第3節 夢の中の少年
秋の寒さは一瞬で、一気に冬の寒波が押し寄せてきた近頃。レスベラトロールにて、二人の男は顔を合わせていた。
「奇妙な文章を送ってしまって申し訳ありませんでした。しかし、覚えていないのです。送った事実は覚えているのですが、自分が何を書いたか……」
「いいよ! いいよ! 気にしてないって!」
頭が机につきそうなほど、深くお辞儀をする新屯。岩渕はそれを、逆に申し訳なく思う。新屯がおかしくなった元凶が分からないにしても、自分の行いが加担していないとは言い切れない。少なくとも岩渕の中では、新屯の精神錯乱は、バルトとの件と結びついている。
「立ち直って良かったよ、ホント。全く連絡つかないから、もう研究も辞めてたらどうしようかと思った。今の気分はどう?」
「あまり、正直なところ、自分でも分かりません。常がどのようだったか、覚えていません」
「大変な事が立て続けに起こったからね。そうなるのもしょうがないよ」
「……」
ようやく落ち着いて話せるようになったとはいえ、新屯の目は沈んだままだ。
「話せば、少しは楽になるかもよ」
「……」
岩渕は、自分が何を言われてもよかった。バルトとの離別を自分のせいだと言われようとも、罵倒のサウンドバックになろうとも、彼の支えになれるなら。
「これはインタビューじゃない。友として聞いてるんだ」
とっくに伸びて肩に付いている新屯の髪を見ながら、何とか引き戻そうと苦心する。
「……これほどまで不安になった事は、一度もありませんでした。私は、これからどうなってしまうのでしょうか。全て投げ出したい気持ちもありますが、その後が怖い。私は、将来が恐ろしいのです」
静かな言葉は、彼からの悲鳴だった。救いを求める、小さな声。彼の悶絶が、耳に響いてくるようだ。
「仕方ないな。おいが貰ってあげようか?」
「……何を」
「新屯を」
「……」
カウンターの方から、マスターの新作に飛び上がる客の声が聞こえる。
「……おいは、新屯を完全には理解できていないかもしれないけど、尊重してるつもりだ。一緒に住むくらい苦労ないと思うよ。少なくとも、そこら辺の人よりは。二十年以上の付き合いじゃん」
新屯は黙り続けている。
「独身貴族の貯金から、研究費はあげられる。接触も毎日はしない。たまに、情報提供も兼ねて話し掛けるだけだよ。どう? 不便ないでしょ。今までと何も変わらない」
下を向いている男から返事はない。
「おいの推理では、新屯には、誰かが必要なんだと思う。君を、愛してくれる人が」
新屯は、隈の浮いた顔で岩渕を見た。
「私は、誰と一緒になるのも向いていないのです」
その後、首を横に振った。
「いや、やけになっている訳ではありません。考えたのです。私は、人を信じられないし、どうも勘ぐってしまう癖がある。蓮さんには失礼な態度を取った。心配して下さった岩渕さんにもご迷惑を掛けた。その他の人たちにも……何をしたか覚えてはいないですが、とにかく無礼を働いてしまった。理解してはいるのです」
「いつの間にか、新屯の中で、他人の占める割合が増えていたんだね。ずっと、一人でこもっているんだと思ってた」
(君の中に、おいもいたんだな……)
科学を恋人にしている友人の心の隙間に、己を置いていてもらえた事を密かに救いにする。
「だから、私はもうこれ以上、誰も入れたくないと思っているのです。狂っている人間の行動より、理論的な科学と関わっている方が、私には合っているのです。きっと」
それは、彼の諦めか。それとも、前を向く挑戦か。
「……うん。そこまで考えてるんなら大丈夫そうだ。新屯は大丈夫!」
冬を理由に、岩渕は鼻をすすった。
「新屯さあ」
レスベラトロールを出て、別れ際に呼び掛ける。
「もし考えが変わったら、おいはいつでもいいから」
「何の話ですか」
鈍感な男の顔が、岩渕には、いつもの新屯の顔に見える。
「さっきの話だよ!」
背中を押すように、友の背を強く叩いた。
気づいた時には、バルトは広い原っぱにいた。大の字で寝転がり、流れる雲をぼんやりと見ていた。バルトはここを知らないし、どうやって来たのかも分からない。ただ、心地よい空気に落ち着いたのは確かだ。
(のどかだな)
どうでもよくなってきたバルトは、しばらく横たわったままでいる事にした。最近は仕事が立て込む日が多く、何も考えずに寝ている時間など無かった。
(今日くらい、休んでいいよね)
再び目を閉じようとした、その時。
「あぶない!」
カッと目を見開くと、空から白い物がこちらに向かって落下しているのが目に入った。
「え、え!?」
「あぶない!」
子供の声と共に、その落下物はバルトに直撃した。
「いた~い……」
庇った手は傷ついたが、血は出ていない。それほど重い物ではなかったようだ。
「大丈夫ですかっ」
草原の向こうから走ってきたのは、バルトの腰くらいの背丈しかない少年だった。
「うん。大丈夫。多分ね」
「すみません。まさか、こっちの方に流れるなんて」
「これ、君の?」
落下物を持ち上げ、日に当ててよく観察してみた。人工的な機械を使っているわけでもないが、空を飛ぶための円盤のようだ。木製の骨格を正確に削り、精密に組み立てているのが分かる。それを覆う白い紙も考えて折り込まれている。
「はい。作ったんです」
「君が?」
「はい」
子供の割に落ち着いた少年は、鋭い目つきをしていたが、バルトとは目を合わせなかった。
「良くできてるね」
お世辞ではなく、本心で褒めた。この少年が作った物は、子供騙しのおもちゃというより、発明品に近い。それほど完成度が高かったのだ。大人のバルトが見ても息を呑むほど。少年が、子供脳なりに計算して製作した事が読み取れた。
「ありがとう、ございます」
初めて少年は表情を崩した。耳も少し赤い。
(可愛いなあ)
バルトは、彼と話してみたくなった。
「これが落下した理由、分かるかな?」
「乗せてた物が重かったんです。あと、紙の面の向きが、風に合ってなかった。それと、これが切れたので」
彼が差し出した手には、紐が乗っていた。
(ああ、この紐が切れて、本体が風に流されたのか)
「これ、もっと飛行時間を長くできるよ」
「ほんと!?」
そこで初めて、目と目が合った。急に少年らしさを取り戻した彼に、バルトは驚きながらも頷く。
(こういうの好きなんだな、この子。目が輝いてる)
自分の幼い頃と似ているような気がした。
「教えるから、一緒に作ろう!」
二人は、緑の絨毯の上、爽やかな風の中、豊かな自然に囲まれて実験を繰り返した。
「できた!」
完成品をバルトが手渡してやると、少年は赤らんだ頬で早口に述べた。
「あっちで飛ばそう!」
少年に手を引かれ、水平な草地に来た。
今度は簡単に外れないよう、何重にも紐を巻きつける。それを、少年の小さい手に持たせる。
「それ!」
少しの風と、少しの走りで、二人の傑作は飛行を開始した。まるでUFOみたいだなと、バルトは思う。
「さっきよりも飛んでる」
見惚れるように、少年は呟いた。
「さっきよりも先頭が上を向くようにしたんだ。空気の流れを曲げて、下の圧力を高くする。すると、本体は上に引っ張られる。これを揚力と言う。加えて、少し端を曲げたのは、空気の抵抗を少なくするためだったんだよ。つまり、君の理論は殆ど合ってて、張る力や曲げる力が足りなかっただけ! もっと身体が大きくなれば、自ずとできるようになるから」
「凄い……」
半分聞いて、半分聞いていない少年は飛行物体を眺め続ける。
「ふふん。夜に飛ばせば、きっと皆が驚くよ! 『何だ、あの飛行物体は!』って」
「ふふ」
やっと、ちゃんと笑った少年の顔を見たバルトは、心が温かくなった。
「お兄さん、明日も会えますか」
足元を見て、もじもじしている彼。バルトも同じ事を考えていた。
(いつまでも、ここにいたい)
しかし、時間がない事は何となく分かっている。明日も、会議と研究と会食とランゲ氏の下調べが入っている。「子供だから」と、できない約束をする訳にはいかない。
「僕、バルトっていうの。君の名前は?」
頷いてもらえなかった事に、少年は察知能力を働かせて、少し視線を泳がせた。
「私の名前は――」
世界が、急激に遠ざかっていった。足元から落ちていく。
「うわあ!」
バルトは、ベッドから飛び起きた。ここはオランダ。いつもの部屋。緑も風も、この部屋にはない。
(夢か)
「……良い夢だったな」
そこで、ふと思った。
(あれ。僕、夢の中で、何語で喋ってたっけ?)
研究室に入ると、仲間の一人が先に来ていた。
「フッデモーヘン! ヘンドリック!」
「ニコラ、おはよう。随分と機嫌が良いな」
クールな笑みで返すヘンドリックは、バルトと歳が近い研究者だ。仲良くなるのに時間は要らなかった。
「分かる? 実はね、とっても良い夢を見たんだ!」
バルトの赤い頬を見て、ヘンドリックは不思議に思う。子供ならまだしも、この歳で顔を赤くするほどの夢とは。
「どんな夢?」
「すっごく綺麗な草原と、低いリンゴの木が見えてね、あっちの方では川が流れてて、僕は寝てたんだけど……」
また、バルトの長い自分語りが始まったのだが、ヘンドリックは最後まで聞いてやるのだった。
「へえ、UFOか。どっかで聞いた事のある話だな」
UFOみたいな物を作ったというバルトの話。微かに、どこかで聞いた気がした。
「そうなんだよね。僕もどこかで聞いた事がある気がしてるんだ。でも、分かんない」
「まあ、夢だし。本とかで読んだ記憶から掘り返してきたんだろ」
「そうだね。楽しめたんだから、何でもいいや」
楽しかった夢の中を思い出す。
(またあの子に、会いたいな)
鋭い目を持ち、落ち着きの裏に情熱を秘めた少年。
「さあ、もうすぐ他のやつらも来るから、片付けから始めるか」
「ヤー!」
オランダ語で話していて、夢で話していた言語はオランダ語ではなかったなと、バルトは確信した。
顔を赤くして朝を始めたバルトだったが、その赤みは午後になっても抜けなかった。今日は、会う人々に赤い頬を心配されている。
「なあ、やっぱ、大丈夫じゃないんじゃないか」
ヘンドリックも、やはりおかしいと感じたのだろう。心配の声を掛けてくれた。実を言うと、バルト自身も身体の不調には薄々気づいていた。しかし、恋愛以外は全て上手くいっている彼は、身体に気を配っている暇などない。
「大丈夫だよ」
「一応、今日は帰ったら?」
「ううん。今日やることをやるの」
「じゃあせめて、ちょっと休憩しろ。ぶっ倒れても、そっちの方が困る」
「大丈夫なのにぃ」
過保護な友人には感謝するが、どうしても手を休めたくない。
(そうだ! 外でやろう!)
「じゃあ、ちょっと散歩してくるね」
「は? 体調悪いのに外なんか出たら……」
「暑いから大丈夫! 行ってきまーす!」
「いや、暑いのは熱があるか――」
バタンと扉が閉まった。
「……あれ、絶対、熱ある顔ですよね」
バルトが出ていった後で、ヘンドリックはチームの仲間たちに尋ねた。皆は一斉に頷く。ヘンドリックは大きくため息を吐いた。
「ニコラ、あんま身体強い方じゃないのに」
熱い頭と、皮膚に纏わりつく悪寒に苛まれながら、バルトは歩いていた。手には、資料の詰まった端末がしっかり握られている。
(大丈夫だもん。皆、心配し過ぎだよ)
赤い頬を膨らませて歩いていると、歩道に立っている三人組が見えた。何やら、ひそひそ話している。聞くつもりはなかったが、すれ違う際に聞こえてきた言語に耳が反応してしまった。
(フランス語だ)
だが、アクセントがバルトのものと違っていた。彼らのアクセントは訛りが独特で、しっかり耳を澄ませないと聞き取れない癖がある。それから、街中で小声で話しているのも気になった。
(観光客かな。何を話しているんだろう)
好奇心に負け、バルトは悪いと分かっていながら聞き耳を立てた。
「あの幼女、金持ってる家の子じゃねえか?」
「今、一人だぜ」
会話が聞こえてきた瞬間、ひゅっと息を吸った。
(誘拐!?)
熱を持って重い頭を回転させ、自分がどうするべきか考えた。
(警察に通報! でも、まだ実行した訳じゃない。証拠は僕の耳しかない。録音は……この距離じゃ無理だ)
男たちを盗み見ると、道路を挟んで向かいにいる少女が、完全に一人になるタイミングを伺っているようだった。
(僕が女の子に話しかけたら……僕が疑われる?)
これ以上考えれば、脳がショートを起こしそうだ。関節の痛みに耐えながら、助けを求めるように周囲を見回す。
(っていうか、もしかしたら誤解かもしれない?)
首を汗が流れていく。
(あっ!)
そんな事をしている内に、男の一人は少女のすぐ後ろに移っていた。
(もう! どうにでもなれ!)
バルトはガンガン鳴る頭を抱え、走り出した。
女の子に伸ばされる男の手を、パシリと掴む。
「その子に触るな!」
視界がぐるぐる回る。自分が何を言っているのかもよく分からない。
「は、はぁ? 兄ちゃん、何言ってんの?」
何を言っているのか分からないというようなヘラヘラした演技に、バルトは腹を立たせる。
「聞いてましたよ! この子を誘拐する気でしょう!?」
「誘拐!?」
後ろから、少女の母らしき人物が出てきて叫んだ。わざと、バルトは大声でオランダ語を話したのだ。少しでも周りの人が気づいてくれるように。
「この人たち、誘拐犯です! 警察を呼んでください!」
証拠は監視カメラに任せ、責任は自分が取る事にし、バルトは投げやりに怒鳴った。周囲の人たちがざわつき始める。
「てめえ!」
態度を一変させた犯人が、バルト目掛けて拳を飛ばした。絶賛、体調不良のバルトは避けられずにぶたれる。倒れる時、後の二人も参戦しようと走って来るのが見えた。そこで、限界を迎えた意識は途切れた。
人の話し声で、バルトは意識を取り戻した。段々、大きく会話が聞こえるようになってきて、初めて目を開ける。
「あ、起きた」
目の前にいたのはヘンドリックだった。
「ここはどこ」
「病院だよ。殴られて倒れたのと、お前の風邪が酷すぎてね」
やはり風邪だったのかと、バルトはこっそり納得する。
「女の子とお母さんは? やっぱり誘拐犯の犯行だったの?」
「そう。警察に捕まったよ。親と子は二人共、無傷。こっちも警察に保護されてるよ。明日、改めてお礼に来るって」
その話を聞いて、とりあえずホッとする。無罪の人間に冤罪を着せた訳ではなかったのと、誰も誘拐されず、自分以外は傷つかずに済んだのだから。
「良かった」
「少しは自分の心配をすべきだろうが」
「ごめん……」
ヘンドリックは、ふうっとため息を吐いた。
「頭打ってなくてよかったよ」
「そっか、良かった」
「風邪が酷いんだけどな」
「二回も言わなくていいよぉ」
隣で談笑している家族の雰囲気が羨ましく感じるバルト。
「……怒ってる? ヘンドリック」
「怒ってない」
(絶対、怒ってる)
「俺が来てなかったら、どうするつもりだったんだよ」
「え? ヘンドリック、あそこにいたの?」
気を失うギリギリまでを思い出しても、彼の姿は見えなかったはず。
「ニコラが気絶した後に到着して、あっちこっちに電話と説明したの俺だから」
「ああそうだったの!? ありがとう」
「いいよ、別に」
バルトは、何だかんだ世話を焼いてくれる友がいる事をありがたく思った。
「熱は? 辛い?」
「ちょっと、まだボーっとするかも」
「うん。一晩はベッド借りられたから、今晩は寝てろ」
「ありがとう」
「明日、俺が迎えに来るから」
「ありがとう!」
「……」
「?」
こちらの顔を見つめたまま固まるヘンドリックを見て、バルトは首を傾げる。
「お前、俺が怖くないの」
「どうして?」
バルトは驚く。
「俺が、昔から怖がられる傾向にあったから。『何考えてるか分からない』って」
確かに、ヘンドリックという人間は、表情が豊かな方ではない。だが、バルトから見れば分かりやすい人種だった。なぜなら、ヘンドリックよりも表情の硬い、石のような人間を知っているから。
「俺、表情が変わらないって、よく言われるんだ」
「そう? 僕は、そう思わないよ。良い人だし。ヘンドリック」
ヘンドリックは、少し背を反らせた。ゆっくり呼吸を整える。
「良い人って、面倒見が良い人って意味か」
「違うもーん」
「……」
「……」
家族の笑いが流れてくる。
「フッ」
「あはは!」
二人は同時に吹き出した。
「僕、ヘンドリックのこと好きだよ! これからもよろしくね」
「こちらこそ」
ヘンドリックは椅子から立ち上がる。
「じゃあ、行くな」
「うん。トッツィーン!」
「Doei」
部屋を出たヘンドリックは眩暈を感じて、一度、壁に寄りかかった。
『僕、ヘンドリックのこと好きだよ!』
真っ直ぐに青い目を直視していた。こんな言葉は、言われ慣れていない。長年付き合っている友人にも、妻にも。
「耐性ねえんだよ、こっちは」
通り過ぎる人にも聞こえないほどの声量で呟き、再び顔を整えて歩き出した。
あんな風に笑えたらと、思いながら。
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