第7節 別れ

 バルトの実験が行われずに終わった事を、新屯は会長から聞かされた。

(それでは、あの子はさぞ落ち込んでいる事だろう。やっと日本の科学者たちに認められる機会だったのに)

 バルトのために、自分に出来る事はないかと考える。

(せめて、かかった費用だけでも助けてやりたい。きっと困窮しているはずだ)

 すぐさま、大阪にいるバルト宛てにメッセージを飛ばした。

『君は、三本の定規に金を無駄遣いしてしまったようだね。慰めと言うほど大した事はできないが、君の口座にいくらか送った。それから、良ければでいいのだが、定規の方をこちらに渡して欲しい。いつか使うかもしれないからね。次、会った時で構わない』

 とても満足した顔で、その文章を送信した。


 そのメッセージを受け取ったバルトは、特に喜ばしいとは思わないというのが正直な心情だった。

 確認すると、協会の個人口座には三万円が入っていた。定規全ての値段を引いても、一万二千円以上は手元に残ってしまう額だった。

「……『私が買った事にする』って、言いたいんでしょう? いつかのアイザック・ニュートンみたいに」

 誰にも知られず、拳を握りしめた。


(僕は、あなたの足手まといになりたい訳じゃない)


(僕が、あなたの力になりたかったことを、知ってほしかった)


(あなたは、いつも自分のことしか頭にない。僕の考えてることなんて、考えもしないんだ)







 バルトの実験が失敗もせずに立ち消えてから三週間経って、二人は外で会う約束をした。それまで、バルトは定規の事を忘れた振りをしていたが、新屯が催促してくる事はなかった。


「いいですよ。僕、お金に困っているわけじゃないです」

 今度も例によって、新屯は金を与えようとしてくる。

「持っておいて悪い事はないだろう。旅の費用もかさむのだし」

「本当に大丈夫ですから。僕は、先生に金をせびりに来たんじゃないです」

「分かっている。しかし、受け取ってくれ」

 こうなったら、彼は岸壁のように動かない事をバルトは知っている。

「……分かりました」

 この時はバルトが折れて、受け取った。だが、会う度会う度、新屯はバルトに金を押し付けてくる。いい加減、嫌気がしていた。

(この人に悪気がないのは知ってる。親切でしてくれてるのも。でも、僕が欲しいのは、お金じゃない)


 そしてある日。遂に、バルトは言ってしまった。


「もう、いいです」


 表情には出さないが、目の前の男が困惑しているのが分かる。バルトは、こんな事で意中の心を動かしたくはなかったのに。


「あなたは、いつも金で解決しようとする。人の心も、金で買えるとお思いですか」


 バルトの言葉でやっと気づいた愚かな男は、首を横に振って主張した。研究のために引きこもっていた彼には、人を喜ばせる方法を金にしか見出せなかった。

「違う。バルト」

(分かってる。分かってる!)

 愛しているはずの彼の目を見られない。見つめ合えば、感情が爆発してしまいそうだった。

「ごめんなさい、僕が悪いです。今は……ごめんなさい」

 唇を噛み、バルトはその場を後にするのだった。その後に新屯から入ったメッセージは、全て無視をした。







 会合がある土曜日。バルトと新屯は顔を合わせた。しかし、言葉を交わす事はしなかった。


「だから? 衛星が引かれたのは、違う天体があると? この式と何の関係があるのですか?」

「前に述べたように、光の圧力と、一部重力の変更を公式化したのです。何度も説明させないでください」

「新屯さんの説明では、コジツケっぽいんですよ」

 ただでさえ心が不安定な新屯は、服部の攻撃に気分を悪くした。


「わざと難解に説明し、大切なところを有耶無耶にして、あなたはいつもそうだ。新屯さんは何かを見つけた気になってるのかもしれませんけど、客観的に理解されなければ、何も見つけていないと同じなんですよ」

「ですから! ……私は数字で表しているんです。これ以上に客観的な事がありますか」

「ではお聞きしますが、新屯さんは一度でも、世に発見を提供しようとして説明をなさったことがあるんでしょうか。私には、自己満足の、やたら秘密に夢を抱いた、子供のお遊びに見えるのですが」

 一瞬だけ、新屯は息を呑んだ。


「子供はあなただ。こんな事も理解できないのは、理解に苦しむ」

「そこまで」

 いつの間にか二人だけの口論になり、会長に止められる。いつもと変わらないはずなのに、新屯の心は、目も当てられないくらいに傷ついていた。




 話し合いが終了した後、新屯からバルトに話しかけた。

「少し、歩こうか」




 橙と闇の間を、河川敷に沿って無言で歩く。川の流れを見て、バルトは「この川は、海に繋がっているんだろうな」と考えた。新屯が連れて行ってくれた海を思い出す。海が見たいと言ったら、連れ出してくれた港。

(あなたは今、何を考えているの)

 近いのに遠い、背中を見つめる。いつかは、抱きしめていたはずの背中だった。


「私は、浜辺に落ちている綺麗な貝や、珍しい石を拾っては、子供のように興味深く観察していただけの人生だった」


 聞いた事のあるセリフに、バルトはハッとする。


「大海原という真理は」

「やめてください!」


「……何も見つけてはいなかったのに」

「やめてください!!」


 とても感情を抑える事はできなかった。その言葉は、かの万有引力を見つけた偉大な科学者が、晩年に残した言葉だ。

「どうしてそんなこと言うんですか! まだ分からないじゃないですか!」

 バルトは新屯から、ここで“何か”を終わらせようとする気配を感じていた。それは、これから先、長く科学と付き添っていく覚悟の彼にとって、一番恐ろしい事だった。心の支えであり、指標だった光が消えてしまうのが、怖い。

「諦めずに粘って、正しい努力をしていれば必ず報われます。だから、そんな……その言葉は、先生にはまだ早いです」

 新屯からは何も反応がない。


「僕は信じています。あなたの努力が成果の欠片となり、光り輝く一等星となる事を」

 若い真っ直ぐな瞳は、暮れゆく色を反射して、暗を帯びていた。その目はまるで、星空を映したようなラピスラズリ。


(私にはないものを、バルトは持っているのだな)

 新屯は、胸が痛んだ。一人の青年へ簡単に深入りしてしまった、あの日の自分を絞め殺したくなる。


「君の、そのような感情的な性格が、私は嫌いだ」


 彼らの視界は狭くなっていたに違いない。本物の星空は、二人の上に広がっていたのに。




 前回の新屯の連絡を無視し続けたのがバルトなら、今回、無視し続ける番になったのは新屯だった。さよならも言わずに別れた河川敷を、新屯はぼんやり思い出している。自分から吐いてしまった言葉が、嫌でも頭で響いていた。

(私は彼自身を否定したのではない。彼の、性格の一部を否定したのだ)

 つらづらと言い訳を考えて、何とか落ち着きを取り戻す。それでも、不安の振り子は止まらない。


 バルトから届いたメッセージを読み返す。

『新屯先生、先程は感情的になって申し訳ございませんでした。僕は、先生の考えなさる全てを否定するつもりは毛頭ございません。しかし、あなたのような聡明極まる全てを、僕などが理解できないこともご了承ください。つきましては、これからもご指導、長きにわたる友情を望む次第であります』


 新屯にとってこの謝罪は、彼を激しい迷走期に落とす引き金となった。バルトの聞き慣れない言葉遣い、「友情」と名付けられた関係、「新屯先生」、それらが、彼の脆い精神を内側から引き裂くようだった。


 思い浮かぶ、これまでの記憶。二人で交わした会話。表情でなく、言葉でなく、二人の底で繋がった何かで喜び合った時。科学的に証明されても消えない想い。熱を持った心。誰が何と言おうとも、新屯にとって、癒しと浄化を与えてくれるのはバルトだった事に間違いはない。


 スペクトルが入り込んだ望遠鏡のように、決して二色では表し切れない光が過去を装飾する。美しいが、滲んでぼやけて、焦点が合わない。ぼんやりとした視界の中で生きていく事を余儀なくされた新屯の眼は、濡れて浸される。







 朝になった。昨晩からどんよりと沈んだ雰囲気の新屯を見て、心配になった飯振は、朝ごはんのついでに話しかける事にした。

「今までにないくらいお疲れですね」

「放っておいてくれ。喋るのも疲れる」

 ため息交じりの返答は、新屯の異常を知らせている。飯振は、放っておけば命を落としかねないほど落胆している恩人を見て、何かをしてあげたいと考えた。


「今日、外行きませんか。就職に向けて、買う物がありました」

 今年で修士課程を修了しようとしている飯振は、来年から就職する予定である。買う物があるというのも嘘ではない。

「一人で……」

 新屯は「一人で行け」と言うつもりだった。だが、それを見越した飯振は先を奪った。

「新屯さんの実験道具も調達しましょう! ささ、準備してください」

 半ば強引に、気の進まない研究者を連れ出した。




 街へ出ると、飯振は新屯に耳打ちした。

「今日は、僕を違う人だと思ってください」

「は?」

「その、僕を、“新屯さんの好きな人”にでも置き換えて、デートしてる感覚になればいいんですよ。僕、たまたま若いし。才能は無いですが、たまたま理系だし」

 飯振は、新屯の気落ちの原因が、“意中の誰か”なのではないかと踏んだ。しかし、そこまで深刻な問題だとは捉えずに、どうせまた新屯のやらかした一時の嵐だろうと考えている。


「飯振は、飯振だが?」

「そうですけど、僕と出かけてるより、好きな人とデートしてると思った方が楽しいですよ。きっと。僕はブスなので、恋人とかいないので知りませんけど」

「意味が分からん」

 渋い顔をした男は、頭にはてなマークを浮かべている。

「あーもう! 新屯さんがどれだけ鈍感でも、僕が厚意でやってることは気づいてくださいよ! ほら、行きますよ、“環さん”」

「何だその呼び方。気持ち悪い」

「好きな人に呼ばれてると思って!」

 飯振は、新屯の腕を掴んで歩いていった。


 二人の後ろ姿を眺めていた影は、肩を落として離れていった。彼の青い目には、ニュートン先生と知らない若者が、仲良く歩いているように見えた。







 涙なしには見られない飯振の努力も虚しく、新屯の不安定は数週間と続いた。ここから言える事は、誰かに傾倒した経験のない人間が、一人の人間に深入りしてしまうと、簡単には抜け出せなくなるという事だ。新屯はそれを痛く実感しながら、どうにか通常を装った。

 だが、現実は残酷で、気丈に振舞えば振舞うほど、心は辛くなっていく。更に追い打ちをかけるように叩きのめされたのは、会合のある土曜日のことだった。


 会合の後、バルトが新屯に話し掛けた。

「僕、次はオランダに行くことになりました」

「それは、遠いな」

 二人の間だけ沈黙が降りる。だが、その沈黙は、以前のように熱い沈黙ではなかった。冷たい沈黙だった。バルトは、引き留められる事はないだろうとは分かっていたが、ほんの一ミリでも期待していた事による多大な絶望を味わう。


「僕は今、とても……」

 胸が痛い。じくじくと痛みは増していく。この痛みは、誰のせいだ。

「……あなたから、離れたい……っ」

 バルトの青い目と、新屯の黒い目は、すれ違ったままだ。


「君がそう言うなら、私は君を止める立場にいない」

 お互いに、どう言葉を紡げばよいのか分からない。自分の気持ちに素直になる事も、相手を思いやる余裕も、今や無い。

「また、ご連絡します」

「ああ、気を付けて」

 この夜から、新屯の視界の隅には、不吉な虹色を持った靄が見えるようになった。







 今朝は、目を覚ました時から霧雨が降っていた。バルトは目を擦りながら準備をして、重い荷物を抱え、寂しげな駅へ向かう。喉には、飲み込め切れない石が詰まっているようだった。何度も咳払いをして、そのどさくさで「Merde」と呟く。


 暗い朝のホームには、人が少なかった。そこに、バルトはポツンと立っている。日本を離れるために。

 雫の音に混じって、こちらに走ってくる足音が聞こえた。ハッと顔を上げる。


「……何で、あなたが」

「新屯から渡して来いって言われて、来た」

 そこにいたのは、息を切らした岩渕だった。上下する肩が濡れている。

「はい」

 渡されたのは、一通の手紙。空気が湿っていても、指に触れる紙質はしっかりしている。

「今どき手紙なんて、じじくさいことを」

 本人がいないのをいい事に、バルトは喉の石を取り出そうとした。

「そのじじくさい効率の悪い事を、新屯が何故、わざわざやってるのか。勘の良い君なら分かるはずだ」

「……っ」

 どう石ころを取り出そうとしても、どんな言葉もバルトの心を表し切れない。


「自分で渡しに来いって言ってるんです!」


 バルトは叫んだ。苦しい喉からは何も出やしないのに、ずっと突っかかっている。

「自分で書いた手紙なら、自分で渡せよっ……意気地なし」

「それを本人に言えない君も、お仲間だね」

 何も言い返せない。どういうルートを通ったのか、硬い喉の詰まりは、熱い瞼から流れ出た。

「うぅ、っ、うわあああああぁぁ、」

 人目もはばからず、彼は泣いた。友の死を見送った時でさえ、これほどは泣かなかった。




「本当に、このまま行っちゃっていいの?」

 可哀そうなバルトをなだめて、岩渕は尋ねた。

「いいんです。僕じゃなくてもいいんだ。先生には。あの人には、一生を共にする伴侶がいるんだから……」

 バルトは、ハンカチで涙を拭いながら答える。

 岩渕はこの時、バルトが何かしらの原因で誤解していると気づいた。しかし、何を思ったか、訂正する気を押し留め、彼を送り出してしまった。その選択が出たのは、たった一瞬だった。その一瞬だけ見えた選択肢を、岩渕は選んだ。


 バルトは席に着くと、一気に疲れが押し寄せて来る心地がした。

(もう疲れた。こんなに想うくらいなら)

 手紙を取り出す。

(……)

 軽くて重い、その紙を見つめる。

(……っ、……できない……)

 握り潰すなり破くなり、できるのに、できない。

 せめて、受け取った手紙をすぐには読まない事で反抗心を見せようとした。しかし、それが誰に対してなのか、分からない。何に反抗しているのか、分からない。それによって、更に涙が止まらなかった。




 発車した電車の背を眺めて、岩渕は、自分が他人の人生にとんでもない事をしてしまったような気持ちになっていた。

(言われた通りに渡してしまうおいだって、君と同じ。意気地なしなんだ)

 電車は、岩渕を置いて遠くなっていく。雨だけが、いつまでも変わらぬ音で、次々と降り立つ。

(でも、少し違う。おいは、卑怯な意気地なしなんだよ)

 いやらしく勝った気になってしまう自分を、少しばかり見下す岩渕だった。


 こうして、新屯とバルトの、心を擦り合わせた四年間は幕を閉じた。

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