第3節 新屯の過去
協会の会合の日。早くに着いてしまった新屯は、同じく到着していた
「ほう。目に見えない天体? 空気と水蒸気だけでできた惑星ということですか」
「まだ予想の枠を越えません。ダークマターを出されれば検証すべきですが、実験してみなければ断言できません。私の計算だと……」
新屯は自分の研究に助言を求めた。他の会員に分かった顔で助言をされようものなら怒り散らかして部屋に引きこもるのだが、蓮や馬廊教授などに相談するのは嫌悪がなかった。
「なるほど! 幾何学ですか!」
「はい。蓮さんの得意分野かと思いまして」
「綺麗な数字です。ただ、途中式が複雑すぎでは?」
蓮は困ったように笑いながら、新屯が並べた式を指差す。
「分かればいいのです。これくらいの事も分からない愚か者は、この分野に手を出すべきではない」
頑固な仲間に苦笑いを贈りながら、蓮はヒントになりそうな予想をいくつか打ち立てた。新屯は必要だと感じた案だけメモを取った。
「こんにちは! ニュートン先生、蓮先生!」
ありったけの元気を声に出したようなバルトが、二人の机にやってきた。
「こんにちは。バルトさんがいると、協会にも活気が出ますね」
蓮は、バルトを見て楽しそうに返事をした。新屯は声を出さずに返事をした。
「何してるんですか」
バルトが新屯のメモを覗き込む。
「この前の、衛星が軌道に戻った件についてです」
蓮がバルトに説明した。バルトは新屯が書いた落書きのような数式を眺めている。
「これ、
そう呟いたのはバルトだった。簿入とは、西アカの会員だ。主に空気を研究している、優しき変人。新屯も学生時代に交流があった。
「ほうほう。簿入さんが発表していたのは、確か、一定の条件が揃えば、あるはずの物体が可視できなくなるとかいう……」
蓮は記憶を辿り始める。この青年が何を言いたいのか推理しているのだ。
「温度、圧力、体積……」
新屯はブツブツと口を動かし始めた。
「どうですかね」
バルトは急に不安になってきた。新屯の顔が険しくなっていくのを見て、自分が余計なことを言ってしまったのではないかと思ったからだ。
「ヘウレーカ!!」
部屋全体を振動させるような声で新屯は叫んだ。叫んだと思えば、立ち上がった。
「いや。待てよ」
そして、ストンと椅子に座る。
「光の例外? そんなことがあるだろうか。宇宙のある一か所では、光の性質が変わる?」
新屯の脳内で何が爆発したのか分からない蓮とバルトは、目を丸くしたまま固まっていた。だが、新屯の独り言を聞いていた蓮が口を開いた。
「つい先月、とおーい宇宙から届いた石がありましたよね。その石と光の関係を分析すれば何か分かるかもしれませんよ」
「それだ!」
新屯は、また叫ぶ。今度はバルトも屈せず提案した。
「それなら! その石を様々な角度から研究してる
不乱無は、現在の新国立天文台長だ。専門機関が付属しているため、宇宙からの成果物はここに届けられて研究されることが多い。
「それだ!」
居ても立っても居られない新屯は、早速その場で国立天文台へ出す依頼文を書き出し始める。横で見ている蓮とバルトは、穏やかに笑顔を向け合った。
幸運な事に、今日の会合では新屯も服部も出番がなく、終始何事もなく話が進んだ。そのため、バルトと帰り道を共にする新屯の機嫌は良かった。
「ところで君は、どこの出身なのかな」
「スイスです。でも僕、日本語上手いでしょ?」
「ああ、語学には強いみたいだな」
バルトがスイス出身だから、彼の自慢話の中でスイスという単語が出てきたのかと新屯は納得する。
「勉強したんです。ずっと日本に行きたいと思っていたので」
「なぜ?」
「ニュートン先生に出会うためですかね!」
不意にバルトから笑顔を向けられて、新屯は反応に困る。
「そういうのは、いいから」
しばらくの静寂。
「……日本の科学レベルが高いからです。ノーベル賞を沢山取っていることからも分かるし、僕が初めて日本に興味を持ったのは、一九九五年にワイルズ教授がフェルマーの最終定理を解いたって聞いた時! 解いた人が凄いのはもちろんですけど、そのヒントを発見したのが日本人って聞いて! そこから日本に行きたいって思ったんです。きっと僕の刺激になる人が沢山いるんだろうなって」
「谷山・志村予想か。確かに、私も、フェルマーの最終定理が三百六十年越しに解かれたと初めて知った時は震えたな」
「ムネアツです! 僕もそんな発見がしたいです!」
バルトは、新屯に同意してもらえたことが嬉しかった。まるで本当の自分を肯定されたかのような心地がした。
「どちらかというと、君は問題の発見者になりそうだが」
「それもいいですね。それなら、バルトのムネアツ定理にしましょう。解かれたくないけど、いつかは解いて欲しいですね」
「どちらなんだ」
新屯との会話を、バルトは楽しく感じる。彼の笑顔をいつか見られたらいいと思った。
駅で新屯と別れたバルトは、時間を潰せる場所はないかと歩き回る事にした。早くに会合を抜けてきてしまった事で、帰る時間にはまだ早い。若いバルトには刺激が足りなかった。誰かさんと話したことで火照った身体を冷ます意味もあった。
(ニュートン先生のお気に入りに近づけたかな。もし、今日の蓮先生と僕との会話からニュートン先生が何かを発見したら、僕は世界に認められる科学者になれる!)
肩が軽くぶつかった。
「あ、すみませ……」
考えることに夢中で前を見ていなかった。謝って切り抜けようとしたが、ぶつかった相手はバルトの腕を掴んで離さない。
「あの、何でしょう……」
社会の裏とぶつかってしまったのだろうか。バルトは不安に駆られながら顔を上げた。
「君、時間ある?」
ニヤニヤの笑顔を張り付けて、男はバルトと会話をしたがる。見た目は五十代のおじさん。見た目だけだと、若いバルトでも物理で倒せそうに見えた。
「あ、あります」
バルトは拳の争いを好まなかった。
「岩渕っていうんだ。記者やってる者です」
岩渕と名乗った男から名刺を貰う。使い道が分からないが、とりあえずしまう。
(よかった。怖い人じゃなさそう)
夕方の時間帯に『レスベラトロール』を利用している客は少なく、バルトと岩渕は更に人気のない窓際の席に座った。若者と中年の組み合わせは店員に怪しまれたため、少しでも店員の目から離れられる席をバルトは勧めた。バルト自身は、特に年上が好きになる趣味はない。
(でも、何の用だろう。僕まだ、何の不祥事も起こしてないけど)
「ご用件は何ですか」
緊張が伝わらないよう、慣れた笑顔で尋ねる。岩渕が何を目的に自分に話しかけてきたのか、バルトは知ろうとした。何となく、たまたまぶつかったように思えなかったのだ。最初から自分を狙って近づいてきたのではないかと思っている。
「単刀直入に言うよ。君のことが知りたい」
「本当に単刀直入だ」
若干引いた顔のバルトは、もはや感情を隠せずにいる。
「勘違いしないで! おいの恋愛対象はプラマイ十歳以内だから」
「おい?」
「『おいら』のこと。おいさ、田舎出身だから」
(ああ、自分を指す言葉か)
日本人の「自分」を表す言葉の多さを再認識したバルトだった。
「記者として君のことを取材したいんだ。もちろん、嫌ならプライベートで構わない。おいは優秀だから、ある程度の自由取材は許されててね。おいが『秘密にしたい』って言えば、周りは容認してくれる。今回は、僕個人が目を付けた科学者を取材してるから」
「僕のことを知ってるんですか!?」
自分が日本の記者にインタビューされるほど有名なのかと、バルトは期待する。
「もちろんだよ! 新屯と話していただろ?」
「ニュートン先生も知ってるんですか!?」
「ニュートン先生……? ニュートン……あ、そういうことか!」
岩渕は、「新屯」が「ニュートン」になるカラクリをさらりと解いた。
「知ってるというより、友達だよ。ずっと前からの」
新屯が積極的に友達を作っているとは考えられないが、フェイクでもいい。新屯の情報を知っている人が目の前にいる。バルトは、このチャンスを逃すものかと思った。
「僕のことを話したら、ニュートン先生のことを教えてくれますか」
「お、取引か。個人情報なんだけど、まあいっか。話すよ。君を信頼してね」
バルトは、自分の望み通りに事が進んで気を良くした。元より隠す事はほとんどない。表面上の事実だけ話していれば、それで過去語りは無事に終了する。
「うん。ありがとう! おいは満足!」
岩渕の方も、そこまで深くは探らなかった。最初の接近は、相手の警戒を解く事に徹底するのが彼のやり方である。
「じゃあ、ニュートン先生のことを教えてください」
「うん。何が聞きたい?」
「何でもいいなら、彼の生い立ちから」
「ぶふっ、ファンかよ」
言われて、確かにこれではファンの質問だと気づく。バルトは顔が赤くなった。
「おいが知っている限りでなら話せる。それでいい?」
「はい。聞きたいです」
岩渕は、物語じみた口調で新屯の過去を話し始めた。
新屯家のゆりかごを始めて揺らした男の子は、クリスマスの夜に静かな散村で生まれた。とても小さな乳児は
ほどなくして、
しかし、彼も憎しみに引きこもってばかりいたわけじゃない。土地だけはあるから、自由に遊べたわけだ。目に付くもの全てに興味を持ち、特に、何かを作る事には長けていた。川の水をせき止めて、一定の量を溜めると自動で放出する扉とか、ドンピシャで目的の場所に木の実や石を飛ばす装置とかを作ったらしい。その器用さは近所の子供と遊ぶ時も発揮され、女の子と遊ぶ時はおままごとの道具を作ってあげていたようだ。そうそう、お手製のなんちゃってUFOを光らせて、通行人を驚かせた可愛いエピソードもある。天才によくある事だけど、時計を分解して、違う物に変えてしまう魔法のようなこともしていた。
何年かして、母親は再婚相手にも先立たれ、家に帰ってきた。
三人の子供を連れて。
やっと母の愛を享受できると思った環少年だったが、彼女の愛はまだ小さい弟妹たちに向けられた。そして、彼が村から遠くの中学校に行くのを機に、彼は家から去った。
中学校では、彼はいじめにあう。簡単に言うと、IQが周りの児童たちと離れすぎて仲良くする事ができなかったんだと思う。だがある日、いじめっ子との喧嘩に、彼は勝った。そこからは彼の逆襲が始まった。成績は常に学年のトップ。いじめっ子も手が出ないほど才能の差を見せつけたんだ。
岩渕は、まるで自分の武勇伝かのように新屯の過去を話し上げた。
「そこからも色々あったけど、今の“頑固な新屯”の基盤を作ったのは、ここら辺のエピソードが語ってると思うよ」
バルトは考えた。新屯が、会合での論争で自分の見解を決して曲げないのは、やりすぎだと思うほど相手を負かすのは、自分の分身とも言える「自分の理論」を守るためだったのではないかと。自分で守らなければ、誰も守ってはくれない。自分の意見が正しいことを証明してくれるのは、自分しかいない。
すなわち、孤独。
バルトは、遠い過去の新屯に、昔の自分の影を重ねた。
「岩渕さん」
「ん?」
「先生の大学時代はどうでしたか」
「この話の先が知りたい?」
「はい」
「いいけど、そうだ。あいつの大学時代なら、おいより詳しい人がいるよ」
バルトは前のめりになる。
「当時のニュートン先生を知りたいです。僕は、彼のことを知りたい」
穏やかだった青年が興奮で身体を震わせている。岩渕は、この若者が新屯にただならぬ想いを抱いている事を推測した。
「
「その方、今どちらに?」
面白いことが起こりそうだと、岩渕も全身が震えそうだった。
別れ際に、バルトはもう一つ質問した。
「岩渕さんは、どうしてニュートン先生をそんなに知ってるんですか」
岩渕は軽く笑う。
「記者だからさ。でも、おいも、新屯の過去を全て知り尽くしているわけじゃない。ここまで知るのに何年もかかった。君が知っての通り、新屯は秘密主義だから。自分から話す人じゃないし、聞いても中々教えてくれなかったよ。おいが君に話したって事は秘密にしてて」
岩渕の言い方から、今日聞いた全てを新屯から聞き出したのではないのだとバルトは分かった。おそらく、新屯の周囲を無断で嗅ぎ回って手にした情報も紛れている。
「岩渕さんは、先生と知り合ってどれくらいですか」
また一つ、質問を飛ばす。
「かれこれ付き合って二十年くらい? それくらい一緒にいないと、彼のことは知る事ができないよ」
「お二人が特別な関係だったことは?」
「特別って?」
バルトは少し溜めてから、目を逸らして答える。
「恋人だったこと、とか」
倍以上年下である青年の、奥に秘められた敏感な感情を、記者の勘で察知した岩渕。その感情は、岩渕が新屯に向けるものとは成分が違っているのだが、全く別ベクトルでもないのではないかと薄く感じる。
「ないないない! あるわけない! 新屯は誰にも振り向かないよ! 科学が恋人みたいなものだから」
「……そうですか」
可能性を否定するのなら、いっそ例外のない方がいい。岩渕の想いは蓋をされた。
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