第5章 実る果実の重力法則
第1節 新屯と晴丘
数日経って、新屯が大学の研究室で軽い会議をしていた午後。何の事前報告もなく、晴丘が訪問してきた。訪問というよりは乱入に近いが。
「新屯さん、いますカ!」
騒がしい声に振り向くと、サングラスもずり落ちた晴丘の顔が目に入った。
「ここにいます。どうされました」
「ああドクター! あなたの発想力と計算力をお借りしたいのです!」
そう言うと、彼は印刷した紙を新屯の顔面に突き付けた。
「何だ?」
引き剥がして内容を見る。彼が研究している彗星の軌道についてだった。
「ワタシたちの導き出した彗星の軌道が、正確な公式の軌道に乗っているか、新屯さんに確かめて欲しいんデス!」
彼がワタシ“たち”と言った事から、この計算が服部たちの手によって出された結果だと新屯は理解できた。
「晴丘さんの申し出を断るのは心苦しいのですが、私は、アイツが関わっている研究には関わりたくありません。何か言われるに決まっている」
「お願いです! この通り!」
手を合わせて、ジャパニーズ式に頼み込む晴丘。
「ワタシたちの仲でございますよ! 頼みます! 頼みます!」
確かに、研究室に引きこもっていた新屯の才能を見つけ出し、信じて、ここまで引っ張り出してくれたうちの一人は晴丘だ。晴丘と、今は亡き馬廊教授。それが皮肉にも、煩わしい人間関係を生む事になったのだが、それがなければ、今頃自分は科学に取り憑かれていたかもしれない。
『に、に、新屯さんは天才だ! ワタシは確信しています! この理論は論文にして世に出すべきです!』
この時、晴丘はまだ学生のような見た目で、新屯の方にも廃れた若さがまだ残っていた。
出会った瞬間から、今の今まで、晴丘が新屯の理論に否定を叩きつける事はなかった。であるから、新屯は完全には晴丘に心を閉ざさず、また、彼の才能に尊敬も払っている。だが、信頼している事と、自分の身に変化をもたらされるのとは、また別の話だ。
『世には出しません。私は、自分の名が広まり、交流も広がってしまう事が世にも不幸な事と考えております』
『そんな! あなたの才能を必要としている人が、世界にどれだけいることか! 皆、あなたを待っています!』
『私の見つけた理論を盗もうとする人が?』
『No! ノオォォーーーゥ!』
『聞いてください。私は、あなたの誘いだから断っているのではないのです。誰に言われても、私は同じ事を言うでしょう』
吠える晴丘をなだめてみる。
『頼みます! 頼みます! どうか! この理論だけでも出してください!』
『断ります』
『お願いです!』
あの時と同じ事を繰り返していると、新屯はフラッシュバックした過去を振り返っていた。
「……あの時、ワタシが論文を出すことを進めなければ、新屯さんが傷つくことはなかったと、申し訳なく思ってます」
顔を上げた晴丘が、深刻そうに申し出る。新屯が汗水垂らして書き上げた論文は、一晩で先を越されてしまった。
「いえ、あの件はもういいのです。私はただ」
「先を越されて、無駄骨をしたと思ったのですよね? 研究者として、気持ちは痛いほど分かります」
「確かに、時間を返して欲しいとは感じましたが、もう過ぎた事ですし」
それに、論文を出すと決めたのが遅く、書き上げるのにも時間がかかったのだから、晴丘のせいではないと新屯は分かっていた。
「懲りずにもう一度、ワタシに手を、いや、脳を貸してください!」
彼は、新屯の危惧している事から少し論点がずれている。
「頼みます!」
「お断りします」
「一生のお願いデス!」
「それは、この前も言っていましたが……」
競り合いの末、新屯の名前を出さないという約束で、晴丘は彼の協力を得る事に成功した。新屯の方は、この協力が服部へではなく、晴丘と蓮への協力だと考える事にした。
「ありがとうございます、ドクター! あなたに幸がありますように! それでは、Have a nice day!」
鼻歌を歌いながら、嵐の晴丘は去っていった。
(新屯さん、チョット変わったかな)
廊下をスキップで歩く晴丘は思う。彼の知っている新屯は、石のように頑固で、岩のように動かず、壁のように威圧感がある男だった。だが、最近の新屯は、人に心を開き始めているように見える。
(好きな人でもできたのかも!)
スキップがいつの間にかジャンプになって、行き交う学生たちを驚かせてしまった。
「アイムソーリー! アストロノーミー!」
(いつも、楽しそうな人だ)
会議を中断してしまった事を仲間に謝罪した後、新屯は思った。そんな彼にはどうしたってなれないから、羨ましく思わない事もない。
(もっと気楽に生きられたら、楽なのだろう)
しかし、感傷的になる暇もなく、楽し気な天文学者に渡された資料へ目を通し始めていた。
その問題は一晩で解かれた。
その出題者は、華麗に解かれてしまった問題の前で唸っていた。
「ぐぐ……俺だって六年かかった問題なのに。しかも、こんなに綺麗な解を作りやがって」
「やばい、凄い、バルトくん」
「何分かかったの?」
数学者たちはこぞって、バルトに問題を持ち掛けてきていた。
「二十分だ。これは、聞いた通りの本物だな」
「是非とも、うちの協会にも入って欲しいものだ。ははは」
沢山の名立たる数学者たちに囲まれて、バルトは光栄だった。だが、それと共に、「この程度か」と冷めている自分もいた。顔には決して出さないが。
「逆に、どこに二十分を使ったんですか」
一人が質問してきた。
「どう綺麗に解こうかなって思ってたら、時間使っちゃいましたね」
「“見えた”のは?」
「始まって五分、くらいですかね」
「問いを理解してからすぐじゃないか」
周囲がざわつく。悪い気はしないバルトだが、物足りない。
「その数学力なら、天文学や物理学にも手を出せるはずですが、そのおつもりは?」
「もう出しています」
また浮いたような声が沸き上がる。
「あ! それで、あの新屯さんと関係があるって事ですか!?」
ここで、その人の名前を聞く事になるとは思わず、答えが遅れた。
「あ、そうですね。仲良くさせていただいてます……」
耳が熱い。語尾も少し噛んでしまった。
「やっぱりそうなんだ。ってことはさぁ、あの噂は本当?」
「おい、やめろって……」
下品な質問だと、バルトは不快に思う。しかし、止める者も含め、この場にいる者たちは興味があるような顔をしている。ここで下手に否定的な言葉を返したり、無視するのはよろしくない未来が待っているように見える。
「噂って何でしょう?」
穏やかな笑みで答える。
「え、知りません? お二人は付き合って……」
「やめましょう」
その場を仕切っていた偉い人が、話題を中断させた。
「数学とは関係ない事です。そんな事を聞くために、バルトくんをここに呼んだんじゃないですよ」
(ここでも噂が広まってるんだ……嫌だな)
新屯の足手纏いになりたくないバルトは、科学アカデミー協会以外にも噂が広がってしまっている事を知って憂鬱になった。そろそろ、新屯の耳にもこの噂が入っている確率が上がり始めている。
(ニュートン先生はどう思ってるんだろう。やっぱり、嫌、なのかな)
「ご不快な思いをさせてしまったらすみません。さて、せっかく北海道までいらしたのですから、観光でもしていきませんか? お勧めのスポットがあるんですよ」
「本当ですか? それは行ってみたいです」
お得意の笑顔で持ち直し、雰囲気を作る。恋しいあの人の、無表情な横顔を想いながら。
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