第5節 ホテルにて

 次の日。朝一で出勤してきた樫荷に方位磁石を返した。

「つい、借りてしまいました。ありがとうございます」

「わざと置いて行ったんですよ」

 嬉しそうに笑う樫荷を、新屯は不思議そうに見つめる。

「新屯さんが使ってくれると思って」

「あなたは、使われないのですか」

 ふふん、と樫荷が鼻を高くする。

「僕くらいになると、もうね。楽勝ですわ」

「そうでした」

「あれ?」

「どうされました」

(今、一瞬、表情が……)

「いいえ。今日は良い日になりそうだなあって」


 この日の新屯は、いつもより波風を立てず、いつもより温厚な方だった。少しの時間だが、他の会員たちとも会話をした。そして、今夜こそはバルトの元へ帰るのだと心に決めた。研究の進み具合も順調で、七時には彼も、帰宅の準備を始める事ができた。

「新屯さん、今夜、飲みに行きませんか」

 樫荷が瓶を持ち上げる仕草をする。

「ああ、私は……」

「今度の人工衛星の話が、だいぶ進んでいるんですよ」

「行きましょう」

 新屯は、科学の申し子だった。




 酒が入った事もあり、新屯と樫荷の会話は弾みに弾んだ。樫荷の所属する研究チームの計画は新屯を燃え上がらせ、酒を進めた。


「……大丈夫ですか」

「問題、ゥイッ、ありません」

 集まりや飲み会に誘われもしない新屯は、酒を浴びるように飲む事があまりない。つまり、己のアルコール耐性の限界を知らない。

「もう帰りましょう。終電が来る前に」

「いいや、もっと聞かせてくらはい……かっしー……ぐう」

「お許しください! ええい!」

 新屯は、特大ビンタで叩き起こされた。


 その後、べろべろに酔っぱらった新屯だが、バルトの待つホテルに帰り着く事ができた。しかし、立っている事さえままならない足は、部屋の鍵を開け、ベッドに辿り着いた瞬間に崩れ落ちた。







 何に起こされたのかは分からない。幻聴か、尿意か、車のエンジン音か。だが、新屯は重い瞼を上げた。

(ここは)

 ぼやける視界は段々と焦点を合わせ始め、天井が見えた。

(ホテルか。記憶は無いが、辿り着く事はできたのだな)

 ベッドに横たわった身体は怠く、頭も痛い。しかし、世界は朝になってしまった。起きなければ。

(そういえば、バルトはどこだ。ここがホテルならば、バルトもいるはず)

 何となく、首を右に動かした。そこに、波のように広がったブラウンの髪を見つける。

 バルトを見つける事はできた。しかしながら……


「は?」


 自分の目を疑うが、何度見ても、そこにいるのはバルトだ。

 裸の、バルトだ。




(まずいまずいまずい、非常にまずい!!)

 焦って、己の首から下を見る。

(よかった。私は服を着ている)

 かなり、はだけてはいるが。


(だが、だが、腰が痛い)

 それは年齢に伴う腰痛である。

(肩も痛い)

 それは四十肩である。


(これは、これはもしや……わわ、私は、致した、と?)

 バージンの新屯は、営んだ後の身体がどうなるのか知らなかった。

(覚えていない! 私は昨晩、何をした! 同意の上だったのか? それとも……)


「ん……」

 バルトが身をよじる。

「うっ!?」

 新屯はバキバキの身体で飛び起き、床に落ちて転がった。床に身体をぶつけた痛みより、「訴訟」、「犯罪」、「追放」のワードが脳内を駆け巡って大変な事になっている。

「えっ」

 落下音に気づき、バルトも飛び起きる。


 寝ぼけ眼の二人は、しばし無言で見つめ合った。


「ち、違うんだ! 私じゃない! いや私だが!!」

「違います違います! これは違うんです! あの、あの、そういう趣味とかじゃ!」

 はだけた新屯と、裸のバルトは、自分の言い分を叫び合った。

「誤解してはいけない! 話せば分かる!」

「見ないでえぇぇーーーーー!」

 枕が飛んだ。




 五分後、二人は落ち着きを取り戻し、きちんと一から説明をした。

「そういう事だったのか」

「はい……お恥ずかしいです……うぅ」

「恥ずかしい事はない。私の周りでは聞かないが、睡眠時には裸になる人もいると聞いた。私の周りでは聞かないが」

 バルトは、裸で寝る派だったらしい。

「先生も、帰って来るなら言ってくださいよ! 昨日も帰って来ないと思って、僕、」

 彼はまた、顔を赤くする。


「……見ましたよね」

「何を?」

「しらばっくれないでください。見ましたよね」

「綺麗だった」

「きゃーーー!」

 飛んできた二つ目の枕を、新屯は顔面で受け止める。

「ゴホン、女性でないのだから、そこまで嫌がる必要もないだろう」

「どこを見られたくないかなんて、人に寄るでしょう!」

(本当に美しかったのに)

 新屯がバルトの美しい身体を賛美する事は可能でも、それが彼の恥になってしまうのなら、新屯の持つ選択肢は一つしかなかった。

「申し訳ない」

 ご褒美を貰ったのだから、頭を下げる事はプライドに許された。




「では、行ってくる」

「はい。今日もお気を付けて」

 バルトの声に背中を押され、扉の前に立つ。心の鎧を肩に負う。後は、この扉を開ければ、仮面を付けた顔になってしまう。

「バルト」

「はい?」

 二人の関係が変われば、ここで彼を抱きしめる事もできたかもしれない。

 迷った末に、バルトの肩に手を置いた。

「君も、気を付けて」

「ありがとうございます」

 彼の笑顔に後ろ髪を引かれながら、新屯は外へ繰り出て行った。




「……言えないですよ」

 残されたバルトは、ため息を吐いた。

「今日も帰って来て、なんて言ったら、嫌われるだろうな」

 椅子に座って、端末の画面を表示させる。読むのも疲れる、溜まったメッセージ。ここのところ、更に似たような文章を刺される事が増えた。

(面倒臭い)

 次から次へと流れていく、件名と内容が異なるメッセージは、どれもバルトの心を冷ましていく。

 自分と新屯の仲をとやかく言う誹謗中傷の数々。「お前は、新屯という後ろ盾で科学界に生き残っているのだ」と主張する外野。「お前の出す論文や発見は全て、新屯の手が入っている」という虚言を垂れる他人。

(どうでもいい。消えればいいのに、こんな無能)


『おじさんに身体を売って得る名声は気持ちいいか? その夜よりも?』


 バルトは、新屯に汚名を着せようとする人間が大嫌いだった。

「Merde!!」

 威嚇するように唸って叫ぶ。

(やろうと思えば、いくらでも言い返せる! 僕なら言い負かせる!)

 だが、中身のない口論を続けたところで得る物は無いし、自分へのマイナスイメージは、隣にいる新屯にも広がる可能性がある。そう考えると、これ以上、自分へのイメージを落とさない事が優先だ。新屯との繋がりを匂わせる事も、控えた方がいいと分かっている。

(でも……)


「無理だよ……ニュートン先生と離れるなんて」

 バルトの瞳は深みを増した。







 新屯が会議室に入ると、すぐに樫荷が駆け寄って来た。

「昨日は飲ませ過ぎてしまって、すみません……あの後、帰れましたか」

「はい。帰る事は出来ました」

 その回答に、樫荷は何かを察した。

「何か、ごめんね?」

「樫荷さんが謝られる理由が分かりません」

 通常運転でぶった切った新屯であった。


「今日と明日で最後ですよ。早いですよね」

「五日間では短すぎます。まだまだ手を付けていない箇所があるというのに」

「まあ、いつまでもこれに力を入れていたら、本職が疎かになっちゃいますもんねえ」

 そこで新屯は思い出した。樫荷には、胸を張って取り組む本職がある。しかし、自分はいつまでも、どうでもいい教職を続けている。馬廊教授から頂いた名誉ある地位だが、新屯にしてみれば研究費を集めるだけの手段だ。

(私は、いつまでもこのままでいいのだろうか)

 職だけではない。いくつも掛け持ちした同時進行の数学的問題たち、バルトとの関係。続けたい事、終わらせなければならない事は沢山ある。


「樫荷さん」

「何ですか」

「ラストスパートです。とっとと、まとめに入りましょう」

 決断した新屯の目は、一等星のように光っている。

「良い目です! 皆、やるよ!」

 空気だったメンバーたちに振り返り、樫荷が士気を上げる。

「おおー(?)」

 メンバーの殆どは、研究内容の何がどうなっているのか分からなかった。




 今夜は正常に帰ろうと確固たる決意をしていた新屯は、誰よりも早く帰途に就いた。もちろん、言いつけを守って、バルトに連絡は入れている。

「ただいま、バルト」

「お帰りなさい! ニュートン先生!」

 愛しい人が出迎えてくれる幸せがこういうものなのだと、人肌恋しい男は初めて知った。


 明日が早いバルトのため、外に食べに行く事はせず、買ってきた軽食で夜は済ませる事にした。

「大阪の皆さんは、何と言うか、結論を劇的に伝える事が多い気がします」

「分かるな。結論を最後に持ってくる傾向にあるのだろう」

「僕は、せっかちなのでしょうか。内心では『早く結論言ってー!』って思いながら聞いてます」

 バルトは、開けた缶ビールを少し飲んだ。

「バルトだけではない。私もだ。そういうのは、とても肩が凝る。特に、研究者は話し好きな人間が多い。他人の話に割り込む癖に、自分の話は長々と続けるのだな。どこかの青白い顔をした小人のように」

 青白い顔をした小人と聞いて、服部のことを指しているのだとバルトはすぐに理解した。


「ニュートン先生くらい立派な方だと、服部先生がするように、批判される事もあると思いますが、どのように対応してますか」

 彼の脳内では、次々に届く罵詈雑言がこびりついていた。今朝受けた痛罵も、新しい悪口として更新されている。

「無視だ。そのような連中に構う必要もないからな」

(そういう事が、簡単に出来る人なんだな。先生は)

 新屯が気に入らない他人を排除する事を、因数分解の際のたすき掛けよりも簡単にこなす事が可能なのは、どうしてなのか。バルトは考える。

(元々の性格なのか、それとも)

(慣れたのか)

 慣れてしまう程、心を荒らされた過去があるのかもしれない。そう答えを出した。




 バルトがシャワーを浴びている間、新屯は頭を悩ませていた。髪から雫がポトポトと垂れている事は気にならない。

(どう説明すれば、バルトは受け入れてくれるだろうか)

 助手の勧めを力説するなら今夜だ。明日の夜は、自分は東京に帰らなければならない。

(何が気に入らない? 遠慮しているのか? いや、それはないだろう……)


「ニュートン先生?」

 シャワーを終わらせたバルトが上がってきたようだ。長い髪にタオルを巻いている。

「髪、乾かさないんですか? 濡れてますよ」

「そんなことは、いつもしない」

「どっかで聞いた事ありますよ、その言葉!」


 椅子に座らされた新屯は、バルトのドライヤーから吹きかけられる心地よい熱風に耐える事となった。

「自分でやるから……」

「ええ!? 何ですって?」

「何でもない」

 ドライヤーの音がここまで大きいと始めて知った。


(やはり、バルトに髪を触られると……)

 全身がムズムズする新屯。特に、腰の辺りを撫でられているような錯覚に、不思議な興奮を感じる。

 そこで、ドライヤーの音量が落ち着いた。今度は冷めた熱が送られてくる。

「涼しい」

「あはは、冷風ですよ」

 ドライヤーという物を初めて経験した新屯は、熱風と冷風の使い分けが必要な理由が分からないが、バルトに任せる事にした。

「僕よりも短いから、すぐ乾いちゃいますね」

「ああ」

「僕、先生の髪色、好きです。アッシュグレーって感じ」

「ああ」

 バルトの話を、新屯は半分も聞いていなかった。下半身の謎の疼きと、バルトのゆったりとした指運びを拷問のように受けながら、いかに理性を保って見せるかが問題だったのだ。


「乾いた! もういいですよ」

「あ」

 離れようとする彼の手を掴んだ。本当はドライヤーを掴もうとしたのだが、図らずも、手と手が重なっていた。


「今度は、私が乾かそう……か?」

「え?」


(しまった)

 勢いで動いてしまってから、新屯は後悔した。ドライヤーを使った事もないおじさんが、若者の髪を満足に乾かせるのか、全く未知である。

「今のは忘れ――」

「やってください!」

 かくして、ドライヤーは手渡された。




 さて、バルトの見様見真似で挑戦した新屯だったが、自分でも上手く出来ているのかは分からない。しかし、バルトが一つの文句も言ってこない事で、少しは自信を持てた。

「熱くはないか」

「上手いですよ、ニュートン先生」

 天性の器用さが、新屯を救ったのだった。

(長いな。それにしても美しい)

 指の隙間からサラサラと落ちていく細い髪は、新屯に軽い衝撃を与える。生まれてこの方、人の髪に触ったのは初めてだった。

(何の成分が入ったシャンプーを使えばこうなるのだろう)

 ただし、思考回路も天性のものだった。


「これで、いいか」

「はい! ありがとうござい、ま……す?」

 バルトは硬直する。なぜなら、新屯の手が、不意にバルトの頭を撫でていたのだから。

「あ、すまん。つい」

(つい、で、そんな撫で方しますか!?)

 バルトの頭を撫でる手つきは、無表情の研究者から出たとは思えない、とても優しいものだった。

「あ、そ、そうですか……あ、じゃあ! ドライヤー貰いますね!」

「待て」

 ドライヤーを受け取ろうとした手を、新屯に掴まれる。バルトの心臓は跳ねた。


「バルト、突然なのだが、聞いて欲しい」

「へ!?」

 目の前に立つ新屯は、真面目な顔をしている。

(今度こそ、これは……!)

 掴まれている箇所から、熱が上がってくる。呼吸が困難だった。瞬きが増える。



「私の……助手になって欲しい」



 バルトは、己の熱が下がっていくのを感じた。もちろん、何度目かの「助手の誘い」が嫌な訳ではない。しかし、自分が彼の隣で働く夢を現実に感じれば感じる程、新屯の地位と信頼が危ぶまれるのは明確だ。歳の差は、自分たちが考えているよりも障害である。周囲の偏見や冷ややかな目と戦っていく事になる。

 そしてもう一つ。歳の差が二人の別れを早めてしまう事も、分かっている。


「君が、この話題を何となく避けているのは知っている。その理由を教えて欲しい。私に足りない事なら努力するし、給料も、君の好きなだけ持っていくと良い。君が助手に来てくれるなら、私は独立しようと思っている」

 新屯がこんな目を誰かに向けているところは見た事がない。それだけ、彼が本気で、バルトを特別に想ってくれている事も読み取れる。

(僕が、もっと早く生まれていれば)


 血管が浮いた新屯の手を静かに掴み、引き離す。思い出されるのは、今朝の罵倒たち。心に降り積もった無念は、痛みに変わる。この痛みを、ただでさえ忙しい新屯に与えるわけにはいかない。自分まで、彼の枷になるのはごめんだ。

「お気持ちは嬉しいのですが……ごめんなさい」

「……そうか」

 こちらの嫌がる事をしたくないからこそ、無理に詰め寄ったりしないのだろうとバルトは予想できてしまう。その事実も、バルトを苦しめて溜まらない。

「お金じゃないんです」

「……」

「ニュートン先生のことが嫌いなんじゃないです」

「……分かった」

 新屯は、ドライヤーを机に置いた。


「先生」

「分かっている。大丈夫だよ」

(どうして、こんな時に限って、)


 優しい顔。


「せんせいっ」

 バルトは突進するように、愛おしい人の背中に抱き着いた。

「分かって、先生、わかって!」

 恥はいいから届いてくれと、バルトの心は泣いていた。

「だ、だから、分かっている! そんなに強く絞めないでくれ!」

「僕の気持ちの強さです!」

「降参だ! 離してくれ! 苦しい……」

 新屯の背に顔をうずめるバルトは、今回も新屯の赤面には気づかなかった。

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