第32話 もう十分、塗り替わったよ。


そして少し腰を落とし、態勢を安定させて、青葉のほうを見る。


もうズボンはそのほとんどが、川に浸かっていた。

が、その手はぎりぎり、子猫に届いていない。


「あと、少し……!」


そこで俺も川の中に左足を踏み入れて、右足だけを地面に引っかける。


「野上くん! ありがとう、これならなんとかなるかも!」


青葉もさらに身体を沈み込ませながら、手を伸ばす。そしてついに、その子猫の腹を彼女の手が掬い上げた。

青葉が笑顔でこちらを振り向くから、


「油断するなよ!」


俺はそう声をかけつつ、青葉をこちらへと引っ張り上げようとする。

まさに、その時のことであった。


青葉の首元から、ネックレスがはじけ飛んだ。

どうやら紐の部分が、小島にたくましく生えていた草に引っかかってしまっていたらしい。


時間が止まったかのような一瞬出会った。

四つ葉のクローバーのチャームがきらきらと光りながら、川の中へと落ちていく。

ぽちゃんと音を立てて、水の中へと入り、そして流れていく。


俺も青葉も、ただただそれを見送った。


「青葉さん」


しばらくして俺は声をかける。

が、彼女はまったく動かない。少し手に力を入れて見てもまったく動かないから、強引に腕を引いた。


「いいから、上がるぞ」

「……あ。うん、そうだね」


やっと反応が返ってきて、俺も青葉も、川岸へと上がる。


青葉が救出した猫を川辺に下ろしたところで、俺は猫をタオルにくるんでやった。

汗を拭くため、持ってきていたのだ。


俺と青葉は二人で三角座りになりつつ、一枚のタオルを分け合って膝にかける。

だが、俺より青葉の方が濡れていた。このままでは風邪を引きかねない。


俺は自分の着ていたシャツを脱いで、彼女の肩にかけてやる。

一応、肌着ではないから問題ないはずだ。


「……ごめん」

「ありがとう、って言われるかと思ったけど? それに、猫は助かったんだし、もっと喜べよ」

「……だって、ネックレスが」


青葉はそう言うと、顔を膝にうずめてしまう。

そのまま、すっかり黙り込んでしまった。川音に紛れて、鼻をすするような音が聞こえてくる。


「せっかく、野上くんから貰ったものだったのに。これから、野上くんの色んな記憶を塗り替えていくってそういう約束したのに」


声も揺れていて、涙声だ。


まったく青葉ひかりという人間は、お人よしすぎて困る。

普通、泣くようなことではないのだ。


俺が青葉に心を込めて渡していたものなら、話は別かもしれない。

でも、そもそもこれは元カノに渡す予定だったものだ。青葉が泣くほど、大事にしなくたっていい。

むしろ、これでよかったのだ。


「記憶を塗り替えるという意味なら、もう十分だ。あのネックレスのことを思い出すときは、まず今日のことを思いだすだろうよ」

「……野上くん」

「だから、あんまり落ち込むなよ」


俺は、青葉の肩に、ぽんと一つ手を置く。


「ありがとう」


こう言えば、同意してくれるように子猫がにゃんと鳴いた。



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