第8話 海狐狸
ねぇ、みんなは「海狐狸(うみこり)」て、知ってる?
え、知らない?
でも「狐狸」なら知ってるでしょ?
読んで字のごとく「狐」と「狸」のことさ。
民間伝承の一つに「狐狸」は昔から人を化かすなんて云われてるけど、当然海に狐や狸なんてものは存在しないよね。
つまり、海狐狸は狐狸とは全く別の存在なんだよ。
────で、これは以前、地元で漁師をしてた爺ちゃんから聞いた話なんだけど、海狐狸は海で人を化かす魔物のことで、漁師の間では昔から厄介がられていた存在なんだって。
ほら、よく夏になるとニュースで見かけるだろう?
海水浴客たちの水難事故。
あれも大概、海狐狸たちの仕業なんだって。
彼等は夏になると、そこかしこの海で人を襲う。
海狐狸は夏が繁殖期なんだ。
だって、そうだよね。
夏にはたくさんの人たちが海に遊びに来るから海狐狸たちにとって最高の餌場となるんだ。
───とは言っても海狐狸は別に人間を捕食するわけじゃないよ。
「海狐狸」は海で死んだ者たちの死体が海を漂ってるうちに「海蛹」となって、そこから「海狐狸」が産まれる。
つまり、海狐狸たちは自分たちの仲間を増やすために海に来た者たちを水中に引き摺り込む。
そしてたくさんの海蛹を生成するんだ。
因みに漁師の間ではこの「海蛹」が網に掛かると、その場で火をつけて燃やすそうだよ。
当然だよね。
だって、そのままにしていたら、いつか恐ろしい「海狐狸」となって、自分がその犠牲になってしまうかもしれないからね。
────で、爺ちゃんも昔、この「海狐狸」に出会ったことがあるらしいんだ。
その日はお盆で本当は漁に出てはいけない日だったんだけど、若かった爺ちゃんは人がいないからって船を出してしまったんだ。
そしたら瞬く間に空が曇り出して、一気に濃い霧が辺りを覆い尽くしたんだ。
船はそのまま、どんどん霧の奥へと進んでいく。
するとね、突然前方から黒い影が見えてきたんだって。
最初は仲間の船だと思ったらしいよ。
でも、違った。
よく見ると、それは岩場に寝転がる奇妙な生物だったんだ。
アザラシ?
それともトド?
立ち込める霧の中で、その姿は徐々に露わになっていく。
それはアザラシでもトドでもなかったんだ。
べったりと海藻のようにへばりついた前髪の隙間から、ぎょろりと目玉だけが狂ったように動いている。
そのあまりの恐ろしさといったら、爺ちゃんはその場で腰を抜かしたって言ってたよ。
しかもその顔、よく見たら数週間前に海に落ちて行方不明になった近所の男の子にそっくりだったんだって。
爺ちゃんにもよく懐いていたから、覚えてたんだって。
────で、その男の子が今、目の前にいる。
それも以前とはまるで違う、あまりにも悍ましい姿でニタニタと微笑んでいる。
その時、爺ちゃんは思ったんだ。
ああ、あの子は海の魔物に魅入らてしまったんだって。
だから、お盆の時期には決して海に出てはいけない。
だってこの時期は他に行き場のなくなった海の亡者たちも、うようよと海中を彷徨っているからね。
「すまんかった。観念してくれ」
爺ちゃんはそう言って何度も頭を下げたんだ。
でも、気付くと船の周りには他にも無数の化け物たちがいる。
その中には漁に出かけたきり、帰らなかった仲間の姿もあったらしいよ。
彼等は船べりから顔を覗かせると、ニタニタと不気味に笑うんだ。
爺ちゃんはもう生きた心地がしなかったって言うよ。
そして、一心不乱に念仏を唱えた。
でもその時、ふと爺ちゃんの脳裏にある一つのことが過ぎったんだ。
海の化け物には木灰が効く。
だから漁師は必ず、船の中に木灰を置いている。
万が一の時の御守りみたいなもんだって言うんだ。
爺ちゃんは急いで船内から木灰の入った袋を手にすると、勢いよく化け物に向かって撒いたんだ。
途端に化け物たちは次々と狂ったような悲鳴を上げて、煙のように海の中へと消えていった。
あんな悍ましい声を爺ちゃんは未だかつて耳にしたことがないって言ってたさ。
で、そこから先はあまり記憶がないらしいんだけど、気付いたら爺ちゃんは漁師仲間の家で寝かされてたっていうよ。
それも三日間もね。
────これが、爺ちゃんの体験した「海狐狸」に纏わる話さ。
海狐狸は地域によっては呼び名も全然違うみたいで、他にも「引亡霊(ひきもうれん)」や「船亡霊(ふなもうれん)」なんて呼び名もあるらしいよ。
キミたちもこの夏、海へ行く時は是非注意してね。
海狐狸たちは今もずっと、暗い海の底でキミたちが来るのを待っているんだから。了
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