六章
第88話 こうしてる間は、二人きりですから
「へぇ、バイト。なるほどねー、先生もついにバイト童貞卒業かぁ」
と。
いきなりとんでもないワードが千種から飛び出したのは、土曜日に開催された学習指導の休憩時間中のことであった。
二週間ぶりの再会で、指導時間の合間、近況について尋ねられたからバイトの件を話してみたらこれだ。
少なくとも花の女子高生から聞いてはいけない言葉が、耳に入ってきた気がする。
だがまぁ、なにかの間違いかもしれない。
それに、変な意味ではなく、「処女作」とかと同じようなニュアンスで使っただけかもしれない。
俺はそう理解して、
「あ、あぁ。まぁな。とりあえず単発だけど」
なんとか取り繕って返事をする。
が、それに対して千種はくすくと笑った。最後には、短いスカートから覗く白く細い膝を何度も叩いて、大袈裟に笑う。
なにかのツボに入ってしまったらしい。
「先生、動揺しすぎですって。「童貞」なんて単語、今どき普通に使いますよ? 大学生ってもっと、そういうの男女関係なく、大っぴらに喋ってるイメージでした」
いやまぁ、そういう人もいるけども。
少なくとも俺はお酒を飲めるようになろうが、間違いなくそうはならない。
「それで、どうして単発にしたんです? どうせだったら、そのオシャカフェで始めちゃえばよかったのに」
「はじめてだったからだよ。一応誘ってもらったけど、いきなりは決められないだろ。あんなカフェ、そもそも行ったことがないし」
「そう言われたらたしかに。先生、そういうところいかなさそう。コンビニのイートインの方が似合う」
「……あのなぁ」
「まぁまぁ。そういう庶民的なところもいいんですよ。地に足ついてる感じで、変にお金使わなさそうなのは、むしろプラスですよ」
出た、見た目に反して、意外すぎる現実主義。
今日はシャツの上に薄手のパーカーを重ねた、いわゆる着崩しスタイル。
たぶんワンサイズ大きい、だぼっとしたものを着ているのだが、それがまたほどよい抜け感を作り出している。
あえて、胸元の赤いリボンは残してあるあたりを含めて、いかにも女子高生らしい格好なのだが、その考え方は妙なくらい大人びている。
俺に言わせれば、彼女の方が地に足がついている。
それこそ、その面では、ひかりよりはよっぽど……と思ったところで、ぎょっとした。
その彼女が、千種の後ろに立っていたのだ。
二週間前と同じような光景だ。
が、前と違って、その目つきは鋭くはない。
「どうかしたか?」
俺がこうひかりに聞けば、彼女は軽くこめかみをかく。
「んー、別に。ちょっと来ただけだよ。あっちはほら。あんな感じだし」
ひかりが視線をやる方を見てみれば、そこでは林が男子中学生に混じって、なにやらカードゲームをしていた。
……うん、中学校の教室でよく見た光景だ、これ。
さすがに問題があるんじゃ……と思うのだが、
一応静かに熱いバトルを繰り広げているからか許されているらしい。
それに、長野会長はたぶんあの手のゲームが好きだ。
前に、あのネタで大滑りしてたわけだし。
「今日は、さんちゃんいないからねー。やりたい放題だよ」
まぁたしかにあれは、女子がついていけるものじゃない。
ならば仕方がないとも思ったのだけれど、
「とかいって、いい口実得たって思ってますよね、その顔」
そこで、千種が口を挟む。
片側の唇だけを少し吊り上がらせて、悪い笑みを浮かべる。
「えっと、ひかりさんでしたっけ。もうちょっとうまくやった方がいいですよー。さっきから、先生が気づくまでずっと、かかとの上げ下げしてたの見てました」
「な、なっ!? 声かけてよ〜」
「や、です。だって面白くって。わたしが先生を褒めたらすぐ反応するんですよ?」
「ちょ、ちょっとぉ。そこまでにしてってば」
……どちらが歳上なんだか分からないやり取りであった。
ひかりは一方的に押されている。
「そ、それより!! 千種ちゃんバイトしてるんだよね、なにやってるの?」
最終的にほぼ無理矢理、彼女は話題を切り替えた。
空いていた椅子を一つ横から持ってくると、それを俺と千種の席の間に入れ込むと、そこに座る。
さすがに、意図がわかりやすすぎた。
これには我慢できなかったのか口元に手をやり、千種はくすくすと笑い漏らす。
「な、なに。笑いすぎだと思うよ? 私、歳上なんだから、仮にも!」
「すいませんってば。でも可愛いですよ、そういうところも」
「この流れで言われても嬉しくないからね!!?」
「あー、ですよねー。それで、バイトの話ですよね? わたしもカフェで働いてるんですよー」
「なんか、はぐらかされたし!」
調子が合うんだか合わないんだか。
まるで芸人の掛け合いを見ているかのようだ。
俺はうっかり傍観者になりかけるが、カフェバイトの話は気になっているところでもあったから口を挟む。
「で、どんな感じなんだよ、そのカフェは。場所によっては結構忙しいって聞くけど」
「あ、聞きますか、それ。うーん、わたしは接客側ですけど、うちは広くないので、移動が少なくて、そんなに忙しくないですね。お喋りができる人なら、結構楽です。中の人は大変かも? 食事からスイーツからなんでもありますから」
「……そうか。なんか勝手に、完全にオープンなカフェしかないと思ってたけど、そんな形もあるんだな」
「はい。だから先生みたいな人には向いてるかもですね、キッチン」
逆に、と千種は真横のひかりを覗き込む。
「ひかりさんみたいな人は、接客側がいいですね。人気出ますよ、絶対」
うん、それは間違いない。
頭の中に思い浮かぶ一般的なカフェの制服を思い浮かべるだけで、あまりにも眩しい。
どんな制服を着たって、一等星間違いなしだ。
エプロンを着て、バンダナなんかを巻いた日には、もはや天使に見えてしまうかもしれない。
客側だったならまず間違いなく、無駄にクッキーやらのお菓子を追加購入してしまう。
「へー、ちょっといいかも! 私、お話なら得意だし」
「お、なっちゃいますか? ちょうど、わたしの働いてるところ人多ければ多いだけ助かるって感じですけど、体験で入ります?」
「え、できるの?」
「もちろん、大歓迎ですよ〜。あ、先生もどうです? 助っ人としてだけでも!」
ありがたい提案ではあった。
話を聞くのもいいが、実際にやることができるのならそれに勝るものはない。
それに、ひかりもすっかり乗り気になっている。
……なんとなく俺たちに都合が良すぎるから、盛られている気もするが、せっかく誘ってもらえたのだ。
たとえば実際には大変なバイトだったとしても、受けてもいいかもしれない。
「そうだな。ひかりと一緒に、とりあえず入るって形でいいなら……」
「お、釣れた! ぜひぜひ〜! じゃあ、さっそく店長に伝えちゃいますね」
千種はすぐにスマホを取り出して、メッセージを打ち始めた。
丁寧に文章を作っているのか、意外と長く時間がかかる。
そう思っていたら、そのうちに、休憩時間が終わりになっていた。
ひかりが「細かいことは後で!」と言い残して、椅子を戻し帰っていく。
「さ、やりますか、先生!」
すると千種はそれを合図にしたかのごとく、スマホをかばんにしまって、机の端に積んでいた教科書に手を伸ばすではないか。
「次は国語でお願いします。なんかもう正解が分からなくて」
「……いいのか、それ。途中だったろ」
と俺がスマホをさせば、彼女は「あー」と少し目線を上げたあと、こちらを見る。
「よく見てますね、わたしのこと」
「いや、別に普通だろ。見たままを言ったんだよ」
「まぁそれもそうですね。本当に見てたら、わたしが途中からは友達とやりとりしてただけってことも気づいてるでしょうし」
「え、まじか」
「大まじですよ。店長にメッセージしてたのは最初だけです」
……仮にも歳上と話していたのに、なかなか大胆なことをするものだ。
まぁたしかにメッセージって、見た時に返さなかったらそのまま忘れてしまうし、気持ちはわかるのだけど。
「だとしても、いいのか?」
「まぁ、大したことないメッセージばっかですし。つまんないデートのお誘いとか見てらんない。お金もらっても嫌です」
それに、と彼女はペンと消しゴムを取り出しながら言う。
「こうしてる間は、先生と二人きりですからね」
あまりにもナチュラルに出てきたその言葉に、俺は面食らって、眉を顰めて首を捻る。
「えっと……?」
「なんでもないですよ、せんせ。ただの冗談です。わたし、契約済み物件には興味なしなんで」
それより、と千種は俺の脇腹を肘でつつく。
「ほら、前みたいに画期的な方法教えてください。国語の読解の。来週、テスト週間なんですよ。受験勉強に手一杯で、ほぼ対策してないんですけど、今から逆転したいです」
「……ハードル高いなぁ、おい」
「えー、ないんですか?」
いやまぁ、なくはないのだけれど。
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