第5節 スキエンティアメメントモリ
バルトが日本に来て二年が経つ頃。
「え、もう外国に行くのか」
旅人数学者は、短期間だけ日本を離れるという。
「はい。僕もまだ日本にいたいのですが、急遽フランスの数学者会が開かれるようなので」
「それは、日本からでも参加できないものなのか」
「公開実験が行われるそうです。どうしても、この目で見たくて」
「そうか」
新屯の視線は床に向く。
「すぐに帰ってきますよ。まだ日本で知りたいことが沢山ありますから!」
出会った時よりもかなり分かりやすくなった男を、バルトは励ます。自分のために落ち込んでくれる愛おしい人を、本当は抱きしめたかったが。
「そうだ、それなら旅費がいるだろう。足りているのか」
「え? えぇっと、あんまり贅沢しなければ、大丈夫……かなあって、程度です?」
正直に言うと、バルトは両親からの仕送りがたんまりとある。だが、金銭的な余裕は他人の同情を引けないと彼は知っている。特に、「若者は貧乏だ」というステレオタイプをバイブルにしている新屯には、あまり見せたくない面だった。
「よし、それなら私が出そう」
「そ、そんな、いいですよ! 高いですし……!」
胸が痛むバルトは両手を振って断る。
「私は守銭奴だから、金は持っている」
(そういう問題じゃないんです!)
「いえいえ、本当に悪いので!」
「では、せめて片道だけでも」
バルトは心臓が痛くなってきた。プライドが高いこの男の申し出を、どうやって断ろうか。無理に拒否すると、プライドを折られた“面倒臭い石”は、不機嫌になって周りに当たり散らす。それだけでなく、研究に没頭できなくなった天才は、日本科学の進歩をどんどん遅らせる。協会及び大学の治安、日本科学の進歩はバルトの手にかかっていた。
「僕、お金で貰うよりも、ニュートン先生と一緒にお食事したいな~」
甘えた声ですり寄り、バルトは別案を持ち出す事にした。
「お金より、一緒に美味しい物、食べましょう?」
バルトができる最大限の甘える攻撃だった。
「……分かった」
「嬉しいです! ニュートン先生!」
しかし、これでは、バルトが新屯と食事に行く度に奢られる未来が見える。バルトは、いつも奢られてばかりで少しだけ不満だった。いつでも新屯が頑として譲らず、バルトは笑顔でお礼を言う事しかできない。
(本当は、あなたとは平等でいたいのにな)
少々の不満は、友情の味付けで飲み込んだ。
物理的な距離が離れても、互いのやり取りは続けた。しかし、この時代の連絡ツールは全て上層機関が閲覧可能なように設定されている。そのため、法律には触れないと言えど、節度を守ったギリギリのスキエンティアメメントモリを進めた。
『日本の古典には、死後の世界や生まれ変わりが描かれた作品が多いと聞きます。もしニュートン先生がよろしければ、いくつか紹介していただきたいです』
バルトからの頼みで、新屯は古典文学を見繕った。それらを英語に翻訳し、現代語訳がなされていない作品は自分で訳した。もちろん、頼まれてもいないのに勝手に翻訳表まで作ったのはお節介である。普段なら、これくらいの事は人工知能の翻訳に任せる。だが、訳すまでの過程で脳に刺激が起こり、死後の世界をより広く解釈できそうな事に気づいた。この男にとって、バルトという若者は、自分に新たな風を起こしてくれるような期待の光なのだ。
『崇徳天皇、中々いいですね』
『日本には、日本三大怨霊という括りがあってだね……』
また、バルトの方も、新屯のために外国、主にフランス語圏の古典や伝説を紹介した。
『つい最近、中世に発見されたのではないかと言われる、古代に伝わった物語がまとめられて出版されたんですよ。その英訳版をお送りしますね。それから、僕が個人的に愛読してる“L’amour n’est pas fait de molécules”という本があるんですけど、これ、市場に出回っていない上に、いつ書かれたかも分からないんです。僕が持っている一冊しか存在してないのではないかと。信憑性が低いのですが、読みたいですか?』
『君が好きだと言うなら、是非』
『分かりました。しかし、これは実書籍でしかないので、次、会った時に渡しますね。フランス語で書かれているので一緒に読んだ方がいいと思います。文法も、ちょっと古いし』
『では、日本に帰ってきたら、私の部屋に来るといい。食事くらいは御馳走しよう』
そんなものは翻訳機に任せておけばよいとは、新屯は言わなかった。なぜなら、バルトが効率を押し付けなかった事が嬉しかったからだ。この時ばかりではない。効率を求めて研究を続ける数学者が、新屯と関わる時には遠回りをしたがる事が何度もあった。その度に、新屯は表しようのない快感に身を委ねる事ができた。
スキエンティアメメントモリの理解を深めるヒントが得られると共に、次に会う口実もできた事で、新屯は順調な人生を謳歌していた。だが、一つ、彼の人生史から退場するものができた。
尊敬する馬廊教授が急死したのだ。やんちゃだった頃の、過度な喫煙で肺がボロボロだったらしい。六十歳を迎えるはずの年だった。新屯に宛てられた遺言は、届いた次の日に読んだ。
『俺は、何があっても新屯くんの味方だ。君が穏やかな海原を泳げるように願っているよ』
悲しくはない。悲しくはない事に罪悪感はある。しかし、自分が彼の生を伸ばすためにできた事はない。できた事はないのに後悔はある。
(早すぎるでしょう。亡くなるには)
だが、研究を止める事はなく、その日から頭と手は動いた。
(教授の死体は、どのように動かなくなったのだろう。脳の周波数に変化はあっただろうか)
そのようなことばかり考えてしまう。スキエンティアメメントモリ発展のきっかけをくれた恩師に、胸を痛められない自分を俯瞰で見ながら。
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