第79話 ストレス発散は、バッセンへ!
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新郎に詰められるという大波乱こそあったが、その窮地をどうにか乗り越えて。
そこからは、最初に話に聞いていた条件のとおり、親しい人と好きに飲んで食べる幸せなバイト時間だった。最後に、新郎新婦に見送られて退場する際は、さすがに対面するのに緊張したが、
「……本当にありがとうございました」
新郎からはこう頭を下げられたから、少なくとも悪いふうには受け取られなかったのだろう。
こうして無事に初バイトを終えて。
着替えを終えた俺は、しっかりと給料袋をカフェの店員さんからいただき、一人先にカフェの外へと出た。
ドレスの着替えは、タキシードよりも時間がかかる。
だから俺は店舗のすぐ前にあったベンチに腰掛け、二人を待つことにした。
そこで都会の空に両手を広げて、大きく深呼吸をする。
そのまましばらくぼうっと、星の少ない空を見上げた。
気持ちいい、気持ちよすぎる。
これぞ解放感だ。労働からの……いや、心理的プレッシャーからの解放。
「あー、疲れた〜」
と声が漏れ出たのは、ほとんど無意識に近かった。
今にして思えば、よくやったものだ。
他人の結婚式に友人役で出るなんて、元ぼっち人間にはハードルが高すぎる。
たしかに時給はよかったし、いいものも食べさせてもらえたけれど、二度できるバイトではない。
「いやぁ、まじでよくやったよ、俺」
改めてしみじみと、夜空にひとりごちる。達成感の余韻に浸りながら、「あ~」と言っていたら、
「け、啓人くん?」
「壊れたラジオみたいですね」
そこへ前から、ひかりと今里さんに声をかけられてしまった。
いつのまにか着替えが終わる時間になっていたらしい。
……恥ずかしい。夜中に歌いながら歩いてたら、不意に角から人が出てきた時くらい恥ずかしい。
「……いわばストレス発散だよ」
俺は頬が熱くなってくるのを感じつつ、二人から顔を背け、そう答える。
「ストレス? なにかあったっけ?」
それに対してのひかりの返事が、これだ。
本当にきょとんとした顔をしている。
……すごすぎるな、天然少女。ストレス耐性があるというより、もはや最初から感じていないらしい。
同じ場所で同じ経験をした人の発言とは思えなかった。
これには、今里さんがふっとニヒルに笑う。
「まぁ、なんにせよストレスはよくない! どうせやるなら、もっと発散させたほうがいいと思う!」
「というと?」
「やっぱりストレス発散は、ご飯だよね。甘いものでも、塩辛いものでも、なんでも美味しいものは全部を解決するよ! お金ももらったし、このまま打ち上げいっちゃおっか」
と、ひかりは拳をぎゅっと握り固める。
が、すぐにお腹を丸くさすった。
「でも、さすがに食べ過ぎたよねぇ。あと、マンゴージュースでたぷたぷだし……」
「一応、そう思ってくれててほっとしたよ。まだ食うって言ってたら、どうしようかと思った」
「むー、大食い認定しないでよ。さすがにもう、甘いものくらいしか入らないし!」
「……入るのかよ」
「うん、それは入る!」
そう言い切るひかりに、今里さんは静かにこくこくと首を縦に振って、同意する。
というか今この瞬間にも、角砂糖を口に突っ込んでいた。
これは流れ的に、休眠モードに入っている俺の胃にもう一回働いてもらうしかないかと覚悟したのだが、しかし。
「でも、今日はやめとく。さすがに食べ過ぎたし、高いもの食べた後だと幸福度が低いかも」
理由はともかくとして、一応、自制は効かせられたらしい。
今里さんは「そういうものですか」と述べるだけで、それに反対したりはせず、スイーツ案が流れる。
それに俺はほっと一息ついて、ベンチから立ち上がった。
「逆に身体動かすってのはどうだ?」
それから、腕を十字に組んで伸ばしつつ、こんな提案をしてみた。
今日は立ちっぱなしと座りっぱなしの繰り返しで、身体が鈍っている感じがしていた。
そのため、少し動きたかったのだ。
「あー、いいかも! そういう打ち上げも斬新でいいよ。でも、なにがあるかな」
「えっと、バッセンとか?」
別になんでもよかったのだけど、出てきたのがそれだけだった。
たぶん、高校生の時たまに行っていたからだ。
最寄駅からバスで行ける距離にあって、受験勉強中にストレスが溜まった際には、お世話になったっけ。
ボーリングよりさくっとプレイできるのも、時間に追われる受験生からすれば魅力的だった。
「あ、いいじゃん、バッセン! なんか懐かしいかも! あ、そのあとラーメンもいいなぁ」
ひかりはバットを振るポーズでこう賛成してくれる。
……そして、たぶん彼女と俺が思い浮かべる光景は同じ場所だ。
地元のバッセンはすぐ脇にラーメン屋があって、帰りについつい立ち寄ってしまうのである。
なんて懐かしいことを思いだしていたら、俺たちの前でご令嬢はきょとんと首を傾げている。
「バッセン。ビールのお酌でもするのですか?」
「……それは抜栓だろ。分かりにくいし、お酌なんて、逆にストレスが溜まりそうだし。バッティングセンターだよ」
「なるほど、野球ですか」
たぶん、よほど馴染みがないのだろう。
野球という単語が出てきたものの、なにをするかまでは分かっていないらしい。
顔色にはほんのりとまだ戸惑いが見える。
これは別のものに切り替えた方がいいかもしれない、と俺は勝手に考えるのだが、
「とりあえず、行ってみればいいよ! きっと楽しいよ!」
横から、ひかりが満面の笑みでカットインしてくる。
「私が教えちゃうね! って、まぁ私も初心者だけどさ」
「あなたも初心者なのですね」
「うんうん。どのつく素人だよ。でも、楽しめるよ、十分! しかも当たったら、結構気持ちいいんだよ。スチール缶を思いっきり踏み潰した時みたいな感じ!」
「…………よく分からない喩えですね。でも、興味は出ました。一度やってみます」
……これが格の違い、なのかもしれない。
遠慮して提案を変えようとしていた俺とは、まったく違う。
ひかりはそのきらめく笑顔で、今里さんの気持ちをくるっと変えてしまった。
それどころか、無表情がデフォルトな彼女をほんのり微笑ませてもいる。
「やった! じゃあ、ひかり野球少年団出発だ〜!」
「……少年要素どこだよ」
「心だよ、心! それで、えっと、東京にもあるものなの?」
「意外とあるよ。割と近いな。電車だと25分くらいあれば着くらしい」
俺はマップアプリを開いて、スマホを見せながら言う。
その横では今里さんもなにやらスマホをいじっており……
「では参りましょう、一分ほど後にタクシーが下に来ます」
なにをしていたかと思えば、タクシーの手配をしていた。
こちらへ見せてくれた画面には『まもなく到着します』の文字が躍る。
さすがはご令嬢といおうか。
彼女の中で移動手段といえば、それすなわちタクシーをさすらしい。
時間が迫っているからだろう。
先々歩き出す今里さんに、俺もひかりもとりあえず着いていく。
「タクシーかぁ……なんか緊張してきたかも」
その途中、ひかりはこう小さく呟いていた。
さすがの少年野球団長も、大スポンサー・今里さんのこの大盤振る舞いにはついていけていないらしかった。
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