第36話 どうして来てくれたの?

背中の産毛がぞわりと総立ちになる感覚に襲われる。


耳に手を当てながら見てみれば今里さんが、こちらへ身を乗り出していた。

わざわざ俺にだけ聞こえるよう耳に手を当てて、呟いたのだ。


俺はとっさに、彼女から距離を取る。

スプーンからおかゆがこぼれていないことにほっとしてから、今里さんの顔を見てみれば、片方の口端だけをほんのりと上げていた。


なんてことを言うのだろう、このお嬢様は。

いったいなんの意図があって……と少し考えるが、無駄だと気づく。


今里聖良の思考回路は、複雑怪奇なのだ。

だから考えたって仕方がないし、たぶん他意はない。どうせ「言いたかっただけ」とかそんな理由に違いない。


「……いいや、なんにもないよ。ほら」


だから気にしないこととして、青葉に再度スプーンを近づける。

すると、「あつっ」と彼女は小さく跳ねた。


「悪い、そうだったな。冷ますよ」


俺は、スプーンへと息を吹きかける。

ふと視線を感じたと思ったら、また、にやっと今里さんに笑われた。また「えっち」とでも言いだしそうな雰囲気だ。


……が、気にしてしまったら負けだ。

俺は今里さんから目を切って、慎重にスプーンを青葉の口へと入れる。


「……美味しい」


すると、少し噛んだあとに、弱弱しいながらに感想が述べられた。


「それはよかった。呑み込めるか?」

「うん、大丈夫。少し粘り気があるから、とろんとして飲みやすいよ」


ねばとろアレンジも、まさかの高評価を得ていた。これには、今里さんもしたり顔だ。


そこからは、その繰り返しであった。だんだんと慣れてきて、今里さんに変に揶揄われることもなくなっていく。

そうしてよそってきた分だけを食べ終えたら、今度は薬を飲んでもらった。


それを青葉が呑み込んだところで、俺はほっと息をつく。

これで、ひとまず熱は下がるだろう。


食器を手近にあった机に置きながら、俺は聞く。


「やっぱり、あの川に入ったのが原因か?」

「……たぶんそうだね。それ以外に考えられないもん。あれくらいで風邪ひくなんて、自分でもびっくり。一人で熱出すのが結構辛いのもびっくり」


青葉は、ここで少し咳き込む。


「もうなにも言わなくてもいいぞ」

「安静にしてください」


今里さんとともに口々に言うのだけれど、青葉は枯れた声のまま続けた。


「でも、来てくれて本当に良かった。ありがとう。野上くんだけじゃなくて、聖良ちゃんも来てくれたのはびっくりしたけど」

「……驚いた? どうして?」

「来てくれたのは、とっても嬉しいんだよ。嬉しいんだけど、まだ、お昼一回食べたくらいの関係なのに、さ」


俺は、青葉の言葉に合わせて、今里さんへと目をやる。


たしかに、それは俺も気になっていたところであった。

彼女がタクシーを手配してまで、お見舞いに行きたいと言ったのに驚いた理由は、そこにもある。


大親友なら分かるが、まだ知り合い程度の関わりしかなかったのだ。


すると彼女は、しばし目を瞑る。着ていたワンピースの裾を握ったと思うと、顔を床へと俯け、長い髪に表情を隠す。


「二人は、わたしに声をかけてくれましたから」

「それだけ?」

「そのそれだけが、大きかったのです。わたし、いつもどういう理由かは分からないけれど、人から避けられていました。サークルの勧誘もされなければ、授業に出ても友達もできない、大学に来てからはずっと一人。だから、誘ってくれたときは嬉しかったのです。お友達になれたと思いました。だから……」


今里さんはそこまで言うと、そのまま黙り込む。

そこで青葉が、その肩へと手を伸ばした。


「聖良ちゃん、私もお友達だと思ってるよ。今日は来てくれて、本当にありがとうね」


今里さんがはっと顔をあげる。

目を見開く彼女の頬には、ほんのりと朱が差していた。どうやら照れているらしい。


俺はそれを、にやにやと眺める。

なにも別に、特別な意味があるわけじゃない。百合的な関係性に可能性を見出していたわけでもない。


ちょっとした、先ほどの仕返しだ。

俺の視線に気づいてか、今里さんは目を閉じる。


ため息を一つつくなど、一見冷静を装っていた。

が、よい生活で磨き抜かれた白磁の肌はあまりにも色素が薄いからか、どんどん血がのぼるのがはっきりと見て取れる。

耳たぶまで、一気に赤くなって、ゆでだこ状態だ。


「あれ、もしかして熱ある? 私がうつした?」

「……そんなに早くうつるわけがないでしょう」


新たな一面を垣間見た、そんなお見舞いのひと時であった。


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