第4節 星空の夢
次の朝。新屯は、目の下にクマをこさえて集合場所へ向かっていた。
(気を遣い過ぎて、眠れなかった)
昨夜は、隣で寝転んでいるバルトに近づき過ぎないよう、自分がベッドを占領してしまわぬよう、寝返り一つ一つに意識を使った。しかも耳元では、途切れ途切れの寝息が聞こえる。はっきり言って心臓に悪かった。そちらを見るのも罪深く感じるが、見てみたい気もする。そんな葛藤の中、気づけば夜は明けていた。
目覚ましのアラームが二人を引き離し、新屯は回らない頭で顔を洗い、食事を取り、バルトに見送られて出て来た。
(今日、私は保つだろうか)
不規則な生活リズムはいつもの事だが、自分の中を他人に支配されているようで、いつもと違う。以前の新屯なら、簡単に突っぱねていただろうに。
(嫌ではないのは、なぜだ)
見えない解法にモヤモヤしながら、指定されたビルに入った。
「おはようございます! 新屯さんですよね? 直接お話するのは初めてですよね? よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
今回のメンバーは新屯より年下が多く、晴丘と同じくらいだろうと見積もる。新屯は、自分が年配になってきたのだと実感させられた。
「新屯さん、初めまして」
その中で唯一、新屯より年のありそうな男性を見つけた。恰幅の良い、いるだけで幸を呼びそうな見た目の人物だった。
「初めまして。五日間、よろしくお願いします」
その人物に返事をする。
「あなたのお名前と評判は聞いてますよ」
「恐縮です。私は、あなたの……顔は存じ上げております」
正確には、顔というより髪型に見覚えがあった。彼の頭は大きなアフロだったのだ。JS会議や会員写真で、そのアフロを見た事がある。
「それはそれは、光栄です。私、
「ああ!」
名前を聞いて、合点の電流が走った。
「あなたが樫荷さんですか。『土星の友』の」
「わあ、嬉しいです。新屯さんがあれを読んでくださっているなんて!」
『土星の友』とは、日本科学アカデミー協会が発行している雑誌の、連載コーナーの一つだ。様々な会員が連載を持っているが、新屯のお気に入りの連載の一つが『土星の友』だった。『土星の友』では、土星に関する情報を毎月提供しており、主に衛星の動きと解説、占いを売りにしている。
「樫荷さんの占星術は、真に理論的で分かりやすいです。また、衛星一つ一つに愛着を持っているように見受けられ、読んでいるこちらも幸せな気持ちになれます」
多少のお世辞も交えて褒めると、樫荷は頬を盛り上げて笑った。
「実は、私が天文学に興味を持ったのは、占星術がきっかけだったんですよ」
「そうですか。道理で占いが得意なわけですね」
「はい。ご興味があれば、新屯さんも占ってみますか?」
「有り難き幸せでございます」
新屯は、樫荷からなら、何かを得られるような予感がしていた。
天文学の重鎮がいる事で、今回の研究テーマは「直径940億キロメートル先の宇宙について」に決まった。刺激を与え合う事が一番の目標なので、テーマはどれだけ壮大でも構わないルールだ。ちなみに、東アカの会長がチームに選ばれた年は「おおいぬ座矮小銀河の2000億年未来の重力法則」というテーマだった。証拠不十分なまま、チームの会員たちを存分に振り回したそうだ。それに比べれば、今回、新屯たちが求めるテーマは現実的に見える。だが……
「話にならん。仮説ばかりではないか」
「す、すみません」
新屯は今度も、無能と決めつけたメンバーたちに傲慢な態度で接した。一人は早々に怒って帰り、一人は泣きながら部屋を出て行き、後のメンバーは耐え残っている。
「ちょっと休憩にしましょう。いつの間にか、お昼を二時間も過ぎてます。私はお腹が空いちゃいました」
樫荷が休憩を挟み、そこでやっと、会員たちは解放された。競うように会議室から出て行く。
「彼らは何を考えているのでしょう。遊びに来たのではないのに」
「まあまあ、お腹が空いていたんですよ。僕たちも何か食べに行きましょう」
眉間に皺を寄せている新屯に向かって、樫荷は笑顔で対応する。
「いや、私は結構です。もう少し考えていれば、良い案が出る気がするのです」
「そう? じゃあ、何か買って来ますよ。アレルギーはお持ちですか」
「いいえ」
答えている途中にも、新屯の目線は広がった地図に向いていた。宇宙の住所が割り当てられた、アイデアと知性の海が広がる。ひたすら考えて、思考に浸っている時間が、新屯は苦しくもやめられない。それは、「夢中な何か」に身体を乗っ取られた事のある人しか分からない感覚なのだが、こう言えば近いだろう。
辛い恋ほど、やめられない。
こうだと決めたら曲げられず、他人の意見は情熱を削ぐだけ。だが、それだけで塵になるほど簡単な決心ではない。手に入るものでないと分かっているからこそ追いかけたくなり、指先が触れそうだと思えば、別の問題で阻まれる。一つ問題を解決すれば、そこから派生した問題が逃げ惑う。自分は一生これを続けていくのかと、やめたくなるのに、反対側の自分は、一生続けられる事を至高の幸せに感じている。「終わってしまったら」と不安になる日々は、追いかける幸運を抱きしめる日々でもある。新屯にとって科学とは、苦しくても追いかけなくてはならない、追いかけずにはいられない、人生そのものなのだ。純粋な探求心を淀ませる他人など、邪魔以外の何物でもなかった。
気づけば、窓の外は暗くなっており、メンバーは誰一人としていなくなっていた。樫荷以外は。
「今っ、何時ですか」
顔を上げ、そこにいた樫荷に声を掛ける。
「ええっと、二十三時と三十分です。凄いですよね。時間って、こんなに早く溶けていく」
樫荷の手元を覗くと、彼も凄い集中力で計算をしていたのだろう、数と式の宇宙が出来上がっていた。
「いけない!」
新屯は、ホテルで一人待っているであろう期間限定の同居人へ、急いで文章を打った。
『すまない。終電が過ぎてしまった。今日は帰れない』
夜中にバルトが起きているかは分からないが、返信はない。新屯は椅子にもたれ掛かった。脳を回転させ続けた事で、タクシーに乗る体力もなくなっていた。
「ご家族に連絡ですか? ご一緒にいらっしゃったんです?」
「家族ではないのですが……友人と」
バルトとの関係をどう言い表していいのか、一瞬、考えてしまった。
「しかし、恐らく寝てしまったのでしょう。返事がない」
光を放つ画面は、前から溜まっている通知を表示しているだけだ。
「きっとお休みになられてるんですよ。新屯さんも休んでください。あと、それも食べてくださいね」
机の端を見ると、樫荷が昼に買ってきてくれたであろう食料が入っていた。朝しか食べず、計算に没頭していた新屯は、食べ物を見て、初めて空腹が追い付いた。
「ああ、すみません。お礼もせずに」
「いや? 僕が『ここに置いておきますね』って声を掛けたら、『ありがとうございます』って答えてましたよ」
「それは、覚えていません」
「反射だったのかあ!」
樫荷は笑って目を擦った後、窓のブラインドを下ろしに立ち上がった。
「部屋は会長たちが貸し切りで借りてくれたから、僕は泊まっていこうと思います」
「そうですね。私も、そうします」
返信を待つのは諦めて、その日は樫荷と会議室に泊まった新屯なのだった。
車のクラクション音で目を覚ますと、朝がやってきていた。携帯に手を伸ばすと、バルトからの連絡が入っていた。
飛び起きて内容を確認する。
『事故とかだったら、どうしようと思ってました。ご無事でよかったです。今日も頑張りましょう!』
怒ってはいない様子に一息ついた。だが、怒ってくれてもよかったのにと、内心で思っていた。
バルト不足な新屯は、いつにも増してメンバーに厳しく当たった。昨日の事があっても何の反省もなしに会議を進めると、今日の離脱者は昨日よりも増えてしまった。
「噂通りの熱心さですね、新屯さん」
昼休み。樫荷は遠まわしに、彼らに手を抜いてやるよう求めた。このまま続けても、最終日には、メンバーが二人を除いていなくなってしまう危険性を感じたからだ。二日目にして、既に半分の人数は消えた。
「やりたい事を、やっているだけです」
罪悪感など持ち合わせていない新屯は、無表情で答える。樫荷の頼みは伝わっていないだろう。
「ほら、メンバーの中には、天文学は全くの専門外だという人もいるし……」
「知らないからと言って、手を抜いて良いとは思いません。ましてや、若さなど理由にならない。若かろうが、常に考え続ける者には見返りが降ってくるはずです。彼らには、考える力が足りない」
(考えることは、“力”だけなのかな?)
樫荷は、「考える事」について思うところがあった。「考える」という行為には“力”だけでなく、方向性や深さ、広がり、閃き、転換、何より“楽しむ”ことが含まれる。
(新屯さんは、確かに才能がおありだ。しかし、心から“楽しんでいる”のかな)
彼の意見では、“楽しむ”にも種類が分かれ、そのどれが新屯に住み着いているのか分からない。“楽しむ”分類は、扱いを間違えると、誰も望まない結果を招く事もある。その、最悪の結果に辿り着かないために、人は人と関わるのではないか。人と刺激を与え合う事によって、選択肢は増え、より良い選択へと進む事ができる。
(だけど、皆が選ぶ選択肢を選ばない彼だからこそ、彼にしか見えないものがあるんだ。それが、彼が天才である所以。それを僕が邪魔するのは、必ずしも正解とは言えないな)
「彼らに考える力があるかは、後の判断に任せるとして、僕は新屯さんの考え方が好きだな。よし、新屯さんを占わせてください!」
ホロスコープを起動させ、樫荷は、頑固な科学者にしか見えない「大切なもの」を守ろうと決めた。新屯が新屯のまま、少しでも“楽しく”生きられるように。
「急ですね……」
「まずは、生年月日と出身地を教えてください」
占い結果を伝える事について、渋った経験はあまりない。だが、今回導き出した結果を、そのまま伝えようか否か、彼は迷った。
「どうかされましたか」
「あ、いいえ! どう言葉にしようかなーと、考えていたところでございますよ」
(僕ったら! 占い師が不安そうな顔をしてどうする! 伝える事を伝えたら、そこからの進路は個人の判断なんだから!)
樫荷は覚悟を決めた。
「かなり現実的な結果が出ましたが、お聞きになりますか」
「はい。もちろん」
「分かりました」
説明順序を頭で決定する。
「結論から言うと、悪い結果は出ていません。しかし、新屯さんの判断によって決まるところが大きいです」
「私の判断」
「はい。それは誰でもそうなのですが、新屯さんは近い未来で、大きな決断をする事になるかもしれません。その時に、自分が本当に大切な方を取れば、もう片方を捨てる事になります」
「でも、新屯さんは大丈夫です。きっと、優先順位がしっかりしているお方だろうから、どちらを選んでも後悔はしないでしょう。本当に大切な方を取れば、の話ですけどね」
間髪入れずにフォローを入れる。
「言っておきますが、悪い結果ではないですよ。どちらかを取ったら、どちらかを諦めるだけですから。どちらを取っても、良い未来の内の一つを手にするだけです!」
「それは、どちらの良い未来を取るかは私次第、という事ですね?」
「その通りです。また、運気の流れは良い調子ですので、研究の方も、このまま続ければ、コツコツと成果は積み上がっていくはずです」
「それだけ分かれば結構です。丁寧な解説をありがとうございました」
新屯は紙幣を取り出す。
「いやいや! お金はいりませんよ。僕がしたくてしたんですから」
「昨日の昼食代もあるのです。受け取ってください」
「それでは、最終日に何か奢って下されば結構ですよ。駅近のイタリアンが美味しそうでしてね」
それから、二人は食事の約束をして、研究内容に話題を移した。樫荷の中に、一抹の不安を残したまま。
(水星の逆行……あなたの隣にいるのは、誰?)
午後七時。皆が帰宅の準備を始めた。
「新屯さんは、いつのお帰りで?」
荷物をまとめた樫荷が、振り返って問う。部屋には、既に二人しかいない。
「もう少し、です」
新屯の「もう少し」は当てにならない事を学んだ樫荷は、苦笑いをして部屋を出ようとした。
「あ」
ふと足を止める。
「今日、ペルセウス座流星群が極大ですよ。是非」
「ありがとうございます」
(これ、聞いてるのかなあ?)
ブラインドを下ろしてから、樫荷はビルから出て行った。
例に洩れず、新屯が没頭の海から脱出した時、時計は次の日を知らせていた。
「はあ」
またやってしまったと、大きくため息をついた。赤電車は過ぎ、タクシーで帰っても、逆に疲れるだけだろうと億劫になる。
「ん?」
机上をよく見てみると、樫荷が置いて行ったであろう方位磁石が乗っていた。それは、いつも樫荷が首から下げている物で、お気に入りなのだと言っていた。
(忘れていったのか)
手に取ると、その方位磁石には、小さく星座が浮かび上がっているのが分かった。
「ペルセウス……」
(そう言えば、樫荷さんが、ペルセウス座流星群がどうとか)
そこで考えた。このまま眠ってしまうのも、数字と睨み合うのも構わないが、一度、流星群を見てみようと。
屋上の鍵はお粗末な物で、素人の新屯でも簡単に解除できてしまった。パスコードは、ビルの名前をキーボード上の数字に置き換えただけだった。
「ふう」
久しぶりに外へ出た新屯は、外の空気を肺に入れ込む。夏の空気はじっとりとしていて、内側に張り付くような感覚がした。
勝手に借りた方位磁石を北東に合わせ、画質の悪い都会の空を見上げる。
(見えた)
小さな流星が一つ、通り過ぎていった。
その時、着信音が新屯のポケットで震えた。映し出す画面には、愛おしい人の名前。
「すまない」
出た瞬間に謝罪した。今度こそ怒っているかもしれないと考えながら。
『やっぱりー。そうだと思いましたよ。もう慣れました。僕って偉い』
だがやはり、バルトは微塵も立腹していなかった。
『それより、空を見てください! 今日は流星のパレードですよ』
離れた場所で、同じ事をしている彼に、新屯は心を温めた。
「実は、私も見ていたのだよ。流星のパレードを」
耳元から、明るい笑い声が聞こえてきた。
『僕たち、同じことしてますね!』
新屯は、どこまでも明るいバルトを、まるで星空のようだと思った。ここよりも澄んで深く、どんな六等星も見える美しい星空だ。
「バルト」
『はい』
星空は、二人の行く先を見守っている。
「すまない」
考えた末に出た言葉はそれだった。
『何で謝るんですか?』
「君を、一人にさせてしまって」
『ええ? そんなことですか? いいんですよ! 元々は一人で来る予定だったんだから。ニュートン先生が近くにいるって分かってるだけで、僕は十分、幸せです』
「しかし、私のせいで、君は広い部屋で一人――」
『一人は慣れてますから』
ツっと、青い流星が夜空を伝った。
『あ! 今の見てましたか!? すっごい綺麗だった!』
「……すまない……見逃してしまった」
『上を向いてないと、綺麗なものも見えませんよ!』
「すまない」
『謝って欲しいんじゃないですぅ』
「……」
『……ねえ、先生』
「何だ」
『僕、本当に幸せなんですよ』
電話越しに、息を吸う音が聞こえる。
『あの流れ星みたいに、身を焦がすほど好きなものがあるって、素敵』
(私には、泣いているように見える)
顔を上げると、小さな星が、涙のように流れていった。
「バルト」
『何ですか。謝らないでくださいよ!』
突然、大きな光が、閃光のように闇夜へ消えていった。
『あ!』
「……!」
二人は、大きな流星を同時に目撃した。その明るい軌道は、新屯の目に残像として残っている。
「私が、いるから」
追うように、星々が出現する。一瞬一瞬の光は、新屯を励ますよう。
「もう、一人ではないんだよ」
沈黙を守る夜空は、変わらずに二人を眺めている。
『せんせ、い……それって……』
「おやすみ」
ブチッと、通話を切ってしまった。
(私は! 今! 何と言った!?)
無表情を貫くのに、ここまで苦労した事は、かつてなかった。
切れた通話を思い返して、バルトは悶えていた。一人、暗い部屋で。
「もう! 何で切っちゃうんだよおぉぉ!」
枕を掴んで、意味もなく上下に揺らす。
「あれどういう意味? あれ、どういう意味!?」
ベッドに身を投げる。少しだけ反発された。
「意気地なし! 照れ屋! 可愛い!」
もぞもぞと布団に入り、赤い顔を出して窓を見る。一瞬の光に「おやすみ」を告げる。言えなかったあの人に、囁くように。
「好きです……ニュートン先生……」
広いベッドで一人、今夜も眠りに就くのだった。
星空の夢は、一瞬の歴史をバルトに重ねた。
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