第44話 名前で呼んで。
「ちょ、野上くん……!」
「いいから、行くぞ」
とにかく人気のない場所を目指して、走る。
そうして、駅構内から上野公園へと向かう出口までやってきたところで、やっと人目から解放された。
少なくとも、奇特な視線を送ってきたり、カメラを向けられたりすることはない。
「なにをやってるんだよ、青葉さん。というか、なんだ、さっきのセリフは」
俺がため息交じりにそう言えば、青葉はうつむいたまま、「だって」と呟く。
顔を逸らして、口を尖らせた。
「野上くんに、あんまりひどいこと言うから、むかついちゃったんだもん。おかしいじゃん、自分がひどい振り方したのに、あんなふうに言うのって。間違ってるよ、あの人」
それは、完全に同意するけれども。
「……それで、なんで彼女のふり? あいつも池袋に行くんだぞ、また遭遇したらどうするんだ」
「ただの友達って言ったら、野上くんが言い訳してるみたいになるでしょ。だから、本当だって信じさせてやろうと思ったの」
というか、と青葉はここで一つ区切りをつける。
むっと、目角を尖らせた。
「というか、なんで元カノさんと一緒にいるの。ちょっと怒ってるよ、私。今日は私とのお出かけなのに」
「たまたま、そこで会ったんだよ。あの場所、翼の像とかあって、待ち合わせに使われがちだろ」
「でも、隣にいる必要ないと思う。行く場所まで聞く意味ないじゃん」
「話しかけてこられたんだよ、向こうから。適当に答えて離れようとしてたんだけど、そこにちょうど青葉さんが来た」
いっさいの嘘はない。
が、改めて振り返って見ると本当に運が悪すぎる。
俺が人からこの話を聞いたら、作り話の言い訳だと思うかもしれない。
「まじだからな、ちなみに。俺は青葉さんにもメッセージ入れたし」
「…………それ、嫌だ」
「へ」
「その呼び方、今日で終わり。私のことは、『ひかり』って呼んで」
唐突すぎる申し出であった。
青葉はこちらへ一歩踏み込んできて、あごのすぐ下から俺を見上げてくる。
まだ呼び捨てにもしていないというのに、いきなり名前呼びを求められたのだ。
そりゃあ大学生にとって、男女が下の名前で呼び合うのが普通であることは、一般知識として知っている。
けれど、すでに昔からの知り合いである彼女を今更下の名前で呼ぶのは少し気恥ずかしい。
が、彼女は一歩も引く気はないらしい。
「私も、もう野上くんって呼ばない。だって元カノさんでも、啓人って呼んでたのに、私の方が今は仲いいのに、おかしいもん。だから、これからは啓人くん! 啓人くん、啓人くん、啓人くん! うん、これで行く!」
その顔は、これまでに見たことがないくらい、真っ赤に火照りあがっている。
そして、名前を呼ばれ慣れていない俺も、それだけで心臓が胸の奥から飛び出してきそうなくらい、どきりとした。
「啓人くん。私も、私も呼んでほしいかも」
長いまつ毛の下、彼女の美しい茶色の瞳が俺を見つめてくる。
少し、揺れているように見えたのは、期待と不安、その両方が入り混じっているからなのかもしれない。
「ほら言ってみて? 今日また池袋で、元カノさんに会うかもじゃん? そのときに、苗字で呼んでたらさっきのが嘘だってばれちゃうよ」
「ばれたら、ダメなのか?」
「そうしたら、またレンカノとか言われるんだよ。嫌でしょ。だから言って見て」
いつのまにか、近すぎるくらいには接近していた。
俺は一歩後退するのだけれど、前へと距離を詰められる。
「……ひかり」
それで、控えめにそう呟いた。
言った後に、むずがゆさが身体を襲ってくる。
あの、青葉ひかりを、下の名前で呼び捨てにしたのだ。
クラスの中心でぶいぶいと言わせていたイケメンたちですら、「青葉」と呼ぶのが限界だった、あのクラスのアイドルを。
しかも、彼女から懇願されて。
「もう一回、お願い」
「……えっと、ひかり……」
「もっと! 何回も、はいせーの、リピートアフタミー、『ひかり』!」
「英語の授業かよ……」
「はいはい、そんなことはいいから。聞かせて?」
「ひかり」
「うーん、そのイントネーションじゃ新幹線だよ。そうじゃなくて、ひかり!」
このうえなく難しい要求だった。
俺はとにかく、青葉に言われるがままに繰り返す。
「うん、いい感じ。じゃあ今後はそれでよろしくね」
個人的には全然最初と変わっていなかったのだが、それでも一応、謎のお墨付をいただくことができた。
「さ、行こう? 啓人くん」
「……あ、あぁ、うん」
俺はまだ戸惑いつつも、俺の少し先を機嫌よさげに歩き出す青葉のあとを追う。
こうして、二人での外出は、波乱の幕開けを迎えることとなったのであった。
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