第3節 その人の手を
誰もいない講義を終えた後、研究室に戻った新屯は、会長から連絡が入っている事に気づいた。内容は、「これから会えないか」といったものだった。
神保町駅で地下鉄を降り、階段を上って地上に出る。すると、外の光と共に会長の影が目に入った。
「呼び出して悪いな」
「いえ」
「昼は?」
「食べていません」
「いつも?」
「……しばしば」
挨拶もそこそこに、二人は近くの喫茶店に入った。昼食のピーク時間を過ぎた店内は空き始めている。
「手短に済ませよう。一言で言うと、今年の交換会に出て欲しいんだ」
「お断りします」
「待て待て! そう即答するな」
交換会とは、両アカデミー協会が毎年、開催しているイベントだ。互いの会員を数人ずつ交換してチームを作り、五日間の凝縮した研究をする。普段は触れないジャンルや人と触れ合い、交流と知識を深める事を目的としている。
「私が人間と関わると、余計な事しか起きません。拒否します」
「おいおいおい、待て待て待て」
会長には、どうしても新屯に出て欲しい理由があった。単純に人が足りないのだ。ここ数年で協会の会員は減る一方であり、交換会に出す人間も被り出す始末。
「聞け! 開催場所は大阪。開催日は、一カ月後だ」
「大阪、一カ月後……」
明日が来る確率より高い確率で拒絶するであろう新屯を、このタイミングで誘ったのは、会長の企みがあるからだ。
西アカにも、才能を隠し持った新屯と直接関わりたい会員は沢山いる。東アカとしても、新屯には新しい風を入れたいところだった。そこで会長は考えた。
最初は、入会三年目のバルトを候補に入れていたが、「彼は若すぎる」と批判が起こり(主に服部)、却下になってしまった。そこで、名前を出さずにバルトをメンバーに入れようとしたのだが、頼みの綱の彼は別件でスケジュールが埋まってしまっている事を知った。その別件を調べてみると、期間も場所も、交換会と偶然一致しているという奇跡が判明した。バルトを餌にすれば、彼の若い才能に興味津々である新屯も釣れてくれるのではないか。そう閃いた。
「そうだ。大阪に、一カ月後。あっちに知り合いがいるんなら、泊まる場所は指定しないぞ。だがもちろん、例年通り宿泊費は出させていただく。交通費も。余ったらその金で、愛する人に時計でも買ってやれ。軸受けに宝石を使った、お高いやつをな!」
「……考えさせていただきます」
新屯の脳内には当然、バルトがいた。上手く事が運べば、バルトと同じホテルを取れるかもしれない。更に上手くいけば、同室を取れるかもしれない。ホテルで、バルトと、二人きり。それは新屯にとって悪くないどころか、夢のある妄想だった。
「フフ、フフフフ」
「真顔で笑うな。怖い」
この後出されたナポリタンは、甘い味がした。
食後、二人は喫茶店を出た所で別れる事にした。
「じゃ、俺は古本でも見て回るから」
「さようなら」
「新屯」
「はい」
「期待してもいいんだな」
狭い路地から空を見ても、曇り空は広がらない。だが、あの雲の上の、青空の上の、大気圏を越えた先には、輝く星が待っている。
「はい」
研究室に戻った新屯は、部屋に誰もいない事を確認し、コールを始めた。呼び出し音が途切れるまで、喉がかすれるほど咳払いを繰り返す。三回目のコールの時だった。
『バルトです! ニュートン先生ですか?』
何度も聞いた愛らしい声は、電波越しでも変わらない。
「あ、あ、そうだ」
電話に慣れない新屯は、目的をすっかり忘れてしまった。
『どうかしましたか?』
目の前で話すのと変わらない雰囲気で、バルトの声が聞こえてくる。
(君の顔が見たい)
「顔が……」
『え? 顔?』
「いや、何でもない」
いつもの自分とは思えない動転の仕様に、新屯はどうしてよいか分からなくなる。喉が渇いて、何度も固唾を飲んでしまう。
「ゴホ、ン、バルト、君は、来月、大阪に行くんだったな?」
『え? あ、はい。そうです』
「ち、丁度、私も大阪へ向かう事になって……で、期間も同じなんだ」
『へえ! それは凄いですね』
「……」
『?』
急な喉の不調で、新屯はどうしても言い出せない。
「……」
意味もなく鼻をすする。
『……えっと、何の用事で大阪に? お仕事?』
他人に鈍感な新屯でも分かった。これは、バルトが気を遣っていると。
「協会の、交換会で」
『ああ! あれか! いいなあ。僕も出たいって言ったんですけど、却下されました』
「どうせ、服部辺りが妬んで拒否したんだろう」
『僕が、まだまだなだけですよ』
「それは違う。バルトは掃き溜めに鶴であり、全てにおいて申し分なく……いや、この話をするために電話をしたのではない」
いつもの倍、瞬きをする。
「バルト」
「君さえ良ければ、同じホテルに泊まらせてくれないか? それができなければ、近い所でもいい。あと、これは、本当に良かったらなのだが、もし、部屋を共にできれば……など」
自分でも恥ずかしくなるほどタジタジで、何が言いたいのか分からない文章になってしまった。新屯がバルトの立場であったら、すぐに聞き返していたところだ。
『僕、まだ部屋取ってませんよ』
キョトンとした声で届いた返事に、新屯は動きを止めた。
「は? もう一カ月前だが?」
『忙しくって……でもやっぱり、もう取らなきゃですよね』
てへっ、と言わんばかりに苦笑いするバルト。
『先生は、場所はどこでもいいですか』
すぐに気を取り直したバルトは、即座に尋ねてきた。
「あ、そうだな。あまり郊外にならないように、とだけ……」
『分かりました! では、二人部屋で取っておきますね!』
新屯は、息を吸い込んだ。
「頼む」
『ダブルで、いいですよね……?』
バルトがなぜ確認したのかを、世間知らずな科学者には理解できなかった。
「ああ。それでいい。請求額は、私の協会口座から引き落として構わない。番号は今送る」
『いいのに』
また、苦笑いで誤魔化すバルトだった。
上手く話が進んだ上に、研究の方も順調にいった新屯は、機嫌よく家に着いた。飯振がバタバタ家事をこなしている横をすり抜けて部屋にこもる。今の緩んだ顔を見られれば、誰かに幸せを取られてしまうと思った。
「新屯さん、機嫌がいいんですね」
二人で飯振の作った料理を食べながら、無言の会話をしていた時、飯振は溜まらず声に出した。
「そう見えるか」
「はい」
きっと、誰にも邪魔されず研究を進められているからだろうと、飯振は思った。
「今なら、講義に二十人は来るでしょう」
飯振はまた、学生が来ない新屯の講義を皮肉にしておかずにする。
「やる気のない学生が百人集まらなくても、私が育てたい“一人”がいてくれるなら、その講義にこそ価値がある」
その言葉を聞いた飯振は、箸でつまんでいたミートボールを皿に落とした。
「本当に、機嫌がいいんですね」
「そう見えるか」
笑顔こそ無いが、確実に違う。研究だけではない“誰か”の存在が、研究中毒男の中に、新鮮な光を持って感じられた。
「その“一人”は、新屯さんにとって大切な人なんですね」
最近、再び綺麗に散髪された新屯の髪を眺めながら、自分まで嬉しくなってしまう飯振。
(その人のためだったんだ)
カタブツ理系男子(49)にも春が訪れたのだと、感心すら覚える。
「そうかもしれない」
笑顔を見せない男のぶんまで、飯振は笑顔になる。
(それなら絶対、その人の手を離しちゃダメですよ)
飯振は、今度はミートボールをしっかり掴み、飲み込んだのだった。
服部は、会長控室に走っていった。ドアを思い切り殴り開け、主を呼ぶ。
「会長! どういう事ですか!」
呼ばれた主は、画面の山から顔を上げる。
「お、どうした」
「どうした、じゃないです! 交換会に新屯を出すって、どういう神経してるんですか! ついにストレスでおかしくなりましたか!? 俺が会長代わりましょうか!? そしたら、アイツの名前など名簿から消して、存在さえなかった事にしてやる!」
「落ち着け、服部」
会長は立ち上がり、服部の前まで歩いてきた。
「俺たちが望んでいるのは、科学界全体の発展だ。新屯は科学界を変える男。新屯に刺激を与えた方が、彼のためにも科学界のためにもなる」
「ヤツが! 人間と! まともに! 会話できるとは思えません!」
「それはそうだけど、でも、一部の人とはできてるし……」
「なぜアイツなんですか! だったら俺が行ったのに!」
「それは駄目だ! 服部が抜けてしまったら、事務局長は誰がやる!?」
その事務局長に相談も無しに、会長が新屯を指名した事で、服部は怒りを爆発させた。会長のすぐ後ろを走っているのは自分なはずなのに、他人、あろうことか新屯を選択したのかと、そこまで考えていた。だが実際は、会長は新屯だけを推しているわけではない。事実、事務局長という名誉ある責任は服部に任せているし、協会に協力的な姿勢も評価している。服部はただ、手にしているものが見えていないだけだ。
「でしたら、なぜ一言の相談も無いのですか!」
うぐっと、息を止める会長。
(だって、バルトの時も猛反対されたんだもん!)
服部が一言居士だというイメージを持っている点では、新屯と変わらない会長だった。
「ちっ、アイツ、今度は何をしでかすつもりだ?」
新屯が自分を追い越す事と、彼が発生させるクレームの処理を思って、舌打ちが出てしまった。
新屯は、今回の遠征に二つの目的を持ち込んだ。一つ、バルトに話せるくらいの成果を交換会で得る事。二つ、バルトを自分の助手にする事。一つ目は、チームの会員たちが救いようのない無能でなければ難しい事ではない。しかし、難解なのは二つ目だ。新屯は一度、それをやんわりと断られている。再び誘いを持ち出しても、避けて通ろうとするバルトの腹積もりが見えてしまう。だが、どうしても彼の首を縦に振らせたい新屯は、今回が最後のチャンスだと思い、挑む事にした。
大阪駅からスーツケースを引いて外へ出ると、慣れない空気にソワソワした。また、帰宅ラッシュで溢れかえるような人の流れが新屯を酔わせた。
(人混みは、人間臭いな)
不快感に耐え、先に到着しているバルトの姿を探す。バルトは昨日の朝から大阪に入ったとのことだった。「迎えに行きます」と、文面では意気込んでいた。
「ニュートン先生!」
なぜか、後ろから声が掛かった。
「バルト。中にいたのか」
構内から出てきた彼は、少し息を切らしている。
「はい。僕、先生が改札から出てくるのが見えて、後ろから追いかけたんですけど、歩くの早すぎて追いつけませんでした」
自分の歩く速さなど気にした事のない新屯は、首を傾げる。
「荷物もあるし、それほど速度は出ていないと思うが」
「あはは……とにかく、お疲れ様でした! ホテルはこっちです!」
『友達の数と歩行速度の関係について』の論文を思い出したバルトだった。
ホテルの部屋に案内されると、まずベッドに目が行った。
「二人部屋だったはず、なのだが」
「え? だから、二人部屋で取りましたよ?」
「ベッドが……一つ」
指を差して、一つしか置かれていない事を指摘する。
「だって、ダブルでいいって……」
その瞬間、新屯の顔はワッと赤くなった。それを見たバルトは察し、同じく顔をどんどん赤くさせる。
「ああああのですね、ホテルというのはダブルとツインっていうのがありまして……」
人生の半分を研究室で送っていた男に、バルトは慌てて説明した。
「そういう事だったのか」
新屯は、自分の無知を恥じて下を向く。今すぐ人間のいない惑星に飛んで行きたい気分だった。
「わ、分かりづらいですよねー! 分かります!」
新屯の無駄な矜持を励ますバルトだが、彼も彼で混乱している。尊敬する先生に何を説明しているのかと、今すぐスイスに逃げたく思う。
「早く言ってくれ……」
「あの、嫌でしたか?」
下を向き続ける新屯が気落ちしているのだと思ったバルトは、不安になって聞く。
(僕の隣で寝るの、嫌だったのかな)
一人で回答を先取りし、勝手に落ち込む。ダブルでよいと言われた時、実は、かなり舞い上がっていたのだ。隣で眠る事を許されたようで、恋人ごっこだと浮かれていた。
「嫌ではない! ただ、若い君が、私のようなおじさんとベッドを共にする事を、気持ち悪く思わないだろうかと」
思った、と言う語尾は消えかけている。
「気持ち悪いわけないでしょうが!!」
バルトは思いもよらない言葉に飛び上がる。
「気持ち悪かったら、そもそも同じ部屋で取りません!」
「え、あ、はい。すみません」
「気持ち悪かったら、ダブルでいいか、なんて聞きません!」
「すみません」
自尊心と共に小さくなる新屯。
「っていうか! 僕がそんな態度を取ったことがありますか!? ニュートン先生が気持ち悪いだなんて! 寝言は寝て言ってくださいよ!」
ほこりのように消え去ってしまいそうな新屯は、声を振り絞って尋ねる。
「バルトは、ダブルの意味を分かっていて、この部屋を取ったのか……?」
「……っ」
今度はバルトが詰まる。
「だ、だって、ダブルの方が安いので」
「金は私が出すのだから、気にしなくてもよかったのに」
「先生は、また金、金って――」
くぅっと、何かが鳴った。
新屯が顔を上げると、顔を真っ赤にしたバルトと目が合った。
「今のは?」
バルトは黙ったまま、目を泳がせる。
「腹の音か?」
「……お昼から、何も食べてないんです」
「それは大変だっ、夕食といこう」
新屯は立ち上がる。
「え、でも、先生はお疲れでは?」
「君に食べさせるのが優先だ」
腕を引くと、バルトは抵抗せずについてきた。彼の目は、無機質に見える男の優しさを映している。
「先生……(きゅん!)」
新屯は、バルトを優先させる行為を、可愛い弟子に対する厚意だと思って辻褄を合わせていた。
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