第3節 バルト、がんばると!

 協会の集まり以外で新屯とバルトが会う事は無かった。そのため、一週間という凹がある事が、二人のフラストレーションを募らせる。毎週、毎週、土曜日だけのときめきでは物足りなくなっていった。

 幸いにも、柔軟で頭の良いバルトは、自分の気持ちに早くから命名する事ができた。数年前まで、いや、つい最近まで、自分は同じくらいの歳の恋人を作って結婚し、幸せに暮らすのだと思っていた。だが今は、二十以上も年上の頑固者を、どうしようもなく愛おしく感じている。新屯という人間を知ってから、自分と重ねる部分が多くなった。重なるからこそ、放っておけない何かが働くのかもしれない。


(会いたいよー、ニュートン先生……)

 空調の効いた部屋でゴロゴロしながら、気になるあの男を思い描く月曜日の深夜。

(あっちから連絡こないかな)

 メッセージを開いても、目的の連絡はない。あるのは事務連絡や仕事に関わる人間からの文字羅列。


 バルトは考える。これまでの人生を。

(僕は今まで、甘やかされて育ってきた。両親は金持ちだし、勉学に必要なお金は湯水のごとく出してもらえたし、家業は兄弟が継いでくれたし、僕はやりたい数学ができてるし、天才だし。徴兵期間は大変だったけど)

(でも僕、ここで動かなかったら、いつまでもぬるい人生な気がする。湯水に浸かって苦しゅうない、そんな人生って、どう?)

「ええい! やってしまえ! バルト、がんばると!」

 バルトは起き上がって、食事の誘い文句を端末に入力し始めた。

(断られても死ぬわけじゃない!)

 自分を納得させ、ひどい手汗を不快に思いながら文章を送信する。

「あ! フランス語で送っちゃった!」

 勢いで作成したため、母国語になっていた事に気づくが、時すでに遅し。

(でもまあ、あっちで勝手に翻訳してくれるだろう! 大丈夫だ!)

 バルトは、得意な笑顔とポジティブで不安を隠した。




『On va aller manger ensemble ?』

 新屯の元に届いたメッセージはフランス語だった。

「おん、ヴぁ、あれ……何だ、これ。何語だ」

 急に聞き慣れない言葉で連絡を寄越したバルトが何を伝えたいのか、新屯は必死で考えた。

(分からない。とりあえず、日本語訳に)


『食事に行きませんか?』


 翻訳してみると、思ったよりも簡単な提案だった。なぜ外国語なのか分からないが。

(食事の誘いか。もちろん行こう)

 お偉い方の誘いだけは断れずに呑んできた新屯だったが、相手がバルトとなると喜んで返事をするのだった。理由を考える暇もいらない。

『午後七時以降なら、いつでも空いている』

 そうは送ったが、実質はいつでも空いているのだった。大学での講義に学生は来ないし、来ても、単位だけが欲しい学生がうたた寝しているだけなのだから。


『では、水曜日にどうですか。行ってみたいお店があるんです。蓮先生に紹介された所なんですけど』

 新屯といい勝負に素早いバルトの返信に、彼は気を良くした。今度は分かりやすい日本語で返信が来た事にも。


『分かった。七時半に合流しよう。店の地図を送ってくれ』

(言葉使いが偉そうか? しかし、いきなり調子を変えては混乱するだろうか。はて、私はどのような対応をしていたかな)

 若者(しかも好意的な)との密接なやり取りに慣れていない彼は、若干、頭を痛めながら水曜日に印を付けた。

 それほど待たずに地図と文章が返ってきた。

『ありがとうございます。楽しみにしています。Bisou』

(また外国語が混ざっている……)

 慣れてきた新屯は流れるように翻訳を開始した。Bisouの意味は……


『あなたにキスを』


「……」

 青年期真っ只中の男から送られた言葉に、脳内は大混乱になった。数字以外の波が押し寄せると、どうしてよいか分からない。

(落ち着け、深い意味はない。意味はない……意味はない)

 台風のように舞い上がった感情を全て落ち着かせるのに体力を使い果たし、指先が遅れた事に気づいたのは新屯自身のみだ。

 フランス語で「Bisou」は、文末に付ける挨拶の意味で、新屯の言うように深い意味はないことを新屯は知らないのだった。







 水曜日の夜。二人は、店に近い新橋駅で落ち合う事になった。

 気合十分で早く着いたバルトは、会長から出された数学の問題を解いて時間を潰していた。そのため、同じく待ち合わせをしている人たちや、通行人が送る羨望の眼差しに気づかずにいる事ができた。


「バルト」

 横から声を掛けられた彼は、ご主人を待っていた犬のように振り向いた。

「わ、ニュートン先生! 髪型が……!」

 バルトは声を上げた。鳥の巣になっていたのではない。新屯の髪型が変わっていたのだ。

 新屯は長かった前髪を短く揃え、しばらく切っていなかった不潔な髪を顎の辺りまで短くしていた。髭もしっかり剃っている。服はあまり変わらないが、少なくとも昨日着ていたヨレヨレのシャツではない。どれも、バルトに見栄えよく振る舞うためだった。美しい若者の隣に立ってもおかしくない身なりを岩渕から教わり、実践したのだ。


「色男! かっこいいです! ニュートン先生!」

「やめてくれ。キャラじゃない」

 とは言いつつ、悪い気はしない。それもそのはず。バルトのためにしてきた格好だ。

 バルトは、新屯の風の吹き回しを疑わずに自分のためだと見なした。その方が楽しいと知っているから。

「行きましょう、ムッシュー」

 破顔して誘導を始めたバルトの後を、新屯が付いていく。バルトがフランス語を話すスイス人だったことを思い出した新屯だった。




 蓮がバルトに紹介したという店は、そこまで高級でもないが、破格の安さを売りにしている店でもない、小綺麗な入りやすい洋食店だった。食事もお酒も美味しいと評判の店で、二人は入った瞬間から気に入った。さすがは蓮である。


「予約していた新屯です」

 バルトがにこやかに店員へ名乗る。

「わ、私の名前で予約したのか」

 いきなりバルトが「新屯」を名乗った事に動揺を抑え切れない新屯。

「あ、すみません。外国人の名前だと聞き取ってもらえるか不安で……嫌でした?」

「嫌じゃない」

 無表情が硬くなるのは、緊張している証拠だ。

「よかった」

 嬉しそうに微笑む美青年に、新屯は心が奪われた。


 二人は景色の良い窓際に通された。ライトアップされた景色の中を、沢山の人たちが歩いていく。帰宅途中らしいスーツの女性、これから飲みに行くであろう男性の集団。疲れた顔、自分の時間を楽しむ顔、毎日に充実した顔、何かに追われているような顔。外の人々を観察していれば面白いのだが、今は二人の会話を楽しみたかった。


「本音を言うと、来てくれると思いませんでした」

 店員が水とメニュー表を置いて行った後、バルトは笑みを崩さずに言った。

「ニュートン先生は忙しいから、誘いを断ることが多いって聞きました」

「誰から」

「本当に皆さんがそうおっしゃるんです。岩渕さんも言ってました。だから、半ば無理やり連れ出すんだって」

 バルトが小さな口を隠して笑う。新屯は、彼の言動一つ一つから目が離せない。

「あまり、人付き合いが得意ではないのでね」

 本当は、人と付き合っている暇があったら研究に時間を費やしたいという理由で誘いは断っている。しかし、それをここで述べてしまうと、「今のバルトとの時間は何だ」と問われた時に答えられない未来が見えた。


「僕とは会ってくれるんですね」

 しかし、バルトは鎌をかける。初近の推察を確かめたかった。

『きっと、新屯にとって、バルトさんは特別なんだと思いますよ』

(さあ、どう出る? ニュートン先生)

「……君の考察力や着眼点には興味がある。まだ若くて、先入観に囚われないからかもしれないが、そのような人間の影響は受けておいて損はないだろう。私が身を置いている世界は、地位と金にしか興味のない、脳が石化した老人ばかりだから」

 軽くブーメランがかすっている事には見ないふりをし、バルトは自分が失敗した事を悟った。バルトの能力の高さを話題にして、上手くかわされてしまった。

「褒めて下さって、嬉しいです」

(大丈夫。まだ時間はある。一回、失敗しただけだ)

 メニュー表を開きながら、バルトは自分を励ました。

「あ、ラクレットあるんだ」

 カタカナだが、確実に自分の記憶になじんだ食べ物の名前がある事に気づいた。

「ラクレットとは?」

「スイスの郷土料理です。フランスでも作られてますけど」

 青と緑に囲まれた、セピアの故郷を思い出す。ラクレットは、“あの人”の好物だった。

「スイスには、いつか帰るのか」

 質問してから、突然だったかと反省する新屯。

「うーん、今のところ予定はないです。両親も元気ですし」

 バルトは古い記憶を棚に戻し、一瞬下がってしまった口角を上げ直して答える。笑顔は得意にしてきた。

「まだ日本にいますよ、安心してください」




 注文を済ますと、二人は科学の話題に花を咲かせた。

「ちょっと見ててください」

 バルトは、腕に付けていた機器をコップの中の水に落とす。機器は沈んでいく。

「ご存じの通り、水に浮かないのは重すぎるからです」

 次に、自分の携帯端末を取り出す。近くに液体がないか探すと、まだ手を付けられていない新屯の水が目に入った。そのコップを引き寄せ、端末を落とす。すると、それは浮かんできた。

「最近の発達した科学によって、軽量化に成功した例です。しかし、見てください」

 新屯は、水に浮いているバルトの端末を覗き込む。

「泡が周りに浮いているでしょう。これは、余計な空気が中に入り込んでいるからです。僕は今、少ない数字を応用して、より効率化された機械を作るチームに協力しています。色んな人が生み出してきた知恵を受け継いで取り組んでるんです」

「スティーブ・ジョブズのような事をしているね」

「あ! やっぱり知ってますよね! 僕、あの人の伝記を読んで、機械に興味を持ったんです。当時に生きてた人が羨ましいなあ。スティーブ・ジョブズを生で見られたなんて!」

 大きな探求心を持ちながら子供のように素直な感想が出てくる彼の表情を、新屯は飽きる事なく見つめる。


「でも、僕も後世の人に羨ましく思われることでしょうね」

「なぜ?」

 バルトは、「よくぞ聞いてくれた」という顔をする。

「だって、新屯環という科学者と関係があった人物の一人ですもん。新屯環伝記を読んだ人々は、僕を呪うかもしれません」

「ばかなことを」

「馬鹿なことを全力で考えるのが科学者の仕事ですよ! で、さっきの話に戻るんですけど、今の仕事が進んで、応用が利けばそのうち、自動車の電気だってスタンドに行かずに入れられる時代が来るかもしれないんです! そしたら僕、支払いのシステムも……」

 二人は食事が運ばれてきた後も、ほかほかの料理をそっちのけで会話を続けた。


 お冷の氷も溶けた頃、バルトがやっと「食べましょうか」と促した。水に浸された機器たちは無事に救出された。

「君は、トマトは食す?」

 新屯は、付け合わせのトマトを指す。

「普通に? 食べますよ」

「食べてみる?」

「嫌いなんですか」

「別に。君が好きならあげようと思って」

「じゃあ、頂きます」

 バルトは綺麗に切られたトマトをフォークで刺し、形の良い口に運ぶ。

「ん! これ美味しいですよ!」

「じゃあ食べていい」

「いや、好き嫌いしないで食べなさいよ!」




 どちらが奢るかの論争を演じ、勝利した新屯が二人分の食事代を払った。会計を済ませた後は、すっかり暗くなった空を眺めながら並んで歩く。

「バルトが、死後の観念に興味があるとは知らなかった。初近と会っていた事もな」

「あはは……すみません」

「しかし、それなら話しやすい。あまり公にできない話題なので、情報収集の路ができた」

「そうですよ! 僕も趣味で調べてて、日本の神話とかもちょっと知ってるんですから!」

 会話は流れ、スキエンティアメメントモリの話題や、最近面白かった科学の話題を楽しんだ。そして、バルトが日本に来た経緯にも話題が移る。


「大学生の頃は各国を回って、学びを深める旅をしていました。ある春、パリに行った時、天文台の研究者たちと仲良くなったんですよ。その日から、パリの研究者と関わりができました。大学在籍中は何度か電話でやり取りしたなあ。あっちの方から手紙が来て、大学を卒業した後は、しばらく天文台の付属機関で働いていました。そこでは色んな人が働いていて、世界中から色んな人が出入りしていたので、知り合いが沢山できたんです。その中の知り合いから蛍壁会長を紹介されました。僕が研究をしていた内容と近いことをなさっていたので。そして、彼女と連絡し合っていたら『日本に来ないか』と誘われました」


 長い長いバルトの自己紹介を、新屯は貪欲に聞き続ける。

「蛍壁さんとは仲が良いのか」

 自身でも気づかないほどの暗い不安を、新屯は解消しようと質問した。

「仲良くさせてもらってます。蛍壁会長とは一年半前くらいから、やり取りしてますよ。彼女に誘われたこともあって、僕は日本に来ることができました。手続きとか宿とか、色々手伝ってもらって、ありがたいことです」

「ん? ということは、卒業してすぐ日本に来た計算にならないか? 君の会員カードの生年月日から精算すると……」

「あ、飛び級してるので、パリで働いてたのは二年間ですね」

 会話の内容は殆どバルトの個人的な話で占められていたが、新屯はそれを聞く事を苦に感じなかった。全ては紛れもなく彼の歴史で、彼を形作った過去なのだから。


「ニュートン先生。蛍壁会長は、これからもずっと、僕の師匠ですよ」

 人の感情に敏感なバルトは、さり気なく新屯を安心させようとした。蛍壁はあくまでも学問の師匠であり、新屯に向ける尊敬とは色合いが違うという事を。

「……バルト」

「?」


 不意に、新屯の腕がバルトへ伸びた。


「……!」

 近づく手はバルトの肩へ向かう。


(こ、これは)

 ぎゅっと目を瞑る。


(恋愛ドラマで見たやつだ!)

 肩に感触を感じる。触れられている。脳が燃えるように熱い。


(ぼぼ、僕、鼻息ヤバイかも、耐えろ耐えろ! 息止めろ!)


 しかし、いつまで経っても、唇には何の接触もない。

「……肩にゴミが付いていた」

「……え」

 どうやら勘違いだったようだ。

 肩透かしを食った彼は、急に恥ずかしさが沸騰して、自分の服の裾を渾身の力で握った。

「取れた」

 新屯の手が離れていく。

「あ……なるほど。ゴミが、僕の魅力という名の引力に引き寄せられたんですね」

 情緒の行方不明な沈黙が流れる。


「君の、己を強く肯定できる性格が、私は好きだ」


 バルトの身体の中で、何かが大きな音を立てて爆発した。抑え切れなかった煙がシューシューと飛び出す。

「こ、こんな時くらい笑ったらどうですか!? 凄くかっこいいこと言ってるのに! 何その能面! ロボットでも、もうちょっと笑いますよ!」

 互いに、今夜の別れが名残惜しかった事は言うまでもない。

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