第6章 プライオリティ
第1節 焼失
「悲しそうだったよ。彼」
二週間後、岩渕と新屯はレスベラトロールで集まっていた。しかし、話題は科学ではない。
「何も悲しい事はありません。こうなる事は決まっていました。神は、サイコロを振らない」
岩渕から見て、今の新屯は病人のように見えた。顔は分かるほど肉が削がれ、全身の力が抜けたように窺える。
(あれで良かったとは、おいは思えない)
それは、今の新屯を見ても明らかだ。
「今だけ、今だけなのです。食し、眠れば、気持ちも回復するでしょう」
「食べる気にも、寝る気にもなれないくせに?」
「何ですか。口出ししないでください。これは私の問題です」
青白い顔で声を荒げる新屯。
彼がこうなったのは自分のせいでもあると、岩渕は心苦しくなる。あの時、知らない自分が顔を出さなければ。友を想う自分のままであったら、大切な友人は今、こんな顔をしていなかっただろう。
岩渕は、罪滅ぼしにならないと分かっていながら、病人の顔をした友を救いたいと思った。
(今更だけど、許されるなら……いや、許されなくていい。おいが今すべき事は、新屯をフォローすること)
「研究に集中するか、沢山の人に会うといいよ。少しは気が紛れる」
「人と会うのは、もうたくさんだ!」
席を立ち、新屯は大股で外へ出て行った。
怒鳴り声を浴びた岩渕は、自分の邪が招いた自業自得だと思う事にした。
新屯は、できるだけ人と会う事を拒んだ。研究を進める中で関わらなければならない、数少ない人間や、単位を求める学生の前だけに現れた。だが、彼の人生そのものである研究でさえ、新屯の精神をすり減らしていく。数字に気持ちが向かわず、誰に何を聞かれたのか理解できない時もあった。数字も文字も、意味もなく霧散する事もあった。
しかし、その少数の人間としか顔を会わせていないにも関わらず、世界中で流れている無駄な情報は尽きない。研究仲間から聞こえてくる噂、誰が何の研究を進めているのか。立ち止まる新屯の横を、猛烈なスピードで通り過ぎていく世界。
(やめてくれ、聞きたくない)
この世界にいる限り、人間たちから離れる事はできないのだと、改めて思い知らされた。
ここ最近で、岩渕の元には、一人の男からメッセージが頻繁に届くようになった。新屯だ。最初は、新屯が自分を頼ってくれているのかと考えて腕を捲っていたが、内容のおかしな文章が増えるにつれ、どうすればよいか混乱するようになった。
『ジャクソンと李が、私を悪質な人間関係に陥れようとしている。とても残念です』
『岩渕さんも、私のことを悪く言うのですね。私は、どなたとも一緒になる気はないし、財産を譲るような関係を築きたいとも思いませんが、何故、あなたがわざわざ私を苦しめるような環境に私を置きたがっているのか。どうか放っておいて欲しいのです。そして、二度とこの……』
『あなたがご病気をお持ちと聞きました。もしそれが本当なら、死んでしまえばよいと思ってしまった事をお許しください』
このように、悪気のない仲間を悪役に仕立て上げたり、覚えのない会話を勝手に繰り広げて感想を送ってきたり、心無い言葉を使った内容を、岩渕は飲み込んでやる他なかった。一度、病院へ行くよう勧めた事もあるが、余計に、彼の心の扉を固く閉める結果になってしまった。実際に会っても、冷たくあしらわれ、会話が成立しない事が殆どである。
「やっぱり、君たちは離れるべきではなかったよ」
小さな言葉は、後悔にまみれて腐った。
ある午後。新屯が大学の研究室にこもっていた時、飯振から電話が掛かってきた。彼から電話がくるのは初めてだ。
「もしもし」
不安に駆られて応答すると、電話越しに青ざめた声が聞こえてきた。
『新屯さん! 燃えてます! 家が!』
「何?」
急いで帰宅すると、消防隊の懸命な働きで消火活動は終了していた。近所の野次馬たちはポツポツ残っている。
辺りは、消火後の煙の臭いが充満している。飯振と合流した新屯は、彼と中に入ってみる事にした。
「うわ、凄い臭い」
建物自体は形を保っていたものの、中では原形を留めている物はなかった。文字通り、全てが灰になったのだ。
「新屯さん……」
飯振が心配そうに声を掛ける。
「発火原因は」
小さな声を聞き逃さない。
「正確には不明ですが、燃える直前、何かを咥えた野良犬が、この家の敷地内に入って行くのを見たと、近所の方が仰っていました」
直接的な因果は謎だが、動物が原因だという説は大いにあり得る。
「その犬も、燃えてしまった?」
「いいえ。消防士さんが逃がしたそうです」
「……犬の命が助かって、良かった」
灰になった研究資料を見つめながら、新屯は力なく呟いた。
「引っ越しの手続きとか、僕が手伝いますから」
実験で屋根が吹き飛んだ時も、飯振は大家をなだめるのに一役買った経験がある。今回は、さすがに場所を変える事になるだろうから、新屯の負担が増えるのは明らかだ。ただでさえ精神が通常でない彼のため、飯振は何とか支えようとした。
(だから、そんなに悲しい顔をしないでください、新屯さん)
当事者が口を閉ざしているにも関わらず、噂は駆け回るもので、新屯の家が燃えた事実もすぐに広まった。それを聞いた研究者たちは、新屯が研究資料を灰にした事で落ち込んでいるだろうと予想した。だが、予想に反して、新屯自身、それはどうでもよかった。資料はデータで残してある。問題は、バルトから貰ったフランス語の古本が焼失してしまった事。それは、二人の思い出の品だった。
『何かを深く知りたいなら、視野を広くするべし。と、書いてあります』
『既存の物では表せないものがある、という事だな』
『頑固になっちゃダメですよーってことですよ』
『何故、私を見る?』
『とんでもない! ずっと見てますよ』
思い出してしまうからと、記憶と共に棚の奥へしまっていた。だが、見えなくなるのと、失くなるのとは別の問題だ。新屯は、ショックを受けた傷をそのままにした。
しかし、悠長に傷ついていられないほど、水面下の事態は目に見えるところまで上がってきていた。
土曜日。以前なら、楽しみにしていた曜日だった。今では、すっかり引きこもる曜日になってしまっている。
「新屯さん、お客さんですよ」
飯振が部屋の扉をノックした。新屯は今、次の住まいを見つけるまで、仮のアパートを借りて住んでいた。部屋にはまだ、物が殆ど無い。
「帰してくれ。誰にも会いたくない」
扉を開けもせず、彼はそう伝えた。
「蓮さん、という方なんですけど……」
(蓮さん?)
新屯の心の暗闇に、光の筋が紛れ込んできたようだった。彼となら、以前のように話せるかもしれない。
「通してくれ」
「はい!」
誰も閉ざして招き入れなかった彼が、やっと門を開いてくれたのだと、飯振は安心できた。
「お久しぶりですね、新屯さん」
「蓮さん。ご無沙汰しております」
二人は握手を交わした。蓮は、出会った時と何一つ変わらない、知的な穏やかさで新屯を包み込む。だが、塞ぎ込んでいた顔色の悪い新屯を見て、内心では驚いていた。
「まず、火災に遭われました事を、謹んでお見舞い申し上げます」
「ありがとうございます。私は大丈夫です」
以前と比べて何もない部屋をバックに、新屯は頭を下げる。思っていたより平常な彼を見て、蓮は、当てにならない噂を放り投げた。「新屯環は、研究資料を消失した事で神経衰弱になっている」
(新屯さんには、違う理由がありそうだな)
「最近は会合に参加なさらないので、ご健康を心配していましたよ」
「すみません。実は、あまり眠れなくて。悪い顔色で会員の皆様の前に出て、心配させるのも如何なものかと思いまして」
上手くかわされたと、蓮は思った。
「何かあるのでしょうから、僕からはお聞きしません。しかし、これだけ聞かせてください。現在の協会の動きは追っていますか」
「いいえ。それどころか、数学さえ追えていません」
蓮は、少し眉を下げる。
「そうですか。実は、新屯さんが不在の間、協会内は混沌とするようになりました」
「混沌」
蓮は頷くと、静かに端末の画面を表示させ、新屯の方に差し出した。
「これは?」
「ここ最近、国内に限らずやり取りされた内容や、雑誌のコメントで交わされた会話です。それを、要点だけかいつまんで、僕の方でまとめました。どれも、本人不在の中で現在進行している事です」
見せられたのは、各々の会員が主張する内容だった。
論点は、「蓄計率」の先取権について。
文章を読んでいく限り、ドイツの数学者であるランゲ氏が、論文内で「蓄計率」に似た理論を見つけた事が発表されたらしい。もちろん、ランゲ氏がその理論に付けた名前は、新屯の物と異なる。しかし、内容を確認した日本の協会会員の数人が、「それは新屯氏が先に見つけたものだ」と反論を始めたため、争いに発展していたのだ。
ランゲ氏のことは、「2g=w進法」の確立者として新屯は知っていた。簡易的だが、文章でのやり取りもした事がある。だが、歳も実力も自分の方が上だと認識している。
「そんな事が起こっていたのですか」
人間界から離れていた新屯は、その争いが勃発していた事さえ知らなかった。
「はい。実は、水面下でこの論争は既に始まっていたのですが、本当に最近になって酷く燃え上がってきました。今、ドイツと日本の協会間関係は険悪と言えます」
己の理論は自分が出さなくても、いつか誰かが見つけ出すとは思っていた。だが、それが思ったより早く、悪しくも、争いに発展してしまうなんて。そして何より新屯を揺らしたのは、ある人間の名前を、その発言者たちの中に見つけた事だった。
ニコラオス・バルト。
彼は、最も強く新屯の側に付いている者の一人だった。
『蓄計率がランゲ氏の発見と称賛されるのは、誤りであると判断するのが適切だと思われます。なぜなら、その発見の先人は新屯氏であり、ランゲ氏は、彼の研究内容からそれを導き出した、又は、盗作したのですから』
「あなたは今、嫌でも注目を浴びてしまっています。もはや、新屯さんが出てこなければ解決しないだろうと皆が言っています。ランゲ氏本人の反応は比較的落ち着いてはいますが、それは、元々彼が新屯さんに尊敬を払っているからで、この件を良く思っていないのは確かです」
様子を窺うように、蓮は話を再開する。それに対する新屯の反応は素っ気ないものだ。
「放っておきましょう。時間が経てば治まります。私はこれ以上、誰とも関わりたくないのです」
「それはよく存じ上げていますよ。しかし……」
「あなたも結局は、私に戻ってきて欲しいだけだ! 私が苦しむのを見て、楽しみたいのでしょう?」
苦しみの声が耳に響く。
「落ち着いてください。感情的になっては進みません。僕たちは話し合いが必要です」
「出て行ってください」
「新屯さん」
「皆、嫌いだ。死んでしまえ。そして、私も死ねばいい……」
(これは、かなり精神的に参ってしまっているな)
蓮は、新屯の状態が不安定な事実を危険に思った。
「分かりました。僕は出て行きますが、新屯さんを見捨てたとは勘違いしないでいただきたい。あなたが科学から離れても、僕たちの仲は変わりません。それを、お忘れなきよう」
扉を開け、部屋の前で聞き耳を立てていた飯振に一礼し、蓮は外へ出て行った。佇む飯振は、心配する事しかできなかった。
『あなたも結局は、私に戻ってきて欲しいだけだ!』
新屯が放った言葉は、意外にも蓮の的を得ていた。
(僕は、友として彼を救いたいのだと思っていた。しかし本当は、才能を持つ彼が、科学から一生離れてしまう事を……僕は恐れていたのかもしれない)
(バルト。バルト……まだ、私のことを覚えていてくれたのか)
一人になって落ち着きを取り戻した新屯は、蓮が見せてくれた内容の、印象に残った部分を思い出していた。
(バルトは私の味方だ。蓮さんも、そうだと言った。私には味方がいる)
そう考えると、段々と思考は先取権に移り、沸々と怒りが湧いてきた。
(ランゲ氏は、私の発見をどこかで盗み、それを自分のものとして発表したに違いない。バルトもそう考えているのだから)
そうと決まれば、自分がやるべき事は見えた。
(この論争に勝てば、バルトは私の元に戻ってきてくれるだろうか)
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