本……っ)

 しかし、そこで手を止めた。今、自分が投げようとした教科書的な本は、詰め込もうとするものではなく、救ってくれるものなのではないか。学校で習ったジョン・ロックという人物は、政治・教育に熱心な哲学者だった。

 岩渕少年は、ジョン・ロックの名著を貪るように読んだ。夜が明けるまで。




 大学に入って親の元を離れた後は、ある程度、羽を伸ばす事ができた。好きな勉強を好きなだけ。枷が外れたように、気になったものは片っ端から手を付けた。経済、漫画、医学、麻雀、科学。こうして彼は、天国のような学生時代を送り、自分が起こす革命に備えた。


 伸び伸びとした大学生活が終われば、すぐに記者になった。父には「弁護士をやっている」と噓をつき、母は共犯者になってくれた。


 そんな彼が、自分一人の力では何も変えられないと気づき始めたのは、いつだっただろう。最初から気づいていたのかもしれない。それでも、無意味ではないと信じて歩き続けた。ジョン・ロックの訴えが革命に繋がったように、自分の一歩が、いつか誰かの手によって大きな変革に繋がればいいと。そのためなら、自分の名誉などいらなかった。

 今でも、そう思っている。







 岩渕は、目標に熱い男だ。中途半端に投げ出す事を嫌う性格である。その性格が、あだになるとは知らずに。


「……こんな事して、世間が黙ってるとでも?」

 通り過ぎていくトラックを眺めながら、強がって唾を吐き捨てる。反対に曲がった足は動かない。一歩間違えれば、その足は空へ飛ぶところだった。


 官僚の汚職事件を追っている身だ。消されるかもしれないとは分かっていた。あのトラックは、真実に迫り過ぎた岩渕を牽制するため、又は、消すための計画だろう。

(やられた)

 腕の力だけで、カマキリのように動く。全身に痛みが走った。

(人気のない場所に入るんじゃなかった。この事故は、国の上層部によって無かった事件にされる。おい一人が訴えたって、証拠も、信じてくれた人も消されて、最後は、自分も……)

 初めて、死が怖いと思った。


 一部の世界――自分にとっては全ての世界――を変えようと必死に生きてきた。しかし、失いたくないものができてしまっていた。

「結局、おいは、自分のために生きていたのか」

 何かを守る事は、何かを手放す事なのだと、彼は学んだ。

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