第5節 晴丘の過去

 岩渕は、珍しく仕事で科学者と会話をしていた。インタビューの相手は、晴丘だ。一区切りついた研究の詳細と、これからの研究について、心ゆくまで喋らせた。


「いやー、今日も良い取材が出来た! ありがとうございます! 晴丘さん!」

「いーんですよ! ワタシも楽しかったです!」

 アメリカンな距離感で、晴丘は岩渕にハグをしようとする。迎えようと立ち上がった岩渕は、足に痛みが走った。

「いてて」

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫です。もうじじいだからな……はは」

 岩渕は、自分の老いを感じる瞬間が、足の痛みより苦痛だった。


 ここ数年で、岩渕は健康を害する事が増えた。記者として日本中を駆け回る日々は、古希を迎えた彼にとって鞭打つ行為だった。しかし、中途半端に投げ出す事を嫌う彼は、自分の信念に従い、今日も真実を探して足を使う。


「それにしても興味深い。船の上の天文台ですか」

 心配を掛けないよう、笑顔で話を戻す。

「That’s right! ドクターバルトが色々案を出してくれて、やっと実現するよ! ワクワクワクワク」

 晴丘は、今でも仕事でバルトと関わる事があるようだ。

「バルトか。彼がちょっと前までこの日本にいたなんて、今では考えられないですよね」

 あの感傷を呼び起こしながら、岩渕は言葉を探す。


 今では、ニコラオス・バルトは科学界でよく名前を聞く一人になっていた。科学者なら、一度は名前を聞いた事があるだろうと言われている。数学、物理学の方面での活躍が有名だ。それでいて、天文学や工学にも精通している事には驚かされる。


「ホントホント。彼がいなくなって十年? 経つんですね。あの頃は、新屯さんと組んでアメイジングな発見をしちゃうと思ってたんだけどな。なんにもなかったですね」

 何も、なかった。岩渕はその言葉を異物に感じる。

(あれで、何もなかった……ね)


「ところで、不乱無さんへの資金、断ったんですって? どうしてですか? あんなに陰で応援してたのに」

 岩渕はそれとなく聞いた。話を逸らした事に、気づかれないように。

「何で知ってるのか。さすがです」

 これは参ったと、全顔面で表現する晴丘。

「だって、ワタシが助けたら、彼女の箔が落ちる。名目上、あの天文台は国立になってるんだから、そんな立派な機関なのに援助されてるって膾炙されたらどう? 『不乱無が無駄使いしてるんだ!』とか、『不正な繋がりがあるんじゃないか』とか言って、彼女の信頼を落とそうとするヤツも出て来るよ。不乱無は昔から、敵を作りやすい人だったから、もうそんな苦労して欲しくないのよワタシ。不乱無は実力がある。だから、彼女の手で成功を掴んで欲しかった。『晴丘の手を借りずにやってやった!』って、彼女が胸を張ってくれれば、それがMy pleasure! 多分、ワタシに支援された金で成功しても、彼女は本望じゃないし」


 晴丘は、自分が不乱無に敵視されている事も承知だった。

「じゃあ、素直にそう言えばいいのに。何で、わざわざ不乱無さんをイラつかせるような断り方したんですか。せっかく同業なのに、離れて行っちゃいますよ?」

「恥ずかしかったから」

 頭に乗っていたサングラスを目に掛ける晴丘。断り方まで岩渕が知っている事には、気が回らなかった。

 この男にも恥が存在するのかと、岩渕は泡を食った。


(ウソ。本当は、彼女からワタシが離れるため。出る船の纜は、引けないからさ)


「大丈夫だと思うけど、誰にも言わないでくださいね。ワタシが不乱無を応援してること」

「不乱無さんが嫌がるからでしょう? 分かってます。おいの口は、石より堅いですよ!」

 大きな口を開け、岩渕は安心させるように笑った。

「ありがとうございます。本当に大切なものは、見えないところにしまっておきたいですから」

 そう言って笑った顔は、いつもの軽い笑顔ではない。一人の友を想う、友人の顔だった。




 ――晴丘が日本に飛んでT大学に入学した年、不乱無はK大学の四年生だった。不乱無は二浪していて、一方の晴丘はアメリカで飛び級、更に、日本に帰って来てからは飛び入学をしていた。


 お互いの大学は国内留学制度を売りにしている。そこで、二年生になった晴丘は、更なる刺激を期待し、不乱無の大学に在籍していた。彼が研究室に配属されると、そこには院生になった不乱無もいて、互いに影響し合う事となった。


「え、せっかく見つけた彗星、追うのやめちゃうの!?」

 ある日、彼女が三年間研究していた彗星の追跡中止を発表した。小さな研究室で、たった一人だけ、晴丘しか興味を持って聞いてくれないのだが。

「軌道も変わらない。物質も変わらない。普通の彗星だもん。私が見つけたのは所詮、特別でも何でもない、ただの彗星だったわけ」

「じゃあそれ、ワタシに継がせて!」

「はあ? いいけど。死ぬまで変わらないと思うよ」

「No problem! ありがとう!」

「先輩には、『ありがとうございます』って言え!」

 自分だけが気づいていた「才能の芽」が見つけた彗星を、晴丘はただの彗星だとは思えなかった。




 また数か月後。

「望遠鏡は皆で使う物なんだから、勝手に改造しないでよ!」

 晴丘が調子の悪い分光器をトンカチで直していた時、不乱無が挨拶もなしに迫ってきた。晴丘はポカンとした後、何の事か分かった。

「ああ、あれか。使いやすくして何が悪いの? 毎日、デフォルトに直すの面倒臭いデショ」

 解像度を各段に上げる性能が付いている望遠鏡は当時、光圧が二十四時間で初期状態に戻ってしまう作りになっていた。それを晴丘は無断で、自らの腕で改造したのだ。いつも、光圧調整の仕事を任されていたのは不乱無だった。

「私の一日は、この仕事から始まるの。今すぐ直して」

 彼女の目はとても怒っている。だが、晴丘は、効率を良くして何が悪いのか理解不能である。

「Why? この仕事が減れば、不乱無チャンはもっと違う事に時間を使えるよ?」

「いいから直して! あと、先輩には敬語を使え!」


「また不乱無さん、晴丘くんに嚙みついてるよ。何か言わないと気が済まないんだろうね」

「自分は浪人なのに、晴丘くんは飛び級で入ってきたからじゃない? 気に入らないんだよ」


 研究室の仲間たちが遠くでひそひそ話しているのは、二人にも聞こえている。

「……あんたなんか、嫌い」

 感情を押し潰した声で、不乱無は去って行った。彼女の目に涙が光っているのが、晴丘には見えた。




「不乱無チャン」

 休憩時間に、晴丘は彼女に話し掛けた。

「今週の日曜日、国立天文台でやる“星空解説ショー”なんだけど、一緒に見に行かない?」

 晴丘は考えた。二人に共通する話題で、不乱無を喜ばせられる事はないかと。

「嫌いって言ったでしょ。近づかないで、このチャラ男」

 不乱無はギロリと睨んで言った。

「Yikes! 酷い……」

 断られた事にはあまり傷ついたわけでもないが、彼女に嫌われていると知った彼は、頭に「ガーン」の文字を落とした。


 二人の仲は解消されないまま、晴丘の留学期間は終了した。彼は最後まで不乱無との仲を良いものにしようと頑張ったが、一人の力ではどうにもならないという事実を知るだけだった。更に二人の関係が悪化する事には、不乱無が晴丘に譲ったあの彗星が、一年後には奇怪な動きと変色を見せ、一躍注目の的になったのだった。もちろん、注目されたのは、彗星と、「彗星を研究している晴丘」だった――







 不乱無から説教じみた返信が届くと、新屯は激憤した。早く研究を進めたい新屯には、研究者の個人的な理由で進行を止められるのは我慢ならない事だ。


『あなたの生活が相当大変なようですので、計算表はいりません。結果だけこちらに送って下さい。後はこちらで計算します。その方が、アカデミーの会長を始め、会員たち、期待している方々のためにもなるでしょうから』


 彼女からの返信は一週間後になった。

『新屯様が優秀な機関で研究されている事は存じ上げております。ですが、天文学に関してだけで言えば、専門家の方が詳しいという事実に異論はないでしょう。計算方法は一般の素人が思うよりも複雑ですので、扱える人間が扱うべきです。それから、私は決して、生活を言い訳にして逃げている訳ではございません。あくまでも、間違ったデータが出回らないよう、細心の注意を配って進めているのです。新屯様の研究のお力になれるよう、私も細密なデータを送らせていただきます。何事も、急がば回れ、でございます』


 新屯は、すぐに返信の文章を作成した。

『私は確かに、天文学だけの不乱無さんよりは門外漢です。しかし、私は天文学の最前線を走る晴丘さんや樫荷さんと友好関係を築いておりますゆえ、あなたの心配には及びません。心を煩わせる時間を取ってしまい、申し訳ありません。ここからは、あなたの心配とデータ検出だけに専念できると思いますので、ご健闘をお祈りしております』


 今度は、二分で返ってきた。

『分かりました。では、変換前のデータを送らせていただきますので、ご自分の理論で予想数値と合うまで武装ください。もう一度、警告いたしますが、この変換計算は複雑です。コンピュータに数字を打ち込むだけでは完成しません。データの方を自分の理論に合わせようとすると、永遠に合致しない事も予測可能ですが、私は期待しております』


 添付されているデータを確認して、新屯は目にも留まらぬスピードで計算を始めた。並みではない集中力で夜を明かし、得た結果は、「自分の理論と合わないデータ」だった。

(何故だ! 私が間違っているはずはない! どこかで計算間違いをしただろうか……)

 何度も計算をし直すが、どうしても予想算出と合う事はなかった。二週間を費やし、彼はやっと、誰のせいにするか決めた。


『こちらの結果には期待しない方がよいでしょう。なぜなら、あなたの杜撰な結果を基に、こちらがどれだけ精密な計算をしようと、全く意味を成すとは思えませんから。私にしましても、多忙な仕事の都合がありますので、全ての結果を細々見ていたのでは、私の命がいくらあっても足りません』

 彼は、取り繕う事さえやめた。これ以上、仲良しごっこを続けようとするならば、相手の手を握り潰す事も「握手」と言って許される領域に入るだろう。







 その頃バルトは、二つの白熱した道を同時進行していた。一つ目は研究について。一年間噛み付き続けた研究だったが、思っていた結果と違う未来を導き出したバルト一同は、意を決して道を変えた。それが正解だったのだ。

 彼らは、長年謎だった「メモリー効果」の根本的な原因に触れようとしていた。更には、その答えを応用する事で、新しい記憶媒体が生み出せるのだと考えている。チームの皆は、大きな発見に繋がると盛り上がっている。


 だがもう一つ、バルトには佳境を迎えている話題がある。先取権だ。新屯派とランゲ派に分かれた平行の争いは、現在、新屯派に追い風を吹かせていた。様々な人物がとやかく玉石混交の証拠を出してくるものだから、もはや真偽の判断は難しくなってしまっているのだが、その中でも、着々と名声を広めつつあるバルトの声は大きなものだった。

(このまま押せば、邪魔が入らない限り、勝てる!)

 そう確信していた。彼自身、ある事ない事を並べて大声を出しているつもりはないが、正直に言えば、結果にこだわるようになっていた。過程は出した者勝ちで、とにかくこの戦いに勝ちたいという思いだけが、一人で走っていた。




 結論だけ先に述べておこう。近い未来で先取権を“取る”のは、新屯である。

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