第3節 “別の理由”


 その日も、協会の会合で、服部と喧嘩をして帰ってきた。

(あの愚か者は自分の発言がいかに価値のない戯言か、気づいていないのか。真に、憐れみを禁じ得ない)


「新屯さん、おかえりなさい」

「ああ」

 大量の洗濯物を回す飯振が、疲れて帰ってきた研究者を迎える。だがその男は、飯振には見向きもせずに自室へ急いで向かった。

(最近、新屯さん、ずっとああだな)

 精気を搾り取られた顔で帰ってきて、急いで自室に入る。その後に、飯振が食事だと呼びに行くと、当てを外した顔が出てくる。まるで、人生の癒しを失った社畜のようだ。


「新屯さん、ご飯できてますよ。どこで食べます?」

 ドア越しに声を張り上げて尋ねる。ここまでしなければ、没頭癖のある頑固頭の耳には届かないからだ。

「部屋に置いてくれ」

 聞き取りづらい音で、地鳴りのような声を何とか拾い上げる。指示に従う事にした飯振は、一旦キッチンに食事を取りに戻り、盆に乗せて持ってきた。

「入りますよ」

 部屋に入り、一番近い机に盆を乗せる。その間も、新屯は何も言わず手を動かし続けていた。いくつかの画面が、新屯の手によってスライドされていく。

「ちゃんと食べてくださいね」

 返事を期待することなく、飯振はドアを閉めた。

(もしや、岩渕さんが言ってた“あの人”のことで、悩んでるのかも)

 飯振は、岩渕から“あの人”について聞いた事があった。




 一年前。飯振は、新屯の好調の理由を、岩渕に尋ねていた。

『知ってる。協会に、君と変わらないぐらいの歳頃の数学者が入ってきてからだよ。その彼にぞっこんみたい』

『新屯さんが? だってあの人、人嫌いですよね?』

『それがさぁ、よっぽど気質が合ったんだろうね。顔が好みってだけじゃなさそう』

『へえ、そんなに仲が良いんですか』

『良いなんてもんじゃない。あれは、前世からの契りでもあったのかと疑うほどであ~る。あ、こんなこと軽く言うと、そっち方面の研究者に怒られちゃう』

『新屯さんじゃないですか』




(でも、下手に探ろうとすると逆鱗に触れるんだろうな。放っておこう)

 飯振は、取り扱い注意な科学者の部屋を離れた。


 さて、腫れもの扱いの新屯は、バルトからの連絡がない事に焦り始めていた。

(もう三週間だ。何があったのだろう。無事だろうか)

 来る日も来る日も、送られてくるのは仕事の連絡。「参考にしたいので、意見を欲しい」、「是非とも、うちのチームに所属して欲しい」、「あなたの力を貸して欲しい」などなど。あとは、服部からのジャブだろうか。どの内容も、新屯の心を逆撫でるだけだった。

(私から連絡は……するべきではない。あちらも、慣れない生活で忙しいのだ。私の生存報告など彼には不要)

 この期に及んで、まだプライドが下がらない新屯は、手あたり次第の言い訳を並べた。


 ご無沙汰を決め込んだ内容以外の、数字に関する問題にいくつか返信をして、コラッツをどう説明してやろうかと駆け巡らせていた時、飯振の声が聞こえた。

「食器を下げに来ました。入りますよ」

 もうそんなに時間が経ったのかと、新屯は時計を見る。彼に食事を届けてもらってから二時間が過ぎていた。

「食べてないじゃないですか。食べてくださいよ。少しは栄養取らないと」

「食べる」

 ごみごみ言われる前に立ち上がる。そして、立ったまま二、三口の食事を終わらせて、元の席に着いた。


 飯振が帰ってからも、新屯は数学と向き合っていた。右脳の隅には、ブラウンの髪をなびかせた、愛おしい後ろ姿を浮かべながら。

 うつらうつらしていると、突然、目の前が光った。新しいメッセージが入ってきたのだ。差出人の名前が、脳を覚醒させる。



 ニコラオス・バルト。



 すぐに手は動いた。

『長いこと連絡もせずにすみません。実は、体調が優れず、安静にしておりました。睡眠不足が連日続いていますし、食事も戻してしまう始末です。最も酷いのは熱で、四十度から下がる気配なく三日目に入りました。今は辛いです』

 新屯は読んでいる途中にも関わらず、反射的に文章を打っていた。

『こちらは心配ない。まず、手遅れにならないうちに医者に掛かりなさい。金がないのなら、私が出そう』

 届いてからすぐ返信したのだが、バルトは相当身体が悪いのか、その日のうちに返事はなかった。




 再び、バルトから連絡があったのは二日後だった。

『今日、病院に行きました。このまま数週間、熱が下がらないようなら、治らない病だと言われました。病名は無いそうです。僕はどうしてしまったのでしょうか。どんな悪いことをして、神様がお怒りになっているのでしょうか。せめてもう一度、ニュートン先生に会いたいです』

 新屯は、直ちに家を出ようとした。しかし、すぐに思い留まった。最近の噂が思い起こされる。「新屯は、若者にいやらしい幻想を抱いている。地位を利用して騙している。我が物にしようと企んでいる」

 煩わしかった。根拠のない噂だと否定し切る事ができない自分にも腹が立った。


 そうこうしている間に二日が過ぎて、追って連絡が寄越された。

『一度、故郷に戻ってみてはどうかと、医者に提案されました。熱は下がりません』

『インドの気候が君に合っていないのではないか。そこで提案なのだが、東京に戻って私と同居してはどうだろう。そうすれば、私は君の生活面や費用を支える事を約束できる。身体がいうことを聞かない中、スイスまで戻る事が現実的だとは、私にはどうも思えないのだ。東京に戻り、良くなってから考えても遅くはない。交通費などの諸々の費用も、私が出す』


『なるほど。それも手だと思われます。最近は代表がよく面倒を見てくださって、弱っている僕にとっては本当にありがたいことです』

『私は君が心配でならない。君のことで、どれだけ眠れぬ日々を過ごしているか、言葉にならない。バルトがすぐにでも戻ってくるのなら、こちらで過ごしやすいように手配する』


『僕がそちらに戻ることを先生が望んでいるのなら、その通りにします。代表に頼んで、東京行きのチケットを取り寄せていただきましょう。ですが、費用や生活のことを除き、あなたがそのように誘う“別の理由”がおありなら、包み隠さずに教えてください』

 新屯は返事に困った。

(私が、費用や生活面以外の理由でバルトを呼び寄せる? 何を言いよるやら分からないが、取りあえず今は、彼の安否だけでも知って安心したい)

 自分でも分からない。人嫌いの自分が、なぜ彼だけは招き入れる気になったのか。なぜここまで、一人の青年のことで、精神を不安に荒らされているのか。心の振り子は、音を立てて右往左往している。


『私は、この上なく君の身体が心配なのだ。君も、見知らぬ土地で体調を崩して、不安と恐怖に襲われている事だろう。私はその心情を察する事ができる。とにかく今は、君の回復を祈るばかりだ』


 研究の事は頭に入れながらも、バルトのことが頭を取り巻いて離れない。こんな日が数日続いた。

(後遺症が残ってしまったら、どうすればいい? 彼が数学を捨ててしまったら? いや、それよりも)


 バルトが、亡くなってしまったら。


 頭も胸も悲鳴を上げる。悲鳴は耳鳴りとなり、数日間に渡って新屯を悩ませた。しかし、それを無駄な事だと感じる余裕は無かった。




 一週間ほど経って、返事が来た。

『もう、ニュートン先生にはお会いできないかもしれないと怯える毎日です。日に日に体中の筋肉が衰え、脳もあまり働きません。病名は発覚せず、毎日が地獄のようです。言葉を打つのにも手が震えるので、まだ何とか働く声帯で入力しています。聞いてください。もし、僕の身に何かあれば、僕より優秀な兄が、先生との関係を受け継いでくれるでしょう。それでは』

 生まれてからどの時よりも、新屯はすぐに返事をした。己の手も震えていた。しかし、それに対するバルトからの音沙汰はなかった。







 絶望を感じてから一カ月が経った頃だった。誰とも面会を断っていた新屯が、インド行きの便を検討し出した時、バルトからのメッセージが届いた。彼は、覆い被さるように画面に食いつく。

『驚くべきことです。信じられません。あの憎き、名も無い病が一瞬にして治ってしまいました。緑の目を持った男が、僕の病気を一つ残らず消したのです。

 彼の魔法のような薬は何だったのでしょう。すぐに彼も消えてしまって行方が分かりませんので、今となっては謎に包まれてしまいました。彼は、僕がフランス語を達者に話すと知って、嬉しそうに流暢なフランス語を話していました。フランス人なのか聞いたところ、国籍は持っていないと言っていました。僕が日本語を話した時には、たまらなく切なそうな顔をしました。あなたが、たまに僕に向けるそれのように』


 読み終えた途端、ばったりと足の力がなくなったような気がした。ドスンと椅子に身体を投げると、ゆっくりと首を上げ、天井を仰ぐ。

(そうか……そうか、そうか……バルト……バルト……よかった)

 四肢を投げ出したまま、振り子が静まっていくのを眺める。それなのに、なぜか流動してくる激情があった。

「ふ、はは……」

 迫りくる感情に耐えるべく、男は目を瞑った。







『とにかくよかった。提案なのだが、こちらに帰ってきたら、私の助手にならないか。君の地位は私が保証する。賃金も不安がないまで用意しよう。どうかな。私はもう、君と離れているのが恐ろしいみたいだ』


「ニュートン先生……」

 バルトは、込み上げる感情を少しだけ笑いに変えた。一人しかいない病室では、自分の声が思ったよりも響く。その漏れた声が、あまりにも幸せそうで、知的好奇心とは違う興奮を胸に染み渡らせる。

(でも……)

 愛する科学者と歳が開き過ぎた青年の中には、この感情に流されてはいけない理由があった。


 新屯環は、若者を食いものにしている。そんな噂。


 彼に近づいた時には考えもしなかった状況。あまりにも歳の離れた者同士が並んでいると、あらぬ考えを巡らせる者は少なからずいる。それを良く思わない人間がいるなら尚更。悪しき手によって、新屯と世界を繋ぐ信頼を切断された日には、彼の転落が始まってしまうだろう。

(日本中の科学者が、あなたを必要としている。そして、いつかは島を越えて、求められる人になるあなたの道を、僕が塞ぐことはしたくない)

 今のバルトは、自分の名声など、どうでもよかった。ただ、新屯の今後に関わるような事には敏感になっていた。


『僕なんかのためにそのような待遇をしてくださることが、使い古された表現では足りないほど嬉しいです。しかし、僕では先生の隣には立てません。叶う事ならば、一生を通じて先生と過ごしたいと思っています。それができないのなら、その大部分を。誰にも、何にも、負担をかけずにそうできればよかったのに』


 バルトは、わざと未練がましい書き方をした。世界向けの二人は卑しい関係でなくても、二人だけの国では共にいたいと願ったから。

 もしあの頑固な科学者が考えを変えて、プライドの鎧を脱いでくれるのなら、喜んで頷く準備はできている。世界一扱いづらい男の気まぐれに、左右される人生を歩んでいく覚悟も。


『負担にはならない。私には母と義理の兄弟がいるが、私のする事に反対する者は、もはやいないのだよ。金のことは、君は気にしなくていい。君が良ければ、すぐに準備を始めよう』


 新屯からの返信が、バルトには愛おしくて、辛い。人間関係に無知な男が、自分の事しか見えていないという愛おしさ。一方で、警戒心の強い彼のことであるから、噂を知っていながらの覚悟であったかもしれない辛さ。知っていながら知らないふりをできるほど、新屯という人間が高性能でないことは知っている。


 もう一つ、迷走しながら並走している心情もある。「誰にも、何にも、負担をかけずに共に生きること」。それは、バルトが同年代の恋人とすると思っていた未来のことだ。新屯が現れなければ、何となくで叶えていた未来。

「あなたは、今のご自分の立場を、理解なさっていますか……」

 バルトは返事の代わりに、一滴を、零した。

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