第1章 プリンキピア
第1節 プリンキピア
2XXX年。地球を旅立って老年の人工衛星が、天文学的地点で軌道を逸れた。ある天文学者は言った。
「新しい惑星、或いは計り知れない巨大天体が誕生したのだ。その引力が衛星を引き付けたに違いない」
その掛け声が地球上に響き渡った時、数々の科学者たちがロマンに惹きつけられ動き出した。ある者は望遠鏡を覗き、ある者は研究室で小宇宙を作り、ある者は宇宙の未来を文学で想像した。
そして、天体を数字上で解き明かそうとする数多くの者の中で、やはりロマンという大海原を探索する科学者が一人。
彼の名を、
教室の窓から入る日の光に、埃の粒が反射して浮かぶ。そこに響く、一人分の声と足音。
「斜線の面積を出すために、10^2-(8/2)^2×π=10^2×(1-π/4)を用意し、これはここでは(1-π/4)=(1-3.14/4)になるから……」
新屯は、今日も壁に向かって授業をしていた。彼の講義を聞く学生は初期には存在していたものの、現在では一人もいない。それは彼の授業内容が複雑な事もあるが、彼の頑固さに疲れてしまう学生が多い結果だった。また、新屯が全く笑わない事も悪評なのだった。
「定法はこれで求められたのである」
ちらりと時計に目を向ける。講義が始まってから十五分は経った事を確認した。
「それでは失礼」
盛大な独り言を放ち、ブツブツと文句を言いながら教室を出る。伸び放題の前髪から睨んだ目が覗く。
「誰もいないなら、最初からあそこに立つ必要がない。なぜ私が、貴重な研究時間を割いて誰もいない教室にいなければいけないんだ」
小さな独り言を聞いている者は、誰一人として廊下にいなかった。
授業をたった十五分で切り上げられる事で、新屯の研究は捗った。そもそも、彼は教師になりたくて大学教授になったわけではない。主に研究費、次に生活費を稼ぐために教鞭を執る選択をせざるを得なかったのだ。
「またあんたですか。時間ですよ。帰ってください」
また、うるさい警備員が入ってきたと思った。いつもこうだ。大学が閉まる時間をとうに過ぎている事に気づかないため、新屯は警備員をアラーム代わりに使っている。彼は一度机に向かうと、食事も睡眠も、時間の経過さえも忘れる癖があった。
「もう帰る」
そう言って、すぐに帰った事は一度もない。早くても二回目の巡回で帰るのが常だ。その情報を共有している警備員たちはとっくに諦めている。最悪、大学内の全ての電気を落とせば、彼が勝手に帰ってくれるだろう事を知っているからだ。
今夜も強制的に帰らされた新屯は、寄り道もせずに真っ直ぐ家へ向かった。暗闇で中断された実験を再開するためだ。
(相似弧PQは√spとの比、前の比の3/2乗の比率で、減少はS:S+Pがそれの3乗にあたるような……)
頭で計算しながら、人が少ない夜の電車に乗る。殆どの人は疲れて眠っていた。新屯だけが数字の世界に取り残されている。
真夜中に玄関を開けるのはお決まりだった。毎日、暗闇に迎えられる。
「おや」
しかし、開けた扉の先は照明が点いている。
(朝、消し忘れたか)
今朝は、消えた片方の靴下を探すために廊下の電気を点けた覚えがある。しかし、見つけたところで計算式が頭に浮かび、その計算式を追いかけていたところ、電気を消し忘れて出てきてしまったのだ。
(私はこれほど間抜けだっただろうか)
己の老化に不安を感じる歳になった新屯は、一度立ち止まって考える。だが実は、その必要はないのだ。なぜなら、彼の脳内はいつも数字で敷き詰められているが、それ以外に、今は余分に脳を占めるものがあるからだ。そのキャパシティは普段の生活を排除するほどで、それゆえに常と比べて生活がおざなりになっているだけである。
彼の脳を余分に占めるもの。それは、論文の執筆だ。
新屯は自分の発見を表に出さない男だった。理由はいくつかあるが、大きいものが一つ。自分の名前が世に出る事で、無駄な交流が広がってしまうのを避けるためだ。彼にとって交流が広がる事は、研究時間が削がれる事とイコールになる。この男に言わせると、気兼ねなく研究ができるのであれば、地位も名声も興味のない事だ。しかし、世界は研究するためだけに作られてはいない。研究を続けるためには金がかかり、研究に協力してもらうには人脈がものを言ったりする。嫌でも人と関わらなければならない。計算を得意とする彼でも、狂った人々の行動は計算できない。つまり、新屯は人間が苦手だ。
今書いている論文は、周囲に口酸っぱく言われて渋々書き始めたものだ。大学、そして日本関東科学アカデミー協会という組織に所属している以上、一定の成果は必要とされる。大学も協会も、組織ブランドのために成果を提出して欲しい事は明確なのだが。
ところが新屯も、論文を書き始めて気が変わりつつあることは否定できない。十七世紀の某自然哲学者と違い、「自分の成果が認められる事」を悪い事とは思わないという意味では、この論文は通って欲しかった。
『この定理が認められれば、新屯の初めての大成果になるぞ!』
協会の会長に言われた言葉。自分の発見した定理がそれほど偉大なものだとは思えないが、これまで受け継いできた予想や定理を用いて、何年も何年も脳内でねじり回してできた努力の結晶だ。
『新屯さんは人の助言ばかりしていて、本人は何もしない』
そう言われてきた人生ともおさらばできるかもしれない。助言するのは頼まれたからという理由だけだが、図らずも、他人の功績の協力をする形で有名になっていた。
コンピュータの電源を入れる。起動した画面から浮き上がってきたのは、数学界から届いた数々のメール。新屯が所属する協会に送られた意見は、こうして新屯の元に届く。最近では毎日届いている。内容は様々で、正弦定理のひねり楕円応用についての協力要請、高次相乗アルゴリズムについて助言の申請、ハイマレゲンの二次方程式の質問。このような内容が多い。世には溢れんばかりの数学者がいるもので、国内外問わず、新屯の才能を聞きつけた人々が彼に助言をもらおうと協会に連絡を入れるのだ。これに的確なヒントを与える事で新屯の才能は認められていた。本人の成果としてではなく。もちろん、彼らによって出される論文の中に新屯の名前は入るのだが、それは新屯の発見にはならない。こうして、新屯は成果を残さない研究者のまま時間を経てしまった。
だが、それはまだいい。新屯が一番目の敵にしているものではないからだ。
画面をスライドする。一番下に来ている要件を目に入れるやいなや、新屯の目が険しいものになった。
『光の均時差の“疑問”について』
差出人は匿名だが、新屯には誰だか分かる。新屯の宿敵である服部だ。服部は何かにおいて新屯の出した意見に文句を付けてくる、と彼自身は考えている。しかし、年齢も協会での地位も新屯より上の人物だから、邪険に突っぱねる事がしづらい。服部一人なら突き放す事も怖くはないが、服部の後ろに付いている人々が敵に回ると面倒臭い。彼らは寄ってたかって新屯の邪魔をしてくるだろう。
(私が何かを言えば、それと反対の意見を取るのがあいつの定石だ)
新屯は拳を震えるほど強く握った。
彼は否定される事を何よりも嫌った。悪意のある疑問、決めつけから入る否定。それらを、新屯は論文の書き直しより憎んだ。
(今に見ていろ。この論文が通りさえすれば、私が間違っていない事は証明される)
歯を食いしばる。怒りから集まる熱力で、新屯は今日も論文を進めるのであった。
週に一回行われる、大学でのチーム会議。新屯は参加した。正直に言うと面倒臭いが、真面目な性格がサボる事を許さない。
現在、新屯のチームが取り組んでいる主な題材は「光速の長記録的可能性」、「光の螺旋における色彩」、そして、新屯の論文だ。
「論文は進んでる? 新屯くん」
会議が一段落してから、
「はい。ぼちぼち」
「新屯くんの研究人生の集大成だからね。これが認められれば一気に有名人だよ!」
馬廊教授が盛り上げようとしているのは分かるが、新屯は正解の返答を計算できない。よって、いつも通りのぼんやりした答えしか出ないのだった。
「はい」
(私がしている事は、それほど大事ではない。相対性理論やフェルマーの最終定理証明などに比べれば、歴史に溶け込んでしまうものだ)
二人の会話に気づいた他のメンバーが近寄ってきた。
「もうすぐ書き終わるんですか?」
「はい。多分」
「ここまで長かったなあ。やっと新屯先生の実力が世に出るのかあ」
「説得までが本当に大変でしたよね。新屯先生、渋るから」
「そうそう! 大変だった」
愉快な研究者たちに囲まれて、新屯は肩身が狭い。こうして実りのない話をしているのも苦痛だが、雰囲気に合わせるのも苦痛だった。
「書き終わったら、すぐこちらに提出してよ。俺が誰よりも早く協会に出すからさ」
馬廊教授が会話の締めにかかる。
「はい。よろしくお願いします」
やっと落ち着き始める新屯なのであった。
会議の後は授業が無いため、新屯は都内の図書館に寄る事にした。彼には借りたい資料があった。
堂々と入口を通過し、階段を上る。学問に励む利用者の脇を通り抜け、目的の番号棚まで着く。すると、新屯は何となく小さくなった。周囲を見渡してから、棚と棚の間に入っていく。探していた背表紙を見つけた。だが、すぐ手には取らずに、もう一度だけ三百六十度見渡してからそれを抜き取る。馬廊教授に紹介されたその資料のタイトルは、「死後の魂。そのゆくえ」
カウンターへ速足で向かい、手続きを済ませると急いでカバンに入れる。そして、誰の目にもつかぬよう、来た時より素早く図書館を出た。
その資料は、いわゆる「見える人」たちが死後の世界を書き表した自費出版の書物だ。実際に臨死体験した人の話から死後の世界を論理的に説明した話や、見える何者かから想像した輪廻転生の有無、死んだ後には誰に会う事ができるのか、など。
そう。新屯は科学(と区分されているもの)とは別に、死後に興味があった。
この資料を借りるにあたって、なぜ新屯が警戒しているのか。これにはそれなりの理由がある。
この時代、科学者が死後の世界を探求したり、言及することは許されなかった。科学とは死からの解放であり、唯一の死から逃れられる手段になると望まれているからだ。もちろん、思想の自由はあるから、誰がどのような死後を想像しても調べても構わない。新屯のようにプライベートで知識を入れる事は法律に反していない。しかし、あまり良い事とされていないのも事実だった。つい先日も、前世の話をした物理学者が社会的信頼を失ったところだ。
家に帰り着き、借りてきた本を読む。大っぴらにできない趣味に没頭している時間が、彼のストレスを洗い流した。
(魂は一つの細胞ではない。電子、粒子諸々の物質が合わさってできている分子のように、細かい“何か”で魂は形作られている。一つの生命が亡くなった時、その魂は分散し、時空を超えて各々の肉体に宿る。よって、一つの魂が同じ核を持ったまま、一つの肉体に入り込むとは考えていない。であるから、前世というものを完璧に覚えている者はおらず、我々の記憶という根底の……)
新屯の脳は死後に思いを馳せるというより、現代の科学で解明できない事象を理論的な思考回路で結び付け、辻褄を合わせる回転に近かった。分かりやすく言うなら、「心で死を想うのではなく、頭で死を思う」といったところだ。
『スキエンティアメメントモリ』
彼は、自分の勉学をそう名付けていた。量子力学よりはスピリチュアル要素が強く、スピリチュアルよりは科学的。そんな己の立場を表現できるほど、新屯は自分が器用でない事を知っている。器用でないために、他人には理解されない事も。だが、いつか自分と似たような立場の人間が出てこようとも、その誰かと目を合わせる気もさらさらない新屯なのだが。実際に、似たような立場にあるために理解のある馬廊教授を、新屯は勉学の師匠としてしか見ていない。
土曜日には、東京の中心地で行われる日本関東科学アカデミー協会の会合に参加するため、早めの昼食を済ませた。遅刻という言葉とは、生まれてから一度も手を取り合ったことがない。
本日も早めに会場へ入る。
「新屯! 論文は!?」
熱血漢こと会長が、新屯を見つけた途端に走り寄ってきた。思わず眉間に皺が寄る新屯。
「まもなくです。来週中には馬廊教授に提出できるでしょう」
「キターーー!」
突然の爆音に、周囲の会員が目を向ける。視線が会長と新屯に集まる。新屯は他人のふりをしたくてたまらなかった。
「西アカには遅れを取りたくないからな! これで東アカが奴らをぎゃふんと言わせてやるんだ!」
西アカとは、日本関西科学アカデミー協会のことだ。新屯たちの所属する東アカの良きライバルであり、協力関係であるはずなのだが、会長は西アカに一泡吹かせたいと豪語している。
新屯は知っている。会長がなぜ、そこまで西アカを出し抜いてやりたいと思っているのかを。これは噂だが、東アカの会長は、西アカ会長の元彼らしい。二人の会長の確執が、両協会の分裂を深くしているという噂も付いて。あくまでも噂という体で協会をうろついているが、ほとんど事実だという事は会員皆が知っている。
「私の論文がそこまでの影響力を持っているのでしょうか」
「いいか!?」
耳が千切れそうなほどの大音量で会長は叫ぶ。
「影響力を持っているかが大事なんじゃない! 出せばいいんだよ出せば! 正解でも間違いでも、それを探していく事に価値があるんだよ科学は!」
「はあ」
「最初は間違っていて全く問題ない! 問題提起をしたという功績になるからな!」
「はい」
「そして、新しい惑星を見つけるのは俺たちだ!」
新屯は忘れていた。この会長の専門分野が天文学だった事を。体育だった気がしていた。
「はい」
生返事をしている彼だったが、新しい惑星というロマンには大きな力で惹かれている。ブラックホールのように巨大な重力で、ミルキーウェイに飲み込まれるように抜け出せない魅力。すなわち宇宙。宇宙には幾つもの数字が存在しており、それらが関わり合って宇宙を回している。目に見えない法則を数字上に表す事によって、手のひらで宇宙を再現する。その深みにはまってしまった科学者は新屯だけではないはずだ。法則を予想して探し、見つからずに何世紀も経ち、意志を継いだ者たちが遂に一致する光を見つける事にも。
段々集まってくる会員たちと情報交換をしていると、会合の時間になった。新屯は、お気に入りである中央の席に座る。
「集まったか! では、会合を始める」
会長が壇上に立って、会員が持ち寄った資料のタイトルを読み始めた。
話題は、やはり例の新惑星が多い。歴史的発見者になるのは自分だと意気込んでいる者、今なら支援金が集まりやすい分野だからと手を出してきた者、ただ夢に作用された者。皆がそれぞれの光を目指して討論をしていた。中には明らかに関係のなさそうな話題もあったが、会長の「関係ないかは科学が決める」精神の下、全ての話題が却下されずに壇上へ上がった。新屯はうつらうつらと船を漕いでいた。
会合が終盤に差し掛かった時、新屯は目を覚ました。自分の名前が呼ばれた気がしたのだ。目を開けると、壇上の会長がこちらに手招きをしていた。
(今回は、私は何も提出していないはずだが)
嫌な予感を察知しながら席を立ち、会長の隣に並ぶ。彼は新屯の背中を叩いて、会員たちに向かって叫んだ。
「新屯の論文がまもなく提出される! 乞うご期待だ!」
会場の雰囲気がワッと湧き上がる。
「新屯、何か一言!」
まだ論文を書き終わってもいないのに、コメントを求められた。新屯は腹が痛くなってきた。開いている窓から吹き付ける風が寒く感じる。
「会長、窓を閉めてください」
まもなく、窓際にいた会員によって窓はカタンと閉められた。とても乾いた音だった。
「新屯さん、随分お疲れのようですね」
声の方へ振り向くと、小柄で、口元にきな臭い笑みを浮かべた青白い顔の服部がいた。その嫌らしい笑顔を見た途端、新屯は返答していない“疑問”を思い出した。「光の均時差の“疑問”について」
「ああそうですね。ここ最近はずっと疲れています」
一番会いたくない人物に出会ってしまった。新屯の顔がそれを隠す事はない。
「でも、疲れているからって、人の質問を無視するなんてどうなんですかね」
「今週中には返信しようと思っていたところです」
「言い訳を考える時間が必要ってわけですか」
(私は、お前の“疑問”の内容すら読んでいない!)
しかし、ここで敵の思惑に乗ってしまっては敗北だ。新屯は呼吸した。
「言い訳を考えていたわけではありません。どう分かりやすく解説しようか考えていたのです。あなたはいつも疑問が多いですから。少しは自分でも考えて欲しいものです」
「疑問が多いのは、新屯さんの説に矛盾が多いからでしょう。身から出た錆というものです」
「いらない水をかけるから酸化して錆が出るのです」
「いらない水? いらないかは、あなたが決める事じゃないと思いますが」
新屯は、この一言居士が心から避けたい相手だと改めて痛感した。
精気を絞り取られたように疲れた顔をして、新屯は会合の終了した会場を出る。そこに、彼を出待ちしていた人物が一人。
「新屯!」
片手を挙げて声を掛けてきたのは、ロックが効いた、革ジャンを着た人物。新屯が大学院を出てからの友人、岩渕だった。もっとも、お互いを友人だと思っているのが確実なのは岩渕の方だけだが。
「今日は疲れているんです」
「見れば分かるよ」
「じゃあ、今日はこれで」
「いや逃がさないよ」
岩渕が新屯を会場前で捕まえる事はよくある事だが、今日の新屯は一段と疲れていた。構って欲しくなかったのだ。
「今日はどんな話だった? 聞かせてよ」
「今度でいいですか」
「今日がいい!」
かくして、新屯は岩渕に連れられ、いつものカフェに入ることになった。カフェの名前は『レスベラトロール』。ここは科学者問わず、学問好きが集まる情報交換のできるカフェとして有名で、新屯は岩渕とよくこのカフェに入るのだった。
「それでそれで? 会長さんは何だって」
岩渕という男は科学の世界が好きだった。彼自身は記者であるから、ゴリゴリの理系ではないのだが、仕事で新屯に出会ってからはとことん科学に深入りしていた。なお、数学はできない。年齢は五十五。新屯より十年長生きしている。
「彗星の軌道が順調だとの事です」
「そうか。つまり、会長さんの研究は、順調だから順調じゃないんだね。異常がないって事は例外が起こらないって事だから」
「彼の思想的にはそうですね」
東アカの会長は、非常事態や挫折をチャンスと捉える人間だ。思わぬ例外が起こる事によって科学の発展、さらには宇宙の真理に近づくと考えている。この点も、西アカの会長とは嚙み合わない原因だった。西アカの会長は、慎重に計算された軌道を、事実がピッタリ通ることによって真理に一歩近づくという思想だ。このような思考の違いが積み重なり、二人の会長は顔を合わせるごとにバチバチしている。
「さあ、私は帰らせていただきます」
二十分ほど会話した後、新屯はコーヒーを飲み干してから立ち上がった。一方、岩渕のアイスコーヒーはストローの足が少しだけ浸かっている状態だ。
「もう帰るんだ?」
「今日は疲れたと言っているじゃないですか」
「そうだったそうだった。付き合わせてゴメンね」
岩渕はウインクで詫びる。新屯はそのウインクから出た星をスルーし、カフェの戸を開けて去っていった。一人残された岩渕がコーヒーカップに目をやると、カップの脇に小銭が耳を揃えてピッタリの金額で置いてあった。
「ホント、真面目だね」
そう呟くと、店内中に響く勢いでアイスコーヒーをジュゴゴゴゴと啜った。
家に着くと、洗濯機が回っている音がした。玄関を見ると、新屯の物ではない靴がきちんと足を揃えて置かれている。
「
新屯は靴の持ち主に声を掛けた。
「お邪魔してます。お帰りなさい、新屯さん」
顔を出したのは二十歳の青年。飯振という大学生だ。新屯の家で、週三の家事代行と助手をやっている。
「課題は終わったのか」
「終わってますよ。ご心配ありがとうございます」
飯振の返答には返事をせず、新屯は自分の部屋へ向かった。だが、扉を閉める前に引き止められた。
「寝るならお風呂に入ってください。沸かしてありますから」
「起きたら入る」
「……分かりました」
ゆっくりと扉は閉まった。
「もう!」
飯振は小さくため息を吐いた。
飯振は、新屯に強くものを言えない。なぜなら、新屯に借りがあるからだ。
彼の家には金がなかった。そのために払えない学費を、新屯に払ってもらっているのだ。新屯に学費を肩代わりしてもらっている代わりに、アルバイトのような形で飯振は働いている。だが、頑固で口を出されるのが心底嫌いな新屯にものを申すと、いつ契約を破棄されるか分からない。だから、彼は今日も言いたい事を飲み込んだ。
(あんの人ったら! ゴミの捨て方テキトーだし、研究道具は元の場所に戻さないし、言わないと風呂入らないし、自分で洗濯回さないし。ああもう、靴下裏返し! 今日も髪ボサボサだった!)
飯振は我慢をしすぎて、人間の形をした我慢になるのではないかというほどだった。
「あ」
ふと、新屯の部屋を掃除した際に置き忘れた塵取りを思い出した。
(今、入っても大丈夫かな。いいか。どうせ寝てるし。サッと取ってドアを閉めればバレないよな)
ドアの前に立ち、起こさないようにノックはしない選択をした。
音を立てないようにノブを捻り、怪しまれないようにサッと開ける。
「いぃやあああああ!」
飯振は思わず高い声で叫んでしまった。ベッドで寝ていると思った新屯は、引いた椅子には座らずに、机の上で何やら猛烈に書きつけている。更には、飯振の悲鳴に耳も貸さず、脅威の集中力で手を動かしている。
「寝たんじゃないんですか!?」
「円形四辺二階の、重ねを思い出して」
勝手に入ってきた事には怒りを忘れ、資料の束の下からコンパスを引きずり出して計算を続ける男に、飯振は恐怖を覚えるのだった。
(これは、食事の時間は何時になるやら)
飯振の憂鬱にも気づかない新屯の窓辺では、回転式精密望遠鏡が天を仰いでいた。
結局、新屯の研究がひと段落し、風呂に入って食事を終わらせたのは夜中の二十四時だった。飯振はアパートには帰らず、今日は新屯のリビングに泊まっていく事にした。泊まっていく事に関して、新屯はいつも何も言わない。よって宿泊の許可もいらない。
(風呂が遅くなって洗濯をするのは誰ですか! 食事が遅くなって洗い物をするのは誰ですか! 放っておいたらいつまでも起きてる人に「寝ろ」って言うのは誰ですか! 僕の生活リズムが遅れるんですよ! 明日、二限からだからいいけど!)
しかし、何だかんだ思っても、自分を退学から救ってくれた事には感謝しているのだ。彼を放っておく事はできない。したくない。
(きっと、心は優しい人なんだ。天才だからちょっと理解されないところがあるだけなんだ)
そのように飯振は納得しようとした。実際は、新屯が飯振を拾おうと思ったのは単なる気まぐれだったのだが。
その夜も、論文を書き上げている新屯に「寝てください」と声を掛けるのは飯振の仕事だった。
飯振は二限が終了して、廊下へ出た。そこで、階段を上っていく新屯を見つけた。彼の両手には大きな機材が積まれている。
「新屯さん」
「飯振か」
「手伝いますよ」
飯振は彼から黒い塊を預かり、若さを活かして階段を上がっていった。新屯は後ろから付いていく。
「この階でいい」
言われた通りに足を止める。
「授業で使うんですか」
「ああ」
(誰もいない授業で?)
飯振は知っている。新屯の授業には学生が現れず、それをネタにして飲み笑う学生すらいない事も。
「君は今から昼休みだろう」
「はい。あ、でも、僕は食べるのが早いので、時間はあります。手伝いますよ」
食べるのが早いというのは真実ではない。実は、三限の先生はいつも来るのが遅いので、少しなら遅れても問題ないのだ。だが、授業に遅れるという概念が理解できない頑固者のために飯振は嘘をついた。
「好きにしろ」
愛想が微塵もない恩人の機材を持って教室まで来ると、その教室が中々大きい事に気づいた。
(人、来ないのに)
口にはしないが、これほど大きな教室を取っておきながら、一人として学生に支持されない孤独な教授を、飯振は惨めに思った。
「あ、組み立ても手伝いますよ。指示下さい」
一人で機材を組み立て始めた男に駆け寄る。
「ところで、これ何ですか」
球体を容器にはめる。次に、その容器の下に付ける足を組み立てる。
「プロジェクターだ」
「丸いってことは、プラネタリウムみたいな?」
「そうだ。この教室に宇宙を映す」
「へぇ!」
(こんなに広い教室なら、結構迫力ある宇宙になるんじゃないか)
そこで、飯振は一つの仮説を思いついた。
(もしかして、宇宙を独り占めするために大教室を借りたんじゃ……)
説明書もなく手を動かし続ける男を見つめる。孤独を友にしているような横顔には、夏祭りの夕方のような、静かな興奮が見て取れた。
「これ、かなりちゃんとしたやつに見えるんですけど、いくらしたんですか」
球体がはまったプロジェクターを指差す。
「私が作った」
「え! つつ、作った!?」
声が教室の天井まで響いた。驚くほどに器用な男を二度見してしまう。
「原理と材料さえ分かれば誰でも作れる。それに、金と材料があれば」
威張る事もなく、「屋台のチョコバナナは食べづらい」と同等の説明をするように新屯は述べた。彼にとっては当たり前の事なのだ。必要な物は自分で作るという事が。
「もういい。行きなさい」
「あ、はい」
用済みになった飯振は教室を出ていく。ドアを閉める際に隙間から覗く。一人の科学者が、はやる気持ちを抑えながら、球体の角度を調節しているのが見えた。
新屯は、自分しかいないこの空間が好きだった。誰に文句を言われる事もない、誰に邪魔される事もない、一人の空間。チャイムの音さえ、彼の耳に介入する事はできない。
「よし」
準備ができた。カーテンが全て閉まっている事を確認してから証明を落とす。
パチン。
部屋中に溢れる宇宙の大海。自分もろとも包み込む銀河は、匂いも音も空気も新屯から追い出す。一人の男は宇宙に溺れる。
広大な生き物は機械仕掛けで活動を続ける。尾を引く箒星の群れ。幾何学を手にした惑星の耳。様々な色で輝く屑たちに、色彩名を当てるのは無意味な努力に思える。規則的に呼吸をし、不規則さえ計算上で構成されている。その不規則さえ意味の下。砂漠の砂粒で例えてもまだ過剰なほど矮小な人間ではたどり着けない、実在性を追い求めては裏切られる空間。カオスに見えて単純明快の集合体。何世紀も尽くして、宇宙に身を投げる事によってその身を塵にした科学者はどれだけいるのだろう。それを、無駄な人生だと笑う人間はどれだけいるのだろう。
星の瞬きに合わせて瞳を閉じ、また開ける。その次には知らなかった星が見えるようになったりする。それさえ、意図的に精密な確率で導き出されたものだ。
新屯は、浮かび上がる言葉を数字に置き換えて並べる。ただ、今、手の中にある数字だけでは表せないものがあるような気がしてならない。更に効率の良い計算があるはずだと思いながら。
次の授業の学生が入ってくるまで、新屯は数字の宇宙を漂っていた。
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