第4節 彼の笑顔

 大学の研究室にて、新屯と馬廊教授はそれぞれに研究を進めていた。しかし、新屯の方は、いつもと比べて手が遅れている。それに気づいた馬廊教授は、彼の様子を心配した。


「新屯くん、手が止まっているようだけど」

「あ、すみません」

「いやいや、俺はいいんだけどね。悩みとかあるの?」

「……」

「あ、『言ったってどうにもならんだろ』って顔だ」

「……」

「否定もしないとこはいつも通り」

「……」

「もしかして、もう思考の波に呑まれた?」

 馬廊教授は、新屯の手をつねった。新屯の肩がびくりと動く。

「お、帰ってきた。何があったか言ってごらん。新屯くんより長生きしてるぶん、これでも人生経験豊富だから」

 新屯は、ボーっと教授の顔を眺める。

(確かに、私だけで解決しようとするのは長期戦になりかねない。ここは年長者に頼ってみるか)


「バルトが、」

「うん? バルトくん?」

「バルトが……私を揺するのです」

「揺する!?!?」

 教授の絶叫で、実験道具の振り子が揺れる。

「揺すられてるの!? あんな純粋無垢そうな青年に!?」

「はい」

 新屯は、手先は器用でも、表現は不器用だった。

「人は見た目じゃ分からないね……」

「そう、ですね……?」

(かわいそうに。弱みでも握られてるんだろうな)

「口が堅い新屯くんだから言うけど、俺も昔、揺すられた事がある」

「本当ですか」

 新屯は、基本的に他人の過去に興味を持たないが、これは参考になるかもしれないと考えた。


「隠してた弱いとこ突かれてね。二人きりで会った時なんて、心臓がキュウッてなる」

「分かります」

「最初は言いなりだったよ。不幸にも、ちょっと高い煙草を買った瞬間に鉢合わせて、その煙草を全部持ってかれたり。あ、俺、昔はヘビーだったからさ」

 初耳を頷いて流す新屯。


「断ろうにも(弱みがあって)できなくて、結局、相手に(脅されて)色々あげちゃうんだよね」

「まさにそうです。断ろうにも(なぜか)できなくて、相手に(喜んで欲しくて)色々差し上げ(たくなっ)てしまう」

 それを聞いた馬廊教授は、新屯が本当に揺すられているのだと確信した。

「解決方法、教えてあげようか」

「あるのですか!?」

「当時の俺のやり方だから、あんまりよくないけど」

「ぜひ、教えていただきたい」

 科学と死後の話題以外で、ここまで熱の入った新屯は見られるものではない。馬廊教授はもったいぶって、咳払いをした。


「ぶん殴るんだよ。月のクレーターになるくらい、ボコボコにね」


 馬廊教授は元ヤンだった。




 お互いの誤解を解いた後、新屯は家に帰り、家事代行をしていた飯振と食卓を囲んだ。

「今日は早いご帰宅でしたね」

「何だか、疲れてな」

 渋い顔をした新屯は、飯振の作った唐揚げをモソモソと食べる。


 コンコン。


 窓を叩く音が聞こえた。

「あ、また来た」

 飯振がカーテンを開けると、野良猫がガラスを叩いていた。

「もー、新屯さんが餌やるから。また来ちゃいましたよ」

「どれどれ、キャベツの余りをやろう」

 新屯は無表情のまま、皿の上のキャベツを猫に差し出す。

「動物には優しいんですよね」

「元より期待していないだけだろう。どんなに忙しくても、じゃれ遊んでいる猫にイライラする事はないだろう? それは、元から動物の能力値に期待していないからだ。怒りは、期待するから出るのだ」

 猫の頭を撫でながら、彼は述べる。

(そんなこと言って、本当は良い人なんだろうな)


「新屯さん、最近、何かありました?」

 静かな沈黙を、飯振が破った。

「なぜそう思う」

「表情が、何と言うか、分かりやすい? 気がして。前は『疲れた!』って感情さえ、無表情で隠していたような気がしていました」

「……意識していなかった。私は、変わったか?」

「多分。今なら、学生も十人ぐらい来ると思いますよ」

 飯振は、大学での講義の事を言っている。目も当てられないほど学生を集められない新屯の講義も、今の新屯なら少しはマシにできるだろう。それほど、今の彼の雰囲気は見えやすいものになっていた。


「あと、見た目も変わりましたね。ホームレスみたいだったのが、おじさまって感じになりました」

「君は、ホームレスから金を借りていたのだね」

「嘘! 今のはジョークですよ!」

 中身は変わらず、冗談も通じないカタブツなのだった。







 服部は、忙しい都会の景色をスケッチしていた。協会の会合にはまだ時間がある。

 絵を描くことは、身体の弱かった子供の頃から好きで、将来の夢は画家だった時期もある。そのこともあり、今でも絵描きは趣味だ。

(また、ここの看板は変わった。あ、あの店も潰れたのか)


 無常では表しきれない時の流れが、服部は好きだった。移り変わるからこそ美しく、儚いからこそ価値がある。人間も、季節も、景色も、常識も。自分の人生も物語にすれば、きっと美談になるのだと信じられる。思い出したくない過去も、今置かれている状況でさえ、死ぬ間際には、光り輝いている事だろう。そう、信じられる。

 坂の上から眺めるビルの光は、醜く文明の発展を主張する。銀色に囲まれた緑は狭そうに集団で眠っている。建物の隙間から見えるグラウンドでは、何も考えていない子供たちが野球をしていた。

 昔は、それこそ幼少の服部から見えていた東京は、こうではなかった。


 島出身の彼は上京してから、東京の前進が輝かしかった。天高く伸びる塔は、どこまでも伸びていくのだと思っていたし、体力を奪う地獄の階段は父親との憩いの場になった。植物たちは服部を守るように茂り、彼らの手を借りながら工作を楽しんだ。未来とは待っていれば来るものではなく、叶えていくものなのだと希望を抱いた。自ら叶えない未来は、秒の羅列、「Dying time」だと思っていた。自分は何でも出来て、何にでもなれる希望の屑だと信じていた。


 変わらないものに価値はない。進まなければ意味はない。

(未だ変わらずに生き残っているものが、この世にあるか? いや、一つもない)

 変わらないと思っていても、顕微鏡を覗くと、全ては変わっている事に気づく。レンズ越しの世界は、決して何者も待ってはくれない。

(俺は絶対に、自ら終わらせたりしない)


(俺の人生が無駄じゃなかった事を証明するまで)




「今日も、手書き写真してきたのかな」

 会議室に入ると、既に来ていた蓮が服部へ話し掛けてきた。蓮は服部のスケッチを「手書き写真」と呼ぶ。写真のように精密な絵画。絵の才能も持ち合わせている彼への尊敬を込めているのだ。


「そう。蓮は?」

「僕は午前中、コンサートホールの話し合いをしてきた」

 彼は現在、新しくできるコンサートホールの設計に関わっている。時代を進める先駆者の一人である連を、服部は好いた。

「おお、素晴らしい。お披露目会には呼べよ。俺も楽しみにしてるから」

「もちろん。僕には、これくらいしか能力がないからね。はは」

 いつもは前向きで、裏表のない性格をしている蓮だが、稀に自分を卑下する事があった。どのような周期でそれが訪れるのか、服部には分からない。だが、何の陰も持っていない人間は殆ど存在しないだろうと思っている。

「蛍壁さんのこと、まだ気にしてるのか」

「ん? ちょっとだけだよ。ちょっとだけ」


 数年前のこと。蓮はひょんなことから、土星の輪についての研究チームに所属していた。そこで、輪の構成物質にある発見をしたのだが、これから発表するという時になって、蛍壁の率いるチームに発表されてしまったのだ。

(俺だったら悔しくて、しばらく引きこもるけどな)

 どんなに悔しい思いをしても、それを表立って顔に出さない蓮を、服部は心配すると共に尊敬した。先を越された件に服部が初めて触れた際、蓮は笑いながら「そういう事もあるよね」と、平気そうな顔をしていた。あの笑顔が、服部の目には痛々しく映った。


(いつもは石のように動じない“アイツ”さえ、引きこもったのに)

 いけ好かない“無表情の石”に目を移す。その“石”は、スイスから来たといういけ好かない青年数学者と仲良くしていた。

(石野郎、あの外人に特別な思い入れでもあるのか? 何か最近、見た目も変わったし)

 遠くから「いけ好かないの二乗」を眺めていると、二人の会話が聞こえてくる。


「え! ニュートン先生も、このニュース番組見るんですか!?」

「普通に見る」

「こんな偉大な先生も、庶民的な物を……へえ、何か、想像つかないです」

「私のことを何だと思っているんだね」

「僕の大尊敬するニュートン先生!」

 二人は目を合わせながら、普通の友人のような会話を交わしている。新屯は笑顔こそ忘れたままだったが、嫌々話しているようには全く見えない。ピリピリしていない新屯を見るだけで、周りの会員はホッとする。


「君はまた、大声でそのような……」

 バルトは言われた事も気にせずに微笑む。まさに、黄金比。ピーンと新屯の脳細胞が痺れた。


「ヘウレーカ!!」


 彼の笑顔は、新屯に電流を流した。彼はバルトの両頬をぐんと掴む。

「何ですか!? え、なになに!?」

「君の顔が美しい理由が分かった!」

「へ!? せ、先生こそ、大声で何言ってるんですかっ」

 バルトが顔を赤らめてしまうのは不可避だった。会員たちも、普段の新屯からはありえない口説き文句が聞こえて、驚きの声を上げる。皆から見えている現場は、五十も間近のおじさんが、二十代の若者に言い寄っているというものだ。

「美しくないです、僕の顔なんて!」

 眉を下げ、リンゴのように赤くなった顔で否定する。


「いいや美しい。綺麗だ。私が証明してみせよう」

「えぇ!」

 新屯は机に置いてあった紙を素早く掴み、近くにいた会員の胸ポケットからペンを取り出した。ここまで、アラフィフとは思えない身のこなし。

 さらさらと、丸と数字を書きつける新屯の手元を全員で見つめる。


「ほら」

 完成された図には、バルトの顔らしき簡単な図形と、横に並べられた数字たち。

「美しき黄金比だ!」

 興奮した新屯と、バルトを含めた会員たちの温度差は、火を見るより明らかだった。


(やっぱ、あの石野郎やべえ。関わらんとこ)

 服部は心に決めて、先程まで横にいて喋っていた友の背中を探した。すると、蓮まで群衆に混じって黄金比の導きを見ていた。一人、やんややんやと手を叩きながら。




 会員たちの前で恥をかかされたバルトは、頬を膨らましながらも新屯と並んで帰っていた。丁度、日が暮れる時間だった。夕暮れの闇と光が非日常を作り上げる。電車や車の音が聞こえながらも、世界には二人しかいないように感じる。バルトは、この空気が、自分の気分をいつもより高めさせている要因なのだと理解できた。しかし、それを抑えようとは思わない。

「寄り道していきません?」


 良い子が帰る時間帯の公園には、人がいなかった。カラスも、人類に帰るように朗誦している。

「ここ、夕日が沈むところを見られるんですよ」

 バルトは新屯の腕を掴んで、家の軒並みが見渡せる柵の場所まで移動した。

「ぴったり、もう沈む瞬間ですね」

 柵に手を置き、ギリギリまで身体を乗り出して、太陽にしばしの別れを告げる。


「知ってました?」

「……何を?」

 彼の後ろ姿にさえも惹かれていた新屯は、浮いた返事をしてしまう。

「この場所ですよ。絶景スポットを独り占めできるの、いいですよね」

 橙が連れてきた風に、バルトの緩い巻き毛が流れる。余ったリボンの足が、ちらちらと揺れる。

「今日の、リボンの色……」

「んー? あ、素敵ですよね、この色。僕、好きなんです」

「触っても?」

「どうぞ」

 新屯がリボンに触れ、指の腹で撫でる。そして、滑らかな髪に指を入れた。すっと指先が流れていく。オレンジの陽光が、ブラウン色を艶やかに包み込む。


「私も、真紅が好きなんだ」


 落ち着いた低い声が、バルトの耳元で空気を伝う。

「……っ!」

 バルトは、熱くなる頬を実感して口を押さえる。甲高い声で叫び出してしまいそうだった。

(先生、鈍感なのか? 無意識でやってる?)

 キッとした目で新屯を振り返る。しかし、目に入った光景に言葉が詰まった。僅かだが、彼の口角が、優し気に上がっていたのだ。

(あ、笑った)

 この時のバルトには、嬉しいというより、更に感慨深く、更に高熱な感情が込み上がっていた。


 見た事がないから、いつか見てみたいと思っていたのに。いざ迎えると、やっと戻ってこられた感動、という表現に近い。ウロボロスの環が一回りして、杳として消えてしまっていた彼を再び見つけられたような。複雑な繁分数をかき分けて、誰も辿り着けない深淵に触れそうな。


 なぜ、こんなに胸が苦しい?


 大好きで埋もれる恋なら、これほど胸を痛める必要はない。ただ鮮やかな、背中に生えた羽で飛び回ればいいだけなのだから。

 しかし、煌々と溢れる粒を、バルトは、夕暮れが作った非日常のせいにした。高ぶった気分が気まぐれで生成した、局所性の何か。それが、原因なのだと。




「帰りましょう。これからは星の時間です」

「そうだな」

 前を歩く彼の大きな手を、バルトは掴めないかと見つめていた。近くて遠い、その手を。少し顔を上げれば、そこにはバルトと同じく、赤くなった耳があったのに。




 こうして、二人は似たような、しかし、二度はない時間を繰り返した。時には、鈍感が過ぎる“無表情の石”を諦めそうになったり、また時には、活発な青年期を過ごす“若者”から離れるべきか悩んだり。互いに、決して口にせず、絶対に拒絶しない日々。それはまるで、反発し合いながら引き付け合う磁石のようだった。

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