第97話 彼女の事情

「先生、なんでここに……」


顔面蒼白、そうとしか言えないような酷い顔色だった。

唇は紫色になっているし、目は虚ろで、腕ごとわなわなと震えている。


声もひどく弱々しくて、ガヤガヤうるさい駅構内では、ひどく聞き取りづらい。


今にどこかへ消えてしまいそうで、俺は手首にさらに力を込め、目つきを尖らせる。


「なんでって、それはこっちのセリフだよ。いきなり店出たりして、なんのつもりだ? それに、その顔も。なにがあった」

「なんでもいいでしょ、先生には関係ない」

「いいや、ある。だって俺は……お前の先生でもあるし、今は同僚でもある。いいから言えよ、千種」


「……うわぁ、強要とか最低ですね。いいから離してください」

「……離さないって言ったら?」

「ひかりさんに言いますよ、今のことも、この前わたしにお菓子食べさせたことも、全部。脚色盛り盛りで、伝えます」


脅しているつもりなのだろうが、もうそれは通用しない。


「悪いけど、そのことならもうひかりに言って謝ってある。それに、今ここにお前を捕まえにきたのも、俺だけじゃない」


俺はそう言うと、空いた左手でスマホを取り出して、ひかりにメッセージを打つ。

すぐに駅側にくるよう伝えて、その画面を千種へと見せた。


「これで証明にもなるだろ」


俺はため息をつきながら、スマホをポケットへとしまう。

そのうえで、手首を握ったまま、ひかりを待っていると、


「……なんで。なんでそこまでするんですか。誰にでもここまでやるんですか、先生は」


千種が俺にこう聞くから、俺は首を横に振る。


残念ながら、そんな聖人に生まれついた覚えはない。俺はただの元根暗で、元陰キャな普通の大学生でしかないのだ。


「俺は友達も知り合いも少ないからな」

「はぁ? それ関係なくないですか」

「少ないから、そいつらがなにか困ってるなら助けたいって、思うんだよ。……できるかは分からないけど」


こんなのは、ただの理想だ。

すべてがうまくいくとは思っていないし、実際に失敗だってしてきた。


けれど、それでも力になれるのならなりたい。

そう思うことをやめることはできない。


「なんですか、それ。意味わからないです」


千種には、まったく理解されなかったが。


「っていうか、なんか格好いいこと言いすぎだと思います。顔に似合わなすぎ」


……それどころか、この言葉攻撃だ。どうやら遠慮の二文字を知らないらしい。

ちょっと自分でも思っていたことだけに、結構ぐさぐさと胸に刺さるから、やめてほしい。


なんて思っていると、ひかりが走って駆け寄ってきた。


「ナイスだね、啓人くん!」


彼女は息を切らしながら、一つ褒め言葉をくれると、その視線を俺が握る千種の手首に落とす。


また変に疑われたら困る。

俺はなかば反射的に力を緩めてしまうが、しかし。

千種はその腕を自分の胸元に引っ込めるだけで、もう逃げ出そうとはしない。


「……もう分かりましたよ。話します、話しますから、とりあえずこっちにきてください」


どうやら、根負けしてくれたらしかった。

が、ここでは話せないような内容らしく、彼女は逆に俺たちの手を引き、改札前を離れていく。


そうして腰を落ち着けた、小さなベンチに俺たちは千種を真ん中にして座る。

そこで彼女が大きくため息をついてから切り出したのは、


「ストーカーがいるかもなんですよね、最近」


なかなか衝撃的な話だった。

ひかりが大きく目を見開く一方で、俺は頭に手をやらざるを得ない。


「は。なんだよ、それ。いつから」

「ここ一か月くらいですよ、たぶん。少なくとも、なんとなく視線を感じるなぁって気づいたのは、先生たちがバイトしに来る少し前です。気のせいかもしれないんですけど、でも、気になっちゃうとどうにも落ち着けなくなっちゃって……」


千種はスカートの裾を握り込みながら、絞り出すようなか細い声で話してくれる。


「こういう仕事してるせいかもっていうのは、分かってるんです。でも、うち貧乏で進学のこと考えたら、やめるわけにもいかないし……店長には相談して警察にも行ったんですけど、確証がないならって取り合ってくれないんです。

最近は、最寄り駅のあたりで毎日感じるんで、家に帰るときに遠回りしたりとか色々やってるんですけど、それでもべったり残ってる。さっき飛び出したのは、そのせいです。なんというか不安で」


千種はそこで、膝頭を見つめるように俯いてしまう。


こうして聞いてみれば、いろいろと納得がいった。

勤務中の顔が暗かった理由も、ファミレスで周りを気にしていた理由も、早く帰る理由だって、なにもかも合点がいく。


前に俺に話そうとしてくれていた内容もきっと、これだったのだろう。


 つまり、彼女は直接口にこそしないけれど、ずいぶん前から危険信号を発していた。


 ただ俺は、それに気づけなかった。いや気づこうとしなかった。


 もっと早く、こうして踏み込むことができていれば、ここまで悩ませることもなかったのかもしれない。


俺がぎりっと歯を噛む。

一方、ひかりは千種の握りしめた拳を包むようにそっと手を当てる。


「千種ちゃん、誰にも相談してなかったんだよね? まずは言ってくれて、ありがと」

「ひかりさん……」

「でも、もう少し早く教えてほしかったかな。啓人くんに言えないなら、私にでもよかった。これでも私だって歳上なんだから頼って大丈夫だからね」


ひかりはそう言って、空いた右手で、千種の丸まった背中を撫でやる。

その姿を見て、拳にこめていた力が緩んだ。


遅くなってしまっても、彼女がいてよかったのかもしれない。

俺一人で首を突っ込んでいたら、ここまでのサポートはまずできなかった。


普段は子供っぽいひかりだが、こういうときは立派にお姉さんだ。


それに安心したのかどうか、千種はそれに対してすすり泣くような声を漏らす。

俺はそれが落ち着くまでたっぷりと待ってから、


「これからどうしようか」


こう切り出した。


「それ、今言います?」


千種からはジト目で見られたけれど、しょうがない。


「だって、このままじゃ解決にならないだろ」

「まぁそうですけど……。だからってどうすればいいんですか。そもそも、いるかどうかも分からないんですよ」


俺は腕組みをして、少し考えを巡らせる。


「もし本当にストーカーがいたとしても、捕まえようとして刺激したらどうなるか分かりませんし」


千種の言うことは、もっともだ。

いらないことをして、結果危ない目に合わせてしまったら、本末転倒になる。


「うーん、とりあえずみんな一緒に帰ろっか! 集団帰宅だよ! これなら、その変な人もついてこないでしょ?」


そこで、ひかりが人差し指を立てて、こう提案する。

さも、名案! といったドヤ顔だが、誰にでも思いつきそうな案であるうえ、穴しかない。


「それ、今日だけですよね」

「毎日やれば……」

「学校もあるんですよ。そんなわけにはいかないです」


一瞬で千種に指摘を受けて、「うぐ」と呻いたのち、ひかりは引き下がる。


「んー、むかついてきた! もう勝手に向こうから出てきてくれたらいいのに」


そしてベンチにもたれかかり伸びをしながら、こう漏らす。


「いや、それはーー」


無理だろ。

そう否定しかけて、はたと言葉を止める。


「無理じゃない……かもしれない」

「え、先生までなに言うんですか」


千種が疑いたっぷりに、金剛力士像くらい眉をしかめて言うのは、もっともだ。


普通に考えたら、荒唐無稽な話である。



でも、これなら安全を確保した上で、捕まえることだってできるかもしれない。


俺はそのアイデアを二人に話してみる。


すると、ひかりは吹き出すように笑って、千種はやっぱり金剛力士ばりのしかめ面だ。


「先生ってもっと頭いいと思ってました」


追撃の厳しい一言をもらう。


だが、すぐに砕けたように、ふふっと笑い漏らす。


「でもまぁ、先生が言うならやってもいいかもしれません。先生、教え方は変ですけど、わかりやすいですし、やり方が変でも不思議じゃないですもん」

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