第94話 もやもや感に縛られて。
仕事が終わったのは、二十時頃であった。
昼から働いていたから、約八時間。
社会人とほぼ変わらない時間を労働したのち、俺はひかりと千種とともに、近くのファミレスまで移動していた。
「あ、この建物じゃない?」
「違いますよ、ひかりさん。そこ、色々いかがわしい店なんで早くこっち来てください」
その途中、俺は二人から少し遅れたところを歩き、一人、ため息をつく。
その原因は、さっきの『あーん』。
あのときは千種に頼まれるまま、親切心くらいのつもりでやってしまったが、あとにして思えば改めて考えずとも、やるべきではなかったことは間違いない。
前を行くひかりの顔を見て、ずきと胸が痛む。
後悔のような罪悪感のような、どちらともつかないもやもや感が頭の中を漂っていた。
その状態から抜け出せないでいるうち、気づけば、目的の店についていた。
「窓際の席までどうぞ」
そんなに混んではいなかったらしく、店に入るなり、すぐに席へと案内される。
が、その途中、千種は内側の空いていた席を指した。
その変更要望を、店員さんはそれを笑顔で了承してくれて結局俺たちは、四人用の席に着く。
「いいですよね? 窓際って色々目に入ってやりにくいんで」
その問いは、明らかに俺へと向けられていた。
そこで俺は頭の中を渦巻いていた白い霧を一度奥へと押しやり、首を縦に振る。
変に意識しすぎて、ろくに喋れなくなる方がよくないのは明白だ。
もう疑われるような真似はしないとだけ決めて、返事をする。
「……まぁ気持ちは分かるよ。勉強って視線気になるもんな」
「はい。それに、わたし可愛いんで、外から見られちゃいますし」
うん、そりゃあ否定はしない。
仕事が終わって化粧を落としたところで、その可愛さは、やっぱり際立っている。
クラスにいれば、間違いなく一、二を争う人気者だろう。
「ひかりさんに至っては、次元違いますしねぇ。たくさん客が来て、追い出されるかも」
「……なるほど」
たしかに、ひかりが店内にいたなら、それだけで店に入ってくる人がいても、なにらおかしくない。
が、そんな会話は本人には届いていない。
ひかりは椅子の背に、カバンをかけるや、すぐに机にあごをつけて半目状態になる。
「えと、よっぽど疲れたみたいだな」
俺がその横に座りながら、分かりきっていることを聞けば、彼女は顎先をつけたまま首を縦に振る。
「うん、接客って結構大変だ。たしかに身体は疲れてないけど、歳離れたお客さんと話すのって結構気使うかも」
そう感想を述べるひかりを、
「あー、まぁそれはそうかもですね。でも、いい感じでしたよ。てか、今日一番店に貢献したの、ひかりさんですし。うちは歩合もありますから、給料も増えますよ」
千種が、そのはす向かい、つまりは俺の前に座って慰める。
年齢は一つ下、高校生でも、バイトの上では彼女が先輩だ。
「うーん、私、助けてもらってばかりだったと思うけど?」
「ひかりさんはいるだけで十分なんです」
「なにそれ、マスコットじゃんか〜」
「いいじゃないですか、マスコット。お金貰えたらなんでもいいんですよ、バイトなんて」
彼女はそうあっさり言うと、身を大きく乗り出して、机の上に置いてあった注文タブレットを手にする。
すぐに入力を終えて、彼女はそのタブレットを俺とひかりの座る方に、机の上をスライドさせた。
「あとは決めてください」
と言うから、なにを頼んだのかと思えば、ドリンクバーのみときた。
「なにもいらないのか?」
「わたし、いらないものは頼まない主義なんで。ちなみに、ちゃんとクーポン番号入れましたよ。使うならどうぞ」
さすが、その辺りのテクニックは心得ているらしい。
そしてメニュー選びも、勉強がメインだとすれば、それが最適かもしれない。色々机の上にあるとやりにくいのだ。
だから俺も同じくドリンクバーだけを頼み、タブレットをひかりに渡す。
彼女だけは真剣に悩んでいたが、まぁそこはいい。
むしろ指導の間、暇しないほうがいいだろう。
そうして注文を終えたら、各々飲み物だけ取って、俺たちはすぐに勉強の時間へと入る。
少し休んでからでもよかったのだけど、千種はすぐに教科書とノートを積み上げるいつもの儀式をやって、勉強に取り掛かりはじめた。
その展開には、少しほっとする。
これなら、余計な事を考えなくても済みそうだが……さすがに張り切りすぎな気もする。
「なかなかタフだな、千種は」
「そんなに時間ないですからね。わたし、東大島なんで、十時に帰ろうと思ったら九時半くらいには出ないとです」
たしかに補導などをされる危険を考えれば、それくらいの方が高校生としては健全かもしれない。
「じゃあ、たしかにやった方がいいかもな」
「はい、そのとおりです」
彼女はそう言うと、なぜか店内をきょろきょろと見回す。
他に勉強利用している学生がいるかどうか確認したのだろうか。不思議に思っていたら、その時にはもう、数学の問題集へと目を戻していた。
文系とはいえ、俺は国立を目指してきた身だ。
だから、数学でもある程度は分かる。質問されたらヒントを小出しにして、一緒に問題を解いていく。
その間、ひかりはといえば……さっそくバイト代を溶かす豪遊をしていた。
ハンバーグプレートを楽しみ、デザートにアイスまで頼む。
が、これがかなり助かった。
おかげで俺たちは店員に睨まれることもなく、勉強に取り組める。
「二人のも入れてくるよ! なにがいい?」
そのうえ、ドリンクバーまで代わりに汲んできてくれると言うのだから大助かりだった。
俺たちはその言葉に甘えて、それぞれ飲み物をオーダーする。
そうして、ひかりが席を立って少し、千種のペンを動かす手がはたと止まった。
「なにか分からなかったか?」
「そうじゃないですよ」
千種はここで問題集から顔を上げる。
そして、今度はそのままじっと俺の目を見据えてくる。
「……ねぇ先生。あのさ――」
なにかを言いかけるから続きを待つが、いつまで待っても彼女はなにも言わない。
なにもなかったかのように、再び問題を解くのに戻っていく。
「なんだよ、改まって」
「や、いいや。なんにもない。というか邪魔しないで貰えます?」
「……あのなぁ」
なにが言いたかったのかはまったく読めなかった。
ただなんとなく、その声音はただの冗談を言おうとしていた雰囲気ではなかった……と思う。
が、俺はなにも聞き返せなかった。
理由は、さっきの一件だ。
もちろん気にならないわけじゃない。
けれど、ここで俺のほうから彼女の話に首を突っ込んでいくのは、ひかりの彼氏として正しいのだろうか。
そんな迷いもあって、結局そのまま話を流す。
本当になにもなかったのかどうか。
結局その後、彼女がその件について触れることはなかった。
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