第2節 出会い

 幾度も幾度も、実験結果とバラバラに書き出した数式をまとめ、新屯は論文を完成に近づけていった。全てを形にした時、新屯は無駄だと感じていた執筆時間も、意味が遅延して投与された気がした。それは思わず、「やったぜ!」と叫ぶくらいに。

 長年気に掛けてくれた恩師、馬廊教授に提出し、それは時間を置く事なく協会へ届けられた。


 次の土曜日、会長はご機嫌だった。馬廊教授も隣にいる。彼らの手には、新屯が先日出した論文が握られていた。

「よしよしよしよし! 最高だ新屯! お前が壇上に立って説明する日が来るとは……感慨深い!」

「会長、ハンカチどうぞ」

 男泣きしている会長を見て、新屯は必死に書いた論文を提出した事が恥ずかしくなってきてしまった。繰り返し思うが、これはそこまで革新的な内容を示した論文ではない。ただ、新屯の沈黙期間が長かったために、痺れを切らした会長が大げさに振舞っているだけだ。

(私より歴史的な発見をしている人は沢山いる)

 三人の後ろでは、不満げな服部が腕を組んで立っていた。


「諸君! 本日の話題はこれだ!」

 会長は、画面に新屯の論文内容を映して叫ぶ。

「光の均時……」

 そこで、会長の言葉が止まった。何事かと会員たちはひそひそと波を立たせる。

 一人の会員が、会長の視線がある一つに留まっている事に気づき、出入り口の方を振り返った。皆もつられて後ろに注目する。

蛍壁ほかべ……」

 会長が虫の息でこぼした名前は、西アカの会長のそれだった。新屯もそちらに目を凝らす。すると、いつもは見ない顔の人物が入口付近に立っていた。

「何故、お前がここにいる」

 会長は壇上から降り、肩を怒らせながらその人物へ近づいていく。皆が唾を呑んで見守る。

「あら、私も協会の会員なのよ。会員が会合に参加するのは当たり前でしてよ」

「お前は西アカの会長だろう! ここは東アカの会場だ!」

「西アカの会長が東アカに関わってはいけないルールなんて無かったはず。ねえ、皆さん?」


 西アカの会長、蛍壁さんだ! 何でここに!?

 ざわざわ……

 初めて間近で見た。熱血漢の元恋人という割には冷めた感じの女性だね。

 ざわざわ……


 新屯は、面倒臭い事になったとため息をついた。

「今すぐ出て行け! 今、良いところなんだ!」

 蛍壁は、新屯が壇上にいるのを見て、彼の方に靴を鳴らして歩いてきた。

「おい! 聞いてるのか! 蛍壁!」

「私が今日ここに来たのは、あなたと話すためじゃないのよ」

 彼女は壇のすぐ下で止まり、新屯を見上げる。

「長いことかかりましたね、新屯さん」

「はい」

 彼は、話し慣れない人物にどう返事をすればよいか分からなかった。

「あなたの頭脳に助けられた輩が、西アカにもいます。今回やっと、新屯さんが沈黙を破ってくれる事を私は嬉しく思っています。あなたは小さな結果と謙遜している事でしょうが、その小さな結果が積み重なって未来の科学に繋がるのです。応援していますよ」

 そう言うと、蛍壁は口だけ少し微笑み、背を向けた。彼女の笑顔は綺麗というより、可愛らしいに近い、と新屯は思った。久しぶりにこの距離で見たが、まだ六十手前だろうか。落ち着いた雰囲気の中に野心が見えない事もない。

「何しに来たんだ!」

 会話から弾かれながらも喧嘩腰の会長に、蛍壁はピシャリと言った。

「新屯さんの話を聞きに来たのに、あんたがうるさいから帰るのよ」

「この数秒のために関西からか」

「いいえ。用事のついで」

「話だけ聞くのなら回線でもよかっただろうが」

「前に一度、あなたに会長の権限で拒否された事、忘れないわよ」


 会長、そんなことしてたのか。どんだけフラれたこと恨んでるんだよ。

 ざわざわ……

 会長と互角にやりあうって凄いな、あの人。

 ざわざわ……


「ふん、あの時はお前が悪かったんだ。俺の意見に反対ばっかりするから」

「私の意見にそっちが反対してるだけでしょ」

「あぁ?」

「何?」

 対峙する二つの火花。青い炎が散っている。

「もういいわ。あなたと話してると疲れるだけだもの。なんにも変わってない。さよなら」

 蛍壁は暗い室内に一瞬の光を差し込んで、外へ出ていった。


「……邪魔が入ったな。すまん、始めよう」

 会長が気を削がれた様子で仕切り直した。会員が前を向いた事に気づいて、新屯も原稿に目を落とす。咳ばらいをしてから読み始めた。




 読み終わると、手を挙げる者が一人。服部だ。

「何でしょうか。質問なら、簡潔にまとめて悪意のない態度でお願いします」

 服部は立ち上がった。

「説明ありがとうございます。私が申したい事は二つあります。一つ目は、実験中の波の影響についての疑問です」

 用意しておいた表情で、服部は話し始める。

「50センチの大きさで光を差し込み、そこから任意の角度で入射角を測定すると、反射角も等しくなりますから、この条件の場合、厳密に測るとml:PH=IT:MLになって求められるのは337/50度。すると、計測する部屋の大きさが足りないように思えるのですが」

「私は正確な実験をしたまでです。気になるなら、同じ実験を広い部屋で試してはいかがですか。同じ結果になると思いますが」

 新屯は自分でも礼を欠いた対応だと思った。しかし、改める気はない。

「では、この場では決着がつかない話ですね。これは今度、公開実験にしましょう」

 構えていたほど深く探ってこない服部に、新屯はさらに気を張る。恐らく、ここからが本題なのだ。

「二つ目は、この理論を誰の説から導き出したか、です」

「参考文献は下に記しました。それで以上です」

「私の、名前が、ありませんが?」

 新屯は服部の言いたい事が分かった。

「例えばこの、『リチウムと光について』の節。リチウム問題解決に提案する形はとてもよいと思いますが、これは私が以前『結晶の融点の動き』の中で述べた内容から一部を抜き取って考えられたのではありませんか。これだと、あなたの論文が認められたと同時に、私の説も立証されます。あなたの先駆けを私が述べていたのです。私の名前を記さないのは窃盗になるかと」

 またか、と新屯は心の中で舌打ちした。

(この人はいつもいつも。自分の成果だと言って横取りしたり、難癖を付けて論破しようとしたり。なんて人だ。ごまめの歯ぎしりとはみっともない)

「お望みなら名前は出しましょう。名前ぐらい出しても出さなくても、どちらの得になる事もありませんが。それであなたが満足して眠れるならいくらでも。三行に渡って書いたっていい」

 新屯の答え方が気に入らない服部は言い返す。

「私は先ほど謙遜していました。しかし、言葉を選ばずに言うなら、私が先に説いた説だということです。あなたの『15”36”15^iv69^v』を求めた式。私の『求心力の適応運動』で述べた式ではないですか」

「その論文を読んだ事がありません」

「今、書いていますからね」

「世に出されていない物を私が読めるとでも?」

「読んだのではありません。私から聞いたのです」

「それは証拠としては薄いですね」

「でも、絶対に違うとは言い切れないですね」

 新屯は、なぜ自分がここまで熱くなっているのか分からない。出す前までは大した発見ではないと思っていたのに、今では何が何でも自分の成果にしたいと体中が燃えている。

「確かに、私が服部さんから聞いていないという証拠はありません。しかし、もし私があなたから聞いていたとしても、とても『服部さんのものと分かって奪ってやろう』とは考えていません。文章にも書いた通り、晴丘はれおかさん、彼のチームの皆さんのご厚意があって私はここまで到達する事ができました。よって、あなたのおかげではありません。それに、あなたの式は完全ではない。先に定式化し、完全にしたのは私です」


「二人とも、熱くなりすぎてないか? ガス抜きしようぜ」

 会長が口を挟んで、初めて二人は呼吸を思い出した。

「とりあえず、新屯は服部の名前を論文に記すこと。その他は追々話していこう」

 ということは、論文の雑誌掲載は決まったようだ。

「分かりました。私からは以上です」

 服部が席に着く。顔も見たくない新屯は、得意げな表情をしているであろう彼の顔を踏み付けてやりたかった。

「それでは、終了します」

 新屯も席に戻る。

「激論だったな諸君! 休憩を挟んだら次の話題に入るから、それまで!」

 会長の声で、会員たちはガヤガヤと動き出す。新屯は部屋を出た。

 彼は機嫌を悪くしていた。激論はこの世で一番嫌いなのだ。自分の思考、計算、存在を批判され、奪われるようで。守りたいものは全て、自分の力で守らなければ取られてしまう。小さい頃から自分を守る頑固な性格は、その思想のせいだった。

 次の時間まで待つ事なく、新屯は帰途に就くのだった。




(負け犬の死に損ないが! 大した大学だって出てないくせに偉そうに! 会長だって、本当は俺が正しいと分かってくれてるはずだ!)

 一方の服部も不服であった。他人の研究を一部だけ見て分かったような顔をし、盗み取る。盗むだけでは物足りず、盗んだものを無秩序に改造し、ガラクタにしてしまう。ガラクタにする過程で発見をしたとしても、それを独り占めして、自分だけの宝物にする。服部から見た新屯はそんなイメージだった。そもそも、新屯が協会に入ってきた時から、彼の全てが気に入らなかった。




 新屯が協会に入会した頃、服部は三十六歳だった。新屯は二十九歳。若き天才と言われる新屯が卒業した院はK大学院。最初、服部はこれにピリついた。服部が出た院は外国のO大学院であるから、比べるまでもなく自分の方が上だ。それなのに、周りは新屯の未知なる才能に食いつく。服部は嫉妬深い性格だった。


 服部は生まれながらに身体が弱く、学校に行く事ができなかった。しかし、父親が親身になって勉強を教えてくれたおかげで遅れを取る事は無かった。それどころか、同い年の子供たちと比べて、自分はかなり優秀だと気づいたのだ。友達と関わりがない分、身の回りのいかなるものも彼の遊び相手になった。時計、電子機器、家具を分解し、違う物に作り替える。自分が作りたいと思えば、父親に教えてもらいながら何でも作った。数年後、国内の教育システムでは手に余る頭脳だと、両親は海外の学校に行かせてくれた。だが、順調だった彼の人生に転機が訪れる。

 服部が中学生になってすぐ、父親が他界した。自殺だった。最愛の父に残された悲しみで彼は翻弄され、無我夢中で忘れようと勉学に逃げた。その結果、大学を出る頃には、主席を手にして友人を犠牲にした。


 なぜ。どうして。こうなってしまったんだ。


 母や親戚に心配されながら、服部は大学院に進むことを決めた。もう自分には学しかないと思ったからだ。だが、それも上手くはいかない。


『そんなにかかるんですか!?』

 彼が進みたい大学院は、現地に住む学生よりも、海外の学生が負担する学費の方が高くなるシステムを採用していた。

『服部さんは日本に籍があるからね。奨学金を借りるしか……』

 アドバイザーも「こればかりは」という顔をする。

『お袋、いいよ。俺、やっぱり就職する』

 父が亡くなってから、母も色々と辛いのだろうと彼は分かっている。これ以上、負担はかけたくなかった。

『ううん! うちは大丈夫だから。行きなさい!』


 母親の期待に応えるため、服部は休む事なく努力した。ギリギリまで生活を切り詰め、空いた時間は借金のために働き、日に日に疲れは身体を蝕んでいく。身体を壊した事もあったが、それを母に知らせた事は一度もなかった。とは言え、自分がいるのは世界が誇る名門大学院。施設や研究は充実している。教授たちも申し分ない。この学校にいる事で、自分は選ばれた人間であり、エリートなのだと満足する事ができた。

 数は少ないが友達を作り、何とか卒業した後には膨大な借金が残った。同じくらいの歳、同じ学校、同じ勉強をしていただけなのに、周りの友が揚々と社会に出て行くのを見て、何も言う気が起こらなかった。虚しさが、心の蓋を下から殴り飛ばした。


 卒業した後は、病気になった母を介護するため日本に戻った。仕事は研究所の助手。介護の合間に働かせてくれる職がここしかなかったのだ。

 彼は、未だに悪夢にうなされる。自分と同じ位置に立っていた友たちが成功を収めていく。大企業、出世、起業、世界を牛耳るシステムマネージャーなど。自分はいつまでも同じ場所にいて、皆に置いていかれる。借金だけが自分を追いかけてくる。無理して留学させてくれた母にも申し訳が立たない。だから、母が亡くなった瞬間、彼の心に降ってきたのは、一区切りついた安心感だった。

 やっと、終わったのだと。




(俺の方が成果も残している。なぜ、特筆する功績も残していない新屯がここまで支持されるんだ!)

 次のフェーズに入った服部は、孤独を怒りの強さにして這い上がってきた。ここでも同じことの繰り返し。努力で東アカの会員に推薦された時と同じように、今からでも自分の更なる才能に気づいてはくれまいか。誰でもいい。

(あんなヤツ、爪を隠している賢い鷹じゃない! 爪がないから隠している見せかけの鷹だ!)

 服部は誰にも心の底を見せる事なく、会場から出ていったのだった。







 どういうわけか、散々な事は続く決まりになっている。翌朝、新屯を叩き起こしたのは、馬廊教授からの着信だった。

「目覚めを悪くして申し訳ない。でも急ぎだったんだ」

「はあ」

 あくびをかみ殺して返事をする。あちらは真逆で緊張している声だ。

「君がつい昨日、協会で発表した内容だけど、さっき似た内容がアメリカの雑誌に載せられていたよ」

 新屯は二度目のあくびも出す事はなかった。気は会話に集中させられる。

「本当ですか」

「うん。残念だけど、何回聞いても答えは同じだ」

 気持ちの整理が忙しく、新屯は返事を忘れた。

「先を越されてしまった。悔しいけど、受け入れるしかない」

「……はい」

 流行っている分野ではあるから、このような結果は考えないでもなかった。しかし、覚悟はしていなかった。最悪の想定が当たる確率は、これまでの人生から計算すれば0.5%。奇跡的確率が当たったのか、計算が間違っていたのか。

「こういう事もあるよ。論文の詳細はそちらに送るから読んでみてくれ。そしたら気を取り直して、次に行こう」

「はい」

 丁寧に礼を述べてから電話を切る。その日は数人の人物から連絡が寄せられたが、どれも読む気にはなれなかった。








 新屯は三カ月引きこもった。その理由を飯振は知らなかったが、いつものように接しているのが一番だと思い仕事を続けた。新屯の研究への熱意は変わらないし、不規則で不健康な生活はいつもの事だからだ。仕事は休みを貰っていると聞いている。


 三カ月と一日目に入ったある日、新屯の家の前に岩渕がいた。

「あれ、岩渕さん?」

「やあ、久しぶり飯振くん。新屯いる? 連絡しても反応ないからさ」

 三カ月に一度のストーカーこと岩渕が連絡を取れないという事は、新屯の精神に何らかの変化があったのだと飯振は思う。

「ずっといますよ。三か月くらい、ずっと家に」

「じゃあ、ただの無視だな。入れてよ」

「今開けますね」

 たまに岩渕を家に入れる事はあった。だから今回も、特に気にせず彼を入れる。

「にいーなやー、入るよー」

 控えめに大声を出しながら、岩渕は新屯の部屋に入っていく。二人が取り込んでいる間、飯振は溜まっている洗濯物を回し、実験で汚れた機器の掃除していた。


「これは荒れてたね」

 しばらくして、岩渕が笑いながら出てきた。飯振は気になっていた事を聞いてみようと考えた。新屯に聞くと、怒鳴られるかもしれないと思っていた事。

「新屯さんが引きこもってるのって、何か理由があるんですか」

 遠慮なく座った岩渕にお茶を出し、尋ねる。

「あ、聞いてない? 新屯の研究が、他の人に先に出されちゃった事」

「え? 知りませんでした」

 首をかしげている飯振の前で、岩渕は「頂きます」と言って茶に手を付けている。

「僕はアカデミックの世界が全然分からないので。でも、やばい事なんですか」

「珍しい事じゃないらしいよ。『研究は競争だ』って言う人もいたし」

 記者の岩渕は、様々な人の話を聞いてきた人物だ。取り扱いジャンルは政治哲学と言っていたが、新屯以外でも全く別の人種に手を出しているのだと飯振は理解した。

「でも新屯の場合は、周りに相当注目されてたから。眠れる獅子みたいな扱いをされてた」

「へえ」

 科学界での新屯の立ち位置を知らない飯振からすれば、新鮮な話だ。これまでは、ただの「よく分かんないけど何か凄いらしい天才っぽい研究バカ」に見えていた。

「周囲の期待とか批判とか、色々、あいつにはきつかったんだろうな」

「でも実験はしてますよ」

「そりゃ、研究と心中するって言われてるくらいだからな。病んでても研究は呼吸代わりってね」

「いつ、病み期は終わりますか」

「もうすぐでしょ。さっき喋ったら、普通に『なんちゃらの級数が~』って言ってたから」

 飯振は安心する。何をしているのか分からない人でも、心は健康であって欲しい。あと、学費も出して欲しい。

「ところで、岩渕さんは政治哲学以外にも興味をお持ちなんですね」

「自然哲学も、哲学だからね」

 飯振はまた、首を傾げるはめになった。




 その一週間後、新屯は何でもなかったかのような顔で外に出た。その頃には新たな研究を進めていた。

「取り憑いていた科学は去ったかい?」

 岩渕がおちゃらけて聞くと、新屯は無視した。







 今日は、年に一度の両アカデミー協会が集まって成果を見せ合う発表会『日本サイエンス会議』、通称、JS会議が開かれる。内容は講義形式、質問会、シンポジウムやパネルディスカッションなど様々だ。生きた知識や新情報などを収集できるだけでなく、普段関わらない専門家とも意見を交換できる場というだけあって、これを楽しみに一年を過ごす科学者もいる。まさに、日本科学の祭典。メインは、会長二人による一年間のまとめ『5×73の果実』だ。四年に一回、『2×3×61の果実』になる。


「あいつはどうせ、螺旋と土星だよ。変わらん変わらん」

 会長はそう言って、蛍壁のことを軽くあしらう。だが、新屯を含め、皆知っている。彼が会場に来るまでの時間、ずっと蛍壁の発表資料を読み込んでいた事。

「とか言いながら、足は蛍壁さんのとこ向かってるんだよな」

 誰かが痛いところを刺激すると、会長は「うるさーい!」と叫んで大股で歩き出した。たまたま隣にいた新屯は、腕を掴まれて道ずれにされた。


「あら、今日の助手は新屯さんなの?」

 会長と新屯を見つけた蛍壁は、発表に向けた資料を手に近づいてきた。

「い「そうだ」

 拒否する前に返答されてしまった。新屯は、仕事が増えた事でもう帰りたくなってきた。

「新屯さん。お久しぶり」

 蛍壁が新屯に向き合う。蛍壁に会ったのは、彼女が東アカの会合に突如として表れて以来だ。

「お久しぶりです」

「お顔が見られて良かったわ。あなた、引きこもってたっていうじゃない」

 気まずい思いで目を逸らして頷く新屯。スキエンティアメメントモリに熱中していたとは口が裂けても言えない。

「色々あるけど、将来のある跡継ぎが消えなくて良かった」

 彼女は静かに微笑む。

「お前の跡継ぎじゃないぞ! 俺の跡継ぎだ!」

 会長が騒ぎ立て始めた。

「誰も“私の”とは言ってないでしょ! 私たち皆の跡継ぎよ! 私たちだって、いつまで現役してられるか分からないんだから」

 その言葉を聞いて、新屯は想像してみる。十五年ほど前、新屯が協会に仲間入りをした年、二人は四十代半ばだった。今の新屯と同じくらいの年齢。あの時の二人は会長ではなかったが、今では会長職の役目を立派に果たしている。十五年後、新屯は自分が何をしているのか考える必要があると感じた。時の流れは年々早くなっている。

「しんみりした話は俺たちに合わない。『果実』の話をしよう。部屋、空いてる?」

「ええ。荷物置きの一角を開けておいたわ」

 二人は、まとめの打ち合わせを始めるようだった。

「新屯さん、楽しんでね」

「またあとでな、新屯」


 会長たちから解放された後、新屯は見たいブースをどう回ろうか考えていた。その時、やたらと目立つ人物が目に入った。

「……!」

 全身が動かなかった。何も聞こえなかった。全てはスローモーションのまますれ違い、通り過ぎていく。

 なぜ目に入ったのか。まず、その人物が目を疑うほど若かったからだ。次に、長くて明るいブラウンの髪色、それを結う赤いリボン、アクアマリンのような瞳、軽々と運ばれる足。顔立ちはヨーロッパ系だろうか。アジアで見る顔ではない。参加する年齢層の高い催しなだけに、彼は会場から浮遊して見える。とても、強力な引力を感じざるを得なかった。

 周囲の雑音が戻ってきて、やっと新屯は脳と足を動かす事ができた。振り向くと、もう彼は遠くの人波に消えていくところだった。


 彼は何者なのか。その答えは、蛍壁の発表で判明する事になる。


 例の彼は、蛍壁の助手を務めていた。一度も目が合う事はなかったが、新屯の方は彼から目を離さなかった。

「本日、蛍壁会長の助手を務めます、バルトです」

 その顔からは想像できないほど流暢な日本語を話す彼を見て、新屯は純粋に驚く。バルトと名乗った青年は、蛍壁の研究を裏付ける実験を説明していた。説明はもちろん聞いていた新屯だが、彼の立ち振る舞いや理路整然とした話し方、研究者としての可能性に知的興奮を刺激される。この場の何よりも、新屯の脳を占めるのは彼の存在だった。

 新屯はしばらく茫然と立ち尽くし、隣でスタンバイしていた会長に背中を叩かれても反応を忘れていた。


 帰り道、新屯はバルト青年をずっと考えた。彗星の軌道も、反物質の質量も、リーマン予想も、優先順位のステージに上がってこない。生まれてから今まで他人を考えるに使った時間を合算すると、その和は一夜で超えて有り余った。







 次の土曜日。新屯はいつも通り余裕を持って協会の会合に向かった。

 出入口で会員証を見せ、階段を上がる。脳内は数字で埋め尽くされている。ほぼ無心でドアを開ける。数人が既に集まっていた。雑談をしている。だが、その束がいつもより大きい。一人の話に皆が集まっているのだ。

 特に話したい仲間もいない新屯は、酒酒落落として中央の席に着く。数分は気にしなかった新屯だが、集団がどんどん大きくなるにつれ、渦中の人物が何を話題にしているのかだけ知りたくなってきた。もしかしたら、今後の研究に役立つ最新情報かもしれない。

 顔を上げて人々の黒い頭を眺める。その隙間から見えた顔に、新屯の視線は固まった。


 光を伴って目に入ったのは、バルト青年だった。

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