第2節 「近代科学の父」の親友
土曜日の協会での会合。意見を求められた新屯は、納得できない意見を完膚なきまでに叩きのめすのだった。
「宇宙の一角に風? 非常に馬鹿らしい。引力が働いただけだろう」
新屯は忖度せずに相手を詰る。
「だとしたら、ない理由を数字的な根拠で示していただきたい」
「私は他の仕事で忙しいんだ。そんな少し考えれば終了する証明に時間をかけたくはない」
「私も新屯さんの意見には賛成であります」
服部が口を挟んだ。新屯はそちらを睨む。
「私なら、もっと理論的に正解を述べてみせられます。少々時間を下さい。しかしながら、新屯さんの言い分はまともな科学者とは思えません。『ありえないから』は、ありえない理由になりません。私は彼が、それをご存じだと思っておりましたのに」
「『ありえないから』を理由にしているのではなく、実際の現象から導き出されていないと言っているのです」
新屯はムキになって噛み付く。相手が服部なら、尚のこと身を引く気はない。内容もそうだが、服部のトーンポリシングが毎度のこと憎たらしかった。
「仮説を棄却するのに、あなたのやり方は雑すぎますよ。発想の転換を潰すような人に、科学の未来を損なわせるわけにはいきません」
引かないのは服部も同じ。いつの間にか、討論は新屯と服部の戦いになっていた。
「分かった! 新屯と服部の意見は後にしよう。他の者、意見は?」
いつものように会長が話の流れを取り持つ。新屯には、参加者全員が敵に見えた。
休憩に入って、新屯は会合を抜けることにした。どうも怒りが収まらない。このまま議論しても疲れるだけだと踏んだ。
(服部め。論点をずらしやがって。アイツは私のことが嫌いなだけだ)
奥歯が砕けそうなほど食いしばり、駅への道を歩いていた。
「ニュートン先生!」
元気な声に呼ばれた。“ニュートン先生”が自分のことだと思ってしまったのがなぜなのか、新屯にも分からない。
振り返ると、やはりバルトがいる。彼は大げさに手を振りながら走ってきた。
「もう帰っちゃうんですか? 後半は出ないんですか」
濁りのない笑顔が新屯を照らす。まるで先ほどの激論など知らない顔だ。
(目の前で怒鳴り合っていたのを見ていながら、よくも私に話しかけたな)
新屯が声を荒げた後は、皆が彼を怖がって近寄ってこない。馬廊教授と会長以外は。
「いる意味がないと判断した」
「どうしてですか。皆さん、優秀な方なのに」
「そもそも私は言葉のやり合いが好きではないのだ。協会に入ったのも、晴丘さんと馬廊教授が勝手に推薦したからであって、私の意思ではない」
突き放すような口調がすらすら出てくる。新屯はこれをバルトに言うことで何かが起こるとも考えていない。無駄な時間を早く研究に費やしたかった。しかしそこには、これ以上期待させたくないという気持ちもあった。大した成果も出せない男を信じ切っている純粋な若者を、いつか落胆させたくないという思考は否定できない。
「君は、戻るといい」
再び足を帰り道に向ける。
「怖かっただろう」
バルトに聞こえるかどうか、小さな声で呟いた。
「ニュートン先生……」
「その呼び方もやめてくれないか。私は、ごまんといる科学者の屑の一人だ。どうでもいいことをしている。何でもないことを見つけている。私は……何もしていないも同然だから」
止まらなくなっていた。ここ最近で感じていた自分の無力が痛いほど己を傷つける。負い目が、怒りが、自分の弱さゆえに飛び出てくる。バルトが呼ぶ、本物の「近代科学の父」がプリンキピアを世に放った歳を、自分はもう過ぎてしまった。彼の名で自分が呼ばれることは筋違いにも程がある。そう、新屯は思った。
「アイザック・ニュートンからプリンキピアを取ったら、何が残るんだろうな」
答えが返ってくるとは思っていない。風とみなして、自分の前から去ってくれればいいと思っていた。他の皆と同じように。
足音が鳴る。
(行ったか)
しかし、その足音は大きくなり、こちらに近づいているのに気づいた。
「先生」
バルトの手が、新屯の腕を掴む。彼は新屯の隣に並んだ。
「アイザック・ニュートン先生が、もし、プリンキピアを書いていなかった世界線があったとしても、彼の人生が無価値だとは思いません。ニュートン先生はニュートン先生です」
更に、青年は新屯の前に出る。
「人とつるむのが苦手で、真面目で、頑固で、ほとんど笑顔を見せてくれない、誰かにとって大切な存在のニュートン先生です」
「世界的な発見をしてなくても、伝記に載っていない人だって、存在してなかったことにはならないですよ。それこそ、アイザック・ニュートン先生の親友だった『ファティオ』も」
新屯は黙ったまま、ゆっくりと目にバルトを映す。
「僕は、大した実績を残せなくても生きていきます。僕という歴史を最後までやり遂げます」
そして、駅の方面を向いたバルトは、最後に「行きますよ!」と言って前へ進んでいった。
「ちょ、待てよ」
何が起こっているのか、頭が回らない新屯は彼を引き止める。
「ふふ、もしかして、『ファティオ』と踏んでます?」
「?」
静かな空気を、見つめ合うことで溶かし合う。
「本当に冗談が通じない人ですね、もう! 『待てよ』と『ファティオ』ですよ!」
「いや、そんなつもりでは」
「分かってますよ!!」
この日、新屯が笑顔を作ることはなかった。しかし、彼の中に知らない惑星が誕生するような予兆を感じていたのだった。
暗闇が包む明かりの下で、新屯はスキエンティアメメントモリを進めるついでに考えていた。
『彼の人生が無価値だとは思いません。ニュートン先生はニュートン先生です』
(バルトと話していると、今まで感じたことのない高鳴りを感じる。これは何だろう。これの正体は。初めて自分で望遠鏡を作った時のような、初めて白い光から七つの色を見つけた時のような……これは、好奇心? それとも愛? だが、愛が快楽だけで構成されているのならば、私が抱くこの気持ちは愛ではないだろう)
彼の声を思い出すだけで腹の底が発熱するようだった。
『それこそ、アイザック・ニュートン先生の親友だった“ファティオ” も』
ところで、“ファティオ”という名を、新屯は聞いたことがなかった。試しに“ファティオ”で検索をかけてみると、情報はいとも簡単に出てきた。時計、重力、微積分研究など、様々なことに関わった数学者。アイザック・ニュートンと深く関わっていた時期があるらしい。
(二人の関係性は未だ不明……か)
関係は不明だが、明らかに二人の距離が離れたことが当時の手紙から分かっており、その後、ファティオは歴史の表舞台から消えた。そこで、新屯の興味は「ファティオとニュートンの関係」から外れ、前者が何をしていた数学者なのかにシフトした。しかし、彼は見逃していた。
二人の科学者が手を取っていた四年間の歴史が、どんなに親密で特別であったかということを。
「ん?」
気づけば、誰かから連絡が入っていた。開けてみると、相手はバルトだった。内容に目を通す。
『代数幾何第二項における証明の件、年内のゴールは見えそうですか?』
駅に着いてから、立ったまま二時間話していた内容だった。新屯は急いで返信を考える。そして、打ち込んだ内容を読み直して、自分でもキザなことを言っている自覚はあったのだが、そのまま夜の勢いで送った。
バルトは好きな音楽を部屋に流して、手に端末を握っていた。目を付けていた新屯と連絡先を交換することに成功した今日の自分を褒めたたえていたところだ。
『私は、ごまんといる科学者の屑の一人だ。どうでもいいことをしている。何でもないことを見つけている。私は……何もしていないも同然だから』
(しかし、過去に何かありそうだな、ニュートン先生)
バルトは新屯という人間が気になり出した。
――『ニコラのいいところは、冷徹人な中に、あっつい意志があること!』
『何だよそれ。僕はお前みたいに楽観的じゃないだけだ』
『そこまで自分を優先できる人は中々いない。才能だよ。皆、自我を通すことに疲れて柔らかくなっちゃうからさ。バルトは絶対に失くしちゃだめだ!』――
ブンブンと過去を追い払う。
(あれはもう、過去の話だ)
流れている楽し気なJポップは気分を紛らわせてくれる。日本語の練習にもなる。
(そうだ。ニュートン先生に探りを入れよう。僕のこと、どう思ってんのかな。さすがに連絡先交換しただけだと他人と変わらないよな)
『代数何第二項における証明の件、年内のゴールは見えそうですか?』
帰りに雑談から始まった話題が熱くなり、駅の前で二時間も話し込んでしまった話題だ。日本語に不備がないことを確認してから送信する。返信までに何日かかることやら。
(人間に興味なさそうだもん、あの人。明日には僕と連絡先交換したことも忘れてそー)
端末を放り投げてソファに背を預ける。机の上の書類をぼんやり眺めた。バルトはバルトで、研究途中の資料を整理しなければならない。それから、協会への細かな手続き、母への連絡など、することは多い。
一曲終わり、切りがよいところで立ち上がった。そこで、今さっき放り投げた端末にメッセージが届いていたことに気づく。
(うそ、ニュートン先生じゃん。返信は早い方なんだ)
何が書かれているのか読んでみる。
『先は見通せないが、もし私が遠くの先、またその彼方を見渡せるとしたら、それは巨人の肩に乗ることで可能になるだろう』
意外と気の利いた答えができるのだと、バルトは感嘆の声を漏らした。
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