第4節 バルトの過去
時計の針は進み、バルトが日本に帰ってくる日になった。あれから二人は、スキエンティアメメントモリや、新たな重力説の情報などを交換していた。文字上では何事もなかったように振る舞ったが、互いの腹の底には、どうしても拭えないしこりがあった。
分かり合いたいのに、分かり合えない何かがある。見えないのに、そこには確実にある何か。言葉にできるほど独立した感情ではなく、言葉にできても口にはできない。不器用な人間の心は、あまりにも複雑すぎて、創造主の意図ではないようだ。
(バルトが私の提案を断った事が、理解できない。早く私の助手になってしまえばいいものを。その方が、いくらも簡単なのに)
ずっと隠しているモヤモヤを抱え、新屯はいつかのように空港へ向かっていた。ハンドルを握る手には力が入っている。身体は、はやる気持ちを表すように、前かがみになっていた。カバンには、バルトに渡す旅費が入っている。
(彼さえ頷けば、私は滅茶苦茶に考える事をせずに済むし、話が早い。何とか説得できないものか)
バルトを助手に迎えたい気持ちが、バルトのためを思って派生した親切なのだと、彼は思い込む。
早朝の駐車場に車を停めて、空港内に入り、時計を確認する。飛行機が到着するにはまだ早い時間だと、鼻で笑った。真面目な新屯は、集合時間の十分前には着いている事を目的に行動する。しかし今回は、一時間も早かったのだ。
仕方なく、無能どもから依頼された仕事を片付けて時間を潰す。時計をちらちら見て、やっと着陸時間になった。
(行くか)
資料をまとめ、カバンを肩にかける。しかし、腰を浮かした途端、出口で出待ちをする自分を想像して恥ずかしく思えてきた。
(いかにも、待ち遠しかったみたいではないか)
しかし、早く顔を見たいのは本当だ。数秒考えて、折衷案として、出口から少し離れた場所で待つ事にした。もちろん、出口は視界に入っている。自分以外の人は、友や家族、恋人を迎えようと素直に出待ちをしている。
(どこで待とうと、到着時間は変わらない)
しかし、自分とは違って、会いたい人に「会いたい」と表現できる純粋さを、羨ましいとも感じていた。
荷物を引きずりながら、飛びつく勢いで走り寄るバルトの笑顔を想像する。「ニュートン先生!」と、黄金比の笑みを浮かべながら叫んで、手を大きく振る彼。妄想の彼は、どこまでも若く、美しく、活発な青年だ。
一人目の乗客が出てきた。バルトではない。
(バルトはエコノミーを使ったのか)
続いて、ちらほらと人が出てきた。やはりバルトはいない。
(波に紛れて出てくるだろう)
やがて、一番大きな人だかりが出てきた。新屯は、無い動体視力をフルで使いながらバルトを探す。出待ちをしていた人々が声を上げて、幸せそうにその場を一緒に離れていく。
(いない……まあ、ここで出てくるのは家族連れが多いものだ)
段々とピークが過ぎて、出てくる乗客が減る。出待ち人も少なくなっていく。取り残された新屯は、少しずつ不安になっていく。
(便を間違えたか? 私が? それとも、バルトが乗り遅れたか。だが、それなら連絡が来るはず)
再び確認しても、今のところは何の連絡もなかった。あれば気づいているのだから当たり前だ。
(嘘を、つかれた、のではないか)
恥じを感じていた余裕は飛んでいき、両足は出口に近づいていた。その場に佇んでいるのは新屯だけだった。
(もしバルトが、日程に嘘をついていたとして、理由は? 嘘をつく理由はないはずだ)
(そう思っているのは、私だけ……?)
そう考えると、バルトが助手の誘いを断った理由にも筋が通る。
(バルトは、私のことなど……)
痛いほど手を握りしめる。
「ニュートン先生!」
フュームを吹き飛ばすような声が、新屯の耳に入った。顔を上げる。幻のような青年が、走ってくるのが見える。シルエットは思っていたよりも細い。
「遅くなっちゃいました!」
棒立ちの新屯の前に立つ。
「ちょっと機内で色々あって――」
言葉を止めざるを得なかった。バルトの鼻をくすぐったのは、愛おしい人の、懐かしい匂い。
「……ニュートン先生?」
時間に正確な男を怒らせてしまったかと心配していたバルトは、この状況が飲み込めなかった。新屯の髪を、肌を、ここまで間近で見た事などない。彼の熱に閉じ込められるのは、初めてだった。
「はっ、に、ニュートン先生!」
抱きしめられている事を脳が認識して、急いで腕を回す。その、ずっと見てきた、ずっと触れたかった、疲れた狭い背中に。孤独な背中は、今は見えない。
「おかえり、バルト」
「ただいま、ニュートン先生」
新屯は、バルトに尋ねたい事が沢山あった。死の間際に立ち、見えたものや感じた事はあったのかと。死ぬ前に、彼の心にいたのは何だったのかと。
一方、バルトも新屯に聞きたい事があった。病室で、つらつらと考えていた事。
(僕が本当に死んでいたら、あなたは追ってきてくれましたか)
だが今は何も言わず、お互いを抱きしめて、離さないようにしているだけで十分だった。
「そんなに見ないでくれ」
運転しながら、新屯は隣からの視線を撥ね除けた。
「ニュートン先生が隣にいるって、幸せだったんだなって」
「そんなこと聞いていない」
全く目を合わせようとしない運転手を、助手席のバルトは頬を緩めながら眺める。髪が伸び、肩の辺りで跳ねている新屯の姿が可愛らしく見えてしまう。
(僕、本当にあの時、死ななくてよかった)
そんな風に思う自分がとてもおかしく感じる。新屯に出会う前は、自分に命の危機が迫る事があれば、喜んで被験者になるつもりだったのだから。寧ろ、死者になるという貴重な体験を喜びとし、死後の自分が何になるのかと、胸を弾ませていた。
バルトが死を特別なものとして認識しているのには、わけがあった。というのも彼は、大切な人を失う経験をしていたからだ。
『何が分からないのか分からない。これ以上、易しく説明できないよ』
バルトは、早口のフランス語でまくし立てた。
『すみません』
生徒は謝る。彼は、家庭教師をしているバルトの生徒の一人だ。
『理解しようとしてないのが丸分かり。ふざけてんの?』
その生徒が本気で数学と向き合っていない事には気づいていた。彼が、数学より音楽に力を入れている事も。しかし、数学をおざなりに扱うその生徒に、バルトは妥協できなかった。数学こそバルトの世界。心置きなく浸っていられる楽園なのだ。その楽園を、少しでも多くの生徒に知って欲しい。
『はぁ。宿題、増やしておくから』
一年後、その生徒は持病が悪化して亡くなった。十五年間の重みを持った薄い遺書には、「もっと音楽をやりたかった」と書いてあった。バルトを悪く思う描写は一文字としてない。ただ、大好きな音楽をやりたかった、と。
彼には、彼の楽園があったのかもしれない。
(僕は、僕の楽園を無理に押し付けようとしていただけだ)
理解してやればよかった。もっと愛情を与えてやればよかった。こんなに早く逝ってしまうなら。
身近な人間の死という衝撃を受けた冬だった。
その一年後。ほどなくして、たった一人の友も亡くなった。唯一、ありのままの自分を受け入れてくれる人だった。
『ニコラは熱い心を持ちながら、それを着飾らず、人に接するよな。だから冷酷な人って言われるんだよ。数学のことになると、絶対に譲らないだろ?』
昔から見ていてくれた友は、晴天の笑顔で笑い飛ばした。
『うるさい』
だが、バルトも成長の過程で気づいていた。どんな自分でも受け入れてくれる人が一人でもいるなら、安心してありのままでいられる事を。そんな奇跡の存在が、自分の隣にはいてくれる。彼さえいれば、人間界を敵に回しても怖くなかった。
(ありがとう)
今更、素直になるのは恥ずかしい。でも、心はいつも、世界一優しい親友を抱きしめていた。
(ありのままの僕を愛してくれる人は死んだ。もう、このままの僕を愛してくれる人はいない。誰かに愛されるためには、飾らないと。自分を偽ってでも気に入られなければ、混沌の人間界を上手く渡っていけない)
それからは死後の世界に思いを馳せる事が増え、その勉強も始めた。そして、半年もあれば、笑顔の方もお手の物になっていた。
もう、誰にも先立って欲しくない。
それなら、なぜ自分が新屯と共にいたいと願っているのか。歳が離れていれば、その数ほど別れが早くなる事は承知であるのに。
バルトは、矛盾の仮面を被った真実を解こうとは思わなかった。それは、自分をこれ以上傷つけないためだった。
「ねえ先生、海が見たいです」
仏頂面の運転手に向かって言った。
「海? 飛行機から散々見えただろう?」
「空から見る海と、地上から見る海は違うんです!」
「分かった分かった」
車線を変更させるのに、時間はかからなかった。
海に着く頃には、日が高くなっていた。新屯が車を停めたのは、ムードもクソない港。海というより湾だ。
「さすが先生だ」
皮肉の言葉を放ち、バルトは車を降りる。続いて、誉め言葉を貰ったと思っている新屯も降りる。バルトは黒いコンクリートの上を歩いて、潮の風を受ける。その後ろを新屯が付いていく。会話の隙間は、ウミネコと潮騒が埋めてくれた。
(ああ、日本だな)
景色も匂いも、後ろを歩く愛おしい人も。
「先生」
「ん?」
「ニュートン先生」
「何だ」
「せーんせい」
「だから、何だって」
言おうと決断していたのだが、それ以上の言葉が出なかった。名前を呼ぶだけで、胸が高鳴って、何も聞こえなくなる。こんなに大きく動く心臓が、自分の身体に収まっている事が不思議なほど。
(先生から、言ってくれればいいのに)
虹を追いかけるような夢を見てしまい、笑いたいのか、泣きたいのか、バルトは自分でも分からないのだった。
「これ、あちらの代表から。先生宛に渡された挑戦状です。ニュートン先生はインドでも有名でしたよ」
「……それは、困ったな」
結局、自分の告白よりも、数学の問題を渡す方が彼はしっくりきた。
「インドの土産が数学だとは、お国柄が出ているな」
「しかも円周率だし」
共通の引き出しを開けた二人は、無言で笑い合った。
「君が病気に罹ったと知った時、私は、君が数学をやめてしまうのではないかと不安だった」
「確かに、酷い時は机にも向かえませんでした。でも理想は、死ぬまで数字と付き合っていたいですね」
「それを聞いて安心した」
安心した理由が、数学という共通する世界が二人を囲んでいる事を感じられたからだとは、新屯は気づかない。バルトが数学を続ける限り、彼は自分の横にいてくれると信じ込んでいるのだ。
「僕は、絶対に諦めませんよ。道が見えるのに立ち止まったりしない。知りたい全ての謎を解き明かすまで、歩き続けます」
一度、命の境を彷徨ったからだろうか。バルトは人間として一皮剥けたように見える。新屯には、彼の命がいっそう輝いて見えた。
「私は、真実の大海原を求める君が好きだ」
(真の探求者は、自分が憧れの海を泳いでいることに気づかないのですよ。ニュートン先生)
バルトはもはや、自分のためだけに研究をしている心地がしない。喜んで欲しい誰かのためにも突き進みたかった。科学に留まらない、真実を愛す彼のために。
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