第6節 真鍮の定規
朝になり、新屯は荷物を引いてホテルを出る。今日の会が終われば、そのまま駅に直行するスケジュールだ。
バルトが早くに出て行った後、別れのシーンを一人で回想する。
『気を付けて』
『ニュートン先生!』
バルトが両手を握ってきた。
『また、東京で!』
助手の件は断られてしまったが、改めて、この明るい男を嫌いになれない。
『また、東京で』
こうして二人は、しばしの別れを受け入れた。バルトが大阪に残るのは、あと三日間だ。
「では、会長たちには、この内容で提出しようと思う。異議のある者は?」
殆どの構想と計算を、新屯と樫荷で完成させてしまったものだから、他の会員たちは頷くだけの仕事だった。五日間の交換会は、午後三時に終了を迎えた。
「この銀河と、全く違う重力法則になるのかあ……」
「これから、更に先の観測が可能になれば、答え合わせが出来るのですがね」
「うーん! 僕たちが頑張らねば!」
新屯と樫荷は約束通り、駅近くのイタリアンレストランで食事をしていた。遅すぎる昼食である。
「万有引力を見つけるなんて、アイザック・ニュートンもとんでもない事してくれたなと思ってたけど……宇宙はあまりにも広すぎる」
「今更、子供のような感想をお持ちですね」
「心はいつまでも小学生さ」
樫荷は言った後で恥ずかしさを感じたのか、アフロ頭をふさふさと掻いている。
「そうだ。新屯さんに、お尋ねしたい事が一つあるんです」
一片のピザに手を付けながら、樫荷は少しだけ真面目な顔をした。トマトがたっぷり乗っている赤と黄色の三角形を、新屯は無表情で見つめる。
「僕が新屯さんを占った時、ふと気になったのですが。新屯さんは現在、誰かに集中して気を注いでいらっしゃいますか?」
新屯は少し考えた後、手に持っていたフォークを置いた。
「占星術では、具体的な隣人も見えてしまうのですか」
「いえ。時と場合に寄りますけど、新屯さんの場合、ちょっと具体的に出たもので」
プライベートな事は、極力、流出を控えたい新屯だが、樫荷の笑顔を見ていると、少しは口に出しても良いような気がしてきた。
「ニコラオス・バルトという数学者をご存じですか」
彼の名前を出すと、樫荷の顔がほころんだ。それは、ピザが美味しいだけではないだろう。
「はい! もちろん! 以前は西アカに滞在していらっしゃいましたよね。あの蛍壁会長の助手を務めるくらいだから、相当な切れ者だと思ったら、それどころじゃあないですね! あの子は逸材だ」
今度は、パスタをくるくると巻く。
「東アカに移ったと聞きましたが、そうでしたか! 新屯さんの下で研究なさってるんですね。それは納得です」
「いえ、そういう訳ではありません」
樫荷の目が丸くなる。
「確かに、弟子に近い関係ではありますが、私が勝手に気に掛けているだけに過ぎません」
「それで良いんですよ」
「どういう意味ですか」
パスタを飲み込んでから、樫荷はニコリとした。
「僕も一時期だけ、彼と共同研究した期間がありましたが、バルトさんは、自分の意志で動く方だと見受けました。だから、彼もきっと、望んで新屯さんの隣にいるのです」
新屯は、どんどん空になっていく皿を見つめ、バルトのことを考えた。
「……占い師は、どこまで真実が見えるのですか」
「真実が見えるというか、見える傾向に上手く乗らせるというか。そのためには、お客さんのモチベーションを上げるのも、占い師の仕事だと僕は思っております!」
星と共に暮らす占い師は、正真正銘、新屯の尊敬する人間になった。
二人は腹と心を満たし、レストランを出た。
「ご馳走様でした。気を付けてお帰りください!」
「樫荷さんも」
揺れるアフロを眺めながら、今回の大きな報酬をどうバルトに伝えようか考えていた。
「新屯さん」
「はい」
「噂はいつか消えます。振り回されないでくださいね」
占い師からの、最後の助言だった。
岩渕はここ最近、火のある所に立つ煙をどうにかできないか探っていた。新屯の不名誉な噂。
“新屯環は、若い男性に性的嗜好が向いている”
科学とは関係ない場所に立つ噂でも、信頼を損なうには十分な世界だ。ここに来て、科学界をうろついているだけの岩渕でさえ、よくこの噂を耳にするようになった。放っておけば、いよいよ大きな煙になってしまうだろう。岩渕は新屯のためにも、個人的な理由からも、噂を鎮火させたかった。
不愉快な噂が立ち回り始めたのは、バルトが新屯の前に現れてからだ。二人を一時的に引き離そうとも考えたが、その思考は一瞬で立ち消えた。バルトが新屯から離れれば、新屯はどうなってしまうか分からない。最悪の場合、精神が飛び散って、永遠に科学界には戻れないかもしれない。
(おいがあんまり聞き回って、噂を掻き回すのも嫌だしな。どうすっかな)
そんなある日、岩渕は仕事で大阪に飛んでいた。
「岩渕さん! お久しぶりです!」
大阪の繁華街で、奇遇にもバルトと出会った。
「バルト! ここで会えるとは。元気にしてる? 新屯から、君が病気だったって聞いたよ」
彼と会うのが久しぶりだった岩渕は、いつもより握手に力が入っていた。彼に複雑な感情を抱いているとはいえ、好きな人種である事には変わりない。研究の進捗を聞きたいところでもある。
「もう平気です。ありがとうございます。あ、岩渕さん、お昼って召し上がりました?」
「まだだよ。忙しくってねー」
今日は早朝から張り込みをして、昼前には調査報告、午後には別の仕事が控えている。この状態を忙しいと言わずして何と言う。
「そうですか……良ければ、一緒にどうかなって思ったんですけど……忙しいならしょうがないですよね」
(うっ、その顔はヤバい。断ったら罪にさせる顔だ……新屯がやられる理由も分かるな)
「でも、今は大丈夫! ちょうど今、食べようかなと考えていたところだからね!」
適当なファミレスに入り、二人は互いの情報を交換する事にした。バルトはやはり話し上手で、年代問わず好かれる術を知っているようだった。自慢話の比率が多い気もするが、彼の話術で飽きは来ない。その流れで、岩渕は話を進める事にした。
「バルトにとって、新屯はどういう人間?」
岩渕は単純に知りたかった。青い瞳の若者から、孤高の友がどう見えているのかを。
「僕から言うのも大変おこがましいのですが、ニュートン先生は、僕が今まで見たことないくらいの才能をお持ちの方です」
(優等生の答えだ。世間の生き抜き方を知っているな)
「そっか。おいは数学の事はよく知らないけど、長年、彼の傍に付き添っていて同じ事を思ったよ」
「同意してくださって嬉しいです。僕、ニュートン先生の理論を裏付ける論文を書くのが夢なんです」
「ほお?」
(また面白い事を考えるなぁ! さすが、新屯が目を付けた逸材だ)
岩渕は、ますます目の前の男に興味を持つ。
「そんな事を考えてるの、バルトぐらいだろうけど」
「フフフ。先生の理論を、僕ほど理解している人もいないでしょうしね」
「そうだね」
(“理論は”、ね)
「そうだ、今日、この定規を実験で使おうと考えてるんです。ちょっと特別なやつなんで値は張りましたが、この実験で先程の仮説が証明できれば、きっとニュートン先生の研究の役にも立ちます」
鼻高々に、カバンの中から定規を四本取り出すバルト。それを、見せびらかすように机に置いた。
「ふーん? 凄いね?」
見た目は普通の真鍮の定規に見える。だが、岩渕の知らないところで、製作工程や物質が特殊なのだろう。
「でしょう? 僕は重力の根底に注目して、そのためには物質の……」
話を遮るように、バルトのポケットで振動が始まった。
「あ、電話。今日の実験の件かな? ちょっと出てきます」
バルトは四つの定規をポイとカバンに投げ、席を離れた。
岩渕は、放り投げられた定規を見つめる。
(ぞんざいに扱って。大事な定規なんだろう? 新屯の中で、君の信頼を大きくするための)
出ていったバルトの方を振り返る。彼はまだ帰って来ないだろう。
(もう、十分じゃないか。君は)
岩渕は自分でも知らぬ間に、定規の一つを懐に入れていた。
今日の公開実験に新屯はいない。だが、この実験が公に認められれば、新屯の理論に信憑性が付く、はずだった。
「バルトさん、お元気でしたかあ!」
「樫荷先生じゃないですか! お久しぶりですね!」
西アカの施設に入るのは久しぶりで、樫荷に会うのもそれ以来だった。もこもこのアフロが懐かしい。あそこから、財布やペンが出て来るのだ。
「交換会では、新屯さんにお世話になりました。お聞きしたところ、バルトさんも新屯さんと切磋琢磨なさってるんですね?」
樫荷は、昔と変わらずに広い顔でくしゃりと笑う。
「はい! 今日の実験は、ニュートン先生のためにやるようなものなんです」
「ニュートン先生? ああ! 良いニックネームだ。新屯さんにピッタリです」
「えへへ、僕もそう思います」
「今日の実験、楽しみにしてますよ」
「ありがとうございます!」
だが、実験直前になって、バルトは異変に気づいた。
(あれ? 定規が三本しかない!?)
カバンの中を底まで探っても出てこない。念のため、実験管理者にも聞いてみる。
「あの、真鍮の定規なんて、ここに置いてないですよね」
「置いてませんね」
首を振られた。
(これじゃ、実験は成立しない)
この場で、バルトと同じ定規を所持している会員はいないだろう。仮に持っていたとしても、そんな高価な物を実験で溶かしたい者などいない。
「バルトさん、どうかしましたか」
蛍壁が何かを察して、近づいてきた。
「定規が一本、足りません……」
もう少しのところで涙を堪えながら答える。
「それは大変。皆さん、誰か彼の定規をご存じではありませんか」
しばらくは全員で探したものの、見つかる事はなかった。なぜなら、探している定規は、岩渕の手元にあるのだから。
(今度は誰の嫌がらせだろう。セコイことしやがって)
そうとも知らず、今回の事も、自分を気に入らない会員の仕業だろうとバルトは決めつけたのだった。
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