第2節 心の振り子

 一方その頃、新屯は、他の研究者から相談の連絡を受け取っていた。アンチは論外だが、数学に関する質問なら考える方法を知っている。だが、質問に答えれば答えるほど、新屯に寄って来る連中は増える。それに一々断りを入れるのも面倒になっていた。

『モジュラーの件での礼ならいりません。また、論文には私の名前は出さないでいただきたいと思っています。決してあなたの論文だから私の名を使わないで欲しいのではなく、私が平穏を望むからです。私の名前が出ればそれだけ交流は増えるでしょうが、それこそが、私が一番、御免蒙りたい事なのです』

 後半の数行は設定してある文章を差し込んだだけだ。何度も同じ文章を書くのは効率が悪い。そのため、似たような内容を書きたい場合のために、予め設定しておいたのだ。この文章を使い倒しすぎて、もはや決まり文句になっている。

(裏流動率5型のまとめもしなければならない。しかし、その他にも仕事は積もっている……参考文献を乗せて、次の公開実験の準備、ああ、あの本も読んでおきたいのに)

 今夜も、新屯の睡眠時間はお預けになるのだった。




 またまたその頃、服部は『レスベラトロール』にて蓮らと会話していた。最近の会話は「衛星のずれについて」が占領していたが、行き詰まっているというのが正直なところだった。数字や実験の根拠を伴った仮説だけでなく、とんでも理論や都市伝説を持ち出す輩も出てくる宇宙の話題はカオスになりがちである。

「じゃあ、服部は物質に注目してるんだね?」

 蓮はコーヒーにミルクを入れてかき混ぜながら尋ねる。ミルクは渦を巻いた後、混沌の中に消えていった。

「うん。M―R―12もそうだけど、ああいう石をスケッチしてると、地球の石と違うところが多々見つかってね。細胞セル単位で観察してみれば何か分かるかもしれない」

「それはいい着眼点だ。服部は絵が上手い。論文が出れば説得力もあるだろう」

 服部と蓮は仲が良い。蓮は比較的、誰とでも仲良くできるが、服部にとって蓮は数少ない友の一人だった。そのため、ちょっとした愚痴や研究の相談など、プライベートでも大切な存在だ。また、蓮の方も、服部の多彩な才能に興味を持っており、友人の中でも面白い人間として接している。ただ、多才ゆえに、研究内容が浅く広くになってしまう傾向にあるのが勿体ないとは思っていた。


「そうだ。新屯さんもM―R―12に注目し始めていたよ。光と石の関係について閃いたらしい。あちらの研究も興味深いよね。彼は本当に、切れる頭の持ち主だ」

「あっそ」

 服部は、蓮がなぜ新屯と仲良くするのか理解できない。服部からしてみれば、新屯は人の研究を盗み、発見したものも自分だけの秘密にし、世界全体で科学の発展に貢献する気のない性悪人間だ。

「本当に仲が悪いねー、君たち」

 蓮がコーヒーを一口飲む。

「あんなに性格の悪い人間を誰が好きになるか」

「似た者同士は仲が悪い」

「俺が性格悪いって? え?」

「あははは、そんなこと一言も言ってないよ!」

「言ってるようなもんだろ!」

 そんな会話をしていると、扉が開いて次の客が入ってきた。二人は何となく入口を見る。


「晴丘さん!」

 蓮が先に声を出した。

「お! 蓮さんと服部さんじゃないデスカ! ハロハロハロゲン!」

 二人を見つけて近づいてきた晴丘は、日焼けした肌に柄のうるさいシャツを着た三十代の男だ。頭にはサングラスを掛けている事が多くチャラい印象を与えるが、れっきとした天文学者だ。航海が趣味で、よく海の旅へ出るため、協会の会員にも関わらず欠席が多い。彗星の話をすると、溜まらず走り出す事から「彗星を追う男」と呼ばれている。ちなみに、彼の相棒船の名前は「箒星」だ。

「お久しぶり、です」

 服部は顔を合わせづらく、目を逸らしながら挨拶をする。晴丘には一度、苦い過去を経験させられていた。


 それは数年前、この場所での出来事。晴丘がどうしても分からないという彗星の計算について、蓮と服部に助けを求めてきた。服部はもう少しで分かる気がしたため、「分かる!」と答えたが、どうしても証明が上手くできなかった。自分が納得できるまで証明を保留にしていたところ、痺れを切らした晴丘は、今度は新屯に助けを求めた。すると、新屯はいとも簡単に答えを出してしまったため、服部はバツが悪い思いをしたのだ。


「お、服部さんが飲んでいるのは新作デスか? 美味しい?」

 だが、肝心の晴丘は忘れているのか、服部にもハグをした後で軽く話しかけてくる。実際のところ、晴丘は知りたい事を知る事ができれば、昔の事はどうでもいいのだ。

「ええ、まあ」

「じゃあ、ワタシもそれを一つ!」

 走り寄られたカフェのマスターは快く頷いて、新作の「ミルキーウェイセーキ」を準備し始めた。

「ジツハさー」

 走り戻って来た晴丘は、二人の前の席に座る。

「ワタシの見つけた晴丘cometのことだけど、計算にない軌道を滑り始めたんだ」

 外国に行き過ぎて日本語を忘れかけている晴丘は、若干アクセントのおかしい言語で話題を繰り出した。「晴丘コメット」もとい「晴丘彗星」とは、晴丘が研究している彗星の事だが、彼が勝手にそう呼んでいるだけだ。

「分かってる分かってる。ワタシの計算がおかしいのかもしれないんでショ? でもlook! 新屯さんにも計算してもらって、ワタシの計算と一致してるんだよ。あの新屯さんが間違えるなんてことある? コレハ、火星逆行ほどパニック事件だね!」

 悩まし気に、でも、ワクワクを抑えきれない目で晴丘はウインクをした。星を飛ばされた服部は引きつった唇で笑う。


「服部さん、蓮さん、一緒に解決してみない?」

 パチンと、指からも星を出す流星のような彼に、二人が断りを入れる隙はない。蓮に関しては乗り気だ。

「いいでしょう! 面白そうだ。ね、服部」

 蓮が服部の肩を軽く叩く。

「はあ……そうですね」

 また仕事が増えたと、服部は裏でため息をついた。

「大丈夫。僕と服部ならできるよ。この『レスベラトロール』みたいに」

「蓮……」

 目の前の友を心強く思う。何を隠そう、このカフェを建築したのは蓮と服部だ。最新の様式を取り入れて、マスターの趣味も盛り込んだ完璧な建築物。蓮の顔の広さにも助けられ、問題を乗り越え完成させる事ができた。

「そうこなくっちゃ!」

 晴丘の傍らには、既に資料が用意されていた。







 土曜日。協会の会合の日。バルトは、新屯を見ると驚愕した。

「ちょっとニュートン先生!? その髪で来たんですか!?」

「そうだが」

 新屯の髪は、ここに来るまでの強風でかき混ぜられて埃や葉がくっ付いており、また、従来のくせっ毛も手伝って、自然の鳥の巣になっていた。いつも身なりに気を使っていないのは知っていたが、今回はさすがに酷い。

「櫛で梳いて来ましたか?」

「いや。そんな事はいつもやらない」

「いつもやらない!? ああもう、こっち座ってください!」

 バルトは新屯の腕を引いて椅子に座らせた。いつも携帯している櫛を取り出し、ゴミが付いていないか確認する。身なりに気を配っているバルトにとって、これほどまで見た目を気にしない人間を見ると、自分が世話をしたくなってくる。


「研究詰めで、あまり人と関わらないことは知ってますよ。でも、人と会う時くらい身だしなみに気を使ってください」

 新屯の髪に櫛を通しながら、バルトは控えめに説教する。新屯の嫌がるような言い方はしたくなかった。

「しかし、私はもう歳だ。誰も私の見た目に注目する人はいないだろう」

 されるがままの新屯は、せめてもと言葉で小さな反抗を見せる。

「そういうことじゃないんです」

 引っかかって切れないように、絡まった髪を優しく解く。新屯の髪質はあまり良い状態ではない。彼の髪からは何とも言えない匂いがする。だが、バルトはその香りが嫌いではなかった。

「せっかく、見た目は悪くないんだから」

 バルトのボソッと言った言葉が、新屯には届いていた。新屯は密かに心臓を早める。バルトに触れられている部分が熱く感じる。髪が身体に地続きの神経を持つはずがないと分かっていながら。


「っ、もう終わりにしよう」

「はいできました。さっきよりはマシになりましたよ。今度はちゃんとしてきてくださいね」

「分かった分かった」

 パッと、バルトの手が離れた。ところが、離れてしまうと寂しく感じる。先ほどまで早く離れて欲しかった心が嘘のよう。

「あ、でも、他の人に同じようなことさせちゃダメですよ! ニュートン先生の髪を触っていいのは僕だけです!」

 桃色の頬ではにかむ青年を前に、今度は、一刻も早くこの場を去ってしまいたい気持ちになる新屯。心が自分の物でないかのように、好き勝手に動いてしまっている。

(私の心は、まるで振り子のようだ)

 揺れているのは二つの振り子である事を、彼はまだ知らない。




 会合は無事に終わり、新屯はバルトを誘って『レスベラトロール』へ向かう事にした。途中にしていた話題が溜まっていたのだ。

「重力B型の、あの証明はどう思う」

 新屯は、今回の会合で上がっていた話題を取り上げた。

「あれは駄目ですね。温度の下降を証明しなきゃならないのに、あの計算式では……そうですね、あと二十桁くらい増えたところで粒子が光速を超えなければ成り立たないことになるでしょう。でもそれだと、結果的に温度は上がってしまいます。僕は二乗と熱の関係にもっと注目してみるべきだと思います」

「そうだな。直線状の流れを分散に……」

 新屯の口が止まる。バルトは新屯の様子を見て不思議に思った後、目を彼の視線の先に合わせた。

「よ、会話の邪魔だったかい?」

 二人の前に現れたのは、岩渕だった。今日もロックに革ジャンだ。


「岩渕さん!」

「バルト、岩渕さんを知っているのか?」

 新屯は二人が知り合いだった事に驚く。しかし、科学界をうろつく岩渕の鼻の良さを思い出して、驚きを引っ込めた。岩渕ほどの鼻がある記者なら、有望な人材はすぐに見つけられるだろう。既にバルトの才能に目を付けている新屯は、それが悔しくも妥当だと感じた。

「おいが、個人的な取材をしたんだ」

「僕こそお世話になりました」

 自分を差し置いて二人の話題が出来上がっている事が、新屯は少し面白くない。

「そんなに睨むなって。今日は新屯に用があって来たんだから」

 察した岩渕が、すかさず空気を流す。

「睨んでいません」

「はいはい。で、君のライバル服部くんが何か動き出したようなんだけど、面白そうだから詳しく説明してくれない?」

「ジャンルは?」

「彼の言葉で言うなら、晴丘彗星」

「……」


 岩渕が新屯に情報を求めに来た事から、新屯が晴丘彗星の軌道計算に関わった事を彼は知っているのだろう。新屯は、晴丘から依頼された問題に協力した事を、部外者の岩渕が知っている事については何とも思わない。だが、頭の隅で絡まっていた未解決問題に服部も取り組み始めた事が、新屯は気に入らない。これが服部でなければ、ここまで憎く思う事もないのだろうが。

「服部先生が、何か始めるんですか? 僕も聞きたいです!」

 新屯の横にいたバルトが目をキラキラさせる。

「じゃあ、いつものとこ、行こっか!」

 岩渕が先頭を歩いて『レスベラトロール』へ向かう中、新屯とバルトは中断された話題を忘れて、意識は服部に向いていた。




「こんにちはー!」

 岩渕が大きな声で扉を開ける。顔見知りの数人が振り返って新屯たちに挨拶をしてきた。今の時間帯は会合が終わった後という事もあり、好学の士が集まっている。


「あ」

「あ」


 新屯が嫌でも目に入れやすい、小柄な男性が先に気づいた。新屯も少し遅れて気づく。

「服部……」

「ごきげんよう、新屯さん」

 対峙している二人の顔は、牙を剥いた獣のように険しい。どちらかが動けば、どちらかが噛み付くような緊張感が走る。

「ニュートン先生……」

 バルトは、これから起こる修羅場を想定して慌てる。咄嗟に新屯の腕を掴んでいた。

「噂をすれば、だね」

 事情を知りながら、お気楽な声で岩渕が笑う。


「岩渕さんじゃないですか。この前の記事、拝見しましたよ」

 服部と机を共にしていた蓮が、気を利かせて話題を逸らせる。ちなみに、蓮と岩渕は同級生である。

「蓮さん! いつもご愛読ありがとうございます!」

 二人は強く握手をして、途切れぬ友情を確かめる。

「そうそう。蓮さんにも聞きたい事があったんだった。後で、電話でもしませんか」

「もちろんです。土産話が沢山ありますよ」

 蓮は、ふわりと嬉しそうに頷く。

「本当は今、できればよかったんですけどね」

 岩渕はちらりと隣を見る。不機嫌そうな新屯の無表情がとんでもないオーラを放っている。

「あちらの席に着こう。前衛的な顔を鑑賞する趣味はない」

「時代遅れの男め」

 新屯と服部は望まない会話を一往復させた。離れた席に向かう新屯の背中を追うバルトは、彼に尋ねた。

「服部先生は、どのような方なのですか。いつも先生と仲悪そうにしてますよね」

「あいつは人の発見にいちゃもんを付けるか、自分の発見だと言って横取りしようとする馬鹿者だ。人間の風上にも置けない」

 ぷんすかしている新屯に聞こえないよう、バルトは小さくため息を吐く。才能を持った者同士、協力すれば大きな成果が生み出せるはずなのに、それが到底できそうにない事が煩わしかった。


「新屯は、ああ言ってるけど、彼は彼で服部さんのことを認めてはいるんだ。お互いに素晴らしい才能を持っているからこそ、負けたくない。その気持ちがねじれてるだけ。争う方法がゲスいけど」

 後ろから岩渕が追い付く。

「正反対だと、こうなっちゃうんですかね」

 今度は、もう少し大きなため息を吐く。新屯はずんずん進んでいってしまったため、二人から離れたのだ。

「確かに、反対なところが目に付くよね。服部さんは、討議が好きなガリレオタイプ。反対に新屯は、とやかく言われるのが大嫌いなニュートンタイプ。でも、二人共、似ているところがある。それは、孤独だ」

 バルトが顔を上げる。岩渕の顔は確信を得ていた。

「本当に似た者同士は、真に分かり合う事が難しい。あの二人に限らずね」

 岩渕の目が挑戦の色を帯びている事に、バルトは気づけたのだろうか。




 その夜。バルトは、ベッドの中で眠れないでいた。


『バルト、岩渕さんを知っているのか?』


 自分の名前が新屯によって“初めて”呼ばれた事を、彼は日常の一瞬として忘れられないでいた。

(ニュートン先生は意識してたのかな。それとも、無意識かな)

 永遠に分からないような謎なのに、方程式を解くかのようにドキドキできる。このドキドキは、バルトが新屯との接点を見つけた時に生まれたものに似ていた。

(何だろうこれ、何だろうこれ! 解き方、分かんない!)

 足をばたつかせてもスイミングのようには進まない。それでも、この膨れ上がったエネルギーを放出しなければ胸が爆発してしまいそうだった。

(でも、明日も早いんだよなぁ……寝なきゃ)

 流していた音楽を止め、頭から布団にくるまる。昔から、ダンゴムシスタイルになると眠りやすいという自分の特性を使った。

 数分後、部屋には彼の寝息だけが流れたとさ。




 一方、新屯はというと、本を見ながら、頭ではバルトを再生していた。


『せっかく、見た目は悪くないんだから』


 思い出す度、新屯の顔は緊張で固まってしまう。だが、代わりに心臓が大運動をしていた。

(あれは、どのような意味で……)

 仮説を作り上げるほどの材料もないのに、光の正体を求めるのと似たような中毒性がある。今日見た、目を引いてしょうがない青年の色んな面が思い出される。整った顔はもちろんのこと、皺のない綺麗な指、細い腰、緩く巻かれたブラウンの髪。

(今日のリボンは赤色だった)

 新屯は赤が好きだった。バルトが赤色のリボンで髪をまとめていると、知らない興奮を覚える。その興奮は、性的にも似た、ものなのだろうか。

(腕を掴まれた時、もっと落ち着いていればよかった)

 レスベラトロールで服部と対峙した際に、バルトは新屯の腕を掴んでいた。あの時は服部に敵意を向けている最中だったため、あまりバルトに注意を向けていられなかったが、掴まれた事は覚えている。それを、今になって、もったいないと感じる。掴まれている時にもっと集中していれば、バルトの手の大きさや体温、匂いなどを堪能する事ができたかもしれないのに、と。

 彼は完全に、妄想に酔いしれていた。


「あのー……早くお風呂入ってくださいよ」

 後ろで洗濯物の心配をする飯振の気配にも気づかないのだった。

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