第4節 不乱無
砂時計の砂は落ちて、十年が経った。新屯の先取権は未だ得られず、争い続けて月日は過ぎていた。その間、世間では、新たな発見もあれば、迷宮入りと思われる謎もそのままあった。亡くなった者もいれば、いくつになっても研究から離れられない者もいる。文明は進み、新屯もまた、少しずつ歩き始めていた。その文明の進歩には、バルトも大きく貢献している事を新屯は嫌になるくらい耳に入れていたから、止まっている事はプライドが許さなかった。
今、彼が力を入れているのは、「M―R―12の検査結果」についてだった。バルトがまだ日本にいた頃、新屯が
『検査表の続きを早くこちらに下さい。私は、一つ一つの結果を最後まで観察するのではなく、ある程度の結果が出たところでまとめ、一つの法則にして、それを元に観察に当たった方が効率を良くできると申しているのです。あなたの生活が大変で困窮しているのは理解できますが、それよりも重大な仕事が科学者にはある事を忘れないでいただきたい』
新屯の催促に、不乱無はいつもプライベートの課題を持ち込んで言い訳をしてくる。更に、不乱無には説教じみた文章を書く癖があるようで、新屯にも矢は向いた。彼は、それらに神経を逆立てていたが、ギリギリのところで耐え抜いていた。なぜなら、新屯も歳を取り、様々な経験をしてきた上で、怒りに任せて動いたところで良い結果になった事は、数える程も無かったと気づいたからだ。
頭の血管が限界を迎える頃、ようやく次のデータが不乱無から送られてきた。
(計算が合わない……! おかしい! きっと不乱無の畜生、私にわざと間違ったデータを送ってきているに違いない。今頃、己の仕事の鈍足をいかに隠そうか躍起になっている事だろう)
いい加減な仕事をする人間を、新屯が好く事はない。科学に関する態度なら最もだ。
(いっそ、本物のデータを盗んでしまおうか。幸いな事に、私の肩を持つ者は大勢いる。私が手を汚さずに盗る事は可能だ)
(確実に味方に付けられる人間は、バルト、晴丘さん……上手くいけば、会長と蓮さんも協力してくれるかもしれない。服部は論外、樫荷さんは……)
急に、惨めさが襲ってきた。
(……いや、やめよう。こんな事は。今の私は、正常な判断ができない。こんな私では、あの子に顔向けできない……あの子は今も、真っ直ぐに研究を続けているのに)
目の前に浮かぶ愛しい人は、今では後ろ姿しか見えない。ブラウンの髪と、ひらひら揺れるリボン。それだけ。並んで語り合っていた過去は、過去でしかないのだ。
『データを拝見しました。しかし、データの量と質が、与えられた時間の割に合っていないと思われます。特に、あなたの行っている計算には間違いが見受けられます。最終データが私の計算と合わない事実は、残念でなりません。つきましては、早急にデータを送って下さると、こちらも研究を進めやすくなりますので、そのようにお願いいたします』
送信すると、彼の肩にどっと疲労が蓄積された。
不乱無の元に届いた新屯からの文句は、彼女を憤らせた。
「何なのよー! あいつ! ちょっと頭がいいからって調子乗ってる!」
残業続きのついでに、今晩は天才科学者からの怨み言付き。思わず愚痴も零れてしまう。
「やっぱり、晴丘の一味は性格悪い!」
宙に向かって叫んだ。その声は、何もない空へ吸い込まれていき、星々に到達するだろうか――
――数十年前の事。星々が瞬く、冬の十九時だった。不乱無は、予定通りの時間に新国立天文台へ着いた。そこまでは良かったのだが。
「ええ!? 国立なのに自費!? どういう事ですかっ」
「すみません。どうやら、国の予算が足りないみたいで……施設費は何とか出してもらえるようなので、備品や実験道具などは……自費……ということで……」
申し訳なさそうな相手を責める事は、不乱無にはできなかった。そもそも、悪いのは目の前の公務員ではない。話を上手く通してくれず、ましてやそれを知らせてもくれなかった誰かが悪いのだ。
(どこで間違ったんだろう。間違って伝わってたのかな。どうしよう、私だってそんな金持ちじゃないのに)
不乱無は肩を落とす。彼女の計画では、かかる初期費用は全て国が負担してくれるというものだった。国立であるから、金銭的にも名誉的にも問題なく、旧国立天文台を引き継いだ研究ができるはずだった。しかし、ここで出鼻を挫かれてしまった。
(仕方ない。施設はできてしまったんだ。私がやらなきゃ、誰がするの)
可哀そうな科学者は、天文台を開くまでのスケジュールを立てる事にした。とりあえず、今ある貯金を根こそぎ叩けば、すぐに必要な物は揃えられる。他は、自分の器具や以前の物で補充できる。
いつか、自分の研究が世間に認められれば、国も天文台に費用を出してくれるようになる。それまで、人件費や研究費、その他税金関係は自分で繋ぐしかない。そう思い、彼女は自分の給料を減らし、副業で補う事に決めた。
「うぅ、疲れた」
だが、研究をしながらの副業は、体力的にも、精神的にも摩耗され、いつ安定期が来るのかすら分からない。彼女は先の不安を見ないようにして、無二無三に努力した。一日二食で食い繋ぎ、睡眠は取らない日すらある。大好きなブランド品も我慢した。余計な物を目に入れないように、街では下を向いて、早歩きで通り過ぎる毎日。月に一回の出血は来なくなった。
「もう駄目だ!」
遂に耐え切れなくなった不乱無は、最後の手段に出た。絶対に頼りたくなかった宿敵、晴丘の電話番号を探す。晴丘とは、大学時代からの付き合いで、職に就いてからも何度もぶつかっている。彼女は、晴丘の優遇されている立場が気に入らない上に、彼のお気楽な性格が嫌いだった。
「……もしもし、晴丘?」
声がかすれる。屈辱と嫌悪で、喉から何かが出そうだ。
『あれれ、久しぶり! 何かあった? 不乱無チャン?』
昔から、相変わらずチャラい。しかし、周りの人間が、それでも許しているから、彼は自分のままで振る舞えるのだ。許されるほどの結果を、彼は彗星に残している。
(そのありがたみに気づいてねぇのか、この野郎!)
「えー、あー、私、あの新しい国立の天文台で勤務する事になったんだけど」
『知ってるよ。長でしょ。オメデト』
綿雲のように軽い相槌。それにすら舌打ちをかましたい。
「でもー、そのー、何か、どっかで話が変わってたらしくて、殆どの費用を私が負担しなきゃならなくなってたらしくて」
『ふーん』
(ムキー!)
「晴丘の家って、金持ってたよね? 良ければ貸してくれると助かるなーって、電話なんですけど」
(ヤダヤダヤダヤダ! 何でコイツなんかにー!! あーもう、イヤーー!)
不乱無は心の中で、晴丘を何発も殴っている。それで何とか冷静を保っていた。
『やーだね。ワタシの金だもん』
(あ、あ、あ、余るほど持ってるくせにーーーー!)
ダイナマイトが爆発した瞬間だった。
「あっそ! あんたに電話したのが間違いだった! もういいわ! じゃあね!」
『うん! バイバイ! Love you!』
思い切り、通話をぶち切った。
(何で何で何で! 金持ってるってだけで、アイツは成功するの! 大物に手を借りるのも、自費出版するのも、余裕ぶっこいて旅行するのも、美人な奥さん手に入れるのも、ぜーんぶ金のおかげ! 何なのよー!)
(こんな時はストレス発散だ! キー!)
不乱無は、いつも愚痴を聞いてくれる友達に、晴丘への鬱憤を晴らす事にしたのだった――
――思い返せば、全身がわなわなと震える。
「あー、新屯もムカつくわ。周りが引き上げてくれる天才はいいもんね。余計なところにエネルギー注がなくてもいいんだから。研究だけに没頭してれば、それでいいんだから。性格がクソでも、周りは欲してくれるんだから。あの人は、自分の事しか考えてない」
ぶつくさ言いながら、どう返信しようか、打ちながら考え始めた。
『私は、できるだけ正確なデータを世に出したいだけなのです。この研究が精密なものであるほど、それは証拠を持った形として人々の役に立つ事ができると存じております。
あなたが正しいと信じ込んでしまった、凝り固まった計算方法が必ずしも正しいとは限りません。一度、私のデータではなく、あなたの理論に間違いがあるのではないか検討してみる事をお勧めいたします』
文章を送った後で、不乱無はまた、友達へストレスを発散しに出かけるのだった。
バルトは、日本を出て十年経った今でも、新屯の蓄計率の権利を裏付ける証拠を探し続けていた。これだけが、二人を同じ場所に繋ぎとめている命綱と言っても過言ではない。つまり、バルトはまだ、新屯とどこかで繋がっていたかった。
「また、それやってんの」
ヘンドリックはバルトの手元を見て、少し顔を歪ませる。
「うん。だって、ニュートン先生は間違ってないから」
また、「ニュートン先生」だと、ヘンドリックは思う。彼は、新屯環の評判は知っているが、研究成果を出し渋りしている変人というイメージがある。又は、論文を出す事さえできない落ちこぼれとも。
「でも、もう十年もやってんだろ? それで決着が付かないんなら、いい加減、手を引いた方が研究に専念できるのに……それに、あんまり他人が他人の争いに首突っ込んでも良い事ないぞ」
彼から見て、バルトは百年に一人の天才である。そんな人間が、なぜ昔に知り合っただけの一研究者に固執するのか、理解できない。その労力を、もっと自分たちの研究に費やしてもいいはずだ。彼には、新屯環が邪魔者に思えた。
「それは、できない」
「何で」
「僕にとってニュートン先生は、他人とは思えない人だから」
真面目な顔で答えるバルト。
「あのなぁ、個人的な心情で動いていい件じゃないだろ。そういうの抜きにして、公平に判断しないと」
「公平に判断しても同じだよ。ニュートン先生が先だったんだ」
(駄目だこりゃ)
ヘンドリックは、痛ましい努力を続けるこの友の、感情的な性格が嫌いではなかった。バルトのような人間がいるから、世界は色付く。しかし、新屯の件に関してだけは、バルトを解放してやりたかった。いつまでも同じ場所に留まろうとする彼の心を、正しい道に戻してやりたかった。
(ニコラは世界を変える人間だ。新屯環なんかに囚われていちゃ、いけない)
「大丈夫! 研究には支障を出さないようにするから!」
「そういう問題じゃねえ……」
だが、ヘンドリックは口を閉じる。美しい顔で微笑まれると何も言えなくなるのは、日本の一行だけではないようだ。彼もまた、バルトに魅せられた一人だった。
(新屯環の何が、お前をそこまで狂わせるんだ)
天才の心を動かす人間を、恐ろしくも思うのだった。
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