第2節 蓮の過去

 顕微鏡を覗いていた男は、突然せり上がってきた喉の違和感を手で押さえた。

「けほっ、げほ」

 急いで口を覆った手には、数滴の血が付いている。

「チッ」

 今年に入って二回目だった。服部は、ここ最近で血を吐く事が増えた。これも、弱い身体で生まれた宿命なのだろうか。

(血を吐いて健康でいられるなら、いくらでも吐いてやるよ)

 強い水の勢いで、汚れた手を洗う。無意識で顔を上げると、鏡に映った白い顔に怒りが芽生える。

「クソッ」


 突然、美しいエチュードが流れてきた。2/4拍子のホ長調。


 着信音の手招きだった。机に戻ると、彼は何も考えずに相手の名を確かめる。

「……会長だ!」

 急いでボタンを押して応答する。尊敬する人物に失礼のないよう、気持ちを正す。


「お疲れ様です。服部です」

『おう! お疲れ。今、大丈夫か?』

「はい。問題ありません」

 何事なのかと、鼓動が増す。

『晴丘が君を褒めていたよ。“服部の観察力はピカイチ!”だと言って!』

(おお良かった。緊急事態じゃなかった)

 どの研究を先行されたのかと、内心焦っていた服部は胸を撫で下ろす。


「恐縮です」

『いや冷静に、俺も本当にそう思う。様々なジャンルに挑戦し、己を高めようとする姿勢。元の才能を活かし、新たな作品を作る力。誰でもできる事じゃない』

「大袈裟ですよ」

 とは言ったものの、血肉は歓喜で沸騰していた。簿入に才能を発見されてから、独立してここまで、会長や蓮のような研究者を目指して捲土重来してきた。人生のやり直しを成功しつつあるような気になり、天にも昇る気持ちだ。つい、つま先が小躍りする。


『それから昨日、新情報を晴丘から聞いたぞ! 彗星の件、良い感じに進んでるみたいだな!』

 一瞬、何の事を言われているのか、服部は理解できなかった。「彗星の件」は分かる。晴丘と蓮と共に進めている研究の事だろう。しかし、何のきっかけを持って、晴丘は会長にわざわざ経過報告をしたのだろう。一度、JS会議で発表しているのだから、それ以降、逐一の報告はしないつもりだったが。


「ありがとうございます。あの、晴丘の方からは何と報告がありましたか?」

『三人で予想した軌道と周期を持って新屯の所へ持って行ったら、新屯は違う結果を出したんだろう? それを晴丘が持ち帰って法則を考え直したところ、新屯の計算が“Make senseだった!”そうだな?』

 服部は言葉が出なかった。

(新屯の所へ持って行った? そんなこと聞いてねぇ!)


「そんなこと……」

『凄いじゃないか! 新屯が出した計算なら間違いないな! これで心配なく先に集中できる』

「待ってください! 確かに新屯さんの実力は知っています。でも、ヤツは一度、予想を外しています」

『一度間違えたことが何だ! 指標がある方が、お前も準備しやすいだろう? 新屯の才能は確かだ。晴丘は一番の適任に協力を依頼したと、俺は思っている』

 服部は、左手を強く握った。それは小刻みに震えている。

『とにかく! 俺は服部に期待してるからな。君たちの進展を心から願っている! では』


 通話が切れて、服部の手は力なく垂れた。

(聞いてない聞いてない聞いてない)

 新屯に手柄を取られた心地だった。チームだとも思っていない相手に、知らぬ間に余計な手助けをされ、侮辱されたようで悔しい。更に悪い事には、新屯の、独り占めを好くという悪い性格を、世間は謙遜と捉える。自分の成果を誇ったり、喚いたりしない性格が良しとされているのも、世間が新屯の方を服部よりも一段上に持ち上げる悪因だろう。これからも、世間は益々、新屯を推すのだろう。平等を装っている会長でさえ。

(俺を差し置いて……っ!)


 物に当たって冷静になった服部は、晴丘に文章で確かめる事にした。会長から聞いたことは本当かと。新屯のもとに、自分たちの「努力の結晶」を持ち込んだのかと。


『二人に伝えるの忘れてました。本当です』

 帰ってきたのは、悪気のない一文だけ。それにも、服部は血液が逆流しそうになった。


 その頃、晴丘の方はこっそり顔を青ざめさせていた。新発見に興奮するあまり、新屯との約束を忘れ、会長に話してしまったと気づいたのだ。


 またその頃、その一部始終を晴丘から知らされた蓮は、誰よりも顔の色が抜けていた。







 土曜日の会合の日。集合時間より三十分前に、新屯は会場に着く。

「バルト」

「ニュートン先生!」

 バルトは、新屯の肩に手を添えて、自分の頬を彼の頬に付ける。「chu」というリップ音も忘れず。

 この挨拶は、バルトは慣れているものの、新屯はまだ緊張してしまう。しかし、離れた後のバルトが素敵な笑顔を向けてくれるため、新屯にとっても、至極好きな瞬間なのだった。彼の笑顔は、新屯の無表情を張り付けた顔をいつでも照らしてくれる。その温かさは、孤独な科学者の、長期間の氷河期を溶かしてくれるようだった。産まれた時から氷河のように凍えていた男の、黒く固まってしまった心を。


「北海道では、色々収集できたようで良かった」

「はい! いい経験になりました! でも」

「でも?」

 新屯は、彼の顔を不安げに覗き込む。

「ニュートン先生と二週間も会えなくて、寂しかったです」

 上目遣いで放たれる言葉のせいで、四十九歳男性は脳の機関が爆発した。思考停止した新屯は、究極の無表情を発動させる。

「一カ月後には大阪に行くから、また離れなきゃ……あれ、ニュートン先生? 先生? 死んでる!?」


「……死んでいない……二週間くらいで大袈裟だ」

 間一髪のところで、新屯は戻ってくる事ができた。

「じゃあ、先生は平気だったんですか?」

 バルトは先週の会合に出られなかったため、今日二人が会うのは二週間ぶりなのだ。彼は、新屯の方も寂しく思っていてくれた事を期待している。

「ああ、私は、大人だからな」

(プライド高いなあ)

 大人の彼から本音を聞き出す事は、太平洋で落とした指輪を見つけ出すより難儀だ。

「それより見てください! 今、北海道で流行ってるトピックがあるみたいで……」

「うんうん」




 二人の遠く後ろで、服部は新屯に殴り込む準備をしていたところを、仲間たちに押さえ込まれていた。

「あんな事しておいて、よくもああしゃあしゃあとイチャイチャしやがって……! 俺の手柄を返せえぇ!」

 怒りが収まらない服部は、彼らの手から抜け出そうと暴れる。

「ゴメンって! ワタシが悪いから、新屯さん悪くないから!」

 晴丘が背中に引っ付いて押さえる。

「暴力は良くない。取りあえず落ち着きなよ」

 蓮も精一杯、弱い力で腕を引っ張る。

「じゃあ俺はチームを抜ける! お前たちとなんかやってられっか!」

「そこを何とか! 服部の力が必要なんだよ!」

 亀の甲羅のように背中から離れない晴丘が説得する。

「じゃあせめて“さん”付けろよ! 俺のこともドクターって呼べよ!」

「紳士があまり叫ぶものじゃないよ。人様の迷惑には……」

「うるせえ!」

 会員たちの冷たい目を浴びながら、三人は団子になっていた。


「お前たち、元気だなあ! 元気があるのは良い事だ!」

 会長が満面の笑みで部屋へ入ってきた。目の前で塊になっている三人に向けて声を掛ける。

「会長! 服部くんを止めてくだサイ!」

「“くん”!? ふざけんな! 俺、年上だぞ! と、し、う、え!!」

「おお、服部! 研究はどうだ? 一番、お前に期待してるからな!」

「会長!」

 会長に目を合わせた服部は、突然ピタッと動きを止めた。


「はい。全力でやらせていただきます」

 先程まで鬼の形相だったのが、今度は威容で礼儀正しい態度に変わる。

「服部くんの中には、もう一人誰か入ってルんですか?」

 晴丘はウィスパーボイスで蓮に尋ねる。

「いいえ。あれは、見栄を張ると言います」

「悪い意味ですか?」

「いいえ。良い意味です」

 皆が一番だと思っている会長が壇上へ歩いていく。それを見送る服部は、「言っちまった! 抜けられなくなったああああ!」と内心で叫びを上げた。




 協会の事務局長を任されている服部は、資料をまとめ終わった後、遅くなってから『レスベラトロール』へ向かった。


「服部、こっちだよ」

 ドアを開けると、カウンター席に座っている蓮が手を挙げて合図したのが目に入った。その隣には、もう一人、知った顔がいた。

「遅くまでお疲れ様。岩渕です」

「どうも」

 科学界をうろついている記者のことは覚えている。一度、服部も取材をされた事があった。


 服部は店内を見回す。満席とまではいかないが繁盛はしている。今夜いるのは、東アカの会員数名、よく見る一般人が三人、初めて見る顔が二人、店員とお喋りしている晴丘が一人。

「大丈夫。新屯はいないよ」

 岩渕が笑って、服部の席を作ってくれる。

「おいがいるから、自動的に新屯もいるなんて公式はないぜ。はっはっは」

 それを聞いて、服部は安心する。新屯一人がその場に混じっているだけで、服部はエネルギーが削がれて疲れてしまう。その心配は、今夜はない。


「今日も取材ですか」

 空けてもらった席に着いて、マスターに「いつもの」と目で合図する。マスターは静かに頷く。ちなみに、彼の「いつもの」は、月初めは期間限定ドリンクで、次の来店時に新作があればそれ。無い、又はそれ以降の来店時はオリジナルブレンドコーヒーと決まっている。

「そう。例によって個人的なものだけど。おいが特に信頼している人たちに、聞きたい事があって」

「それなら、もう蓮には聞いたんでしょうね」

「もちろん!」

 力強く、岩渕が頷く。

「服部にも聞きたいんだって」

 隣から蓮が喋る。

「え、俺? 信頼あります?」

「そりゃ、蓮さんの友達だもの」

「友の七光りだ」

 蓮と岩渕は似たセンスで笑う。服部は付いていく事を諦めた。小柄な丈が、更に小さくなる。

「まあ、俺で答えられる事なら」

 記者と目を合わせると、彼は顔を近づけてきて、小声で話し始めた。

「おいが、今からする質問を君がされた事、誰にも言わないで欲しいんだ」

 服部は構えて、頷く。


「新屯とバルトの関係について、何か聞いた事はない?」


 そんな事かと、小柄な男は警戒を解いた。

「いくつか聞きますけど、どれも噂の域を出ませんよ」

 お前もこれを聞かれたのか? という顔で蓮を見る。友は頷く。

「どういった内容か、教えてくれ」

「俺が聞いたのは、『付き合ってる』とか、『若造の方が新屯に洗脳されて、ヤられてる』とか? そりゃ、歳の差凄いのに、あんだけ一緒にいればそんな噂も出るわな」

「信じてるか?」

 記者の顔をした目の前の男は、差し迫った勢いで問う。

「酒のネタに最高なだけで、俺は本気で信じちゃいねぇ。そもそも、あの石野郎、人嫌いだろうが」

 石野郎の顔を思い出しただけでイライラしてくる服部。口調が荒くなっている事に気づいていない。


「そうかい。ご協力ありがとう」

 凄みを引っ込めて、記者の顔は離れていった。

「でも、“新屯さんだから”、噂が広がってるのだと僕は思いますよ」

 質問タイムを見守っていた蓮が口を開く。

「他の会員がバルトさんと一緒にいても、噂にはならなかったと予想します。人嫌いで、不必要に人と関わらない新屯さんだからこそ、若者と一緒にいる事が余計に目立ってしまっているのではないですか」

「そうですよね。おいも、そう思います」

「あと何か、距離近いし、あの外人が入ってきてから石野郎が変わったよな」

 服部も思っていた事を言う。

「あの藻屑を寄せ集めたみたいな髪が、ワカメを撫でつけたような髪になったし。今更、石野郎が石磨きしたところで若作りにしか見えねぇけど」

「そこらへんにしときな」

 蓮が服部の腕をつついて止める。

「へいへい」


「お待たせいたしました、服部様。期間限定の『ボルボックスジュース』です」

 服部の前に、半透明な黄緑色の炭酸ジュースが出された。ボルボックスに見立てた薄切りの果物がプカプカと浮かび、炭酸水が透明な淡水のようで、まるで、顕微鏡の向こうの世界。

「えっ、かわい……」

 思わず口に出し、手で覆う。しかし、今日の日記に書くメインはこれで決まった。

「ありがとうございます。服部様は毎月、新作に挑戦してくださるので、こちらも作り甲斐があるのです」

 マスターが嬉しそうに礼を言う。その笑顔の裏には、ゲテモノ新作と呼ばれる商品たちの実験台になってくれる服部への感謝があった。

「よかったな! 服部さん!」

「べ、別に!」

 素直でない口の服部だが、ネットに上げる写真はしっかり撮っていた。その横で岩渕が声を上げて笑っている。微笑ましい光景を、蓮は目を細めて眺めていた。




 駅が違う服部は途中で別れ、岩渕と蓮は並んで駅へ向かった。狭い空には星が見えない。

「岩渕さん」

「はい?」

 いつものように、科学へのロマンを理論で語り合っていた中。蓮が少し声を低めて話題を変えた。


「今日、新屯さんとバルトさんのことを聞いたのは……怪しんでいるからですよね?」

 岩渕は蓮の目を見る。彼も、岩渕の目を見ている。

「……そうです」

「僕も長年、新屯さんとお付き合いさせてもらっているので感じていました。彼は、とても敏感な人だから、どんな衝撃で崩れてしまうか分からない」

 人よりも、先の先を読む蓮が、どこまでこちらの考えを見抜いているのか。岩渕は探りながら会話する。


「はい。質問を他言しないよう言ったのは、煙を掻き立てないためです。新屯はおいの、大事な友達なんで」

「友達……そうですね。僕たちは、新屯さんの数少ない貴重な友人ですから、僕たちは彼を守らないといけませんね」

「蓮さんも、気づいてたんですね」

「はい。友達ですから」

 風の音はするのに、虫の声は聞こえるのに、森閑が二人を包んでいた。


「岩渕さんが、どのようなおつもりで“友達”と仰るのかは置いておく事にして、僕に出来る事があるならば、できるだけ協力します」

 彼の発言の前半については、岩渕は触れない事に決めた。ボロが出るくらいなら、最初から敷かないに尽きる。

「おいに、出来る事があるならね」

「僕は、岩渕さんが望まれる方に付きますよ」

「……」

 弄んでいた電子タバコが、岩渕の手から逃げた。コンクリートにぶつかり、乾いた音を立てる。


「残される者の経験は、一人で乗り越えなくてもいい。そう教えて下さったのは、あなたです。岩渕さん」

 落下した電子タバコを拾い、汚れを丁寧に払った後、蓮は岩渕に差し出した。岩渕は手を伸ばす。

「ありが――」

 タバコに触れようとした瞬間、その手を掴まれた。思ったよりも衰えていない友の力に驚く。それと同時に、ぐっと距離を詰められた。


「愛される者と離されるのは、辛いですから」


 顔の皺は深いが、目の奥はそれ以上に深く、底が見えない。岩渕は初めて、気の置けない友に震えた。

「……なんて、老人が言っても決まらないですね」

 彼の紳士的な笑顔が現れて、周囲の雑音も戻ってきた。岩渕は、先程までの時間だけ、異空間に飛んでいたように感じる。


「主人公は若者、なんて、法律で決まっていませんぜ。歳を取っても主人公!」

「岩渕さんもね」

 純粋に微笑む蓮。そんな彼が経験してきた歴史を思い、自分ができる共感の追いには限界があるのだと思い知る。経験から得た深い感傷を、本人以外の他人が知る事には、どうしようもない境界が存在してしまう。どんなに同情しようと、どんなに憐れんでも、跨げない先が。


「ああ、そういえば、息子さんたちは元気ですか」

 岩渕は無理やり話題を転換させ、己の無力を考えないようにした。この能力は、記者になってから身に付いたものだった。

「恐らく。聞いてくださいよ、あの子らったら、全く連絡も寄越さないで……誰に似たんでしょうね!」

 彼らに星空は見えずとも、星空は彼らを見守っていた。




 岩渕と別れた後、蓮は家に帰り着いた。一人には大きすぎる家。それもそう。元々は、一人で住んでいたのではなかったのだから。




 この家は、蓮が建築家として認められた二十七歳の時に建てられた。幼馴染だった新妻と相談して、リビングはどれくらい広く取るか、外観は煉瓦にしようか、部屋はいくつ作って、子供部屋はそれぞれ設けてやろう、と、決めた。もちろん設計は蓮が担当し、完成した際には皆に祝福された。その中には岩渕もいた。

 妻との記念日には彼女とプレゼントを贈り合って、特別な日もそうでない日も、毎日が幸せだった。子供が中々できないという悩みはあったが、それも時間が解決してくれると考え、世間の人達と同じ幸せを二人で待っていた。


『残念ですが……』

 医者にそう宣告された時は、自分の耳を疑った。身体の弱い妻が命を懸けて産んだ子供は、二歳にも届かずに亡くなったのだ。

 悲しくないと言えば大嘘だ。しかし、真面目に生きてきた自分たちを、神が見捨てるとは考えられない。その願いは受け入れられ、奇跡の命は再び二人のもとに降りてきた。

『これからは、僕たち三人の物語になるね』

 幼くして亡くなってしまった子のぶんも、幸せになろうと誓った。


 子供は自分の命より尊く、あの子の生まれ変わりにも思え、溢れ出る愛情は全て注いだ。


 だが、幸せな時間に永遠が充てられることはなかった。


 最愛の妻は、流行り病によって息を引き取った。




 悲しみに耐えられなかった蓮は、仕事で知り合った女性を新たな妻として迎え入れた。彼女は、蓮の悲痛な身の上を理解してくれ、息子にも本物の親のように接してくれた。そのため、最初に思い描いていた幸せからは逸れたが、これからの幸せを描いていこうと彼は決心できたのだ。

 だが、その時間にも、永遠は振り返ってくれなかった。


 新たな妻は、二人の子供を残してこの世を去った。


(ああもう駄目なんだ。僕は神様に嫌われている。どうあがいても結末は……いつも同じ)


 顔の広い蓮は、二人の妻に先立たれた後も様々な人から紹介を受けた。優しい人、明るい人、知的な人。皆、魅力的な人たちばかり。それでも、「永遠はない」と知ってしまった彼は、誰とも一緒になる事を考えられなくなっていた。




『建築士の知り合い、紹介してくれませんかね』

 仕事で知り合った気の合う友は、仕事を理由にして現れた。いつまでも沈んでいる訳にもいかないと、蓮は岩渕の相談を請け負った。細かい話は覚えていない。だが、この時彼が残していった言葉は、蓮の心に永遠に刻まれる事になった。

『知識という物は、条件が揃えば誰にでも収穫できる。でも、経験だけは、選ばれた者にしか得ることができません』


 どんなに膨大な知識も、その人の経験を超える事はできない。


 そう教えられた。

 上を向くと、いつも岩渕は手を伸ばしてくれている。選ばれし者だけが受け取れる経験に潰されそうになったら、彼が共に支えてくれる。経験は貴重な宝物だ。だが、それを一人で乗り越えなければならないと、誰が言った?




「歳を取っても主人公か……それなら、死ぬまで主人公になってやりますか」

 入浴後に髪を乾かしながら、蓮は小さく笑った。この、大きな家で。

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