第4章 感性に則る

第1節 リンゴは落ちても

 半年後、バルトは無事に日本へ帰ってきた。

「ただいま! ニュートン先生!」

 アクアマリンの目がとても久しく、新屯には懐かしく感じる。

「お帰り、バルト」

 眩しい笑顔で帰還した旅人に旅費を足してやるため、新屯は懐に金を忍ばせて、愛おしい彼を迎えた。


「何で、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」

 バルトはスーツケースをガラガラと引きながら、アナウンスや談笑で騒がしい空港内を歩く。隣には、ずっと会いたかった人がいる。

「『寂しい』と言ったのは、どこの誰だ」

「でも、先生は研究が――」

 そこで口をつぐむ。先を遮られたのは、新屯の手がズイッと目の前に出されたからだった。

「仕事を増やさないでくれるかな? 私は、研究用の脳しか持っていないんだ」

「ニュートン先生……」

 バルトは思わず、大胆な提案をしてしまいそうになった。それは、一般には「愛の告白」とでも言うのだろう。照れ隠しもぶっきらぼうな、彼への。

(ダメだ。は、は、恥ずかしいよ……)

 俯いて、沈黙の三秒が過ぎる。唇は緊張で震えていた。


「私の車に乗っていくだろう」

「あ、はい! お願いします!」

 ちらりと見えた愛おしい人の目は、柔らかい色をしていた。




 車の中で、二人は離れていたぶんの隙間を埋めようとした。たっぷりと科学の話をして、しんみりと甘い沈黙に浸った。自分以外なら気まずく感じる静寂も、自分だけは心地よく感じられるのだろうと、バルトは己の特権から滲み出る幸せを噛みしめる。今は自分だけの運転手である彼の、変わらない横顔にうっとりしながら。


「先生は、アイザック・ニュートン先生が晩年に燃やした書類は何だったと思います?」

「興味がなかった。考えた事もない。バルトは?」

「僕は、ファティオへの手紙だったんじゃないかと思っています。僕が小さい頃に読んだ伝記には、二人はこれといった理由もなく別れたと書いてありました。その迷宮入りした『理由』が、燃やしてしまった手紙で明らかになるんじゃないかと」

「しかし、それを恐れたアイザック卿は、書きかけで送れなかった手紙を燃やしたということか」

「はい。秘密主義も、ここまでくると面倒臭いですね」

 少し笑って、雪のような沈黙が降る。しかし、二人にとっては沈黙と認識されていないかもしれない。彼らは、熱が出るほど猛烈に脳を回転させていたのだから。


「アイザック・ニュートン先生は」

 沈黙を溶かしたのはバルトだった。


「リンゴは落ちても、恋には落ちなかったんですかね」


「……それで君、上手い事を言っているつもりかね」

「茶化さないでくださいよ。僕は小心者なんです」

 心の一面だけ、バルトは見せた。彼も、見せてくれる事を期待して。

「……」

「……」


「私も、自分のプライドが高いことくらい、とっくの昔に気づいている」


 バルトは何も言わなかった。感動で、何も言えなかった。車の揺れさえ分からなくなるほど、心が大きく揺れる。

(見せてくれた。先生が、鎧を脱いでくれた)

 そこからは、互いに言葉を発さなかった。ただ、会話の内容からはかけ離れて、お互いが自立しすぎているとは、誰も指摘してくれなかった。







 この頃になると、二人の仲は深まっていた。新屯は、出会った頃の彼とは思えないほどバルトに連絡を送ったり、出す予定のない書きかけの論文や、秘密の手記を共有したりした。バルトは、出会った頃の彼とは思えないほど、新屯を打算のイコール上に置かなくなった。

 バルトはたまに、新屯に呼ばれて大学の研究室に来る。今日も、同じ空間で学びを深められる事に喜びを感じて。


「君が打つと、『楽しそう』が『楽しおす』になっているのをよく見る」

 パソコンの前で、何度も打ってはやり直すバルトを見て、新屯はからかった。

「キーボード打つの苦手なんですよ。頭の回転に手の速度が追い付かなくて」

(それで、手書きの字が解読不可能なほど汚いのか)

 一人で納得する新屯。

「君は、右手の方が左手の動きより速いのではないかな。『tanosisou』が『tanosiosu』になるということは、oを打つのがsより速いという事だから……」

 新屯の口が止まった。バルトは不思議そうに下から覗き込む。

(なぜ、そんな事が起こるんだ。脳からの信号は同時に出ているはず)

 新屯は両手を前に突き出し、拳を握ったり広げたりしてみる。

(ただの癖か。それとも、両上肢の電気信号の伝わりやすさに微量の違いがあるのだとしたら……)


「ヘウレーカ!」


 叫び声が部屋中に反響する。バルトは驚き、椅子から転げ落ちる。

「エイリアンハンドが説明できるかもしれない!」

「えいりあん、はんど?」

「それでは失礼!」

 新屯は速足に研究室を出ていった。一人残されたバルトは床に座り込んだままだ。

(引き止める暇もなかった……)

 その天才は自室に引きこもって、丸三日出てこなかった。飯振は絶叫した。







 晴丘の研究室に、服部と蓮が入るのは初めてだった。

「お邪魔します」

「何だかんだ、ここに来たのは初めてだね」

「汚いけど、踏んでいいデスから!」

 初めて見る晴丘の天文学研究室内は、程よく平均的なエントロピーだった。その中で、蓮は気になる物を見つけた。

「楽譜?」

 五線譜の引かれた紙を手に取る。研究に使う物とは思えない。

「どうしてここに楽譜が?」

 気づいた服部も、蓮の肩越しに楽譜を眺める。

「ああ、それ、まだあったんだ」

 今気づいたような反応で、晴丘はそれを受け取る。


「元妻が忘れていったみたい」


「え……」

「えっ」

 二人には、それが爆弾発言に聞こえる。

「晴丘さん、結婚されていたんですか?」

「そして離婚してたんですか」

 蓮の質問に被せて質問したのは服部だ。失礼な聞き方に、蓮が肘で服部をつつく。

「親が連れて来た人とね。今の時代にお見合い結婚ですよ? 大時代すぎ。Very funnyだよ全く」

 少しも面白くなさそうに、晴丘は鼻で笑う。

「ワタシは船の上か、外国にいることが多いから、気づけば妻は出ていってマシタ。これ、服部さんにあげます」

 埃臭い紙が服部の前に出される。

「なぜ俺に」

「だって、音楽やってたって」

 晴丘の顔が蓮に向く。その動作で、服部が合唱団に所属していた事を話したのは蓮だと理解するには十分だった。

「蓮、話したな?」

「君の天使の声を、広めたいと思って」

 ここに晴丘がいなければ、服部は悪気のない友を殴り飛ばすところだった。


「晴丘さん。ご無礼、失礼いたしました」

 晴丘の事情を知らなかったとはいえ、蓮は過去を掘り出させてしまった事を悪く思った。

「全然! 本当に大切だったら、見えないところにしまっていますから。誰も見えない、大切な所にネ」




 雑談もほどほどに、三人は彗星についての会議を始めた。

「やっぱり、新屯のヤツが計算を間違えていたんじゃないのか?」

「ちょっと、それだとワタシのことまでディスってますよ。もう一度やり直しましょう」

「今度は重力の比率を変えてみましょうか。1:2:3なんてどうです?」

 蓮が、すかさず提案する。

「OK! じゃあ、服部はその1/2倍から計算し始めて」

「俺の方が歳上だぞ!」

 いつの間にか、指示される側になっている事に納得いかない服部。しかも呼び捨て。

「まあまあ、研究に上も下もないから」

 服部の肩を押さえて蓮が笑った。この紳士が笑うと、どうも昔から怒る気になれない服部なのであった。


「にしてもこれ、いつまでやるんだよ。キリがねぇ。さっきからチマチマチマチマと」

 二時間、計算詰めで、服部は口が悪くなり始めた。

「それが研究者の仕事でしょ! ガマン、ガマン」

「何で俺、怒られてるの……っていうかさあ、新天(新国立天文台)に協力してもらった方がいいと思うぞ、これ」

「駄目です」

 キッパリと、そう言い放ったのは晴丘だった。蓮も服部も、雰囲気が変わった彼をハッとして見つめる。今の今までヘラヘラしていたチャラ男は、もうそこにはいなかった。


「どうしてですか?」

 気になった蓮が、静かに尋ねる。

「ワタシが、あそこの台長に嫌われてるから。ははは!」

 乾いた笑いが響く。

「は? お前、嫌われてんの」

「ちょっと」

 再び、蓮が失礼な男を肘で小突く。

「とにかく、あそこだけは駄目。協力を求めるなら違うとこにしてください」

「意味分かんねえ」

「お願いします」

 晴丘の類を見ない表情に、服部は「これはマジだ」と感じた。

「もうしばらく、僕たちだけでやってみよう。地味な作業を淡々とするのが、研究者の醍醐味だものね? 服部?」

「……ああ、ああ! 分かりました! やればいいんだろ」

「いざとなれば、大変お忙しい、君のライバルの力を借りればいいしね」

 蓮が誰のことを指しているのか、服部は嫌でも分かってしまうので、口を歪めた。

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