第2節 母の愛
遠いオランダの地で、バルトはあの日を思い出す。簿入の前で、蓄計率の解説を聞いていたあの時。
(あれは、ニュートン先生が先に見つけていたんだ。間違いない)
バルトは、ランゲ氏の論文と、そこに載っている参考文献、さらには彼の過去の研究や実績を調べ、分析した。その結果、新屯と異なるルートで蓄計率まで辿り着くには、このタイミングで出したのでは年数が合わないという計算結果が出た。バルトの計算によると、ランゲ氏が今回の理論を出せるようになるには、少なくともあと十年は必要だ。更に、ランゲ氏は元々数学者ではなく、新屯よりも圧倒的に後から数学を学び始めた者である。そのような人間に新屯が遅れを取るはずがないと、バルトは信じ込んだ。
(ああ、簿入さんが生きていれば)
先日亡くなった簿入が生きていたらと、バルトは悔しく思う。簿入も新屯から話を聞いていたのだから、証人になってくれたはずだ。
この論争を新屯が望んでいたかは分からない。だが、天才新屯の発見を、それより劣る他人が、我が物顔で奪っていくのは我慢できなかった。今の心情を余すところなく伝えれば、きっと新屯も分かってくれるはず。
(この論争に勝てば、ニュートン先生の信頼を取り戻せるかな)
あの時、彼から言われた言葉「君の、そのような感情的な性格が、私は嫌いだ」。自分でも分かっていた。目を逸らして、見ないようにしていた性格。好きな相手に直接、指摘される事は、目を突かれるより痛い事。だが、それは言う方に非があるのではなく、自分が悪いのだと言い聞かせた。
「ニコラ、今、いいか?」
オランダで出会った、新たな友とは良い仲を築いている。歳が近く、信頼もある。最高のチームになりそうだ。
「……うん! どうしたの?」
新しい場所、新しい人。煩わしいものを洗い流すのには最適な環境なのだ。自分を苦しめる過去は忘れるのが正解なのかもしれない。しかし、バルトにはどうしても、あの二十以上歳の離れた、頑固な研究者が忘れられなかった。
新屯は、協会内にいる「新屯派」を残さず洗い出し、全員と連絡を取る事にした。自分が書き記したメモや、日の目を見ないはずだった未提出の論文を数点、データの奥から引っ張り出してきて、蓄計率の発見が既に自分によって終了していた事を証明するよう促した。また、どこから自分の理論が流出したのか考え、話した人物、メモを見せた人物を当たり、片っ端から話を聞き出した。
「私の理論をどこで話した? 誰に話した? 誰かにメモを見せたか?」
さらに、これまで自分が協力してきた研究者たちにもコンタクトを取り、こちら側に付くよう引き入れた。
「あの時の恩を感じているならば、返すべき時は今だ」
「沈黙は、敵への准許を示す」
「私が間違っている事などあり得ない。正しい者に付いていく事こそが、賢者の判断だ」
自分が先頭に立とうとは、表を嫌う彼には微塵も考えられなかった。
彼は会合に出ないものの、先取権論争は裏で追っていた。こちらが優勢になればほくそ笑み、劣勢になれば、こちらに有利な証拠をでっちあげてでも仲間たちに提供した。
新屯に付く者たちは、主と同じく荒い性格であった。言葉を武器に口論し、不必要に火を放つ。燃え上がった争いは終焉が見えず、互いの感情線をジリジリと焼き尽くしていった。当事者同士が戦いの壇上に立たないというのも、余計に論争を長引かせる原因となった。
普段ならば、自分を批判するような主張は目に入れない新屯だが、徹底的に敵を叩きのめすため、積極的に情報を仕入れるようにした。
(愚か者め。粗探しに夢中になって、己の矛盾に気づいていないな)
新屯の口から笑いが漏れる。乾いた嘲笑からは、毒の匂いが漂った。
言葉で刺し合う期間は続いた。終わりの見えないやり合いで、新屯は疲れてしまった。だが、終わりにしようとは死んでも思わない。なぜなら、ここで白星を譲る事は、自分の負けを認めるのと同義であり、プライドが許さない。また、ここまで肩を持ってくれた皆、バルトへの侮辱に値するからだ。更に、幸か不幸か、蓄計率を先に見つけたのは自分なのだという自信は、もはや誰よりも強くなっていた。
先取権論争が続いていたある日。実家近くに住んでいる種違いの妹から、何十年ぶりの連絡が届いた。最後に彼女と連絡を取ったのは、学生時代だろうか。院進して忙しくなってからは、さっぱり連絡を止めてしまっていた。
『突然、連絡してごめんなさい。伝えなければならないことがあって……お母さんが危篤なの。最近は寝たきりで、ずっと入院してたんだけど、肺炎に罹ったみたい。毎晩、環さんの名前を呼んで、苦しそうです。一度、お母さんに会いに来て欲しいの。今まで何の連絡もなしに、いきなり家族面するなと思うかもしれないけど、一瞬でもいいからお願い。お母さんに会ってあげて。忙しい中、すみません』
新屯は、すぐに準備を始めた。愛する母のいる故郷に帰るためだった。
「環さん、本当にありがとう」
夜、母の入院している病院に入ると、妹はロビーで待っていた。久しぶりに会う彼女は立派な母親の顔になっており、記憶にある母とそっくりだ。
「問題ない。案内してくれるかい」
「うん、こっち!」
妹の後ろに付いて歩いていると、その歩き方が自分と似ている事に気づいた。父親が違っても、一緒に住んでいた時間が短くても、彼女とは兄妹なのだと感じる。遠い昔を思い出してみれば、三人いる兄弟の中で、彼女だけが自分に尊敬を持って接してくれていた。他の二人は、こちらに一線を引いているのが分かっていたが……
(彼女には、賢さと優しさが備わっている)
一体、誰に似たのだろうか。
妹に続いて病室に入ると、すぐには自分の母親が分からなかった。両側に三つずつ並んだベッド。全てに引かれたカーテン。人間の体臭と薬の、いわゆる病院の匂いに、ここがどこなのかを実感させられる。
「こっちだよ」
二つのカーテンを通り過ぎて、足を止める。その女性患者のネームを見て懐かしさが込み上げた。
(母さんの名前だ)
だが、安心したのも束の間だった。
「お母さん、環さんが来たよ」
妹がそっとカーテンを開ける。ベッドに横たわる母は、あまりにも患者であった。顔を合せなかった時間の長さが、彼女の老いを彼の中で大きなものにしている。何故だか心苦しくなった。
「お母さん」
目を閉じていた母が、妹の声に反応する。ゆっくりと瞼が持ち上がる。
「いつもはあんまり反応しないんだけど、やっぱり親子だね。環さんが来たんだって分かってるよ、きっと」
(本当にそうなのか?)
新屯には、呆けて天井を見つめている老人にしか見えない。玄関で見送った、若い頃の母の背中を思い出す。あの面影は感じられない。
「母さん、私だ。環」
ぱちぱちと瞬きだけして、母はまた眠りに就いた。
「今のは反応が良い方なんだ。いつもは、私たちが話しかける一方だから」
彼女は疲れたような笑顔を見せる。新屯にとっては知らない時間でも、彼女たちにしてみれば、長い介護生活だったのだろう。
「いつもは、“お兄ちゃん”たちと順番でお見舞いに来てるんだけど、お母さん、“お兄ちゃん”たちにも同じ反応だった」
彼女の兄たちと同じ父の血を継いでいない新屯は、自分が区別されている事を読み取る。しかしそれは、血筋ではなく、自分が距離を取ってきたからなのだと悟った。気づいたところで今更、孤独も感じない彼なのだが。
長い長い孤独の時間は、新屯の感覚を麻痺させてしまっていた。
「お母さんに言いたい事があれば、話してみてよ。反応はないかもしれないけど、ちゃんと聞いてるから」
新屯は頷く。だが、頷いた後で、何もない事に気づいた。話したい事も、責めたい事も、感謝したい事もない。自分が小さい頃から、母とは殆ど関わってこなかったのだから。母を求めて枯らした声も、彼は闇に葬り去ってしまっていた。
「……」
母との沈黙を、新屯は妹との沈黙だと受け取ってしまう。
「あ、私がいたら話しづらいよね! もう帰るから!」
荷物を持って、彼女はカーテンを開けようとした。
「あ」
カーテンを引いていた手を止めて、再びこちらへ振り返る。
「忘れてた。これ、お母さんが、『呆ける前に話しておきたい』って録音してたの。聞いてくれると嬉しいな。環さんがどう思ってるかは別として、お母さんは、ずっと環さんを愛していたんだよ」
録音チップが手渡された。
「じゃあ、またね」
妹は、今度こそ出て行った。
チップを携帯に挿入し、イヤホンを耳に付ける。電源を入れると、空気の音が聞こえ始めた。
環。
顔を上げる。母は目を瞑っている。この声は、イヤホンから聞こえてくるのだ。懐かしいような、知らないような、温かい声。
『何から話せばいいんだろう。きっと、何を言われても、環にはどうでもいいかもしれない。それでも、話しておきたい事があります』
(今更、何を言うつもりだろう)
社会に出てからは、全く連絡を取っていなかった。それは、新屯の連絡不精と、彼女からの愛情不足が関係していた。母なき幼少時代を過ごした時間は、彼の人生に長い冬を連れてきたのだ。
『話したい事は三つ。一つ目、遺産は、環と三人兄妹で平等に分けさせるから安心してね。長く顔を合せなかったけど、環は私の大切な息子だもの。私が愛しているのが、その証拠。研究の足しにして』
『二つ目。長い期間、環を一人にしてごめんなさい。事情は全て言い訳になるから説明しないけど、あなたには悪い事をしたと思ってる。それでも、ずっと愛していたのは本当なの。信じなくてもいい。私のエゴだから』
『三つ目。これは二つ目と被るんだけど、私は、環をずっと愛してる。環を考えなかった日は一日もない! 本当だよ。環の健康と幸せを、今までも、これからも祈ってる』
新屯は、母を愛していた。しかし、彼女の声も言葉も、彼の魂に触れはしない。感動や憤慨など、名前になっている感情までには届かない。もし、幼少期に、彼の隣に母がいたなら。話したいと思った時に傍にいて、寂しい時に手を繋いでいてくれたなら。
『環が、大好きな科学の道に進んでいると聞いて、嬉しいよ。私が言う資格はないけど、母親として、あなたの幸せを願わずにはいられないの。一緒に過ごした時間は短かったけど、愛してる。私の子供に生まれてくれて、ありがとう』
そこで、録音は終了した。
「……母さん」
目を閉じている母を見る。
「ありがとう……ごめん」
何に対して感謝したのか、何を思って謝罪したのか、自分でも分からない。だが、言わなければいけないと感じた。
母が自分を置いて、新たな夫の元へ行ってしまった事には事情があるのだろうと、今の新屯には理解できる。貯まりに貯まった財産を、自分の学費に注いでくれなかった事も、今では過ぎ去った事だ。彼女が言った「愛してる」というのも、本当だろう。しかし、心のどこかで、彼女を許し切れていない自分がいる事も否定できない。彼女は、こんなにも「愛してる」と言ってくれたのに。母からの愛は、環少年を狂わせるほど欲したものだったのに。
その愛は、遺産の金額でしか、目に見える形で表してくれない。この現実を、もどかしく思う。自分が、もっと早く母の愛に気づいていれば。常に母の元へ通っていれば。喉が枯れるほど求めた彼女からの愛を、心から受け取れたかもしれない。自分の愛も彼女に伝えられたのかもしれない。
やっと目の前にした愛する母は、眠っている。
「ありがとう。私も、愛している」
目の前の母は眠っているはずなのに、目尻からは涙が流れていた。微かに、海の匂いがした。
長年望んだ「母の愛」を受け取る事ができた新屯は、愛について考えるようになった。
(私は、遺産などどうでもよかった。ただ愛が欲しかった)
愛は、金では代えられない。
その答えは、ずっと新屯の中にあった。ただ単に、見つけたのが今になっただけだ。
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