バックタイムペーパー

稲葉敏明

バックタイムペーパー 料理人 進士明政

一、進士明政

俺は、バックタイムペーパーの停止ボタンを押して現代に戻った。

ベッドの方へ行くと夏子は静かに寝息を立てている。

彼女を起こさない様にそっと脇に潜り込んで布団をかぶった。

俺の名前は進士明政、二六才日本料理の板前で、実家桃山亭で妻の夏子(仲居)と共に働いている。

刺身を切ったり天麩羅をあげたり煮物を煮たりの仕事だ、しかし俺の仕事は、それだけではない、祝いの席や法要の席で包丁式を行い、日本料理の作法や決まり事をお客様に伝える事もしている。

父、忠政は進士流包丁式の家元で、父の後は進士流包丁式を俺が受け継ぐのだ。

包丁式?聞き慣れない言葉だが板前ならば誰でもできる訳では無い、板前として料理の修行プラス包丁式の稽古もしなくてはならない。

つまり俺は、若くして板前であって、包丁師なのである。

偉そうであるが、包丁式などしなくても味が良ければ店は繫盛する、商売と包丁式は別なのだ。

しかし俺には父から受け継ぎ進士流包丁式を後世に残す使命がある。

日々日本の歴史、それにまつわる料理と包丁式を研究している俺に、ある日思いかけない出来事が起きたそれは、バックタイムペーパーとの出会いだ。

夢のような話だがバックタイムペーパーは、過去に戻れるタイムマシーンなのだ。

日本の歴史を資料や文献で読み想像しなくてもバックタイムペーパーで過去へ行って確認できるのだ。

俺だけが経験、見る事の出来る過去の料理と包丁式、それは、俺にとってこの上もないチャンスである、何度もバックタイムペーパーを使って過去の日本の歴史、料理、包丁式を見てきた、歴史書や文献に書かれている史実と同じ物のあれば違う物もあるので、過去へのタイムトラベルは面白い。

しかし面白いだけでは後世に残す事は出来ない。

この不思議な経験を記録して未来の子孫へと伝えて行きたい。

バックタイムペーパーとの出会いは二年前の・・・・・・・・・


   二、上杉君との再会

「加藤君、鮪引いてしまえ、今日は予約が多いからな」「安藤君、前菜のだし巻きを切って置いてくれ」

「柴田君、鯛のかまは、大きめに切り取って兜焼きにするぞ」

「今井君、海老の殻を剥いて細かく叩いて置いてくれ真丈にする」

と、俺は板場の皆にする指示を出した板場の仕事は仕込みが七割で、客が入ってからの仕上げが三割である。

昼席のお客様が入ってからでは、仕込みをする時間が取れない、お客様が入る前の朝の時間帯に仕込み七割を終わすのである。

十一時、昼席、桃山亭開店、客が次々と入って来る、席がいっぱいになる。

「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」仲居たちの声が交差する。

桃山亭昼席のランチは竹籠膳一五〇〇円と京風会席二五〇〇円が人気でどちらも刺身や天婦羅、八寸物、ご飯、味噌汁、最後に葛切り抹茶が付いてお得である。俺が日本料理の修行に行った京都翠光亭より五百円安く設定した事が当たって女性客にばかうけだ。

昼席のピークが終わりほっとしていた時、仲居の五十嵐さんが

「明政さん、お客様です」と調理場に呼びに来た。

「俺?」

「明政さんにお会いしたいと、お客様がいらしています」

「お客様?誰かな」

「板場離れます」と言うと帽子を取り前掛けをはずした。

「おう、行って来い」親方は、自分の椅子から立ち上がり前掛けを直した。

「お願いします」軽く礼をすると調理場の暖簾をくぐりホールに出るとジーンズにTシャツ姿の男性が立っていた。

「明政君ご無沙汰、覚えている?」男性はペコリと頭を下げた。

彼は小学校の同級、上杉陽一君だった。

「いやー、上杉君久しぶりだね」俺が挨拶をすると、

「今、ランチいただいたよ、すごく美味しかった」

「そう、食べに来てくれたの、ありがとう」

「京風の素晴らしい料理だね」

「褒めて貰ってうれしいよ、コーヒー飲んでいきなよ、こちらへどうぞ」カウンターへ招いた。

「ごめん忙しいのに」

「大丈夫、親方が調理場を見てくれているから、久しぶりだね、元気でいた?何年ぶりかな?」と子供の頃の面影を思い出していた。

「僕達が高校一年生の時以来だから八年ぶりだ、覚えているかな高校一年の時、明政君と同じクラスだった」

そうだ、彼は小学校の同級生だったが中学は、俺と違い特別勉強の出来る子しか入学できない東京の大地中学校。

その中学校もトップ成績で卒業した。

そんな優秀な子が、地元栃木県の高校調理科に入学した、と話題となり当時の新聞にも取り上げられた。

「思い出したよ」

「あー僕、板前になりたかったから、でも一年の一学期で辞めてしまったけど」と寂しそうな顔をした。

頭が良くその事で新聞にも出た上杉君は、先輩、同級生、先生からも注目され、入学早々僻んだみんなにいじめられていた。

先輩からは屋上に呼び出され、「頭のいい奴は料理人にならないで、学校の先生か政治家にでもなれ、料理人は頭の悪い奴が、包丁の腕と味付けで勝負するのだ」と上杉君の胸倉を掴み、拳を振り上げた。

俺は、「やめろー頭の良い悪い関係ない」と、上杉君をかばい、先輩を止めた。

「進士!てめえ」と先輩に殴られた事がある。そんな事が何度かあり一年の夏休みが終わると、彼は学校に来なくなりその後、会っていなかった。

「うちの家族、食べるのが好きでさ、子供の頃は父が色んな店に食べに連れて行ってくれた。綺麗、美味しいと褒められてご馳走様って礼まで言われてお金までもらえる。僕、料理人になりたいと思った」

上杉君は本気で料理人になろうと思っていたのだ、俺は言葉を失って「む・・」と唸って静かにコーヒーを飲んだ。

「僕、今岩本電子工業研究所の主任をやっている、若くして主任に抜擢されたから、皆からの風当たりが強くて辛いハハハー」と上杉君は、物寂しそうに笑って話を続けた。

「ずっと大学時代から研究していた機械がやっと完成した、過去に戻れる機械だぜ」

笑顔で言った。

「過去に戻れる機械?」

「高校辞めた後、ライブハウスで髪を伸ばしてディープパープルのコピーバンドでベースを弾いている明政君を見た。あの時のお礼を言いたくて声をかけたけど気付いてくれなかった。修行から帰って来て、お店を手伝っていると聞いたから、明政君!僕をかばってくれて有難う」上杉君は真面目な顔をして頭を下げた。

「おー」俺は頭の後ろをかき照れくささをごまかした。

帰りぎわに上杉君は名刺をに差し出した。

岩本電子工業研究所主任、裏には帝東大学物理工学科客員教授と書かれていた。

 

   三、バックタイムペーパー

板場で事故が起きた、俺が移動させようと持ち上げた鍋が、隣の揚場の天ぷら鍋にぶつかり天ぷら鍋をひっくり返してしまったのだ。揚場の谷口が足に火傷をして、病院に運ばれた。

「谷口、ごめん」俺は、谷口君に何度も謝った。

「大丈夫です、これくらい・・」と谷口君は強がっていた。

幸い前掛け下の足だけで済んだが、足首から下が大火傷で緊急手術となった。

俺は、なんであの時鍋なんか動かしたのかと悔やんだ。病院の椅子に一人座り頭を垂れながら、「時間を戻せれば・・」と、つぶやいた。

「時間を戻す?」そんな事出来ないと思った瞬間、上杉君の顔が浮かんだ。

確か、過去に戻れる機械って言っていた、ひょとしたら・・・その足で、上杉君の研究所を訪ねる事にした。

岩本電子工業は病院の近く、車で十分の所にある。

研究棟の受付で上杉君の名前を言うと受付嬢が研究室まで案内してくれた。チャイムを鳴らしドアを開ける。

「いやー、よく来てくれたねどうぞ、どうぞ」と、彼は笑顔で部屋に案内してくれた。

部屋は綺麗に整理されている、と言うよりも部屋の中央に応接用の椅子とテーブルがあるだけで余計な物が無いと言うのが正解だ、椅子に座ると隣の部屋のキッチンから入れたてのコーヒーを持って来てくれた。

「明政君元気でいた。この間はごちそうさま。桃山亭の料理うまかった」笑顔で嬉しそうだ。

「ありがとう、研究の方は進んでいる?邪魔しちゃ悪いからすぐ帰るよ」

「ぜんぜん平気だよ、邪魔なんかじゃないよ僕の研究は完成して今は後輩の研究の指導をしているから、どちらかと言うと暇だ、せっかく来たのだから研究室でも案内する?」

彼は、又嬉しそうに言った。

「俺が見ても分かるかな?」

「面白い物がたくさんあるよ、ハハハー」と笑った。

俺は来てすぐで悪いと思ったが本題を切り出そうとコーヒーを一口飲んで思い切って言った。

「上杉君この間、店に来たときに過去に戻れる機械の話をしていたよね、それって?」言葉を詰まらせた。

「うん、簡単に言うとタイムマシーンの研究」と、上杉君が答えた。

「え、タイムマシーン?」顔を上げ彼を見た。

「あれ?明政君興味ある?」と、声のトーンを下げた。

「完成している?俺過去に戻りたい」

「え、何かあったの?」上杉君はコーヒーカップを持ったまま驚いた顔をしている。

「先日、鍋を動かした俺の不注意で、揚場の谷口君に火傷をさせてしまった、過去に戻れるなら、事故を阻止したい、それって、出来るのかなと思って」と、弱々しく言った。

「桃山亭で会った時の明政君と雰囲気が違うなと思ったら、大変な事があったのだね、それで火傷の具合は?」

「結構ひどい、谷口君に、すまない事をした」俺は下を向いた。

「明政君元気出して、出来るよ、過去に戻る事」

「本当?」俺は目を丸くした。

「完成したタイムマシーンを使えば出来るよ、でもどうやって事故を回避したいの?」

上杉君は俺を見詰めた。

「どうやる?えーと、その日に戻って、鍋を動かすのをやめさせる」

「今の明政君が過去の明政君の行動を止めるということだね、残念だけどそれは出来ないんだ」

「え、過去に戻れるけど、今の俺は、過去の俺のに会えないの?」首を傾げた。

「うん、ちょっと難しいけど説明するね。完成したタイムマシーンの名前は、バックタイムペーパーと言う、普通タイムマシーンと言うと、自分自身が過去や未来にタイムトラベルする事をイメージするけど、僕のは、薄い紙みたいな機械を体に貼り、過去の自分以外の人物に乗り移ることしか出来ないんだ」と上杉君は説明をした。

「過去の他人に乗り移る?」

「明政君の場合、過去に戻り、その時その場に居た誰かに乗り移って、鍋を動かそうとしている明政君をやめさせる。バックタイムペーパーは、誰かに乗り移っる事しかできないんだ」

「でも、その誰かは、俺の事が見えているのだよね?」

「そうだよ!乗り移られた誰かは、普通に明政君が見えている、今回の場合明政君は乗り移った人の目で自分を見る事になる」

「うむー・・・」俺は、普通のタイムマシーンとの違いを必死で理解しょうと腕を組んで考えた。

「このバックタイムペーパーを使った事により出来事が変わってしまう事がある。

誰にとっても良い方に変わればいいのだけれど、良からぬ考えの人や金儲けなど、個人的な欲の為には使わせたくない。

明政君、昔僕をかばってくれたよね、先生ですら僕を変な目で見て江田先輩には、明政君も一緒に殴られた。そんな明政君だから使ってもらいたい」

俺は、「いや・・」と頭をかいた。

「バックタイムペーパー見る?」

上杉君は立ち上がり、部屋の奥のドアを開けた、そこは研究室だった。

「明政君、こっちへどうぞ」

数台のコンピューターと、TVモニター、何に使うのだろう?

研究室の机に向かい合って座ると

テーブルの上に電卓のような数字と文字が書かれた、薄い紙のような物が数枚置かれている。

紙の上の方には窓のような物がある。

上杉君は、その中の一枚を取り上げ、

「これがバックタイムペーパー、紙の様に薄いコンピューターだ、これを体に貼るだけで、タイムトラベルが出来る」

「これで?」俺は上杉君が持つ紙のような物をじっと見た。

「このバックタイムペーパーで、明政君の行きたい、過去の時代の乗り移りたい人へ移動できる」

俺は、「・・・」言葉がでない。

「使い方を説明するよ」と、話を続けようとした。

「ちょっと待って、分かった様な狐につままれた様な心の準備が・・・」

「ハハハー理解できないよね。でも、使い方は簡単だし、安全装置も万全だ。

まず、使ってみて覚えた方がいいよ。

この数字で行きたい年代日時を入れる。

乗り移りたい人の名前を入れる。

場所を入力する。

年代日時に乗り移りたい人がいない場合は、エラーが出る。

バックタイムペーパーを腕に貼る。

この青い(スタート)ボタンを押す。

一瞬で過去の人物に乗り移る現代に戻りたい時は赤い停止ボタンを押す。一瞬で現代さ簡単だろう?」と、上杉君は自慢げに説明した。

「でも、危なくないの?このバックタイム何とかが故障して、行ったきりって事はない?」

「大丈夫だよ、安全対策も万全さ、万が一何らかのトラブルが有ったら剥がせば瞬時に現代に戻れる。

電源は人間の心臓、血流の流れ、体温、筋肉の動きから取っているから、死んでいる人には、乗り移れない」

「少し分かってきたけど、俺、谷口君を助けてあげたいから今から使ってみてもいいかな?」と無謀だが、思い切って言ってみた。

「ああ勿論だよ、タイムトラベルする前に誰に乗り移るか、年代日時、場所をきちっと確認してね、はい、これ」とバックタイムペーパーを俺に渡した。

俺は、事故のあった年代日時、場所、そして親方の名前を打ち込んで、上杉君を見た。

「上杉君、じゃ行ってくるね」

「明政君!頑張って」

俺は、青いボタン(スタート)を押した。

ふわりと出汁のいい香りがする。

俺は、桃山亭調理場の親方に乗り移って献立を書いている。

手を止め、調理場を見ると刺場の加藤君が鯛の皮を引いている、その向こう側で揚場の谷口君が鯧の切り身に打紛をしている、その隣で明政が芋を焚いて紙蓋をして、追い鰹をしているのが見えた。

いつもと同じ見慣れた風景だ、しかしこの後事故が起きるのだと思いながら時計を見た

「そろそろだな」親方に乗り移った俺は、つぶやいた。

親方(俺)は、椅子から立ち上がり

「明政、追い鰹したら鍋の火を止めておけ、冷めるまで動かすな!それから、事務所へ行って献立のコピーを取ってこい」

と、今書いていた来月の献立を明政へ差し出した。

「はい、親方」と返事をして鍋の火を止め、明政がこちらへ来た。

自分で自分の姿を見るのは、変なものだ、こちらに歩きながら明政が「何枚とりますか?」と聞いた。

「板場全員分だ」と、答え献立を明政に渡した、明政が事務所に行くのを見届け、行動に出た。

「谷口、手伝うから鯧早く揚げてしまえ」と谷口君をせかしながらも、自ら谷口君を手伝い、揚げ物を終わらせ、揚げたての鯧を南蛮酢に付け込んだ。

「谷口、油の火、止めておくぞ」と油鍋の火を止めた。

「あ、親方ありがとうございます。助かりました」と谷口君は頭を下げた。

そこに、明政がコピーを持って帰ってきた。

「親方、コピー終わりました」と、献立を差し出した。

「おう、ご苦労、皆に来月の献立を渡すから、全員わしの所へ集めなさい」と、いつもの親方の言い方を真似て言った。

明政が全員に声をかけ親方(俺)の前に集まった。

「皆仕事頑張っているな、早いが、来月の献立を渡すから目を通しておいてくれ。

切り替え時に材料が無駄にならない様に各部所で調整してくれ。

解らない事が有ればわしか、明政に聞きいてくれ以上だ!」と、全員に来月の献立が配られ皆は自分の部所に戻って行った。

「ふうー、これで事故が回避できた」と小声で言った。

事故が回避出来たなら長いは無用、ぼろを出す前に自分に戻る事にしようと、左腕の袖をそっとめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

「おかえり、どうだった?」上杉君の顔が見えた。

「うん、ばっちりうまくいったよ、過去に戻れるなんて夢の様だ、親方に乗り移っても違和感全く無かった、凄いねこのバックえーと何だっけ?」

「バックタイムペーパーだよ、使い方も、簡単だろう」

「ありがとう、思ったより簡単に事が進んで良かった。明日店に行くのが楽しみだこれ、返しておくね」と俺は、今までの悩みが晴れたかの様に元気になっていた、上杉君も笑顔だった。

帰り道、谷口君が運ばれた病院の前を通りすぎた、慌てて引き返して病院へ行った。

「あのー足の火傷で運ばれた谷口宏明はどちらに行けば会えますか」と聞いた。

受付の事務員の女性は、「はい只今確認致しますので少々お待ちお待ちください」と言うと書類を探し、電話で確認をしていた、

「申し訳ございません。谷口宏明様と言う方は当病院には来院されていません、何処か違う病院とお間違えでは御座いませんか」と言った。

俺は、「有難う御座いました」とお辞儀をすると足早に病院を出て「ヤッター」とガッツポーズをとった。


   四、明政と夏子

翌日、桃山亭に行くと谷口君は元気に天ぷらを揚げていた。

何故か谷口君の足もとに目が行ってしまう。

「おはよう」と谷口君に声をかけると、

「あ、明政さんおはよう御座います」と元気に返事が帰ってきた。

良かった全てうまく行ったのだと思いながら、つい「足、大丈夫?」と言ってしまった。

しまった!と思ったがもう遅い。

すると谷口君は何を思ったか俺の足を見た。

「足?駄目ですよ、明政さんそれでは、仕事がやりづらいのでは?」と谷口君は俺の足を指差した。

ハッと俺は、自分の足を見みると右は雪駄、左はシューズを履いていた、

慌てて「いや、あの、これ、鍋を持つとき左足を踏ん張れると思って、左も雪駄だと滑るし」と訳の分からない事を言いごまかした。

すると谷口君は、不思議な顔をしたが、

「そうか、鍋を持つときはその方がいいのか?」と言って、俺のでたらめを真に受けている。

そこへ親方がやってきた、「明政二人で何をごっちゃ、ごっちゃ、話している?今日は、昼の予約もいっぱいだ、早く仕事には入れ、あれ?その足どうした?なんで右足と左足違う物履いているのだ?」と不思議な顔をして言った。

すると谷口君が「親方知らないのですか、煮方は鍋を持つとき足が滑るから踏ん張れる様に右に雪駄左にシューズを」そこで俺は、谷口君の口を塞ぎ会話を止めた。

これ以上谷口君がしゃべるとまずい。つかさず俺は、「すいません直ぐに履き替えて来ます」と言った。

「調理場に入ったら身なりをビシッとしろ、ビシッとビシビシだ!」と言って親方は、戻って行った。

親方はビシット、ビシ、ビシと言う言葉が出ると機嫌が良い。

俺は、着替え室に戻り左足を雪駄に履き替えた。

その夜、桃山亭の営業が終わると、板場の皆と一緒に庖丁式の練習をした。

包丁式とは、古来より伝わる日本料理の食の儀式で右手に真魚箸を持ち左手に包丁を持って魚や鳥の食材に直接手を触れずに切り裁く日本料理の作法の一つである。

大俎板に向かい直垂、狩衣を纏い祝いの時の作法として行われる。

日本料理の板前なら誰でも出来る訳ではなく流派に入門して作法を習得して初めて出来るので有る。

食の儀式で有る包丁式を執り行う流派は、数多く存在したが、残念な事に現在に残っているのは、天皇流、進士流、大草流、五十間流、四條流、と数流派になってしまった、この流派の集団を包丁家と呼ぶ。

包丁家、には、包丁師と呼ばれる人間がいる。

包丁師とは、日本料理を極め包丁式を執り行う料理人の事で調理方法、調理技術、儀式作法まで極めた人間しかなれない。

俺の家系は、進士流と言われる包丁家で、

その歴史は古く、室町時代までさかのぼる

初代進士譜長、その子孫から、進士清蔵、進士蔵人、進士その子供に進士という人物がいる、藤延の姉、小侍従は、室町幕府足利義輝の側妾、父の進士晴舎は、室町幕府足利家の料理長で有った。

進士家は、足利家との繋がりや、天皇流の高橋家との繋がりも深く、出身地美濃の斉藤道三の娘が信長の嫁になる時にも、藤延の功績による物とされる。

その進士藤延を信長が見逃すはずもなく家臣として召し抱える。

信長に仕える様になって母方の明智の姓を名乗り明智光秀と名前をかえた。

主に信長の食事料理を担当していたが、鉄砲隊の武将としても優れていた。

つまり明智光秀は、包丁家進士流の包丁師で俺の祖先なのである。

日本の歴史書によると織田信長は、長篠の勝戦祝として徳川家康を安土城に招き接待役に進士流の明智光秀を使命、光秀は進士流の秘事をもって、接待を行ったと有る。

進士流祝い料理、作法も当時では、最高の接待のはずだが、何故か信長は、突然怒り出し、光秀に殴る蹴るの暴行を行なう。

信長怒りの理由としては、料理が腐っていたとか、味が不味いとか、逆に料理が良すぎたとか、面白い所では、進士流秘伝の鶴の式庖丁を披露したからだとか、天皇よりも上位にいる自分は、こんな素晴らしい接待を受けた事もないというみからだと言われている。

本能寺の変には、料理、包丁式が絡んでいたのだ。

桃山亭では俺が、板前達に進士流包丁式の稽古を付けている。

魚を三枚におろし、すだれ骨を引き、食べられる身、捨てる骨、真魚箸と包丁で切り分け

祝いや、法の型に俎板に並べる。

俎板には、名前があり

箸や包丁を置く五行、

頭や鰭を置く宴酔、

食べる身を置く朝拝、

捨てる身を置く四徳、

作業をする所を式、と言う。

真魚箸は、左手で使う、中指と薬指を内側に入れ、人差し指と薬指を挟んで突き刺すように使う。

この包丁と箸の動きには、現代日本料理の庖丁使いの技術が全て入っている。

数日を桃山亭の仕事と包丁式の稽古で過ごしていた。

しかしバックタイムペーパーの事を忘れた訳ではない、上杉君にお礼しなくちゃ、明日は店休みだからお菓子でも持って行こうと考えていた。

翌日、ケーキを買って妻の夏子と、車で上杉君の岩本電子工業所へ向かった。

妻の夏子は京都翠光亭の娘であり従妹でも有る。

俺が、翠光亭での修行中は、従妹と言う事もありよく京都を案内してくれた、その頃に二人は恋人同士になり従妹同士だが、俺が栃木桃山亭に帰えたら結婚すると決めていたのだ。俺(二十三歳)夏子(二十歳)の時に結婚した。

現在夏子は桃山亭で仲居として俺と一緒に働いて居る。

「俺、今から友達の所へ行くけど、夏ちゃん時間あれば一緒に行く?」と、俺は、妻の夏子を誘った。

「うん、行く行く」夏子は、嬉しそうに車に乗り込んで来た。

岩本電子工業は桃山亭から車で二十分、途中でケーキを買った。

研究室のチャイムを押すと、上杉君は、ドアを開け笑顔で迎えてくれた。

さっそく俺は、「これ、うちの家内夏子です」と、紹介した。

「初めまして、夏子です」と、ペコリと頭を下げた。

「初めまして、上杉です、どうぞお入りください」俺と夏子を部屋へ案内してくれた。

「明政君結婚していたの、僕まだ独身だと思っていた」と上杉君が言うと

「はい、一年前に結婚しました」と元気よく夏子が言った。

「そうだったの、知らなかった。ごめんね」

昭和五十九年の夏、俺はプロポーズをした。

決行の日いつも会っていた喫茶店で

「夏ちゃん僕と結婚してください」と言った。

「噓、明政さん噓言っているでしょう、明政さん噓言うと、右眼がパチパチして、頭くると回すから」

「何、俺そんな癖があったの?」

俺が驚くと、ペロっと舌を出した夏子が、

「冗談!そんな癖ないわよ、いつ言って来るか待っていたのよ、了解です明政さんと結婚します子供の時から明政さんと結婚すると決めていたから」と涙ぐんだ。

「夏ちゃん幸せにするね」と、用意していた婚約指輪をはめた。

隣の席のサラリーマン風のおやじが、こんな所でプロポーズするなと、変な顔をして煙草を吸っていた。

俺は、立上り夏子を抱きしめた。

おやじは、目を丸くして煙草を膝の上に落した。「あっちー」

夏子の成績は常に学年でトップクラス、運動が得意で陸上部、走り幅跳五メートル四一を飛んで中学校女子、最高記録を持っていた。

一方俺は、勉強はとんと駄目、授業中は居眠りの常習犯で、社交ダンス、バンド活動にのめり込んでいた。

バンドコンテスト、で全国大会にも出場したが、物にはならなかった。

高校は調理科に進学した、特に調理に興味が有った訳では無く、桃山亭を、次ぐと言う考えが何処かに有ったのかもしれない。

二人を思うと駄目男と美人で勉学運動に優れた夏子の変な夫婦で有る。

しかし夏子には、三つ程欠点がある、一つ目は、何処にいても、眠くなると寝る、トイレの中で尻を出したままでも、寝るので有る。

二つ目は、説明するのが下手なところだ。

三つ目は、周りを気にせず思った事をズバっと言う。

こんな事が有った。

桃山亭に初めて来た、お客様を、夏子が座敷に案内した。

注文は一万二千円の会席料理、板場も気合が入る、すると夏子が変な事を言い出した。

揚場の谷口君に吸物の当たりを付けてもらいたいというのだ。

「はあー煮方の俺か、親方が吸物の当たりを付けなくてはお客様に失礼だよ」と俺は、夏子に言った。

その時、「おーい」パン、パン「おーい」パン、パンと手を叩く音がする。

「あ、やっぱり、谷口君吸物の当たりお願いね、ハーイ只今」と夏子はお客様の所へ行った。

「親方いいのですか?」

親方は、「夏子の言う通りにしなさい」と静かに言った。

「俺、揚場だから吸物の当たり付けた事ないす」と谷口君が言うと。

「いいのだ、お前が付けろ」

「よしや、俺の神の舌で当たりをビシット決めたるで!」と谷口君は、ガッツポーズをしている。

その後の煮物も揚物の天出汁の味も谷口君が付けた。

お客様は、大変な喜び様で板場にチップまで置いて上機嫌で帰って行った。

俺は、夏子に聞いた。

「谷口君の当たりで良かったの?」

「私が座敷に入るとお客様は、床の間に向かって正座をしていた、直ぐに座布団を進めたわ、そしたら又正座で座ったの、あぐらが楽ですよと言うと、あぐらになった。

床の間に向かって下座に座って居るから、誰か来られるのですかと聞くと、一人だと言うの。

背広を着ているけどネクタイが曲がてる、腕時計のデジタルが消えているの、手はガサガサで農作業でもしていたかの様、ご注文はいかがなさいますかと聞くと一番高いのをくれ、とメニューも見ない、お飲み物は、と聞くと水をくれて、お茶でもいかがですかと聞くと、あ、それでいいと震えながら、言うの、只今ご用意致しますのでしばらくお待ちください、と言って調理場に戻ったの。

そしたら、おーいパンパン、おーいパンパンと仲居を呼ぶ声と、手を叩く音がしたの、あ、やっぱりと、思って谷口君に吸物の当たりを頼んだわけ、わかった」

俺と板場の皆は、目を丸くした。

谷口君が、手をパンと叩くと、

「わかった、そうだったのか、つまりお客様は、俺の神の舌に度肝を抜かれたてことか」と、ガッツポーズを取ろうとした。

「馬鹿かお前、まだ料理食べてねだろう」と加藤君が言うと、

夏子が、「親方、出しゃばった。事をしました。申し訳ありませんでした」と、親方の方を向き深々と頭を下げた。

親方は腕を組んで「本来ならば店の味付けを楽しんでもらうのが筋だが、今の話を聞くと、これで良かったと思う、夏子は流石に公治の娘だな」と、言った。

「夏子ちゃん、ちゃんと説明して」と、俺が言うと、

「ちゃんと詳しく説明したよ」と夏子は自分の説明に納得している。

すると親方が、「夏子はきちんと説明した、皆わからんのか?」と全員を見渡した。

「ならば、わしから説明しょう結果から言うと今日のお客様は、田舎者だから味付けを濃くしてくれという事だ。

田舎者と言っては、失礼だが、座敷に通されたお客様は下座に座り畳に正座で座っていた、日本料理のお店に行った事が無かったのだな。

メニューも見ず一番高いのを注文した、普段行く店は、壁にお品書きが貼ってある、メニューの見方が解らなかった。

お飲み物を聞くと、水をくれと言った。今まで入ったことのある店では最初に水が出てくるからだ。

服装だが、背広を着ていたが、ネクタイが曲っていて腕時計のデジタルが消えていた、時間を気にする仕事ではない様だ、そして手はガサガサだった。お客様の職業は何だと思う」親方は皆の方を見て聞いた。

「農家の人」「山師」

「あ、おれ大工さんじゃ無いかと思う」と

皆は、口ぐちに思い当たる職業を言った。

「お客様が座敷から仲居、を呼んだとき、夏子は、やっぱり!と言った。

わしも違和感を感じた。

普通、人を呼ぶときは、おーいパン、おーいパンと手叩きは一回だ、しかしお客様はおーいパンパン、おーいパンパンと二回手叩きをしていた。

二回手叩きをするのは、柏手、神社にお参りする時だ。

何の職業かはわからんが、背広で、静かに、する事務仕事ではなく、汗をかく仕事の様だ、どんな食事を好むと思う?」

「かつ丼、豚カツ、唐揚げ、ラーメン、塩辛い物かな」と谷口君が言うと、

「そうだな、谷口お前が良く作る賄いだ、しかし日本料理店でそんな料理は無い、せめて吸物や煮物の塩味だけでも濃くしてあげたいと夏子は思い。

谷口に当たりを頼んだ、人を呼んだ事が無い為に、神社で打つ柏手を打った、夏子は間違いない田舎者だと思った、わしも柏手を聞いた時このお客様は田舎者だと思った」

すると夏子が、「明政さんの味付けは上品で薄味で、美味しい料亭の味よ、でも今日のお客様の様な田舎者の好む味ではないわ、谷口君が作る賄いはいつも塩辛く、丁度いい不味さだから今日のお客様には谷口君の味付けだ!と思ったの、お客様は美味い、美味いて大変喜んで緊張がほぐれたみたい」

夏子は本人がいてもズバっと言う。

谷口君は、夏子の言った事を理解したのか、小さくなって「俺の神の舌がー」と言いながら指遊びをしていた。

夏子の味をとらえる感覚記憶力は素晴らしいが説明をする力と雰囲気を考えずズバズバ言う所が欠点である。


「先日は大変お世話になって助かりました、お礼も言わずご無沙汰してしまって、これケーキです」と俺は、上杉君にケーキを差し出した。

「ありがとう、今、コーヒー淹れてくね」とコーヒーとケーキを持って戻ってきた。

「上杉君、この間はありがとう。谷口君も何もなかったように毎日元気に仕事しているし親方も全然気づいてない」と俺は、礼を言った。

「良かった、上手くいって、また使いたくなったらいつでも使ってバックタイムペーパー」と上杉君は笑顔で言った。

「ありがとう。何かの時は、是非使わせてください。コーヒーいただきます」三人は、コーヒーを飲んだ。

「わぁー、おいしい」夏子は、元気に言った。

三人はケーキとコーヒーを飲みながらしばらく雑談をしていた、すると上杉君は何かを思い出したのか突然立ち上がり

「そういえば、明政君に見てもらいたい物があるのだけど」と言うとキッチンの冷蔵庫から小さな包みを持ってきた。

「明政君、これ何だか分かる?めちゃおいしいんだ」と言いながら包みを開けた。

中には焼いた魚の切り身が入っていた。

「これは、鯧だな。食べてもいい?」と言いながら一口食べると、脇から夏子が、

「この焼き目を見ると、炭で焼いているわ!しかも、身が厚いし良い仕事をしている。私も一口いいかしら?」と言うと焼魚を手でちぎってポンと口の中へ入れた。

「フム、この仕事ぶりだと、京都嵯峨野の貴船山かも。あそこの親方の味に似ているわ。でも味噌が少し違うような気がするけど」と口をもぐもぐさせている。

「奥さんそこまで分かるの?明政君はどう?」

「大きめの鯧の切り身を西京漬けにして、炭で焼いている事は分かるけど、作った店や味噌の味まではちょっと・・」

「上杉さん京都へ行かれたのですか?焼いてからそんなに時間がたってないわ」

「いやー、夏子さん正解です、実は昨夜京都で・・」と言ったがその後の言葉を濁した。

「じゃあ今朝、栃木に戻られたのですか?」

上杉君は頭を掻きながら、「実はバックタイムペーパーで信長の祝いの席の魚を持ってきた」と言った。

「はあ?」と俺と夏子は口を開け固まった。

「上杉君タイムトラベルしてきたの?」と俺が聞くと、

「バックタイムペーパーで色々な時代の晩飯を食べに行くのが今の僕の楽しみだ」と、ぶきらぼうに言った。

俺には、彼の言っている事が理解できるしかし夏子には無理だ。

「上杉さん、えーと、バ、信長、魚?」

夏子は、パニックをおこしている。

「夏ちゃん、俺がよく説明するから落ち着いて」と、詳しく説明をした。

しばらく黙って俺の話を、聞いたが、

「そんな事が本当に出来るなら、明政さんにとって最高の事ね。いつも日本料理や庖丁式の勉強をしているから昔に行って、見ててこられるじゃない」と、タイムトラベルの事を理解した様である。

「昔の料理を食べたり、庖丁式を見に行ったりするのは、バックタイムペーパーがあれば簡単だ、でも歴史に詳しくないと、失敗やトラブルに巻き込まれたりするよ」

夏子は、上杉君の方に向きを変えると、

「任せてください、主人は進士流の庖丁師ですから日本の歴史は誰よりも詳しいです」と、自慢気に言った。

「上杉君、俺、日本料理や庖丁式の過去を見てみたい。その時はバックタイムペーパーを貸してください」と、頭を下げた。

脇では夏子も俺と一緒に頭を下げている。

上杉君は二人の態度に戸惑ったのか両手を振りながら、

「わー、そんなかしこまって二人とも頭を上げて!了解だからいつでも使えるように、これ持って行って」と、上杉君はバックタイムペーパーを、差し出した。

帰りの車の中で夏子が口を開いた。

「明政さん私を上杉君の所へ一緒に連れて来たのはバックタイム何とかを私に教える為だったの?」

「いや、バックタイムペーパーの事を、教えようとして連れて来た訳ではないよ、谷口君の火傷を回避出来たお礼をと思って」

「二人は噓を付かない、秘密を持たないと約束したのに」と夏子は頬を膨らませている。

「ごめん、バックタイムペーパーの事を夏ちゃんに説明して無くて、怒っている?」と、夏子の方を見た。

「前向いて運転しなさい!」と夏子は強い口調で言った。

「谷口君の火傷を阻止する為に過去へタイムトラベルしたのでしょう?優しいのね」と今度は、優しい口調で言った。

「うん、谷口君の火傷を見たら、申し訳無くて」とハンドルを握りながら謝った。

「明政さんは、ちゃんと謝るし、子供頃からいつも私や周りの人に優しくしてくれた。今回のことは、許します」と夏子は静かに言った。


  五、川中島

市場にはいつも、新鮮な魚が多く並んでいる。

「へい、いらっしゃい」と、田中魚店の田中社長は元気だ。

「おはようございます。今日は、鰤を仕入れるつもりで来ました」

「あいよ!何匹欲しいの?」と田中社長は見た目が怖そうだが気は優しく人は良い、栃木県独特のなまりで喋る、桃山亭親方、俺の父と同い齢で、自分の子供の様に俺に接してくれる。

「はい、三匹ほどもらいたいのですけど」と俺が言うと、「あいよ!鰤の季節だから活のいいのが、入っている、ほれ、そこら辺の箱見てみな」と指を差した。

見ると鰤が入った発泡スチロールが山の様に積んで有る。

鰤は出世魚で一般的には三十センチ位を関西では、つばす、関東では、わかしと呼ぶ。

五十センチ位の物を関西では、はまち関東では、いなだと呼び、八十センチ位の物を関西では、めじろ、関東ではわらさ、と呼ぶ。

八十センチを超えた物を関西でも関東でも鰤と呼ぶのだ。

そして北陸、九州、東北など地方によって呼び名が変わる面倒な魚なのである。

体が大きくなって、出世すると考えた昔の人は呼び名を変えて季節を感じた、それが出世魚の呼び方の始まりで有る。

「明政さん、いらっしゃい!今日は、鰤の仕入ですか?」と後ろで声がした、振り向くと田中魚店従業員の青木君だ。

魚の配達が専門だが、インテリで魚の事は勿論、政治や経済、スポーツと何でも詳しく異色の魚屋だ。

「あ、青木君、おはようこの位の大きさだと何て呼ぶのかな?」と手を広げると、

「その大きさだと、わかしかな、でも出世魚だからと言って大きさによって名前を変えて呼ぶ必要は無いですよ、僕らは魚のプロだから知っているけど、仕入れに来るお客さんだって知らない人が多い、下手に大きさで名前を言うと、こんがらがって面倒くさいから全部鰤と呼んでいるんです」と青木君が言った。

なる程、鰤は関東、関西で呼び方が違うし、板前達は皆修業した場所の名前で呼ぶから、こんがらがる。

「明政さん、出世魚と言えば鯔の卵が唐墨だって知っていますよね、普通は唐墨用に卵だけ取って身は捨ててしまうけど、新鮮な鯔は刺身で食べると、抜群に美味いと知っていました?鯔も出世魚で、十センチ以下をおぼこ、いなっこ、すぱしり、いな、三十センチから五十センチをボラ(鯔)と呼び、そこまでなら刺身で食べても焼いても美味い、それより成長すると、とど、と呼ばれてとても食べられたもんじゃない。

昔の人は、とどのつまりは、煮ても焼いても食えない、と言った訳です」

頷きながら腕を組んで聞いていると、他のお客様と話をしていた田中社長が、

「どうだい気に入った鰤は見つかったかい」と言いながらこちらに来た。

「はい、この三匹、もらいます」と俺は、鰤の入った箱を指差した。

田中社長は箱の蓋を開けて、

「どれどれ、ふーむ、明政君も目利きが出来てきた!どの鰤も身の張り具合最高だ。

氷見産の鰤だからどれを選らんでも悪くないけどな、ワハハー」と豪快に笑った。

「所で何に使うのだい。刺身、照り焼き、それとも大根と煮て鰤大根?桃山亭さんなら先ずは包丁式でこの鰤を、お客様に見せて、から料理しないと勿体ないな。

お客様も丸のままの鰤など見た事が無いだろうから、ワハハー」と又笑った。

包丁式の切汰図の中に鰤があったかな?帰ったら切汰図を確認して見てみょう。と鰤を軽トラに積み込み早々と桃山亭へ向かった。

「親方、仕入れから帰りました」と親方に声を掛けると、椅子に座って新聞を読んでいた親方がメガネを外して調理場に入って来た、

「おう、ご苦労良い鰤あったか?」と発泡スチロールの脇の重さの書かれている数字を見た。「おお、でかいな」

「今日は、鰤三匹仕入れてきました」

「そうかどれ、おっ、氷見の鰤だな重さも大きさも申し分ない」

親方は、鰤のエラを開き、エラの色を見ている。エラの色が鮮明な赤であるほど新鮮なのだ。

「親方、この鰤を包丁式で切ってお客様にお見せしても良いですか?」

「ああ素晴らしい鰤だ、包丁式を見せても良いな、派手な切り方が良いな、明政!鰤の切汰図を持って来い」と、鰤の包丁式に賛成の様である。

切汰図とは、鳥や魚の包丁式の切り方を記録した絵の事である。

鯉、鯛、鱸、真名鰹、鮒の五魚と鶴、雉、鵠の三鳥が基本となるが流派によっては、海老、蟹、鰹、鰤、鮟鱇、河豚など数多く有る。

鯉の切汰だけでも三十六数種の切り方があるので全ての鳥、魚の切汰を数えると数百種類となる。

「親方、切汰図の中に上杉流ってありますけど?」

「上杉流?越後だな」切汰図をじっと見た親方は、

「あーこれは上杉謙信の武将の村上義清が行っていた庖丁式の切汰図だ。

上杉家の料理番だが料理だけでなく、作戦伝達庖丁式も行う武将だ、謙信からの秘事の作戦を義清が、包丁式によって家臣の武将達へ伝えるのだ、この包丁式の作法は、上杉流独特で他の流派には無い」

上杉謙信のもとの名前は、長尾景虎と言う、越後の龍、軍神とも言われた戦国時代最強の武将である。名前を長尾景虎、上杉政虎、輝虎、と変え晩年に上杉不職庵謙信と名乗り北陸を、支配したのである。

「斐の武田信玄と戦った川中島の戦いがあるよね、どっちが勝つたのだっけ?」

「勝敗に関しては、人によって色々な見方があるので、どちらとも言えないが、上杉軍は強く鉄の壁と言われた。

毘沙門天から取った、毘の旗を見ただけで敵の兵士達は震えあがったそうだ」

「この切汰図の中に謙信が強かった秘密があるかも知れない俺、鰤を切って見ます」

「それなら仕事終わってから板場の皆にも見せてあげなさい。切った身は鰤大根にするから一口大に切っておいてくれ」

その夜、俺は板場の皆を集めて鰤の包丁式を始めた。

の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、の鰤、横の鰤と数種類の中から簡単そうな切り方を選び切汰図を見ながら身を細かく切り並べた。

「なにを表しているかな?誰か親方を呼んで来てくれ」

「はい、只今」と、焼場の柴田君が親方を呼びに行った。

しばらくして親方が座敷に入ってきた。

「親方、忙しいところすみません。これ、何かの形を表しているのですか?」

親方は何かを食べていたのか口をもぐもぐ、させながら俎板の上の切り分けられた鰤をじっと見ていた、おもむろに俎板の上を指差しゴクリと、今食べて物を飲みこむと

「こ、これは、魚鱗の陣だ!」と言った。

「戦の時の陣形だ、明政の切った形は、魚鱗の陣を表した物だ」と口をとがらた。

「これ戦の時の形なのですか?」

「ああ、明政切汰図を見せなさい」親方は、

切汰図へ目を移すと

「ま、間違いない戦の陣形を表した上杉流秘伝の形だ、有力武将達に見せ作戦を実行させたのだ。

明政!でかしたぞ、この陣形を絵や切汰図で見た事はあったが・・・」親方は俎板を指差し

「鰤の頭が本陣で、口の先が敵いる方向を表している、小さい切身の上に、より小さい切身が乗っているのが騎馬隊、細く少し長い切身は槍隊だ、普通の切身は歩兵隊だ、そして本陣を表した頭の奥に置かれた子守り之鰭これが上杉謙信を表している。

骨を細かく切り並べてあるが、これは敵の部隊を表していて尾が、敵の大将だ。

こうやって並べて見ると、リアルだ実際に切って見ないと切汰図を見ただけでは、わからん」と、腕を組んだ。

その時、谷口君が口を開いた、

「親方質問しても良いですか」

板場の皆はどんな事を質問するのか谷口君に注目した。

「さっき食べていたのは何ですか?」

「カステラだ」と親方は、腕を組んだまま俎板の上の鰤を見つめながら答えた。

皆は「ワー」と声を出し一斉にひっくり返った。

作戦伝達の包丁式か、実際に見てみたい、戦の始まりは、食い物の取り合いと聞いた事がある、食い物と戦は、切っても切れない関係なのだろうか、バックタイムペーパーで見て来ようと思った。

部屋に戻り「夏ちゃん俺、タイムトラベルして村上義清の行う、上杉流の庖丁式を見ようと思うのだけど?」

「あら!タイムトラベル、行きたい所は危なくないの?」

「文献できちんと年代と乗り移る人物名を調べたから」

「誰に乗り移るの?」

「上杉謙信」と俺は、元気に答えた。

「えー危ないでしょ!戦国時代の越後の虎よ!そんな人に乗り移るの?」

「大丈夫だよ、今回のタイムトラベルの目的は、謙信の部下の村上義清が行う包丁式を見るだけだから危なくないよ、それと上杉謙信は越後の虎じゃなくて越後の龍だよ」

「明政さん!上杉謙信は、名前を変える時景虎、政虎、輝虎といつも虎の字を使っていたから越後の虎とも呼ばれたの、だから謙信の事を越後の虎と言っても、龍と言ってもどちらも正解なのよ。

武田信玄と川中島で五回戦っているけど、四回目の川中島の戦いが龍虎の戦いで一番有名ね、村上義清は北信濃の大名だったのだけど、武田信玄に追われて越後の上杉謙信を頼って謙信の傘下になった、川中島の戦いは、村上義清の北信濃の奪還が目的と言う説もあるわ」

「夏ちゃんは歴史も詳しいんだね。俺、上杉謙信に乗り移って戦を見てくよ」と、名前、年代、地名を入力してバックタイムペーパーの実行ボタンを押した。

越後の国、山の雪はとけ春が訪れようとしていた。ここは、越後春日山城である。

「信玄奴!」上杉謙信は、苦虫を潰したような顔をしている。

永縁三年(一五六〇)俺は、上杉謙信に乗り移った。

「酒を!酒をつげ」と謙信(俺)は大声で言った。

「はっ、ただ今」武将で、料理番でもある村上義清は、大徳利から酒を注いだ。

謙信(俺)は、で酒をあおっている。

馬上盃は、大きな盃の形をしているが、こう台が棒のようになっていて、膳の上に置くことが出来ない、転がってしまう。

馬の上で酒を飲む時に使う盃なので、置く必要はなく、手で持ったままで良いのだ。

つまり、注がれた酒は、全部飲み干す。

「親方様、そんなに飲まれては、身体に毒でございます。雪はもうほとんどありませぬ、いつでも出陣できます」と村上義清が否めるが謙信(俺)は教卓をはじき飛ばして

「信玄、今度会ったときがこの世の別れと思え、この謙信が成仏させてやるゆえ、首を洗って待っておれ」と、目を大きく見開いた。「義清、明日の軍議の庖丁式は、分かっておるな」

謙信に乗り移った俺は、義清を見た。

同時に、謙信の頭の中の記憶を探った。

越後の内乱を押さえ北陸に、もう敵はい無い関東もすべて我の配下だが、天下に号令をかけるには、まず目の上の邪魔者をつぶさねばならない。

これまで七十あまりの戦で勝利して来たが、武田だけは取り逃がしておる、三度、川中島で対戦しているが、明らかな勝負は決していない。

次は四度目となるがこれをしくじればもう天下を狙う事はかなわぬ。と、頭の中は武田を潰す事でいっぱいである、次の戦略も出来上がっており、村上義清に伝えてある。

次の日

春日山城の座敷に上杉政虎、直江実綱、柿崎景家、甘柏景持、中条藤資、色部勝長、高橋政頼が集まった。

笛の音が響く中、村上義清が裃にて現れ、上杉流の鰤の庖丁式が始まった。

懸り、水撫と進み、作戦伝達の鰤の包丁式切汰が始まる。

鰤の頭が切り落とされ、水口をこちらに向け、宴酔に置かれた。武将達は、まな板に釘付けだ、なぜなら謙信の作戦が村上義清に伝えられこの切汰に表現さるからだ。

鰤の身は細く細かく切られ、頭の水口に向かって丸く置かれた。

「こ、これは、車掛かりの陣」と、直江実綱が言った。

「実綱、声に出すな」と柿崎景家誰が否めた。

密令の作戦や陣形が武将達以外の者に漏れてはならないので有る。

厳重な警備の中の軍議であるが、武田の間者(すっぱ)が忍びこんでいるかもしれない。

「うー」武将達は、声に出さないで唸る者、黙って下をむく者、腕を組んで上をむく者と様々で有る。

何故なら車懸かりの陣は、下手をすれば全滅しかねないのだ。

どの武将もその事を良く知っている、そして車懸かりの陣を使うと言う謙信の意気込みも感じていた。

車懸りの陣は、一つの部隊を数百人ずつに分け、円を作る様に、数百人が一体となり回りながら敵と戦う、上杉軍独特の戦法なのだが、一人一人は大変な労力が必要になる。

敵と戦った後は、勝負にかかわらず円に戻り、引くのである。そして、円を回り、また敵と戦う、これを繰り返すのである。

つまり、戦った後は、ずっと走りっぱなしの過酷な戦法なのである。

円を大きくしてしまっては、兵は疲れてしまい、小さくては、通常の突撃と同じになってしまう、ただし敵にとっては、これほど恐ろしい戦法はない。

今の敵を防いでも新たな敵が次々とぶつかってくるからだ。

この恐ろしい戦法は、村上義清の行う上杉流庖丁式で伝えられた。

謙信は、今回の出陣で決着をつけるという覚悟なのである。

しばらく沈黙が続いた後に、「親方様、賛同いたしかねます」「味方の損害が・・」と、武将たちが口々に言った。

兼信(俺)は、馬上盃の酒をまた一口で飲み干し立ち上がり

「わしが、車掛かりの先陣に立ち、武田を全滅させる。異論は許さぬ。作戦終了後は、善光寺に全軍引く」と、言うと、兼信の決意を理解したのか、謙信の戦略は絶対間違いないのか、あっさりと「了解いたしました」と、武将たちは、礼をした。

俺は、今回のタイムトラベルの目的村上義清の行う鰤の包丁式を見る事が出来た、しかしこれから起こる川中島四度目の戦いを見たくなった。

一度現代に帰りこの川中島の戦いが

どの様なものか記録を歴史書で確認しようと、謙信の腕をまくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

「あら、随分早いのね」と白い顔が目の前に有った、思わず「わあー」と声を上げて飛び起きた、それは顔にパックをした夏子だった。「夏ちゃん!」俺は、ビックリして夏子の顔を確かめた。

「あら、ごめんなさい、どうだった上杉謙信に乗り移って村上義清の包丁式見られた?」と夏子は、白い顔のまま聞いてきた。

「ああ、村上義清の鰤の包丁式の技、素晴らしかった、でも目的は、包丁の技より切った後の身の置き方の方が重要で、謙信の作戦は、上手く伝わったよ」

「フーン」と夏子は、パック中の口をとがらせた。

歴史書を見ると、永縁四年(一五六一)武田軍、二万、上杉軍、一万三千、は、川中島で対戦した。

に、一万三千の軍を引いて、登った上杉軍は、二日経っても下りてこない。

業をにやした。武田軍は、兵を二手に分け、戦法を取る。啄木鳥が木の裏側をつつくと驚いた虫が表の穴から出て来るそれを、食べるという事から、啄木鳥戦法と名付けられた。

武田軍の山本、高坂、馬場の率いる一万二千の部隊が妻女山に向い、山から追い出す作戦だ。しかし、それを未然に察知した上杉軍一万三千は、ひそかに山を下りてしまう。

川中島八幡原に、八千での陣を敷いた武田軍に対し、妻女山から下りてきた一万三千の上杉軍は、作戦通りの車掛かりの陣で、武田軍に襲い掛かる。

武田軍八千は、世にも恐ろしい車掛かりの陣をまともに受け、全滅と思われた時、やっと妻女山から下りてきた一万二千の武田軍が、後方から援護に入った。

信玄は、九死に一生を得た。

武田軍が山から下りた事を知った上杉軍は、予定通り、善光寺へと引いたのである。

これを見ると、上杉軍は、すべての作戦が予定通り成功したと言える。

それに対して、武田軍は、啄木鳥戦法の失敗により、山本勘助が討ち死にし、さんざんたるものとなったが、善光寺に引き上げる上杉軍を逃げたとみなし、武田軍は勝利したとを上げた。

どちらが勝ったかは、人によって見方は違う。

死者は、武田軍、四千、上杉軍、三千、となり、両者とも、有能な武将を含め、大きな損失を負った。

俺は、作戦通りに全て進んだ上杉謙信の勝利と見るが武田側はどう見ていたのだろう?

「ははん、直ぐに又タイムトラベルする気ね」と後で夏子の声がした。

振り向くとさっきと同じく白い顔の夏子が言っている。

「料理や包丁式と関係ないけど四回目の川中島の戦いが見たくて、今から武田信玄に乗り移って、みょうと思う」

「やっぱり!そうなるだろうと思った、でも川中島の戦闘中は駄目よ、四回目の川中島戦が終わってからにしなさい、その方が安全だし上手く行けば武田流の包丁式も確認出来かも知れないから」

「武田流の包丁式か・・・」と、納得した俺は、バックタイムペーパーを永禄四年(一五六一)躑躅ヶ崎館、武田信玄と打ち込んで実行ボタンを押した。

ドンドンドン 太鼓が鳴り、皆酒を飲み、中には踊りだす者もいる。

では宴が盛り上がり、戦勝祝最高潮である。

武田信玄に乗り移った俺は信玄の記憶を確認した。

四回目の川中島戦いは、啄木鳥戦法を実行した後、残った八千の兵で鶴翼の陣をしいた。息を、凝らして妻女山から啄木鳥軍に追われ逃げ下りて来る上杉軍を待っていた。

川中島は闇夜で、一寸先も見えない、目をさらの様にして前方を見る、半時もすると少し明るくなって来た。しかし靄が深くやはり何も見えない。

小さな地響きの音が聞こえる様な気がする、気のせいだと自分に言った。

上杉軍は、啄木鳥戦法の武田軍が山を登り攻めて来るとは思わないだろう。

謙信奴!これで最後だ、山を下りた上杉軍は、鶴翼陣にて包み込み皆殺しだ。

そんな想像していると虫の鳴き声がピタリと止まった。

脇には武田軍二十四将達、十一名が控えている。

「虫の音が止まった・な・何か変だ、気持ちが落ち着きません」と武田二十四将の内の真田弾正忠幸綱が言った。

すると、「実は、私も先ほどから嫌な予感がしてなりませぬ」と飯富兵部少輔虎昌も言い出した。

そこへ「大変でございます」と、板垣信方が飛び込んできた。

「何事じゃ信方あわてるな」と信玄が板垣信方をいなめた。

「大変でございます。謙信、上杉軍が現れました」板垣信方が言うと、そこにいた武将達は一斉に立ち上がった。

今まで黙っていた多田淡路守満頼が、「そんなはずは無い、武田啄木鳥軍はもう上杉軍を山から追い出したのか?」と大声で叫んだ、「いえ百足衆によると武田啄木鳥軍は、まだ山を登っており上杉軍とは、遭遇しておりません」と板垣信方が言うと。

武将達皆は上杉軍を確認しょうと前方にかけ寄った。

しかし霧が深く上杉軍を確認出来ない、目を見開いて確認しょうとしていた小幡豊後守昌盛が、「上杉軍は何処だ」と叫んだ。

「前方半里ほど前に布陣しております」と信方が叫んだ。

前方を見る、明るいが靄で何も見え無い。

その時風が吹き霧が晴れてきた、前方を見ていた武将達の目の前に、毘の一文字の旗が数百枚風に煽られ翻っているのがはっきりと見えた。

「な!なんだこれは」と、言うと同時に秋山虎繫はひっくり返った。

他の武将達は、踏みとどまってはいるが腰が抜けている。

百足衆の報告が入る。

「申し上げます上杉軍は隊を、数百名ずつに分けて大きな円を作っています。

上杉の部隊は攻めては引き、攻めては引き、を繰り返し、こちらに攻めて来る様子は御座いません」と、百足衆が言うと、

「馬鹿者!あれが、世にも恐ろしい車懸りの陣だ!」と信玄が叫んだ。

上杉一万二千の車懸かり陣に対し我が軍は八千の鶴翼の陣、駄目だ、到底防ぎきれるものではない。

わしもここまでか死を覚悟せねば。

それからの戦闘は凄まじかった武田軍の鶴翼の陣は、あっという間に飲みこまれ武田軍は総崩れとなった、しかし上杉軍は手をゆるめない、もはやこれまでかと思われた時、上杉軍車懸かりの陣から白頭巾をかぶった一人の若侍が馬に乗り武田軍本陣へ一直線に突進して来た。

その若侍は、馬の上で刀を抜くと、

「我、上杉謙信なり、信玄覚悟」と叫びながら信玄に襲い掛かって来た、軍配で振り下ろした刀を受けた。

しかし若侍は二度三度と刀を振り下ろした。その気迫はすさまじく、軍配で受けてはいるが限界と思われた時、近くにいた味方の兵が、若侍の乗っている馬の尻を槍で突き刺した、「ヒヒン」と驚いた馬は前足を上げ若侍は馬から落ちそうになりながらも体制を立て直すと、上杉軍の方へと引き上げていった。

わずか数分の出来事だが信玄は肝を冷やした。

「今のハ、誰じゃ、上杉謙信と言っていたが、まさか」と青ざめた顔で言った。

「親方様!後ろへお引き下さい」と脇で誰かが叫んだ側近の武将達は、チリチリになっていて誰が言ったかわからない。

その時「啄木鳥軍が来た!啄木鳥軍が戻ったぞ」と誰かが叫んだ。

山本勘助率いる部隊を先頭に、武田軍一三〇〇〇がこちらに一直線に進んで来るのが見えた。

「今しばらくもちこたえろ」信玄の叫びとも言える命令がとんだ、「もちこたえれば我らの勝利だ!」と信玄は泣きながら部下達に叫んだ。

上杉軍は一三〇〇〇の武田軍に後方より追撃され車懸かりの陣が崩れはじめた、それを見た謙信は、「ここまでじゃ、全軍善光寺まで進め」と言うと車懸かりの陣は速やかに解かれ武田軍本陣を突っ切り善光寺方面に向かった。

悠々と突っ切る上杉軍の先頭に、白頭巾をかぶった先程の若侍がいた。

真っ直ぐ前を向き上杉全軍の先頭を行く、その乗る馬の尻からは血が流れていた。

奴が上杉謙信かと思った瞬間、信玄は、足が震え、尿を漏らし、とうのく意識の中で、完全にやられた、風林火山の武田軍は完敗だと叫びながら気を失った。

俺がそんな信玄の記憶を辿っていると、

「親方様、どうぞ」と、声がした高坂昌信が酒をすすめたのだ。

信玄(俺)は盃を手に取ると立ち上がり、

「皆の者聞いてくれ今までに、三度、上杉とは戦ってきたが、四度目の今回は上杉謙信を完全に叩きのめした、皆の者良くやってくれた礼を申す」と、上機嫌で言って見せたが、心の中は穏やかではない。

四千もの兵と軍師、山本勘助を亡くしてしまった事は大きな損失だ、もう謙信とは戦いたくない、それが本音だ。

戦は喰うか食われるかだ、つい最近まで敵の大将の首を酒の肴にして酒を飲んでいたわしも、危うく謙信の酒の肴になるところだった、そんな事を思いながら信玄(俺)は、箸を取った。

目の前に出された膳料理は、馬のたて髪の肉の塩漬、鯉甘露煮、辛子酢味噌を掛かけた鯉の洗い、どんぐりを粉にして作った太麵を味噌味の汁で煮たほうとう煮、南瓜、隠元豆、大根、人参、青菜の煮物、鹿の丸焼きである。

古来より伝わる甲斐の郷土料理である。

ドンドンドンと諏訪太鼓の音が大きくなった。武田流包丁式がはじまる躑躅ケ崎館の料理頭は武将の馬場晴信で有る。

会場中央に据えられたまな板の上には、武田菱の旗が置かれている。

若侍が、四人出てきた、背中には風林火山の旗を差している。俎板を覆う様にかけられた武田菱の旗の端を四人が持ち、下って行った。

間をおいて、大三宝の上に、鯉を乗せた若侍が、ギシギシと甲冑の音を響かせ、ドカドカと歩いて来た、立ったまま片手で鯉をつかむと、ドンと俎板に叩きつけ、大三宝を俎板の脇へ投げ捨てた、おもむろに腰の刀を抜き「えい!いや!」と武田流居合の型をした。

その姿は鯉を、食べ物として清めていると言うよりも、敵を威嚇している様に見える。

居合の型を三度繰り返すと、俎板の前でくるりと回り、現れた時と同じ様に甲冑の音をギシギシさせながらドカドカと音をたて去っていった。

場内からは、「うおー、やあー、」と声が上がり盛り上がっている。

諏訪太鼓の音が一層大きく打ち鳴らされると、

赤兜に赤甲冑を着た馬場晴信が現れた、左手には羽の付いた矢を二本持っている、ドカドカとまな板の前まで来ると、立ったまま腰の刀を抜き、左手の矢と刀で十字を組んだ

「えぃえぃおー」と、勝鬨を上げた。それを見た全員が一斉に「えぃえぃおー」と勝鬨を上げ俎板の鯉に向かい「謙信覚悟!」と叫ぶと、矢を二本付き刺し、振り上げた刀で「エイ」っと、背中を二つに切った。」

「えぃえぃおー」と勝鬨を上げると、見ていた全員が一斉に「えぃえぃおー」と、勝鬨を上げる。

上杉謙信を一振りで切り捨てたという意味である。

「えぃえぃおー」、「えぃえぃおー」と集まった武将達は、全員で勝鬨を上げ、酒を飲んだ。

馬場晴信は料理が出来る訳ではない実際に料理を作っているのは、武田家の料理奉公衆達で有る。

奉公取りまとめ役として武将の馬場晴信が料理頭の役を命ぜられているのだ。

包丁式の終わった場内は飲めや歌えと盛り上がっている。

その宴を見ながら武田信玄は席を立ち縁側にでた、満月の光が躑躅ケ崎館を明るく照らしている。

信玄は一人静かに謙信の事を思っていた。

俺は、信玄の腕に張ってあるバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

目を開け時計を見ると午前五時、俺の想像していた包丁式とは、違っていた、天皇が食べる物と一般庶民が食べる物を区別する為の清めの儀式として作られたはずだが、武田流の包丁式は、敵を威嚇、戦気を盛り上げる為の余興の様に思えた。

一方上杉流では戦略、作戦を秘密に伝える為で、食や料理とは関係なく包丁式の儀式は色々な使われ方をしているのだ。

酒や食事の席の楽しい場合もあれば、苦しい、悲しい真剣な場合も有る、昔の包丁式や料理をもっと見たくなった。

と俺は、一人事を言い布団を被った。


   六、本能寺の真実

「上杉君、ありがとう。本当感謝している」と上杉君に礼を言った。

「明政君が喜んでくれれば僕も本望さ」と上杉君は嬉しそうだ。

バックタイムペーパーで川中島の戦いの事実を知った俺は上杉君への報告の為、研究室に来ていた。

二人は応接の椅子に座り向かい合って話を、している。

「明政君は料理人だから、昔の料理を食べればどんな調理法か、どんな味付けか、解るから羨ましいよ。

単なる日本料理好きの僕と意味が違うね、昔の料理は、野菜でも、魚でも、素材の味が濃い、そして塩味が強いね、現代の方が薄い味だと思った。

そう言えば大名の宴の料理を食べに行くと庖丁式見るけど、昔は宴の前に普通にやっていたの?」

「うん、位の高い人の宴の席では、必ず、庖丁式はやっていた。お客様をもてなす日本料理の作法だから。おもてなしの作法としてその家の主人自ら包丁家に入門して庖丁式を習い、来客の前で魚を捌いて接待した、と言う記録も残っている」

「えー主人自ら包丁式?料理は?」

「料理までは出来ないから包丁式で切った魚を厨房に下げて、お抱えの料理人達が、料理にしてお客様に提供したんだ」

「お抱えの料理人が居るくらいじゃ大名家などの位の高い人達だね」

「うん一般庶民では、無理かな」

「確かに包丁式を見たのは大名家ばかりだったな・・・

大名の料理ばかり食べてたから、一般庶民はどんな物食べていたのか、江戸の町を散策していたら、寿司の屋台とか蕎麦の屋台とかが沢山あって、一般庶民でもけっこういいもの食べていたと思う。

寿司などは、酢が強くておにぎり見たいだ、三個も食べたらお腹いっぱい。

江戸時代の飯屋は、お酒もあって現代で言うと居酒屋かな、ご飯と、とろろ芋と、焼いためざし三匹、沢庵二切れに菜っ葉の味噌汁と質素だ」

「旦那さんいい反物着ているね、この辺じゃ見ない顔だけど吉良屋敷の人かい?」と相席のおじさんが話しかけてきた。

「上杉家の者です」と答えると、

「ひえー、上杉江戸屋敷の人けー」と額に手を当てて驚いた。

俺は、おじさんが驚いたリアクションに驚いた。

「はい、上杉進治憲と申します」と僕が名乗るとさっきより、甲高い奇声で

「なんと!上杉家の当主様けーこいつは参った、道理でいい着物着ていると思った。

こんな所で飯なんざ食って、御新造様(奥さん)おらんのけ?」と言うから、

「はい、一人身です。三年江戸詰めです」と答えた。

おじさんは酒、僕は、飯を食いながら会話をしていると。

突然おじさんが立ち上がり後ろを振り返ると「おやじ何時でえ!」と店の主人に時間を聞いた。

「暮れ六つで」と店の主人が答えると。

「いけねーおやじ勘定」と、言ってごそごそと懐を探して

「アイヤーまいったなー銭入れ(財布)忘れちまったー」と言うと僕を見て

「旦那さん、あっしやー東町の仙蔵てんだ、あいにく銭入れ忘れちまったんで、後で上杉の屋敷まで届けるけ、勘定頼むよ」と、言うと返事も聞かないうちに、

「おやじ!そう言う、こった。ご馳走さん」と急ぎ足で店を出て行った。

「僕は、おじさんの分も支払って店を出たけど江戸の人達はせっかちであわてんぼうだ」と上杉君は、楽しそうに言った。

「上杉君、喧嘩とかに巻き込まれたのでは無いから良かったけど、所で誰に乗り移ったの?」と俺は上杉君を見た。

「先祖の上杉治憲だよ」と答えた。

俺は飲んでいたコーヒーを思わず吹き出した。

「う、上杉治憲、それ上杉鷹山の若い時の名前だよ、越後の龍、上杉謙信の末裔だよ、上杉君の先祖は上杉謙信?」と思わず叫んでしまった。

「そうなの、僕の先祖は確かに越後の出身だけど。

長尾景虎と言った、その後上杉と言う名前に変えたらしいけど、明政君知っているの?」

「ウーン」と俺は声にならない声をだした、上杉君は、歴史には詳しく無いのだ。

「越後の上杉謙信とその末裔の上杉鷹山も知っているよ!」

上杉謙信と武田信玄の川中島合戦のタイムトラベルの事を報告しょうと思って来たが、上杉謙信の末裔とは、驚いた。

「そのおじさん、上杉君が立て替えたお金返しに来てくれたの?」と話題を変えた。

「次の日、戦国時代へタイムトラベルして、しまったからわかんないけど、たぶん返しに来てくれたと思うよ」と上杉君はあっけらかんとしている。

武田信玄と上杉謙信の話をすると長くなりそうなので上杉君の話を先に聞く事にした。

「なんでまた戦国時代へ」と聞くと

「うん、江戸時代の庶民の食べ物と、戦国時代の庶民の食べ物の違いを見たくてさ、信長の政策、楽市楽座で経済がうるおったと学校で習ったのを思い出して、庶民もさぞかし美味しい物を食べていただろうと思って、戦国時代の京都、千利休へタイムトラベルした。既に利休は、豪商で茶人、大名との付き合いもしていたから庶民とは言えないが、変装して庶民の食べ物を食べに行った。

町中は、楽市楽座で人は沢山いるけど、江戸時代の様に屋台などは無い、飯屋に入ると飯、味噌汁、漬物だけ、飯は、玄米に芋と青菜と豆が、入っていてぱさぱさしていて、釜で焚いたというより蒸した様な感じ、味噌汁で流し込まないと喉につかえてしまう。

お腹を満たすだけの貧疎な食べ物だ。

数百年の違いでこんなに食べ物や料理が違うなんて驚いたよ。

そこで何か美味い物はないかと、利休の頭の中を、たどったら安土城の信長の祝いに、招かれて居る事を知って、安土城へ行った」

「上杉君随分大胆だね」

「利休に乗り移っているから平気さ!安土城の料理は凄く豪華だった素材、味付け、盛付は現代の会席料理以上だ、偉い人の食べ物と庶民の食べ物とは雲泥の差があるんだ。

煮物の味が桃山亭で食べた味と同じだった、あの煮物の作り方難しの?」と上杉君は興味深々だ。

「料理は、本膳料理だね、会席料理は現代になって出来た料理だから、調理方法や味付けは、変わらないけど、料理の出し方が違う、会席料理は、先付け一献、前菜一献、吸い物一献、刺身一献、と全部で八から九献が順番に出て来る。

本膳料理はお膳に数種類の料理を乗せて出すんだ一汁五菜が一の膳、一汁三菜が二の膳、一汁二菜が三の膳、台の物が与の膳、とね。

信長の宴はこの膳が七膳出て料理の品数を数えると十九献も有ったというから驚きだ。

桃山亭の煮物と同じと言ったのはきっと、かしわの味噌煮だ、戦国時代は鶴の肉で作っていたけど、今は鶏肉で作るんだ。

作り方は、簡単で、味噌汁より少し濃い目の汁に葛粉をまぶした鳥肉を落とす、鳥肉に火が通れば出来上がり。

葛のつるとした食感と肉汁がジワとでて美味い、そう言えば、それなんの肉かな?戦国時代のいつ頃になるのか詳しく教えて」

上杉君は上を向き腕組をして思い出す様に

「たしか、徳川家康を接待していた、年代はえーと一五五十年頃だと思う、宴中に突然信長が、暴れだして部下の人を殴って、騒がしかった、こちらにとばっちりは来なかったから良かったけど」

上杉君の話しを聞いている中で俺はある事件を思い出していた。

「ひょっとして天正十年(一五八二)の安土城で行われた戦勝祝いの宴の事かな?その時鶴の庖丁式やっていなかった?」と、俺が聞くと上杉君は、顎に手を当て考えながら、「庖丁式?あ、やっていたでも、鶴じゃないと思う。

首が長くて、アヒル、いや白鳥だな。

庖丁式が終わって白鳥が料理されて出てきた、から」

間違いない明智光秀が謀反を起こす原因となった宴だ。白鳥?確か鶴の包丁式だったはずだが?

「上杉君ありがとう。俺、次のタイムトラベル先が決まった」

「明政君、そこにタイムトラベルするなら、徳川家康が良いと思うよ。

信長に殴られている人と、友達だったみたいで、殴られていた人を助けて信長に何か言っていたから」と上杉君はアドバイスをくれた。

俺はコーヒーを一気に飲み干すと

「上杉君ありがとう。徳川家康に乗り移って見る、コーヒーご馳走様でした」と、研究室を出て軽トラに乗り込みアクセルをふかした。家に帰った俺は早速に、安土城で行われた宴を調べた、織田信長は長年の宿敵だった武田家を長篠の戦の戦いで打ち破り。

その戦勝祝いとして同盟を結んでいた徳川家康を招き、宴を模様したとある。

長篠の戦いとは、天正三年(一五七三)三河の設楽原にて武田信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼軍一万五千と織田信長、徳川家康の連合軍三万八千が激突した戦の事で、織田軍の三千丁の火縄銃の三段打ち、によりわずか二時間余りで武田騎馬隊を、含めた一万二千名を殺して織田、徳川連合軍が大勝利をおさめた戦いである。

この戦いの敗退により武田家は後に滅亡した。信長はこの長篠の戦に勝った祝いの宴を安土城にて開いたので有る。

祝い料理と包丁式を見ようと、俺は上杉君の助言の通り天正十年(一五八二)六月の徳川家康に乗り移った。

石川数正、井伊直政、酒井忠次、本多平八郎、榊原康政、達と馬に揺られながら安土の城下町へ入ると前方に巨大な安土城が見えてきた。近づくに連れ見上げる様になり安土城の巨大さに圧倒される。

石作りの坂道を上がって行くと右手に琵琶湖が見え城とのコントラストが、美しい、藤の花や紫陽花が咲みだれ戦国の世とは思えない、誰でも城を見学する事が出来る平和な風景で有る。

馬からおりて四つ足門をくぐると、「長旅お疲れ様でございました」と、明智光秀がお辞儀をしたまま迎えてくれた。

「これは明智殿、安土城からの琵琶湖の眺め、素晴らしいですな、旅の疲れもいっぺんに吹き飛びます」と徳川家康(俺)は晴ればれとした気持ちで言った。

「ありがとうございます。この光秀、徳川殿の接待役を命ぜられておりますので何なりと、お申し付けください」と、お辞儀をしながら言った。

「明智殿は、武将で有りながら、進士流庖丁家の本家とお聞きいたしました。本日の宴の料理と共に宮中由来の式庖丁も見られると聞いて楽しみにしております」と、家康(俺)も深々とお辞儀をした。

「それは、ありがたき幸せこの光秀そその無い様に心よりご接待申し上げます、まずは、湯にでもつかりごゆっくりとおくつろぎ下さいませ。さ、こちらへ」右手を開き城内へ案内してくれた。

家康(俺)と一同は「うおー」と声を上げた。そこは、黒漆で仕上げられた広間で中央は三階までの吹き抜けになっている、戦国の世にこんな建築技術があったのか、と驚かされる。来賓用の間には、鳥をはじめ龍や虎などの絵が壁、襖、天井に描かれている。

昭和の人間で本物の安土城を見たのは、俺だけ、いや上杉君と俺だけだ。

しかし俺が家康に乗り移ったのは、信長の戦勝祝い料理と鶴の包丁式を見る為だと目的を確認した。

露天の岩風呂に素裸で首までつかり安土城を見上げる、話には聞いていたが天守閣の天守が八角形をしている壁は白い漆喰で塗られているが表に出ている柱は朱で塗られ、瓦は透明感のある青で、一枚一枚に金箔で織田木瓜の家紋が入っている、何という贅沢な造りだこの露天の岩風呂も、家康(俺)の浜松城や岡崎城では、部屋の中の蒸し風呂だ、この様に裸で入る不防備な風呂に入った事が無い。

家康(俺)の家臣達も戦の疲れを癒している、「岡崎の兵達も入れてやりたいな」と顔を湯でこすりながら言った。

「殿それは出来ません、我らでこそ殿と裸で湯に浸かる事など、最初で最後の事で御座います」と石川数正が家康(俺)を否めた。

戦国時代まだ現代の様に、裸で湯船に浸かると言う風呂はない、風呂は薄い着物を着て一人で入るもので、家臣達と一緒に入るなどと、いう事はない、特に兵となると尚更で有る。

日は傾き暮六つ半時、光秀の家来の案内で宴会場に入る、雅楽が流れ勝戦祝いの宴が始まろうとしていた。

床の間に設置された金屛風の前に膳が三つ置かれている、信長、家康(俺)、そしてもう一人武田家臣から織田に寝がえった、穴山梅雪の三名用の席で有る。

梅雪は右の座についている。俺は左の座にすわる。家康の家臣数十名と織田家の家臣数十名は皆、座に付いている。

「親方様御成」と声がかかると、信長が現れ中央の座に座った。

雅楽の音楽が止まった。

「進士流式包丁式」と声がかかると、再び雅楽が流れ出した、曲は越天楽の舞いである。

側に据えられた幕が、落とされると、俎板が現れた。

一人の若侍が、小刃を抜き、四方裁きで絹を清めると、取った絹を右手に抱え下がっていった。

次に、持ち出しの儀、庖丁、真魚箸、板紙が所定の位置に置かれた。

最後は、組付の儀、若侍が三宝の上に白鳥を乗せて現れた。

文献では鶴のはずだが、本当は白鳥だったのだ。

下座の端の方に千利休がいた、じっと、包丁式を見ている。

組付の儀が終わると光秀が現れた。

垂直に烏帽子、すり足で入って脇刺しを抜き俎板の右に置いた。

身繕いをして一礼をし、手で両足の膝を押さえ、膝行で俎板一寸前まで寄った。

右手、親指で、まな板中央を押さえ、右端四徳まで動かし俎板を開いた。

真魚箸、包丁に手をかけ、大きく両手を開き、頭の上で交合わせ、真魚箸、包丁を十文字に組み、胸の前に右手で持ち、左手で右の肩から二度、肘から一度真魚箸の柄まで撫で、真魚箸、包丁を清める。

真魚箸に、左指二本を入れ、真名箸、包丁を大きく左右に開いた。

真魚箸は、五行へ降り、包丁は四徳へ降りながら、その松葉先は、五行まで滑っていき、板紙の下へ入った。

真魚箸、包丁で板紙を三つに折り持ち上げ、白鳥の上を、の字を書くように三度回し清めた。水撫を三度行い、切汰に入った。

真名箸をくずし、素手にて白鳥の足を取り、筋を切る。

両羽を開き、左右と切り離し、上を向け、まな板中央へ置く。首のもとを切り、両羽の間に頭を上に向け置く。胴から、足を切り離し、羽の下に並べて置き、切った胴は五行へ置いた。

「あれ?」これは、祝の白鳥では無いと俺は家康の頭の中で思った。

光秀は、仕舞庖丁をし膝行で下がり、身繕いを解き一礼をした。

「ワー、お見事」前の席の男が手をたたき大声で騒いでいる。

「羽柴様、殿の御前でございます」騒いだ男の隣の男が戒めた。

「良いではないか、今日は、無礼講だ」と羽柴秀吉は、はしゃいでいる。

俺は、秀吉を無視して信長に言った「信長様、明智殿の庖丁式、大変ご立派でありました」

信長は「そうか」と真っ直ぐ前を見て不機嫌そうに言った。

包丁式が終わり宴に入ると、一の膳と酒が運ばれてきた。

一献目は、蛤の真砂和えである、蛤は酒で蒸し殻を剥き当たりを付けた昆布出し汁で軽く炊いてある、真砂は鯛の子で、炊く時に生姜汁が少々入っている。

二献目は、うるか和えで、鮎を三枚に卸し身を塩でしめた後、焼酎で洗って細切りにして、うるかで和える、煎った米を天に散らしてあるのでパリパリとしたアクセントが良い。

三献目は、山独活の芽の白和えだ、さっと茹でた独活を昆布ではさみ一日置く、豆腐は絞って水気を切り、馬の毛のこし器で三度漉して糖と塩で味付けをしてある。

何という仕事だ、手前と時間がかかるだろう。

この三品を式三献と言う、海の食材を使ったもの一献、山の食材を使った物一献、川の食材を使った物一献の計三献である。

家康(俺)は既に九杯の酒を飲んでいる。

四献目は、与献と言う、四は死をイメージして縁起が悪いからだ。二の膳上に今包丁式で切った白鳥の煮物が出てきた。

あれ?三の膳も出ない内に随分早いな、通常祝い料理の場合、式三献の後、大菜(前菜)、吸物、鰭刺しの身(刺身)後に煮物(羹)のはずだが、この時代では違うのか?

一口食べると上杉君が言っていた様に桃山亭かしわの味噌煮と同じ味だ、美味い。

白鳥は水上で生活をする渡り鳥、身は鶏より生臭い、しかし濃い味噌で煮ているので臭みを感じない。

三年以上経った熟成した味噌にかつお節と切り昆布を入れ弱火でほんのり焦げ目がつくくらい煎る、そこに熱い湯をたっぷり入れ漉す、糖で味付けをして火にかける、白鳥は足の肉より、胸の肉、の方が発達していて美味い、むね肉を一口位の薄切りにして酒で洗う水気をきり更科粉に小麦粉を混ぜた粉で打ち粉をして沸いた味噌の汁に落しこむ、肉は少々生が良い、火の通しすぎは禁物である、椀に盛ったら味噌の汁を少し張り、青み、蒜の擦った物を天に盛る。

「完璧だ!」と思わず言葉が漏れてしまった。

隣の信長を見ると、家康(俺)の声に反応したのか信長はこちらを見て言った。

「そうか家康殿も、包丁式の意と、この与献目は完璧と申されるか!」と信長は不機嫌な顔で言った。

「え、包丁式の意と?与献目?ああそうですね、ああ」と、しどろもどろだが答えた。包丁式と与献目に何か意味があるのか?信長の不機嫌に関係するのか?

しばらくして、光秀が直垂から狩衣に着替え俺と信長の所へ来た。

家康(俺)は、「明智殿、見事な祝い料理、包丁式、この家康感銘いたしました」と光秀の方に座り直しお辞儀をした。

すると後ろから「この、戯けが!」の声と共に箸と茶碗が光秀めがけて飛んできた。

後を振り向くと隣に座っていた信長が立ち上がっていた。

「光秀、なんじゃあの庖丁式は、お前たちの考え通りにはいかん」そう言いながらお膳を蹴とばし、つかつかと光秀の所まで出て来て光秀の髷をつかみ、殴る蹴るの暴行が始まった。

驚いた家康(俺)は「信長様、お待ちください」と信長を止めようと立ち上がり信長の後ろから腕を掴んだ。

腕を掴まれた信長は光秀を睨みながら

「家康殿、庖丁式と与献目の料理、見たであろう」

と振り返りもせず家康(俺)の腕を振り払い今度は、光秀の胸倉をつかみ、拳で殴っている。

これ以上信長を止める事は出来ない、光秀は逆らいもせず、ただ殴られている。

誰も止めない、誰か止める者はいないのかと秀吉を見ると知らぬ顔をしている。

仕方なしに家康(俺)はもう一度「信長様、おやめください。明智殿の庖丁式、立派でございました。祝い料理も、完璧きです何卒おやめくださいませ」と信長と光秀の間に割って入った。

信長の動きは止まり両手をさげ家康(俺)を見て静かに言った「そうか、庖丁式、与献目の白鳥の煮物(羹)どちらも理解したのか?」と聞いて来た。

「はい、この家康、明智殿の式庖丁、与献目大変感銘いたしました」と真剣な顔をして信長に言った。

すると信長は、家康(俺)の顔をしみじみと眺め本当に理解したのかと言う様な、不思議な表情を見せ「是非に及ばず」と言うと、くるりと回って宴の場を出て行ってしまった。

是非に及ばずとは、是は良い、非は悪い、及ばずとは、達して無い、つまり良くも悪くもない。(仕方ない)と言う意味だ。

「明智殿、大丈夫ですか?」と光秀に声をかけた。

光秀は、うずくまったまま「徳川殿、お恥ずかしい所をお見せいたしました。申し訳ございません」と言った、家康(俺)は、畳にうずくまる光秀の腕を取り、持ち上げ、立たせた。

すると後から「いつもの事ですよ」と声がした、見ると秀吉が、にゃにゃと薄笑いを浮かべて立っていた。

「羽柴殿、なぜお止になりませぬ」と大声で言った。

「いつもの事ですよ、この秀吉も皆の前で何度叩かれたか数えきれませぬ」と言うと、

立ち上がった光秀が「徳川殿、お気にせず、羽柴様の言う通り、いつもの事です」とよろけながら家康(俺)を見た。

「分かりました、光秀殿口から血が出ておりますが、大丈夫ですか?」と静かに言った。「所で羽柴殿、備中高松城、毛利輝元との戦に、出陣なさっておると聞いておりましたが何故ここにおられます?」と強い口調で言った。

「おー怖いですなぁーそんな顔をされても、まあ毛利ごときの攻めは、黒田官兵衛と竹中半兵衛だけで十分でござる、わしが出るまでもない訳で、ワッハハー」と馬鹿にした様に笑った。何ともいけ好かない男である。

歴史上では徳川家康、安土城接待の日は、羽柴秀吉は安土城におらず、備中毛利輝元と戦闘中で、毛利輝元の居城高松城を囲み水責めをしていたはずなので有る。

しかし一般に知られている歴史とは違う。「ほう黒田殿だけで毛利を、それで状況はいかがなのですか?」と聞くと、秀吉は勝ち誇った様な顔をして

「官兵衛から、毛利輝元強し、御見方の軍は危うい、よって羽柴秀吉様の援軍を要請しますと連絡がきておる。つまり、当軍の勝利は間違いないという事じゃ、わしを援軍として呼び寄せ、わしの手柄とするために!出来た男だ、ワッハハー、ワッハッハハー」と、秀吉は大声で笑いながら扇子で頭の後ろを叩きながら何処かへ行ってしました。

黒田官兵衛と竹中半兵衛は、羽柴秀吉の二大軍師で有る。特に黒田官兵衛は、戦略に優れ信長亡き後は秀吉よりも、先に天下を取るのではないかとまで言われていた。

官兵衛は、兵法家黒田家の嫡男で子供の頃から兵法戦略を叩きこまれ今は、秀吉の軍師まで登り詰めているのだ。

中国魏普南北朝時代の兵法を元に勝戦計六、敵戦計六、攻戦計六、混戦計六、併戦計六、敗戦計六、合計三六の計略が有る。

この兵法を取り入れたのが黒田三六計と言い黒田家の家訓なのである。

有名なのは敗戦計六つの中の最後の、黒田三六計逃げる事を最上の作となすで有る。

意味は、到底勝てない敵と出会った時は逃げてしまえということである。逃げるが勝ちだーなどと言う人もいるが、戦っていないのだから勝ってはいない。しかし負けてもいない。

つまり勝つ事が出来ない戦いなら逃げてしまえ、それが最高の作戦であるとの教えなのである。

秀吉は、黒田官兵衛の様な軍師がいることにより信長の信頼を得たので有って官兵衛無くして秀吉はあらず、なのである。

秀吉が何処かへ行ったのを確認した光秀が口の血をぬぐいながら言った。

「信長様より羽柴様には、備中毛利攻めの命が下り毛利攻略も決着が付きそうです。この光秀には、四国土佐の長宗我部攻めの出陣の命が出ました。先ほどの庖丁式で出陣の事、そして、与献目で信長様の危険を、お伝え申しました。信長様は理解いたしたと思います」と、真剣な表情で家康(俺)を見た。

光秀は、何を言いたいのだ?俺は家康の頭の中で考えた、庖丁式で何かを伝えた?何を?あの切汰は祝の白鳥ではない、帰陣の白鳥に似ていたけど・・・・

「あ!」思い出した、陰の出陣の白鳥だ、陰の出陣だとすると、陰は断るとか、やめる、つまり出陣を断るという意味だ。

光秀は、信長の土佐長宗我部攻めの出陣要請を、庖丁式を通して断ったのだ。

それを理解したから信長は怒り出した。

与献目の白鳥の煮物(羹)も出るのが早すぎる、早く出たという事は、余り時間が無い、と伝えたのだ。

何かが起きるのか?と考えていた時、光秀の後ろから、すうーと秀吉が現れた。

居なくなる時は扇子で頭を叩きどかどかと足音をさせて居なくなり、現れる時は、音も立てず現れる。

予測出来ない奴だと思った時、ピンと来た、こいつだ秀吉が悪巧みを考えていると直感した。

二人の会話が気になる様で音もたてずに現れた。

光秀は、秀吉が後にいる事に気が付いていない。

「あー、羽柴殿どちらへ行かれておりましたか?」と光秀が気付く様にわざと大声で言った。

光秀が振り向くと、慌てた様に秀吉は「は、憚りでござる、徳川殿、明智殿、何か秘密の相談事でもおありですか?宴も幕となりますぞ、何かお困りごとでもあればこの羽柴秀吉がお聞きいたしますぞ」と言ったかと思うと声に出さない笑みを浮かべた。

間違いないこいつは、何かを企んでいる。「いやいや、羽柴殿、ありがとうございます。何でもございません。この家康本日、少し疲れただけでございます」と笑顔で言った。

「そうですか徳川殿ご協力お願いしますぞ」と意味ありげな顔した。

「協力?なにをしたらよろしいのでしょうか」と聞くと、

「何も、しないで欲しい。それが協力です、少人数の来城ですから何も出来ないでしょうがワハハー」と笑ってみせた。

その顔を見ると背筋に悪寒が走る。

「解りました何か起きても、この家康何もいたしませぬ」

二人の会話を聞いていた光秀が口を手で押さえながら声をかけた。

「徳川殿、お部屋の方へご案内申し上げます」家康(俺)の袖を掴んで退席を促した。

二人が宴の場を後にするのを見た、秀吉は、「徳川殿、明智殿、協力お願いしますぞ!」と大声で言った。

二人は後を振り向かず宴場を出て今宵の寝室柳の間へ向かった。

廊下で、家康(俺)が口を開いた。

「明智殿、先ほどの白鳥の庖丁式、出陣をお断りしたと理解いたしました、そして与献目の白鳥の煮物(羹)で余り時間が無いと伝えたのですね」と思い切って言った。

光秀は、驚いた顔で顔で家康(俺)を見た。

「ほうー徳川殿は包丁式、料理の事、お詳しいのですね、さようでございます羽柴様謀反を起こします、恐らくここ数日内に」

「な、何と、羽柴殿が謀反!しかも数日の内!信長様は、知っておられるのですか?」

「勿論です前々から羽柴殿の謀反の計画は、信長様もご存知です、今日の包丁式で、四国長宗我部出陣をお断りしました。

今は出陣などしている場合では無いのです、そして与献目で謀反が起きるまでもう時間がない事をお伝えしました」と光秀は、世間話をしているかの様に静かに誰にも聞こえない様に言った。

二人の会話を秀吉の間者が監視しているかも知れないからだ。

家康(俺)も世間話をするかの様に笑顔を作り「信長様はご理解なさいましたかワッハッハー」とわざと大声で言った。

光秀も「ハハハー」と笑うと声を小さくして、「信長様は全て理解されました、秀吉が謀反を起したら何かの策をお考えかと思いますのでご安心ください、誰も包丁式と料理に重要な意味があるとは思っていません。信長様が皆のいる前で私を殴ったのは、いつもの気まぐれではなく光秀よくやった、とほめてくれたのです」と光秀は説明した。

「でも、信長様は明智殿を本気で殴っていました」

「それでなくては、駄目なのです、信長様は誰にも気付かれない様に配慮したのです。

羽柴様より四国長宗我部征伐は、いつ頃ご出陣するのか?と打診がありました。私は軍備が整い次第出陣しますと噓を言いました。

この光秀の出陣の間に謀反を起こす考えです。そして羽柴殿が謀反を起した場合徳川殿にも命の危険がございます。明日の大阪堺の見学は中止なさって下さい。既に伊賀、甲賀、と話を付けて有りますゆえ伊賀の山を越え白子より船で三河へお戻りください」

「明智殿は、どうなさるおつもりで?」

「信長様や徳川殿へ危険をお知らせした後、羽柴殿の謀反を待ちます、信長様は、ご自分の危険はご自分で対処なさると思いますが、万が一の場合この光秀がお助け致します。

そして決着が付きましたら、徳川殿の所へ身を寄せたいと思います何卒宜しくお願い致します」と光秀は、言った。

「了解致しました是非とも三河へお越しください、お待ちしております。ご検討をお祈り申し上げます」と言うと光秀の両手を握り、深くお辞儀をした。

柳の間に入り、本多平八郎を呼んだ。

「明日、大阪堺を見学せず、三河に戻る」と短く言った、平八郎は表情を変えず両手を膝の上に置き「はっ、何か不都合でも?」と言った。

「事情は説明出来ぬが、明智殿が手配してくれた伊賀を超え、白子海岸から船で三河へ帰る」と言うと、「船ですか、尾張を通った方が安全かと」と平八郎が何かを察したのか少し緊張気味に言った。

「いや、それは出来ん。何か大事が起こる伊賀の山を抜けて白子に行く。伊賀衆、甲賀衆共に明智殿が話を付けて居るが、かなり危険じゃ」

「かしこまりました。皆に伝えます」と平八郎は言うと一礼をして柳の間から出て行った。

平八郎が部屋から出たのを確認し布団に入り布団の中で、バックタイムペーパーの停止ボタンを押し現代に戻った。

包丁式と祝い料理を見に行ったのだが、どうやらこの後起こるであろう本能寺の変に巻き込まれてしまった様だ。

明智光秀が謀反を起こし織田信長を、本能寺で殺した歴史書とは、実際は違う様だ、二人は生きていたとしても不思議は無い。

しかし秀吉は本能寺で信長を殺す気でいるだろう、助ける方法はないだろうか?と考えたとき名案が浮かんだ。

そうだ秀吉に乗り移っれば信長を助けられる今戻ったばかりだが、俺はバックタイムペーパーに天正十年(一五三二)六月二日午前四時羽柴秀吉とセットしてスタートボタンを押した。

お尻に何か当たっている、そして高い所に座っている「あ!」馬の上に乗っているのだ。

目の前には、甲冑を来た武将が整列している。

「秀吉様いかがなさいましたか?」と蜂須賀正勝が聞いてきた。

「いや何でもない準備は出来たか?」と秀吉(俺)は、言った。

早速秀吉の頭の中の記憶を確認すると、

「はげ鼠」と馬鹿にされながらも信長の筆頭家臣となった秀吉だが、許せない事があった。それは後から家臣となった明智光秀が、信長の信頼を一手に集めた事だ。

このままでは、いつの日か明智光秀の家来にされてしまう、信長を抹殺して天下を我が物にすれば明智や徳川は秀吉の家来となる。

明智は明日には四国へ出陣する、徳川はわずかの兵を連れて浪花、堺見物。信長もわずかな手勢と本能寺で宿泊だ、信長を抹殺する絶好の時だ、秀吉は嬉しさのあまり震えていた。

本能寺前に羽柴軍一万五千の兵は明智軍の桔梗の旗を掲げ整列した、本能寺の館の門は、開いたまま静かで警護の者も無く全くの無防備である。

馬の上から秀吉(俺)は「敵は本能寺にあり」と声高々に叫んだ。

すると脇にいた蜂須賀正勝が、驚いた顔をして「秀吉様何と申されました?我々は明智軍としてここ本能寺にご宿泊の信長様の護衛に来たのでは?」と目を丸くしている。

「ここ本能寺の中に信長様のお命を狙う者が居るのだ、信長様をその者達から救い出す良いか信長様を確保せよ敵は本能寺にあり」ともう一度大声で言った。

意味がわからない蜂須賀正勝は、頭の中が混乱しているが「第一隊突入致します」と答えた。

第一隊二百名が明智軍の旗を背中に差して意味もわからず突入して行った。

ここ本能寺には信長の手勢は五十か六十名しか居ない、秀吉の第一隊二百名だけで事は足りてしまう。残った一万五千の兵は信長を確保した後で、亀山城の明智光秀を打ちに行くつもりなのである。

信長は、秀吉の謀反を知っている、何処かへ避難してここ本能寺には、いないかも知れない「よし!」ならば安心だ、しかし万が一と言う事あるかも知れ無い一応念を押して置かなくてはと、秀吉の中の俺は大声で全員に聞こえる様に叫んだ。

「敵は、少人数だ。信長様は、必ず生け捕りにしろ、自害させたり死なせさせたりしてはならぬぞ、解ったか!」と馬の上で両手を上げ叫んだ。

蜂須賀正勝を始めそこにいた兵達は、生け捕り?自害?と意味の分からない言葉に不思議な顔をしたが「ハイ承知いたしました」と言った。

兵達の中にはこれはへんだ明智光秀に罪を着せた秀吉の謀反だと気付いた者もいた。

屋敷内が、騒がしくなってきた。数人の僧侶や女人が屋敷から逃げ出して来た。

その者に聞こえるように、「我は明智光秀なり、織田信長を成敗いたす」と叫んだ。

兵達は、明智光秀に罪をなすりつけた秀吉の謀反の手先になってしまったと気ずいたが後戻りは出来ない、自分達が出来る事は秀吉の謀反を成功させるしか無いので有る。

屋敷から逃げ出してきた、僧侶、女人は、蜘蛛の子を散らすように、四方八方へと逃げて行った。

「秀吉様逃がしてしまって良いのですか?」

と、蜂須賀正勝が聞くと、

扇子でぽんぽんと、ほほを軽く叩きながら、「よいよい、逃がしておけ。逃げた奴らが明智光秀の謀反だと言いふらしてくれるわ」と嬉しそうに言った。

半時がずぎたころ腕が真っ赤に染まった白衣の侍が、数人の甲冑を着た侍に抱えられ、出てきた。

何と信長は何の対策も取らずここ本能寺にいたのである。

光秀の伝達を理解していただろうに?

秀吉の謀反を自分の目で確かめる為に?わざと策略にはまったのか?

慌てて馬から転げ落ちる様に降りた秀吉(俺)は、「あー信長様御無事で何よりでございました」と信長にかけ寄った。

余りにも下手な秀吉の演技に乗り移っている俺は思わず吹き出しそうになった。

「おーはげ鼠、何とも騒がしいな、これは茶の湯のさそいか?」と腕を怪我しているのに笑顔で言った。

「明智光秀の謀反にございます。光秀が徳川と結託しての謀反で御座います」と秀吉(俺)は噓を並べ立てた。

「あいやーそうであったか、光秀と家康が結託しての謀反か?光秀も家康もわしに謀反を致しますと言わんから気付かなかった、わしは、はげ鼠お前が謀反を致すとばかり思っておった」と怪我した腕を抑えながら言った。

命の保証もなしに秀吉の謀反を自身で証明して見せたのである。

信長は全てを知っていると思った秀吉(俺)はそれ以上なにも言わなかった。

いや、信長のあっぱれな行動になにも言えなかったと言うのが正解であろう。

「よし、信長様は無事助け出した正勝!火を放て」と大声で叫んだ。

本能寺の北側と南側から火が放たれ静かに燃え上っていった。

「全軍引くぞ」との声と共に秀吉軍は本能寺を後にした。

俺は、馬の上の秀吉の甲冑の左手を外しバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

現代に戻り自分の頭の中を整理した。

本能寺に、宿泊中の信長を襲ったのは、明智光秀ではなく、羽柴秀吉だ。

歴史では、本能寺で信長は自害したことになっているが、信長は死んではいない、遺体が見つかるはずがない。

秀吉に拉致された信長を救い出せるのは、明智光秀しかいない、今度は光秀に乗り移って織田信長を助けだそう。

怪我した信長の為に消毒液と塗り薬を握りしめ、バックタイムペーパーを丹波の亀山城にいる明智光秀にセットしてスタートボタンを押した。

亀山城の光秀は、既に秀吉謀反に備え五千の兵を集め準備を整えていた。

そこに伊賀の忍びから報告が入る。

「申し上げます桔梗の旗を掲げた羽柴軍本能寺より丹波方面こちらへ向かっております。その数はおよそ一万五千、未確認はございますが・・・」と伊賀の忍びは言葉を詰まらせた。

「なんだはっきり言え」と斉藤利三が言うと

「秀吉軍の中に信長様がおられるもう様です」

「な、何と申した信長様がいると?」

光秀は驚いた、信長様には、秀吉の謀反を伝えたはずだが、何の対策も取っていなかったのか?ならば秀吉から救いだすまでだ。

報告から数分もしない内に、「明智軍だ!」と誰かが叫んだ。

光秀から秀吉の謀反の事を聞いていた斉藤利三は、「馬鹿者!明智軍は我らだ、あれは羽柴秀吉軍だ、明智の旗を掲げているのは、我らに謀反の罪をなすりつける為だ、亀山城の方へ向かってくる!我が軍はこのまま左へ迂回して山崎にて迎え撃つぞ」と叫んだ。

「親方様羽柴軍と戦いますか?羽柴軍一万五千に対し我らは五千です」

「撃破しなくても良い、信長様を救い出すだけじゃ、幸いにして山崎の道は狭い待ち伏せ 奇襲を仕掛ければ数の少ない我らの方が有利だ」と光秀は、言った。

「親方様、信長様には、羽柴秀吉の謀反の意をお伝えしてあるはずなのに秀吉に囚われてしまったのですか?」と聞いてきた。

「ああ、その様だ、おそらく信長様は、命がけで秀吉の謀反を自分で確認したのだ。そして必ずこの光秀が助けに来ると信じている。山崎にて信長様を救い出す。山崎の山中に鉄砲隊の伏兵を忍ばせよ、羽柴軍がひるんだすきに信長様を救い出し退却するのだ」と光秀(俺)は軍配をひるがえした。

羽柴軍は、明智軍の桔梗旗を翻して山崎の山道を上がり始め細い道を登って来た。隊列は細く三列となり山の中ほどに差し掛かろうとした。

その時明智軍鉄砲隊が奇襲をかけた、驚いた羽柴軍は、退却する兵と、進軍する兵が入り乱れ大混乱を起こした。

それに準じて光秀の兵が羽柴軍に侵入した。羽柴軍は、明智軍の旗を兵に持たせていた為本当の明智軍が入って来ても見分けが付かず、信長の救出に成功したのである。

歴史では、これを山崎の戦いと言う。

救出された信長は明智軍の兵に抱きかかえられ光秀(俺)の所までやって来た。

「信長様」と光秀に乗り移った俺は、馬から飛び降り声をかけた。

信長は胸で息をしながら目を閉じて石の上に腰を下した。

「信長様、傷の手当てをいたします」信長は顔を上げ、光秀(俺)を見た。

「おー、光秀大義で有った、この信長、しかとはげ鼠の謀反を見届けたぞ」と大声で言った。

その言葉を聞いて光秀(俺)はほっとしたが事前に秀吉の謀反を知りながら何の対策もとらずに、部棒過ぎると思った。俺が本能寺で秀吉に乗り移っていなければその時に殺されていたかも知れない。

日本の歴史では、信長は、本能寺で死んでいる、しかし本能寺の変の真実は違っているのだ、俺はその事を伝えたく

「信長様、ご無事で何よりで御座います。お話したい事が御座います。この様な時で申し訳ございませんが聞いて頂けますか」

俺は、バックタイムペーパーで未来から来ている事を信長に話そうと思った。

そして、バックタイムペーパーで明智光秀に乗り移っている事、

本能寺での謀反の首謀者は未来では明智光秀になっている事、未来の日本の様子などを話した。

この時代いや、現代人でも理解できる話ではない。

しかし信長は黙って俺の話を聞いていた。

しばらくして、信長が口を開いた。

「お前は、光秀ではないのだな?」

「はい、明智光秀に乗り移った未来から来た人間で進士明政と申します」と言った。

「そうか、進士と言うと光秀の子孫か?どの位の未来から来た?」

「今より四百年未来の明智光秀の子孫です」と答えた。

「お前の話は、奇天烈だが、つじつまが合う」

なんと信長は俺の話を理解し、信じてくれた。

「どこでわしは死んだ」

「はい、未来では本能寺で、自害したことになっています」

すると信長は頷きながら「だろうな、わしのなき後はどうなるお前や、家康はどうなるのじゃ?」

「はい、未来の歴史では、明智光秀が信長様を本能寺で自害に追い込んだとして、山崎で羽柴秀吉と戦います。しかし敗れて光秀は敗走し落武者狩に合い死んだことになっています。

徳川様は、伊賀の山越えをして無事岡崎城まで帰還致します。

明智光秀を討った羽柴秀吉は、豊臣秀吉と名前を改名し浪花を本拠地として大阪城を築城し天下を統一ます。

豊臣秀吉が没すると、徳川様が江戸に本拠地を置き天下人となり、江戸に幕府を開きます」と説明した。

「なるほど、時の流れはそうなるのか、良いも悪いもないな。是非に及ばず」と言った。

「はい、その通りでございます」

信長は下を向くと静かに「時の流れが変わってしまってはまずいな、本能寺で自害した事になっているのに今更のこのこ出ていく訳にもいかんな、ここで自害でもするか?」と冗談を言った。

「誰にも知られずに、ご隠居なされることをお勧めいたします、この先、世にお姿を表わせなければ、誰もが信長様はお亡くなりになったと思います」

「なるほど、わしは、美濃の稲葉山城にて隠居したいが・・」と上を向いた。

「それでは誰かに見つかりかねません、後に影響が出ます。

料理の神を祀った神社が、下野国の高橋にございます。そこがよろしいかと」提案した。

栃木県出身の俺に思い付く信長の隠居先は延喜式にも登録されている高橋神社位しか思い当たらなかった。

延喜式とは、朝廷が各地の神社仏閣を、登録した書物の事で、一五〇〇年の戦国時代には既に存在し、しかも四〇〇年後の昭和、明政(俺)の生きている時にも存在しているので有る。

四〇〇年後の未来に戻った俺が、高橋神社で信長の痕跡を辿る事が出来るかも知れないと一部の望みを託し薦めた。

すると信長は「あい、わかった」とあっさり光秀(俺)の提案を受け入れたので有る。

「もう一度聞くそちの名は」

「進士明政と申します」

「進士藤延つまり明智光秀の子孫だな」と確認をした。

俺は、頷きながら「その通りでございます」と言うと、「明智光秀には代々世話になるな」と言うと立ち上がり光秀の用意した馬にまたがると護衛の兵数名と共に、下野の国高橋へ向かった。

明智光秀は、その数日後三河の徳川家康のもとへ行き、天海と名前を変え家康側近となるのである。

織田信長も明智光秀も死んではいない。

本能寺の変のミステリー、織田信長の遺体、そして明智光秀の遺体が発見されなかった事情は、俺だけが知る事なのである。

京都から下野の国まで戦国時代では恐らく一ヵ月はかかるであろう、光秀(俺)は、着替えと、食糧、そして未来から持って来た塗り薬と消毒液を護衛の兵に持たせ、馬にまたがた信長に深々とお辞儀をして見送った。

「さあ現代へ戻ろう」と光秀の袖をめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。


   七、光秀の秘密

安土城へ包丁式と、祝い料理を見にタイムトラベルしたが、本能寺の変で、俺は光秀に乗り移っり信長を助け下野国、高橋神社への隠居を薦めた。

高橋神社を推薦したのは、戦国時代には既に存在していた神社だからである、延喜式にも出て来る高橋神社は日本料理の神様、磐鹿六雁命を祀った神社で、四百年後の今でも健在だからである。

織田信長五四歳、明智光秀四八歳は、本能寺の変以来日本の歴史には出て来ない、二人共死んだ事になっているから当たり前だ、だが、俺だけが知っている事実は、信長も光秀も生きている、その後はどうなったのだろう?

タイムトラベルをして、確認してみようと考えていた。

「明政さん、どこか具合でも?」と加藤君は俺の顔を覗き込んだ。

「あ、すまん、ちょっと考え事をしていた」俺は、加藤君に赤海鼠の茶ぶりの作り方を教えていたのだった。

「大丈夫ですか?海鼠と番茶を当鉢に入れました、これでいいですか?」と加藤君は当たり鉢を差し出した。

「ああ、それでいいぞ、熱が逃げないように更科で巻いて、三十分したら番茶を取り替えてくれ」

「はい」と、加藤君は初めて作る赤ナマコの仕込を覚えようとやる気満々だ、ぼーっとして、いては加藤君に申し訳ない。

「赤ナマコは、丸のまま天地を切る。昆布を巻いた箸で、ナマコの中を掃除する。その時、海鼠腸が出る珍味なので取っておく。掃除が終わったら、薄めの小口に切り、当り鉢へ、身体より少々熱い番茶をたっぷり注ぎ、藁一寸を三つに切って入れ、当り鉢をさらしで包み、三十分待ち、番茶を捨てる。これを三度繰り返す。仕上がれば、食酢に漬こむ、食酢は一日たったらすて、新しい食酢に漬かえる。藁をいれる事と、食酢の作り方は口伝だ」と加藤君に教えた。

「立板(明政)どうして藁を入れるのですか?」と加藤君は不思議な顔をしている。

「進士流の料理文献には口伝となっている、ので親方に聞いたら、藁には微量だが、油分があるそうだ。その微量な油分でナマコが柔らかくなるのだって」と俺は説明した。

「なるほど藁の油分でナマコが柔らかくなるのか、あ、それからボールに取ったこれ、どうしますか?」と、ボールを俺の方へ差し出した。

「これは、海鼠腸だ。珍味だから、丁寧に掃除しておいてくれ、塩と酒で塩辛にするぞ」

「明政さん食酢も口伝なのですか?」

「ああ、そうだ食酢も口伝だ、別名海鼠酢と言って、俺が作っておいた、これだ、なめてみな」と海鼠酢を冷蔵庫からとり出した。

加藤君は、一口なめると「なんか土佐酢みたいな味ですね」と口を尖らせて言った。

「薄めの土佐酢に酒と生姜の絞り汁が少し入っている」と俺が言うと、

「でも、秘伝でしよう、僕に教えちゃって良いですか?」と加藤君は申し訳なさそうな顔をした。

「ハハハー秘伝ではなく口伝だから、誰にもでも教えるよ。真面目な加藤君なら秘伝でも教えるさ!」と俺は加藤君を見た。

「ありがとうございます」と加藤君は頭を下げた。

桃山亭料理献立は、毎月変わる。初夏、新芽が育ち緑多くなるこの時期の献立は、酢や、出汁のきいた和え物、浸し物が多くなる。

「シャキ、シャキ」刺し場の俎板から音がした鱧の骨切の音だ。

「先輩いい骨切庖丁買いましたね」と八寸場の安藤君が柴田君の包丁捌きを見ている。

六月からは鱧を使い始める。出始めの鱧は、身も柔らかく脂も少ないので吉野くずを打ち牡丹鱧にして吸物にする、天に梅肉を少し落とす。

じゅん菜を散らし、御所車酢橘を添え、昆布だしを張る。

七月、八月の鱧は、落としにする。骨切した鱧を熱い昆布だしの中へ落とし花が咲いたら、氷水に取り、水気を切って梅肉醤油で進める。

九月になると、鱧は大きくなり、脂も乗ってくる。串を打って、酒塩を振り、焼き鱧にする。小さく切り出して、土瓶蒸しにする。

焼いた鱧の香ばしさと、松茸の香り、三つ葉のアクセントが堪らない。酒が進むのである。鱧は、初夏から秋まで使える日本料理代表的な魚なので有る。

その日の夜俺は、部屋の机の前に座って、鱧について調べていた。

京都での修行中は、当たり前のように使っていた鱧だが、関東栃木の市場では、ほとんど入荷がない。

いつ頃から関東でも、食べられるようになったのかと調べてみると、江戸初期徳川幕府の時からである。鱧は江戸城内、膳部より、一般に知られる魚となるとある。

暖かい海に住む鱧は、関西では、良く捕れるが、関東では捕れない魚だ。硬い小骨が多く骨抜きで一本一本骨をぬくことは出来ない。

よって骨切り包丁で鱧の骨を細かく切り、口に当たらない様に調理する必要がある。名人芸とも言われる鱧の骨切りの技は、包丁師により現代にも伝えられてきた。鱧の身三センチに、二十四の包丁を入れる。一見簡単そうに思えるが俺は、何度挑戦しても、最多で二十一しか包丁を入れる事しか出来ない、まだ名人では無いのである。

現代では、交通の便もよくなり関東の料理屋でも良く出される様になった、江戸時代に書かれた料理本を見ても一般庶民が食べていたと言う記録がない、江戸時代鱧はまだ高貴な人間か裕福な人間の食べ物だったのであろう。信長は尾張、家康は三河、光秀は美濃、と関西のほうが近い皆鱧を食べていたのかな?

「明政さん何か調べ物?」夏子がコーヒーを持って俺の机の所へ来た。

「ああー夏ちゃんいい所へ来た栃木に来て鱧を、あまり食べていないよね、食べたくならない?」と俺が聞くと

「あら、優しいね。夏になると無性に食べたくなるわ、明政さんの顔が鱧に見えるくらいにね!」

「なるほど!」

夏子は、ぽんと胸を軽く叩くと「子供の頃から、初夏から秋は毎日の様に鱧よ、京都では庶民の味よ、しばらく食べないと、無性に食べたくなるわ」

「料理人は、鱧の骨切り出来るけど、一般の人はどうしているの?」

「関西では普通の家庭の奥さんでも骨切りをするわよ、板前さんほど上手じゃないけど、スーパーでも骨切りした鱧を売っているし、値段も安い、ビタミンが豊富で夏ばて防止にもなるし、味も淡白で梅肉醬油で食べると、さっぱりとして食が進むわ、明政さん明日鱧の棒寿司か鱧の天婦羅食べましょうよ」と嬉しそうに言った。

「了解任せておいて」

「ありがとう、楽しみ、」と夏子は、笑顔で言った。

大草流は、進士流の明智光秀の推薦により江戸幕府、徳川家の初代料理番として仕え家康に、行燈の油で調理した鱧を提供したとある。

当時の油は貴重で、行燈の灯り様に使用されており、食べるものではない。

小麦粉を麦酒でとき、鱧に付け油で揚げる。オランダから伝わった現在の天婦羅の原形である。

江戸初期にタイムトラベルしてみょう、上手く行けば気になっていた光秀のその後を確認出来るかも知れない。

バックタイムペーパーに慶長八年(一六〇三)明智光秀と打ち込んだ。もし、死んでいれば、エラーが出るはずだ。

すると、名前が変わっています。天海上人、と出た。

「明智光秀は、生きていた」と、つい声が出てしまった。

俺の中では、二日前の本能寺の変だが、歴史上では、二十年たつ、光秀、家康と会える、張り切って天海上と打ち込んでバックタイムペーパーの実行ボタンを押した。

「天海様、御所様がお呼びです」斉藤利三が光秀を呼びに来た。

「あい、わかった、今行く」首から袈裟をかけ、葵の間へ向かった。

明智光秀の本名は、進士藤延、進士流庖丁師である、今は、明智光秀から天海と名を変えている。

葵の間は、家康と、天海の二人だけの秘密の間でもある。十五歳も年の離れた二人は、江戸城、葵の間で毎日のように食べ物や、祀り事の話である。

五十過ぎの家康は、腹が少し出てきた、その姿は、まるでたぬきの様である。

「家康殿、少し食をお控えになされた方がよろしいかと」

天海(俺)は、家康のお腹を見ながら言った。

「ここの所、食と酒がうまくてつい食べ過ぎてしまいます、擦った蒜を付けた鱧の天婦羅、あれはたまらん、進士流の秘伝の鱧料理と、大草三郎左衛門より伺いましたが」と家康は舌なでをしながら唾をのみこんだ。

「活の良い鱧が入りましたので、大草殿にお願いし、お作りいたしました」

「の油を食に使うとは、御膳部頭の大草三郎左衛門も驚いていました」

「足利家滅亡以来島津藩の料理人だった大草三郎左衛門と、その息子、甚五左衛門まで御膳所役として起用していただいた事、この天海、心よりお礼申し上げます」と辞儀をした。

「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。天海殿は、命の恩人、伊賀衆、甲加衆まで手配し、安土城より逃がしてくれた御恩、この家康一生忘れはしません」とお辞儀をした。家康にとっては二十年前の若き日の思い出なのである。

天海(俺)は下を向いて呟いた。

「信長様はどうしておられますかな?」

「天海殿昨日も同じ事を言っておりましたぞ、信長様は、下野国高橋神社へ隠居なされこの家康が何度お迎えに上がっても、ここの生活がわしには合っている、ここが好きだとおっしゃってこちらには来てくれませんでした」と静かに言った。

「そうですね、そち達二人協力していつの日か秀吉に制裁を下し天下をとれと言われました。そしてわしに天下取りの野望は元々ないなどとも言っておりました」と天海(俺)は寂しそうな顔をした。

「秀吉は、亡くなる時にも枕元に私を呼び、

信長様が戻って来ないか、どうして我は本能寺で信長様の命を絶たなかったのか、心残りだと、言っていました。天下人となった秀吉も本当の事は一切知りませんでしたから、さぞかし不安だったのでしょう」と家康は無き後の秀吉を語った。

羽柴から豊臣と名前を変えた秀吉は謀反以来信長、光秀、家康の誰かが攻めてくるかもしれないと不安で夜も眠れない日が続いた。

しかし生きているかも知れない信長、光秀は一向に現れず、家康も秀吉には一切逆らわない。豊臣秀吉は事実上天下人となった。

秀吉は豊臣政権盤石を計り、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、の五大老と、浅井長政(司法)石田三成(行政)前田玄以(宗教)増田長盛(土木)中束正家(財政)の五奉行を設けた。

五大老とは地方の有力大名、今でいえば国会議員の様な物、そして五奉行とは豊臣政権内の今でいう省庁の様な物である。

豊臣時代(安土桃山時代)はこの五大老、五奉行制度により安泰の世になるかと思われたが慶長三年(一五九八年)に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の徳川家康が徐々に豊臣政権への反旗を翻す事となる。

そこには常に明智光秀(天海上人)の影が有った。

秀吉に命を狙われた二人にとってそれは当然の事なのかもしれない。しかし五奉行の一人石田三成は、徐々に迫ってくる徳川家康の反旗を見逃さず、徳川家康との対立を深め徳川家康排除を考える。

それが豊臣家臣石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍の天下二分の戦いと言われる慶長五年(千六百年)の関ヶ原の戦である。石田三成率いる西軍有利と見られた関ヶ原の戦いは、小早川などの寝返りやその他の大名達の裏切りで東軍の勝利となり徳川家康は事実上日本の全てを納める天下人となったのである。

そして慶長八年(千六百三年)徳川家康は天皇の命により征夷大将軍となり江戸幕府を開く。

「そう言えば、信長様は高橋神社の宮司になられました。

高橋神社は、日本料理の神様磐鹿六雁命を祀る神社なので宮司のわしが日本料理事を知らん訳にはいかんと申されまして、近頃は日本料理の歴史やら包丁式、料理の作り方、調理法までを書物にまとめたいと、張り切っておられるそうです」と天海(俺)が言うと、

「ほう!信長様、高橋神社の宮司になられましたか、何度お迎えに上がっても戻られない訳だ、料理の書物を残したいとは、信長様らしいですなまだまだ長生き致しますな、ハハハー」と家康は笑いながら言った。

「所で天海殿、この家康は信長様のお迎えの説得に、三度程下野の国へ足を運びましたがとても良いところですな、秀忠に将軍職も譲りましたうえ、信長様と同じく下野の国の何処かえ隠居したいのですがいかがでしょうか?ハハハー」と、家康は笑った。

「下野の国に海はありませんが山に囲まれ自然災害の無い良い国です、しかし秀忠様に将軍職をお譲りになっても、家康殿は駿府城にてご隠居なさるのが良いと思います」と天海(俺)は言った。

「やはりそうですか天下人となりこの徳川政権の安泰の兆しが見えてきた今でも将軍としてのなすべき事をせねばならない隠居しても勝手な思いや行動は、出来無いと言う事ですね」と家康は下を向いて寂しそうにえんがちょう、をした。

えんがちょう、とは自分の指を絡めるしぐさであるが、その意味は言葉の通り、縁をチョキンと切りたいという意味である。元は病気などの感染を防ぐ為に使われていた用語であったらしいが、人との縁を切る物事との関わりの縁を切るなどの時にも使われる様になった。

天下人となった家康だがその責任は、重く自分の置かれた立場に縁を切れればと思う意味でえんがちょう、をしたのだろう、そんな家康の、えんがちょうを見て天海に乗り移っている俺は、ある提案を思い付いた。

「家康殿下野の国が好きですか?」

「はい信長様がおられ何故か心休まる下野の国が大変好きです」

「何十年後になるか解りませんが、家康殿がお亡くなりなった時にはこの天海が下野の国へお連れ致します。下野の国、の北には男体山と言う立派な山が御座いますその男体山の下に中禅寺湖と言う湖がありその水は華厳の滝となり下の集落日光へと流れ込みます、この日光の地に、家康殿をお連れする事をお約束致します。日光にて永遠にお過ごし下さい」と天海(俺)は言った。

「ほうそれは良い話じゃ下野の国日光に、この家康を葬ってもらえるのですね、死んでからが楽しみですハハハー、所で天海殿はどうなさるおつもりですか?何処か安住の地はおありかな?」と家康は嬉しそうに聞いた。

「もし家康殿のお許しが有れば日光の村からから山を登り中禅寺湖に着く前に、大きな平地が御座いますそちらに葬って頂ければ嬉しく思います」と天海(俺)は言った。

家康は天海(俺)の話を頷きながら聞いていた二人は死後の約束を固く交わしたので有る。

この約束から十三年後の元和二年(一六一六年)に徳川家康は永眠する、約束通り日光東照宮に埋葬され、それお見届けた天海は、数年後に同じく日光に埋葬された、その地の名は、明智平と言う。

「天海殿、お腹が空いて参りました、鱧が食べたくなりました」

了解いたしました昼は鱧の落としを、ご用意いたしますか?」

「おう、いいですな、お願い致します」

鱧の落としは、鱧の身に葛粉を打ち昆布だしに落とす、梅干を裏漉し味醂と酒で延ばした梅肉醬油で食す、梅肉の酸味と鱧のコリコリとした食感が美味なので有る。

「そう言えば天海殿の庖丁式、しばらく見ておりませんな」

「そうですな、私も入道して以来殺生は、と思い控えておりました。来月の竹千代様の袴着の祝い、この天海、久々に進士流庖丁式ご披露いたしますか」と笑顔で言うと、家康は、

「包丁式、やって頂けますか、それは、楽しみじゃ。是非お願いします」と嬉しそうに言った。

天海(俺)は鱧の落としを作りに御膳所に向かった。

天台宗の僧となった南光坊天海上人の記述は、どの歴史書にも見当たらない、謎の人物なのである唯一徳川家康埋葬の記録の中に、天海の指揮により日光東照社に埋葬されたと有る。

更に進士流の文献の中に、江戸城二の丸殿にて、竹千代五歳の祝いの席で、進士流の天海上人が、袴着之鯉の包丁式を披露したとある。

現代でも、子供が三歳、五歳、七歳となるとお祝いをする七五三の祝いの風習が残っている。

基は、宮中天皇流(高橋家)が定めた包丁の儀式である。

正式には、女子三歳髪結いの儀、男子五歳袴着の儀、女子七歳帯初めの儀と言う。

各祝い時には、庖丁式が行われ、祝宴に入った。

各流派共、髪結い之鯉、袴着之鯉、帯初め之鯉の切汰図が残っている。

鱧の落としを家康と堪能した天海(俺)は、バックタイムペーパーの停止ボタンを押し現代に戻った。

袴着の祝い五歳の竹千代は後の徳川家光で有る。

慶長八年(一六〇三)今度は、徳川家康に乗り移り天海の包丁式を見に行くことにした。

江戸城、二の丸殿の庭には、俎板が据えられている。

空は、広く晴れ渡り、祝の庖丁式には持って来いである。「御所様、御成り」と、声がかかると、裃姿の侍達に囲まれ、徳川家康(俺)、徳川秀忠とその息子竹千代が現れた。その後から、打掛を身にまとった奥方が続く。

家康(俺)は、膝の上に孫の竹千代を乗せ、二の丸殿の中央に座った。雅楽の音が止まり

裃姿の若侍が現れた。

絹取りの儀である。

若侍は、脇刺しを抜き、絹を清め、絹を取り上げ、俎板を開いた。

次に、組付の儀、同じく袴姿の若侍が板紙、包丁、真魚箸を所定の位置に置く。

持ち出しの儀、三宝に鯉を乗せた、若侍が三宝をまな板の上で三回、のの字を書くように回し、まな板前に座り真魚箸、包丁で鯉を取りまな板の上に置いた。

若侍達は、すべて御膳所、大草流の板前達で、何度も稽古を積んだと見え、皆落ち着いている。

いよいよ庖丁師、天海上人の登場である。

ゆっくり俎板に向かい、すり足で歩く天海の姿は、堂々と見える。

安土城で見た時以来であるが、何も変わっていない。

変わっているのは、頭が坊主である事と衣装が僧侶の姿である事くらいである。

礼をすると、天海は俎板の前一尺に座り、身衣を正した。

右手親指、左手親指が俎板中央から同時に左右に開く。

祝い時の俎板調べである。

両手で同時に真魚箸、包丁を取り、空中で交合わせ、右手で真魚箸、包丁を十字にして胴の前へ構えた。左手は左ひざの上で撫でるように、三度塵払いをし、その左手で右肩から二度、肘から一度撫でて、真魚箸、包丁を同時に開いた。

板紙を三分の一切り、切った板紙で俎板の鯉を三度清め、開扇をし、左から右へと包丁を三度、三度、三度、と計九回ならし、水撫が終わった。

鯉の尾には、衣で袴が着せられ、水引二本で縛られている。

袴の上に、真魚箸を立て、袴を切らぬよう注意しながら袴を着せた尾を切り離し、四徳へ仮置く。

右板、左板を卸し、すだれ骨を引き、宇名元昇緑を切り、右板を六つに切り、個々を重ねる。

同じく、左板を六つに切り、個々を重ねた。

重ねられた身は、式に並べ、中骨すだれ骨は、五行に置かれた。

最後に四徳に仮置いた袴を着せた尾を、朝排へ置き、包丁で頭を三度撫で、鯉に魂を吹き込んだ。

包丁を左から右と三度俎板の上を撫で、仕舞庖丁を終えた。

両手にて、俎板を閉じ膝行で下がり、身繕いを直し、礼をした。

客は、一斉に拍手をし、袴着之鯉は終了した。

天海(光秀)は今も健在だ、徳川家の料理番大草流の儀式作法の指導もしているので有る。

包丁式が終わると二の丸本殿にて祝い料理が、舞われた、大名達は酒を飲みながら祝い料理に舌つつみを打ち宴は和やかに行われた。

俺は徳川家康の腕を捲り上げバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。


   八、磐鹿六雁命

桃山亭は、父(忠政)母(秋子)が京都の料亭美水苑で修行の後、栃木県宇都宮市に移り住んだ。

岐阜県出身の父と九州出の母は京都で出会い日本料理の神様高橋神社のある栃木県で桃山亭を開いた、始めは小さな飯屋から段々大きくなり今は、和風三階建の料亭となっている。日本はバブル経済絶頂期、一階は日本料理の店舗、二階は宴会場と住まい、三階は、俺達夫婦の新居と、なっている。

桃山亭一人息子として産まれた俺は高校の調理科を卒業後、京都翠光亭で五年板場の修行を積んだ。調理科でひと通り料理を学んだが、現場に出ると何の役にも立たなかった。

十人の内八人が脱落すると言われる板場の修行を、持ち前の我慢強さと明るさで乗り切ったのだ。

と言うと格好いいが、実は理由が有る翠光亭夏子の父(公治)は俺の母(秋子)の弟で、夏子の母(裕子)は俺の父(政忠)

の妹なのである。

翠光亭の主人と女将は叔父、叔母、夏子はその娘つまり親戚なのだ性格の飽きっぽい俺だが迷惑を掛ける訳には行かないとひたすら修行に打ち込んだ。

板場修行で何が辛いかというと、年に一度の行事おせち料理の作成だ、

京都の夏が終わり観光客が減り少し暇になるかと思いきゃ、とんでもない、食欲の秋、紅葉シーズンが始まる紅葉狩りの観光客がどっと押し寄せ、加えて法事やお祝いのお客様と翠光亭は多忙し、忘年会シーズンの冬になると関東では、余り食べないふぐ会席や、鍋料理が多くなる。それに加えておせち料理の仕込みも始まるのだ、おせち料理の名前は、お節句料理がなまりおせち料理となった。日本には五節句と言う節句が有る。

一月一日新年の祝い。(本来は一月七日無病息災を願う七草の節句)

三月三日若い女子の祝い桃の節句(雛の節句)。

五月五日若い男子の祝い端午の節句。

七月七日成人した男子、女子を祝う七夕の節句。

九月九日老人の長寿を願った菊の節句(重陽の節句)。

と五つの節句の時に食べたていた料理を節句料理と言い昔は一年で五回の節句のたびに、おせち料理を食べていた。

本来一月は松の月と呼び松月、正月と変化した。

正月は一月一日から一月三十一日までが正月で、一月一日を元日一月一日の午前中を元旦と言う。

五節句は平安時代、貴族や公家が天皇家の行事をまねて始まり。

節句料理は重箱に詰められ、重ねることにより福を重ねると言われる。

忘年会シーズンの終わり十二月二八日から、おせち料理の詰め込みが始まる。

一の重は酒のつまみとして八寸物を詰める。

二の重は酢で締めた物や和え物、生物などを    詰める。

三の重は、煮物、焚き物を詰める。

与の重に、焼き魚や焼いた野菜など焼いた物を詰める。

五の重には、与の重までに詰め余った物を詰める。

五段重ねを三宝に乗せ家族や来客に振る舞った。

詰め込みが始まると寝る時間が取れない。食べ物を扱う者の試練なのだ。

作てしまって置いておいては、味が落ち、悪くなってしまう。

と言って、ぎりぎりでは間に合わない、緻密な計算が必要なのだ、翠光亭のおせちは、二百セット、約千人分の料理となる。

親方と立て板の山本さんが、詰め方の予定を立て、それに合わせて詰めて行くのである。

そしておせち料理の詰め方には独特の作法がある。

真(立横揃えて盛る)

行(斜めに揃えて盛る)

草(立横斜めに揃えて盛る)

乱(バラバラに乱れた様に盛る)

山(中心から、外に向かって盛る)

カップや仕切り等々を使ってはいけない、お祝い事の料理の盛付はみな同じで、お祝い事を仕切ってはいけ無いのだ。

おしぼりやさらしで盛った料理を押さえながら、次の料理を盛る気の遠くなる作業だ。

それに加えて料理が悪くならない様に、調理場の窓を全開に明ける、京都は、盆地特有の気候で夏は暑く冬は寒い、十二月は特に寒い割烹着の上にジャンパーをきての詰め込み作業なのである。

十二月二十八日、詰め込みは与の重から始まり、翌朝二十九日五時終了、ほっとしている暇はない三時間の仮眠を取って、

二十九日は、朝八時から一の重、五の重の詰め込みを始めた、気が付くと次の日三十日の朝六時になり徹夜となった。

二時間の休憩を経て、二の重、三の重の詰め込み、仲居も含めて総勢四十名での詰め込みである、徹夜にもめげずに元気だったが昼食を食べると、睡魔が襲ってくる。

俺はおせちの重に手を突っ込んだまま立って寝ていた。

「明政起きろ」森田さんが声をかけた。

「あ、すいません。寝ていました」と俺は、気が付いた。

「広瀬がトイレに行ったが戻って来ない、見てきてくれ!」

「わかりました、見てきます」とトイレを見に行くと、広瀬さんは鍵もしめず、何を出し立ったまま壁に寄り掛かり寝ていた。

俺が「広瀬さん!」と声を掛けると、

「お、明政君!」と広瀬さんは気が付いた。

「大丈夫ですか?あれが出ています」と言うと、広瀬さんは「おおおおー」と声を出して

慌てて何を仕舞ズボンのチャックを上げた。

「いやー小便していたら寝ちゃった」とあっけらかんとしている。

三十日夜十二時におせちの詰め込みが終り

仲居達が五段重一組ずつ献立と箸を入れ祝い風呂敷で包む。

次の日三十一日は朝から板前全員手分けしてのおせちの配達となる。

何回経験してもおせち料理の作成は、辛いしかし完成時の達成感も大きい。

五年の修行を経て今は、桃山亭の立板の地位をもらって居る、実家だからと言って甘えず頑張る考えだ。

俺は、朝四時に起きて目を擦りながら、桃山亭の階段をおりた。

「明政さんおはよう今朝は随分早いのね」

階段の下でジャージ姿の夏子が声を弾ませ言った。

「夏ちゃんおはよう、準備があって、市場へ行かなくては」

「西山家の法事ね、料理の方、間に合わないの?」と夏子は心配している。

「いや、西山さん造りは鰹の焼き霜が食べたいと言うから」

「あら田中屋魚店の社長に頼んでおけば配達してくれるじゃない」と夏子は足踏みをして言っている。今にも走り出しそうで有る。「うん、そうだけど鰹、自分で選んで見たい。西山さん味うるさいし」

「大変ね、お客様に満足してもらうには、それも料理人の宿命ね」と夏子は足踏みに合わせ握った手を前後ろに振り始めた。

「行ってらっしゃい」と夏子はジャージ姿のまま元気良く手をふった。

あたりは薄暗い夏子は毎朝四時に起きてランニングをしているのだ。

俺は、軽自動車で市場へ向かった。

調理場では段取り七分と言うが良い魚を仕入れる事も重要な段取りの一つなので有る。

栃木県中央卸売市場は、桃山亭より十五分、八百場を始め鮮魚、肉、乾物、調味料、まで何でも揃う北関東最大の市場だ、俺は、まず鮮魚市場へ向かった。

「へい!いらっしゃい」鮮魚中卸しの田中魚店の社長が迎えてくれた。

「おはようございます!すいませんわがまま言いまして」俺は、頭を下げた。

「いいよ、良く見て好きな物を選びな!鰹はここら辺にあるよ」と田中社長は指を差した

見ると、発泡スチロールの箱に一匹ずつ入った鰹が山積みに重ねられている。

鰹は海遊魚で、二月頃は九州沖で小さ目の物が三月四国沖で四月になると紀伊半島沖そして、五月は伊豆房総半島へ餌求めて北上する、常盤沖で捕れる七月八月頃までの鰹を初鰹と呼び、脂が余り乗らないあっさりとした味だ。八月後半から九月になると三陸沖まで北上した鰹は、沢山の餌を食べ、まるまると太り南下をはじめる、これを戻り鰹と言う。

「社長これ何処で捕れたのですか?」

「気仙沼だ、もち鰹と言いたいところだが

まだ戻り鰹では無いから脂はいまいちだ」俺は、箱を一つずつあけながら鰹のお腹を指でおして堅くて活きのよさそうな鰹を選んだ。この活きの良い魚を選ぶ事を専門用語で目利きと言う。

「これと、これと、これ三匹もらって良いですか?」鰹の入った箱を田中社長の所へ持って来た。

「どれどれ明政君も目利きが、出来たか見てあげよう」と鰹を一匹ずつ確認した。

「うーむ、その二本は合格だ、でもこれは、ちょっと鮮度が落ちているな、こだわるならこっちの方がいいぞ」と違う鰹をだした。

「鰹のお腹の張り具合もいいですが、どうして鮮度が落ちている事が解るのですか?」

「ああ、腹の張りと弾力は申し分ない、でも鰹の背中を見て見な、背びれの脇の青色が消えているだろう。青色が鮮明に残っている方が、鮮度が良い、合格と言った二匹は青色が残っているだろう」と田中社長は自慢げに言った。

「なるほど、そうなのですね」

「明政君の選んだ鰹だって悪いわけでは無いが、わざわざ市場まで仕入れにきたのだから、鰹の鮮度の見分け方覚えておいたほうが良いぞ」と田中社長は優しく言った。

「ありがとうございます勉強になります」

と頭を下げた。

「所で、活きの良い八尺白蛤が入っているが持っていかない?」と八尺白蛤を出した。

丸々と太った鮑の身が、殻からはみ出して動いている。

「あれ、これ鮑じゃないですか?」

「あ、わりぃ、昔の言い方しちまった、鮑だよ、昔の人は鮑の最高の物を八尺白蛤と言った味が濃く柔らかくてうまいぞ」

「へー、味にうるさい西山さんにぴったりだ、十個下さい」

「毎度あり」と田中社長は元気な声で言った。

桃山亭に帰り、鰹の下処理をする、頭と内蔵を取り除いた身はおろさずに冷蔵庫にしまった。

十一時半「西山さんお揃いになりました、影膳とお料理お願いします」と仲居から声がかかった。

「加藤君先付頼む、天盛に針生姜とクコの実を忘れずに」

「はい、了解しました」

「安藤君前菜の茄子を炙っていいぞ、けしの実を真ん中に振れ、番傘海老の海苔を巻いていいぞ、敷葉は、綺麗に三枚散らせ」

「はい、解りました」

お客様がお揃いになると板場は、アッ!と言う間に忙しくなる、他人が見ると戦場の様に見えるそうだ、しかし指示を出している方も出されている方も、慌てはしない、自分の仕事が解っているからだ。次に自分にどんな指示が出るか皆解っている。

「今井君牡丹鱧の用意、昆布入れた湯を沸かして鱧に葛を打っておけ、八寸が出たら湯がくぞ」

「はい」追い回しの今井君も慣れた手付きで鱧に葛を打っている。

「次のお料理お願いします」仲居から声がかかる。

安藤君が敷葉を散らし八寸を出した。

西山さんは、食べるペースが早い、吸物の声がかかると、牡丹の花のように開いた鱧を椀に盛った。準才、赤梅、御所車酢橘を添えて出し汁を張り、蓋をして霧を吹く天に青紅葉を乗せ完成。

「西山さん吸物お願いします」と仲居に声をかけた。

出し汁に塩で味を付けた物を、吸物と言う。

これは、酒菜で飯の汁とは違う、酒を美味しく飲む為のつまみなのである。

それに対して出し汁を味噌で味を付けた物を味噌汁と言う。これは、惣菜で飯を食べる時の汁である。

そして出し汁を醬油で味を付けた物を、澄ましと言う。これは、酒菜、惣菜どちらに出しても良い。つまり塩味の汁は、お吸物。味噌味はお味噌汁。醬油味をお澄ましと言うので有る。

俺は、鰹の造り(刺身)の準備に取り掛かった。

仕入れて直ぐに頭と内蔵は、とり出して綺麗に洗って有る。冷蔵庫から鰹をとり出して背鰭、腹鰭を返し包丁で取る、尾を持って立てに吊り上げ包丁を右の身と骨の間に入れ尾から頭まで包丁を一気に引き下げて降ろす。

トンと、俎板に包丁の刃が当たる。

鰹の吊し切りである。

左の身も同じくトンと、音を出して卸した。その間わずか数秒である。腹骨(簾骨)をすき背と腹に分ける一匹の鰹で背(雄節)二策、腹(雌節)二策、計四策とれる。

これを網に乗せ藁で焼く、表面に焼目が付いたら氷水に取り身を締めて水気を切り、一人前ずつに切り分ける。

これが通常のやり方だが、桃山亭では違うやり方をする網に乗せ藁で焼くまでは同じだが、氷水には取らない。

焼きたての熱いまま一人前に切り分け、ぽん酢、生姜卸、針茗荷、針葱、針大葉、白胡麻を添えてお出しするのだ。

レアレアのビーフステーキの様に熱々をお出しするのだ。

鰹の表面を焼いた物を鰹の叩きと、言うがこれは間違いである。鰹の何処も叩いて無い。

鰹の焼き霜造りと、言うのが正解である。

又は、四国高知県土佐藩で表面を焼いた鰹を良く食べられたので土佐造り、とも言う。

それに対し表面の焼いて無い鰹の切り身を平らな皿に並べ、上に茗荷、葱等々の薬味を散らしぽん酢を掛け、味が染みこむ様に包丁の平らなところで叩く、これを鰹の叩きと言う。

一方鯵の叩きは、俎板の上で鯵の身を薬味と一緒に包丁の刃で細かく切るように叩く、味噌を入れると、なめろう、と呼び方が変わる。

穴子と冬瓜の博多蒸しの焚き物。

白滝素麵と黒染め椎茸の小倉のすり流しの冷やし鉢。

霜ふり牛の金山寺味噌の焼き物。

尼子の天婦羅。

西山さんの料理が次々と出て行く、最後の酢の物は、抹茶鮑の水貝だ、今朝仕入れた最高の鮑(八尺白蛤)だ。

殻から外し肝を取り裏漉しする、そこに味醂、酒、西京味噌、薄口醬油を少々たらし、味を整える鮑の共味噌である。

鮑は嘴を取り除にき、身を薄く一口大に切り酒塩で軽く洗う、抹茶と葛粉を混ぜた物を鮑の切り身に付けて、沸いた昆布出しに落とす。衣が鮮明な緑色になれば良い、火の通しすぎは鮑の磯の香りを逃してしまう。

盛付は、凍らせた昆布出しを数個小鉢に入れ鮑を入れ、水玉胡瓜をいれ、冷やした吸地を張り、共味噌、を添えてお出しする。

腕を組み板場を見ていた親方が、

「皆、良い動きだ!最後の食事、菓子まで気をぬくなよ!」

「はい、」皆、元気に返事をした。

「明政、鰹の土佐造り熱々を出せて良かった、流石公治だな、わしが教えた事をお前にきっちり伝えている」と、親方が言った。

「京都の翠光亭でやっていた鰹の土佐造り父さんが、教えたの?」と聞いた。

「そうだ、公治にはわしが教えた、わしは、喜政じぃちゃんから教わった。

藁で焼いた熱々の鰹を食べるのは天皇料理番高橋家の秘伝の食べ方だ」と、親方が言った。「あれ、ひょっとして磐鹿六雁命が、景行天皇に、献上した鰹は、これの事?」

「よく覚えていたな」と、親方は腕を組んで言った。

「父さん、田中魚屋の社長が鮑の事を八尺白蛤と言っていた。鰹と八白尺蛤(鮑)て?」と俺はおでこを押さえた。

親方はにっこりと笑い「そうだ、日本料理の始まり、磐鹿六雁命が、景行天皇に料理を献上した、食材だ」

「磐鹿六雁命が、鰹と八尺白蛤を料理して献上したら天皇は大変喜んで、磐鹿六雁命を、天皇の料理番とするおとぎ話の事!」親方は笑いながら

「おいおいおとぎ話は酷いな、日本書記に書かれている神話だ、今となっては本当か作り話かわからんが、そう言う事になっている。事実、磐鹿六雁命の子孫は、高橋朝臣と名前を変え、明治維新まで数千年もの間、天皇家の料理番だったのだからな」

「父さん俺、日本料理の始まりを、確認して来るよ!」

親方は驚いた顔をして「はあ、なんだて?」と聞き返した。

俺は、我に帰って「いや、いろんな歴史書とか、料理書で無くてもひょっととしたら、童話とか日本昔ばなしとかえーと」意味の分からない言い訳をしてごまかした。

「わかった、わかった、調べてみなさい、良い鰹が入ったのだから、仕事が終ったら皆で鰹の包丁式の練習でもしなさい、切り終えたら焼き霜か叩きにして皆で食べていいから食べるのも勉強だからな、それから酒も飲んでいいが、飲みすぎるなよ」と笑顔で言った。父は仕事には厳しいが、気持ちは優しい。

「はい、ありがとう御座います、皆喜びます」と親方に頭を下げた。

鰹の包丁式の式台は、分潮の鰹、賊潮の鰹、船中の鰹、紫陽花の鰹、雨の鰹、雷の鰹、夏風の鰹、出陣の鰹、鬼神の鰹、紅葉の鰹、小鰹、と数種類有るその中で俺は、分潮の鰹を選んだ。

鰹の尾の付け根に真魚箸を刺し吊上げ右板左板を吊し切りで卸す。

谷口君、今井君が焼き霜造りと叩きを、作ってその夜は板場皆で酒宴となった。

進士流の文献には日本料理の始まりとなる記述が有る、磐鹿六雁命が、景行天皇の行幸に同席し安房の浮き島で鰹と八尺白蛤を獲って料理して献上する、それを食べた景行天皇は大変喜んで、磐鹿六雁命を天皇の料理番とした。

西暦百十一年(皇紀七百七十一年)これが日本料理の始まりとある。

十二代景行天皇は、日本武尊の父で弥生時代後期だ、まさしく神話かおとぎ話の世界で有る。

俺は、バックタイムペーパーに西暦百十一年、八月二日安房の浮島、磐鹿六雁命と打ち込むと、西暦百十一年六月二十日ですと出た。

一ヶ月半ずれているが、間違いなさそうだ、よし!と俺は、実行ボタンを押した。

 波の音が聞こえる、船が揺れるたび足元に海水が入ってくる。思ったより小さい船だ。この揺れと粗末な船、俺は、六雁命の記憶がなければ慌てふためいていただろう。

船の床に座っている大王(景行天皇)は、「六雁命!あとどれくらいじゃ」と少しいらだった声で言った。

「はい、大王様あと半時で着きます」と六雁命(俺)は答えた。

一八七四年前は、天皇とか帝と言う呼び方はしない大王と呼ぶ。

六雁命(俺)は、大王と同じ船で大和の国(奈良県)より陸路をへて船に乗り安房(千葉県)までやって来たのだ。

「さっき聞いた時も、半時と言っておったぞ」と言うと大王は立ち上り、船の窓から海岸を見た。

当時の船は大型を作る技術は無く、事故で船が沈んでも泳いで陸まで行けるように、海岸が見えるくらいの所を航行するのである。

同じ景色がずっと続く。

行幸の目的は、大王の息子日本武尊が、戦によって平定したその地を視察する事である。日本武尊は既に安房を平定して内陸へ進んで

ここ安房の浮島には既に居ない、この時代の連絡は遅く安房平定の連絡が来てから、既に二ヶ月が過ぎている。

「居た!おりました居大王様日本武尊様の兵です」船が近づくと兵達が綺麗に整列しているのが分かった。

「おー」と大王は手を叩いた。

大王の乗った船を挟んで左右四隻ずつ全九隻、一槽の船に約十人、視察団と援軍の兵合わせて九十名が船から続々と降りて陣形を作り整列してゆく。

「大王様、この安房の浮島が最終の視察となります。お疲れ様でした」

「ウム」と大王様は、疲れたと見え海岸に建てられた休憩小屋へ消えていった。

次の日、早朝から大王は、日本武尊の残した数十名の隊に案内されて視察に出かけて行った。

残った六雁命(俺)は、漁村農村から食糧を集めた。

当時の食糧事情は質素でしかも一日に一食、大王や上層の人間ならば二食べることもあるが。

料理専門の人間はい無い、兵達が、小グループで腹を満たしていた。調理方法も至って簡単で味付けという感覚はない、焼くか、煮るか、生で、ばりばりと食べる、素材その物の味だけだ。

夕暮れ大王様の視察隊が帰って来た。

「大王様、お疲れ様でございました。直ぐにお食事のご用意を致します」

兵達が大鍋で、農村から集めた野菜と芋を海水で煮ている。

六雁命(俺)は、それを椀にすくい、「他には」と聞いた。

一人の兵が漁師小屋の前の桶を指差し「あそこに、魚と蛤があります」と言った。

見ると、鰹が数十尾と鮑が数十個ある。

「あ、神話通りだ」と思わず声を出した。

「この蛤はなんて言う名だ?」とそこにいた地元の漁師に聞いた。

「あーこれけ、八尺白蛤だ、甘くてうめえだ、

海女の、かかあ(妻)に聞いただが、普段はゆっくり動くのに捕まえる気になると身の白い方を見せて、ぴゅーっと八尺も逃げる、だから八尺白蛤と言うだ、遠くまで逃げる奴の方がうめいぞ、いっぺいあっから好きなだけ持っていってけろ」

この時代は殻の付いた貝はすべて蛤と言った、鮑も栄螺も、ツブ貝もすべて蛤なのである。

「大王様が召し上がるゆえ、貰うぞ」と漁師に言ったが、漁師は兵達と話をしていてこちらを見もしない。

桶の中から一尾の鰹と八尺白蛤(鮑)を取り、大王の居る休憩小屋に向かった。

六雁命の記憶を確かめると、料理を作る知識は勿論料理と言う概念が全然ない。

「仕方ない俺が料理するか」と一人つぶやいた。

鰹を見ると今捕ったばかりで背中の青色が残り新鮮である。

焼き霜造りにするか、時間がかかるな、取りあえず八尺白蛤を先に食べてもらおう。

八尺白蛤の肝を外し味噌で和えた、身は嘴を外し削いでよく洗い、海水と柑橘の実で味付けをし、殻に盛り付け、味噌味の肝を添え海岸近の防風を刻み散らした。

「おおーい、まだか、腹がすいたぞ」小屋の中から大王の声がする。

「只今、こちらをお召し上がり下さい」と八尺白蛤を出した。

大王は木の枝の箸で「これは、美味い、美味い」と食べている。

次の鰹を作る時間が無い、ならばこれだと、そこにあった木の板を大王の前にどんと置いた。

大王は、口をもぐもぐさせながら「なんだ、その板は?」

「はい、新鮮な鰹が入りましたので、只今より大王様の前にて料理致します」と六雁命(俺)は自慢げに言った。

「料理?ほーう、その方に何か技でもあるのか」と大王は不思議な顔をした。

料理と言ってしまった!この時代に料理と言う言葉は無いので有る。

「はい、内密に技をしたためておりましたこの技の事を料理と申します」と、ごまかした。

「ハハハーそれは良い料理とやらを是非見たいぞ」大王は余興でも見るかの様に楽しそうである。

鰹を板の上に置くと箸と包丁で水撫でを始めた、包丁式である。

頭と腹腸を取り、身を四策に卸した。

大王は見入ていた。

「これは、何かの呪いか?」

「いいえ鰹を平民の食べ物から、大王様のお食べになる鰹へと変える儀式で御座います」これも出まかせである。

「朕の食す物はいつもそうやっておるのか?」

「はい、左様に御座います」

次は鰹を焼かなくてはならない、付き人に「そこの者、松明をお渡し下され」と言うと、付き人は脇に有った松明を六雁命(俺)に渡した。

鰹の身に箸を刺し松明で鰹の身を炙った、一口大に切り分け、大きな葉の上に乗せ蒜、葱、生姜、かぼす、塩を添えた。

「鰹の焼き霜にございます。熱い内にお召し上がり下さい」

ポカンと口を開け見とれていた大王は柄杓で自分のほほをポンと叩くと、貪る様に食べ始めた。

「ほー、また、また美味じゃー、美味じゃー」と、パクパクと平らげてしまった。

最後に海水で煮た野菜と芋の煮物を出した。「六雁命、酒はないか?」

「村人から調達した、濁酒がございます」

「六雁命、只今の食は大変美味で有った」

ご機嫌で女人を連れ奥へ消えて言った。

翌日大王は、視察をキャンセルし、都へ帰ると言い出した。大王の言葉は、神の言葉と同じである。予定より早くなったが、援軍の兵約七十名を残し帰る事となった。

帰りは、二漕の船となり一漕目の船に大王と共に乗り込んだ。

「六雁命、今回の視察で一番良かった事を申す。お前の作った汁、鰹、八尺蛤じゃ。大変気に入った。それと我の為に食材にあの様な技をほどこしていた事も気にいった」

汁は、兵達が作ったのだが・・・

「恐れ多い事にございます。視察のお疲れで、腹も空いておられたので、そのように感じられたのです」と言うと、

「何を申す、わしの舌は確かじゃ。褒美を使わす、そちをわしの食い物の技人と致す。

これより、そちの子供、孫までわしに食い物の技人として使えるよう命ずる」と大王は、右手の柄杓を前へ突き出した。

食い物の技人とは、つまり料理人ということである。

「は、ありがたき幸せにございます」跪いていて礼をした。

景行天皇は大変喜ばれ食べたその場で天皇の食事を作る役目を与えたはずだが、実際は帰りの船の中で有る。鰹と八尺蛤は、六雁命が弓で獲った事になっているが実際は、村の漁師と地元の海女が取った物だ。

しかも六雁命は天皇の料理人となったのに、料理が出来ない、大王の料理人にしてしまったのは俺のせいだ、謝らなくてはと、頭の中で六雁命に話しかけた。

【六雁命さん私は、今貴方の頭に話かけています。】

【?なんだ、何か聞こえたぞ?】

【今、起こっている事を説明しますので何を聴いても声に出さないで下さい。私は未来から来た料理人で進士明政と申します、日本料理の始まりを知ろうと、貴方の中に入りました。未来では過去の人物の体に乗り移る事が出来、考えや行動を自由にする事が出来ます】

【なんだ夢か?】六雁命は声を出さず黙って目をつぶって、俺の話しを聴いた。

【私は貴方に謝らなければなりません昨日、貴方の体を使い包丁式や料理を作りました、その事により貴方は、大王様の料理人となってしまいました】

【なるほど、だから俺は、あんな事が出来たのか、自分で自分が信じられなかった、やった事の無い事や、知らない事をするすると出来てしまうのだから、原因はお前なのか】

【はい、料理の知識の無い貴方が料理人にされてしまいました】

【いや、大王様の食い物の技人になれた事は、良かった。お前が俺の頭の中を読めるなら解ると思うが、俺は、大王様の一族(親戚)だ、しかし都に帰ればただの奉公人だ、食い物の技人となれば下地官僚となり大出世だ】

【しかし料理の知識が】

【料理の知識?技の事か?食い物の技人に知識が?食い物に技を仕掛ける事は自分で考えれば良い事だ。頭の中から出て行てくれ】

【解りました】

俺は、六雁命の右の腕のバックタイムペーパーの停止ボタンを押し現代に戻った。

西暦百十一年の時代では、料理や技術がまだ無い、食材を煮る、焼く、生で食べるだけで、味付けと言う概念も無いのだ。

六雁命はこれから料理人として自分で考えれば良いのであって、どんな料理を作っても自由なのだ。

彼の考えた料理は、伝えられ現代日本料理の知識になっているかもしれない。

大王(景行天皇)が磐鹿六雁命を、自分の料理人とした時が日本料理の始まりなのだ。

次の日の早朝俺は、居ても立っても居られなくなり高橋神社へお参りに行った。

日本料理の祖神磐鹿六雁命が主祭神で祀られ延喜式にも記録のある古い神社である。

西暦六百八十四年に磐鹿六雁命の子孫が高橋朝臣と名前を賜たため、高橋神社と称した。

この地は、景行天皇の息子日本武尊が安房より内陸に進行し平定した地で、五百七十三年後には、磐鹿六雁命の子孫高橋朝臣は、この地を支配した。

二礼二柏手を打ち磐鹿六雁命に勝手に乗り移った事を謝り、天皇の料理番としての職を全うした事を讃えた。一礼をして参拝を終え帰途についた。


  九、鮎と海腹川背 

「おはよう」

「おはようございます」

俺が調理場に入ると、板前達皆は元気に挨拶をした。

いつもの朝である。

「明政さん山水亭からの天然鮎が届きました」と谷口君が鮎を出した。

「あ、喜政じぃちゃんからだ親方が頼んでおいた長良川の鮎だ」蓋を開けると大きさの揃った鮎が二十匹入っている。

「長良川て何処ですか、栃木県?」と谷口君が聞いた。

「岐阜県だ、鵜と呼ばれる水鳥が川の中で鮎を追いかけて丸飲みして捕まえるのだ。そのまま飲み込まない様に喉の元をしばっておく、鵜は首が長いから五匹や、六匹はへいきで、十匹位までの鮎を飲みこんで首の所で貯めておけるのだ」

鵜を使い、鮎を捕まえる漁を鵜飼と言う。日本の伝統ある漁で奈良時代から行われて来た。

「でも鮎飲み込んでそのまま何処へ飛んでいってしまったら?」

「谷口君、それは残念と諦めるのだ」

「へー」と谷口君は残念そうな顔をした。

「冗談だよ、鵜一羽ずつに紐を付けておいて逃げないように鵜匠と言われる人達が操る。腕の良い鵜匠は一度に五、六羽の鵜を操る鵜飼の漁は夜篝火を焚いて驚いた鮎が泳ぎ回って鵜が鮎を捕まえやすくするのだ」と俺は自慢げに説明した。

「へーそうなの?」谷口君は難しそうな顔をしている。

「谷口君には無理だ、鵜一羽の紐でもこんがらがって鵜に操られてしまうから」と俺は、谷口君をからかった。

「アハハー」とそれを聞いていた板場全員が笑った。

「あのー明政さんいつも使っている栃木県烏山の鮎では駄目なのですか?」と今井君が不思議そうに言った。

「今井君いい質問だ、栃木県烏山の鮎も美味しい鮎だ、でも明日のお客様の木村さんは岐阜県出身の鮎好きで、烏山の鮎は何度も食べたそうだ、しかしどこか味が違う、美味いが何かが違うと言うので、喜政じいちゃんに長良川の鮎を送ってもらった。細工は流々仕上げを御覧じろ」と俺は、自慢げに言った。

細工は流々仕上げを御覧じろとは、自分なりに色々考えて細工したから結果を見てくれと言う意味である。

次の日の夕刻木村さんが、四名の仕事仲間を連れ立って鮎を食べにやって来た。

「いらしやいませ」夏子がカウンターに案内した。

「まずは、ビールで乾杯と行きますか」と木村さんが言うと、

「お、いいですねそうしましょう」「杯!」と、楽しそうにビールを飲み始めた。

その声を聞いた俺は、調理場の皆に指示を出した。

「今井君一寸豆塩多めにして茹でて下さい」「了解です」

「加藤君胡麻豆腐、柚木味噌でなく銀餡で天に山葵で」

「はい了解しました」と加藤君は反応した。

俺はビールに合う味付けを選択して指示を出した。

「明政君これ美味いね」と、木村さんは、胡麻豆腐をほほ張っている

「いらっしゃいませ、木村様いつもごひいき下さいましてありがとう御座います」と親方が暖簾を分け現れた。

「おー親方いつも美味い料理ありがとう、今日も鮎の塩焼き頼むよ」

「分かりました木村様の為にいつもと違う鮎をご用意致しました、鮎の塩焼きの前に平目の打ち抜きの造りでもいかがでしょうか?」

「いいね、平目の打ち抜き皆食べるよな」

と皆の方を見た。

四人は、どんな料理なのか理解していないみたいだが、「はい頂きます」と元気に言った。

平目の打ち抜きの造りとは、押し寿司の形の中に、搔氷を敷き詰めその上に笹の葉を置き笹の葉の上に、薄造りより少し厚く切った身を並べる、その上に又笹の葉を置き搔氷を隙間なく敷き詰め、押方の蓋で押さえ力いっぱ押すと氷に挟まれた平目の打ち抜きの造りとなる。

平目の旬は脂の乗る冬だが夏に美味しく食べる方法がある、それは冷たく冷やすのである、しかし氷水などで洗いにしてしまっては平目の旨味が逃げてしまう。

氷で挟んで冷やすと、本来の平目の味を楽しむ事が出来る。

大きめの皿に氷ごと盛ったらぽん酢、薬味を添えてお出しする。

「うわーうめえ、美味しい、厚切りのふぐのようだ、噛めば噛むほど甘味が出てくる平目は、こんな味だっけ?」と木村さんの仕事仲は喜んだ。

「皆さんは鮭のルイベ食べた事がありますか?ルイベはアイヌ語で溶ける食べ物と言う意味です、始めにシャキシャキとした食感があり次に口の中で鮭の旨味が広がります。平目の打ち抜きもそれと同じです、平目だけでなく鯛や鱸の打ち抜きも美味いですよ」と親方は説明を加えてた。

カウンターはお客様と板前が直接コミュニケーションの出来る場で、板前の話術や説明も料理を美味しくするのである。

俺は親方に目で合図を送った、親方は合図を確認すると、

「皆さん木村さんご注文の鮎の塩焼きが出来上がりました」と言った。

黒塗りの平盆に塩で川を描くそこに焼いた、鮎を乗せ、タテの葉を散らす、鮎の清流盛である。

「わーと」歓声が上がる。

「たて酢でお食べ下さい」と親方が言うと仲居が鮎を銘々皿に取り分け「どうぞ頭からお食べ下さい」と、進めた。

「木村さん、いつもは栃木県烏山の鮎ですが今日は木村さんのために県外から仕入れました、この鮎の産地わかりますか?」と親方が聞くと、

「えーいくら俺が、鮎好きでも何処の産地かまでは、わからないよ!」と木村さんは箸を持った手を振った。

「いえ、木村さんなら解るはずです、まずは食べて見て下さい」と親方は自信を持って言った。

「親方そんなに、煽てたってわからないと思うよ」と木村さんは鮎を箸で取り上げ、たて

酢を少し付け頭からガブリと食べた。

四人は興味津々で木村さんを覗き込んでいる。

「どうですか?」と親方が言うと、口をもぐもぐさせながら木村さんは、

「なるほど、そう言う事か、わざわざありがとう」

木村さんは目をつぶり淋しい様な嬉しい様な顔をして静かに何度も頷いている。

木村さんに注目していた四人の一人が聞いた。

「木村さんどこの鮎だか解ったのですか?」

「ああ岐阜県長良川の鮎だよ」と、木村さんは目を赤くして答えた。

四人全員がそろって親方を見た。

「ご正解です」と親方が言うと。

四人は口々に「スゲー」「何で?」と歓声を上げた。

「俺に産地など解るものかと思いながら鮎を食べたら、子供の頃の記憶が突然読み返えって来た。夏川で、裸で、ちんちん丸出しで鮎を捕まえた記憶だ、じぃちゃん、ばぁちゃん、おやじ、おふくろ、兄き、妹、皆で鮎を焼いて食べた、楽しかった、昔は良かった、この鮎はその時食べた味だ、忘れ様にも忘れられない味だ」と目頭をおさえた。

「あ、そう言えば木村さんの実家岐阜でしたね」と一人が言った。

木村さんは頷くと「岐阜にいたのは中学までだ、高校は東京、就職して栃木県に来た。

しかし驚いた、子供の時の味の記憶て残っているのだな、皆、熱い内に食ってくれ、親方今日はありがとう」木村さんは目をおしぼりでこすると元気に言った。

川魚の中で下流に住む鮎は独特な特徴を持つ魚である。上流、中流、で昆虫等々を餌として食べる岩魚や尼子と違い、水中の石や岩などに生える苔を食べる、餌を食べない鮎を釣るには、おとりの鮎と喧嘩させる友釣りという方法で釣るのが一般的だ、この独特な友釣りに魅了され病み付きになる釣り人も多い。鮎は香魚とも呼ばれ餌となる苔により味や香りが変わる。日本全国全ての川で味香りが異なるのである。美味しい、不味いではない小さい頃食べた鮎の香りや味は、味覚に無意識に記憶されるものである。

そして盛り付けなども独特である。

鮎の口先は苔を食べるためとんがる、蛇の口に似ていると言われ、古来の人々は鮎の口を不吉とした、盛る時など口を見せない様に盛ったのである。姿のまま魚を焼くには串を打って焼く、踊り串、波串、登り串、うねり串と、数種類の打ち方があるが、鮎だけは不吉とされる口を下、頭を左に向く様に登り串で打つ、他の打ち方では頭が上になって口が見えてしまうからだ、盛付も腹を下にして盛り付ける。

海腹川背という言葉がある。

海の魚は、腹を手前に、川の魚は背を手前に盛るとか、焼く時に海の魚は腹から川の魚は背から焼くとか、卸す時に海の魚は、腹から川の魚は背から包丁を入れ卸すとか、習った事がある人は間違いである。

海腹川背という言葉は、板前や料理人の調理用語では無く、神事の用語で神棚に供える時に海の魚なら腹を神様に向けて、川の魚は背を向けて御供をすると言う、神事用語である。それを調理作業に当てはめると、つじつまが合わなくなる。神事用語決が調理用語と勘違いさた原因は、包丁式の作法と決まりにある、包丁式は、包丁師と言われる板前が行う、その作法は神事の決まり事や作法を取り入れた所が多い。

包丁式では、海の魚は腹で、川の魚は背で藻分けしなさいと言う意味なのだ。

藻分けとは包丁式の水撫の最後に魚を撫でる作法の事を言う。この魚は、包丁作法により清められました、清め終わりましたと言う意味で、海の魚は腹で川の魚は背で藻分けしなさい、と言う意味である。板前の頂点の包丁師が言った神事用語が、調理用語と混ざりあった物と考えられるが、日本料理包丁式の書日本料理法大全には、海腹川背の事が書かれている。

「ありがとうございました」と、玄関で親方が挨拶をした、木村さんは振り返り言った。

「今日は、長良川の鮎食べられて良かった

しばらく、じじ、ばば、の居る岐阜にも帰って無いから今度の休みに家族で行って見ようと思う」と木村さんは言った。

「そうですかご家族の皆さん喜びますね」

「あ、そうだ、来月予約した宴会の時、鮎の煮浸しが食べたいな」

「かしこまりました。長良川の鮎でおつくりいたしますか?」と親方が聞くと、

「いやいや栃木県烏山の鮎で頼む、色々な川の鮎を食べたくなって、栃木に来たら栃木の鮎の味を堪能するよ」と木村さんは両手を広げて言った。

木村さんと仕事仲間四人は元気に帰って行った。


   十、鶴の呪文

夜、俺はベッドに横になり進士流の文献を読んでいた。

「明政さんお行儀悪いわよ、寝転がって本を読むなんてしかもそれ進士流の文献で貴重な原本でしょう」

「あーごめん、机の上で読むよ実は、包丁式の稽古の事で悩んでいて、包丁式は魚と鳥が有る事は知っているよね」

「もちろんよ!こう見えても大草流家元の娘で女包丁師ですから、魚と鳥の包丁式が有る事くらい知っているわ」

「魚はどんな種類の魚でも市場で手に入るけど、鳥はそうは行かない、仕方なしに鶏で練習をしている」と、俺が不満そうに言うと、

「うん、翠光亭の父も私も、鳥の包丁式の練習は、鶏でやっていたわ、鳥は皆構造が同じなんじやないの?」と夏子は言った。

「どの鳥も構造は同じだ、鶏で十分に切汰の練習になるけど、本当の雉、白鳥、鶴などの本物の鳥を切って見たくて切汰図を見ていた」と俺は理由を説明した。

「そうなの、大事な文献だから大切にね、寝転がって見るのは駄目よ」と夏子は、台所へ歩いて行った。

俺の母親、夏子の母親、そして夏子は、女包丁師で有る、俺と夏子の結婚式の時は、新婦の夏子が包丁式を披露した。

夏子は、子供の頃から母親の裕子さんと一緒に、大草流を伝授された。

女包丁師は十二単衣で執り行う事となる

結婚式会場に越天楽が流れ始めた。

司会者が「皆様只今より包丁式をご覧下頂きます本日の包丁式は新婦による包丁式と伺っております」と案内をした。

越天楽が流れる中、舞台袖から加藤君が三宝を持っても現れ絹取りの儀を行なう、次に公好君が持出しの儀を行ない、いよいよ包丁師の登場で有る。

司会者が「包丁師を紹介致します、本日の花嫁であり、大草流御家元の娘さんでもあります進士夏子で御座います、式題はあやめ之鯉で御座います、そして介添人兼袖払いは、夏子様のお母様であらせられます大草裕子様と新郎の進士明政様で御座います、どうぞごゆっくりと、ご高覧下さいませ」とアナウンスした。

夏子が俎板の前に座り包丁式が始まると母裕子は右側、俺が左側に座り二人は夏子の十二単衣の袖を持った。

女性が包丁式をする場合の衣装は十二単衣で執り行う決まりがある十二単衣は十二枚の衣の襟をずらしながら着る、と思いの人がいると思うがそれは間違いである。一枚の襦袢に襟がずらして二枚から三枚付いているのである、せいぜい三、四枚の重ね着なのである。実際に十二枚重ねて着ると、相撲取りの様になって身動きが取れない、しかし三、四枚の重ね着だからと言って軽快に動けるわけではない、特に手の所は重くなり包丁式の様に手を上げたり下げたり魚を持ち上げたりと、なると大変で有る。

その為右側の袖と左側の袖を持ち包丁、真魚箸の動きを補佐する袖払いの役が二人必要となるのだ、しかしこの袖払いの役は誰でもできる訳ではない、次の包丁の動きや真魚箸の動きが分かる包丁式の出来る人間でないと出来ないので有る。

夏子の友人達は小声で、「夏子の家が料理屋とは、知っていたけど包丁式なんか出来るの?」と一人の女友達が言うと「私も知らなかった。ただのおてんば娘だと思っていた」と、もう一人の女友達が言った。その向こう側に座っていた女友達が身を乗り出して「だいたい包丁式は、男の人がするものでしょうやっぱり、夏子はおてんば娘ね、昔から変わらない」とひそひそ言い合っている。

あやめの形に鯉がさばかれて最後に仕舞い包丁に入った。会場は、夏子の包丁さばきに魅了されていた。

夏子が最後に礼をすると会場は、拍手と感激の声に包まれた。

古式ありの楽しい俺と夏子の結婚披露宴は無事終了した。

女包丁師で有る夏子は包丁式の切汰図が貴重で有る事を心得ている、しかし明政と同じく鳥の切汰は、鶏でしか稽古したことがない。

夏子は、明政の気持ちも理解出来るので有る。

天皇家の正月は、毎年一月二八日に宮中清涼殿の庭で鶴の包丁式が行わる。

天正三年、正親町天皇(一五七五)の時、高橋宗国が病の為、正月の鶴の包丁式が出来ず、高橋家直門、門人などの各流派に依頼をした。数ある流派の中、織田家家臣進士流の明智光秀が、鶴の包丁式を執り行う事となった。

沢山の弟子や門下がいる中で進士流が選ばれたので有る、執り行うのは信長の料理人で有る明智光秀だ。

俺は、本物の鶴で包丁式をしたいと、明智光秀に乗り移る事とした。

天正三年(一五七五)京都清涼殿明智光秀とバックタイムペーパーをセットして実行ボタンを押した。

雪でも降っているのか?寒い、周りを見回すと京都清涼殿の庭に仮設された包丁式用の準備小屋である。

「右左衛門鶴を持って参れ」

「へい、只今」と矢田右左衛門が鶴に掛けてある更科を外して三宝の上に乗せこちらえ持って来た。

「喜平太、包丁、箸の三宝はできたか?板紙を挟んでおけ」と佐々木喜平太に指示をだした。

「治之介、時は」と阿倍治之介に聞いた、「はい、辰の下刻です」

「よし皆抜かりなく頼んだぞ、合図までしばし待機じゃ」と大隅有元は、緊張気味に言った。

くるりと光秀(俺)の方に向きを変えると、「明智様助かりました。お引き受け頂き大隅有元ご恩は一生忘れません」と頭を下げた。

「いえ、いえ、大隅様私などで良かったですか?」と、言うと

「明智様が鶴の式包丁を、お受けして頂けなければ私は切腹ものでした」と又頭を下げた。

鶴の式包丁の代役を引き受ける者が他にいなかったのかもしれないと思っていると後から声がした。

「ハハハ、宮中での切腹は御座いません、切腹は武士だけですよ、大隅様」

振り向くと束帯、狩衣姿の男達三名が立っている、光秀の記憶を確認すると三人は、

元足利将軍家料理人大草流、大草公政、

織田家料理人四條流、四條隆安、

織田家料理人五十間流、五十間兼長で有る。

光秀は、織田家の武将で有り料理頭なので四條隆安と五十間兼長は、光秀の部下となる。

「これは皆様お揃いでご苦労様です」と光秀は、お辞儀をした。

「明智様、段取りはいかがですか?」と四條隆安が言った。

「はい、大隅様が届こうりなく準備くださいましたので、万端で御座います」

「明智様の、鶴の包丁式楽しみに参りました」と五十間兼長が言うと、

「いえ、いえ、五十間殿が譲って頂けましたので感謝申し上げます」と頭を下げた。

「いやいや明智様、頭をお上げくださいこの兼長、藤原山陰卿の文献を解読しつつも鶴の包丁式は、到底私の手には負えません。進士流の明智様だから出来るのです。譲ったなどと、とんでもございません」

「今すこしで時ですぞ、我々は会場で鶴の包丁式拝見致しましょう。皆様参りましょう」と大草公政が声をかけた。

一同は嬉しそうに会場へ向かって行った。

清涼殿の庭に笙の音がなり始まると、越天楽の舞の演奏が楽師により始まった。

宮中では、冠婚葬祭全て雅楽の越天楽が楽師によって演奏される、この雅楽は洋楽と違いリズムと言う物が無い、太鼓の音に合わせて演奏するのだ、その為太鼓が一番前にくる、鳴り物の笙、篳篥、龍笛、高麗笛、神楽笛、琵琶、筝、和琴、などは太鼓の後ろに座り全て打ち物の太鼓に合わせて演奏するのである。会議などの集まりの事を打ち合わせと言うのはここから来ているのである。

正親町天皇が清涼殿の廊下をゆっくり歩いて来た。

清涼殿の中央に座ると越天楽が止まった。

進行役の手が動く。

白丁と直衣をかぶった四人の板前が、八本の足の付いた大俎板(八足俎板)を持ち控え用の準備小屋から清涼殿の庭へと出て行った。

まだ若いが落ち着いている。

慣れた手付きで八足俎板を、清涼殿の庭中央天皇の正面に置いた。

鶴、包丁、真魚箸、板紙、が置かれて御しつらえの儀が終わった。

「よし参る」と、光秀(俺)は気合いを入れた。

式題は、千年の鶴。

「ビシッと決めたるで」

意気揚々と俎板の前まで進んだ、まずは俎板調べ俎板に、がたつきがないか、鶴、包丁、真魚箸、板紙の位置がずれていないか調べる作法で有る。

俎板調べを済まし懸かりに入る。

何度も鶏で稽古をしている、魚の水撫でより鳥の水撫での方が簡単なのだ。

板紙を鶴の上で、のの字を書くように三度回して切汰に入る。

見ている観客、天皇は静かだ、物音一つ立てない。

箸を崩して左手で鶴の足を持ち右手の包丁で足の付け根を切り足を外すここで一つ目の呪文を唱える「御鶴御足御****」

次に真魚箸、と包丁で鶴の羽を開き羽の元を切る上を向け左右に分ける、頭の付け根を、切り頭を左に向けて俎板中央に置く。

鶴の首は、十字を組んで頭と首で千の字を表現す、ここで二度目の呪文を唱える「御千御年御頭鶴******」

胸腹は、二つに切り羽根の下に左右に置く。足を切り、頭と首で表現した千の字の下に置き千年の鶴の完成だ。

真魚箸、包丁で俎板全体を三度撫で、包丁で鶴の頭を三度拝む、真魚箸を五行、包丁を四徳に立て最後の呪文を唱える。  

「千年久阿羅下那州多唖安泰鶴******」

仕舞い包丁をして真魚箸、包丁を崩す。

俎板の下を撫で俎板を閉じる、三尺下がり礼をする。

静かに立ち上がり準備小屋へ戻った。

鶴と鶏では骨の構造は同じだが、鶴は体が大きいく骨が硬い、関節に包丁が入らなければ切り分ける事が出来ない。

すんなりと出来ると思っていたが終わって見ると全身汗でびっしょりだ、寒いと思っていたが今は暑い。

「お疲れ様です」大隅有元が声をかけた。

「有難う御座います。無事終了致しました」光秀(俺)は、額の汗を更科で拭いた。

「明智様、鶴の式包丁式この大隅有元とくと拝見させて頂きました。

包丁捌きもさることながら、鶴の呪文は、この大隅まだ伝授されておりませぬ、失礼ですが明智様はどちらにて伝授されましたか?」

と、大隅有元が言うと、後から声がした。

「明智様素晴らしい鶴の包丁式でございました、今の話の鶴の呪文、我々も聞きとうござる」

振り向くと、大草公政、五十間兼長、四條隆安、の三名が立っていた。

「これは、皆様、見て頂き有難う御座います」

「明智様お疲れの所、大変申し訳ないが大隅殿を始め我々各流派も鶴の包丁式の呪文を是非ともお聞きしたい」と五十間兼長が真剣な顔でこちらを見た。

「まさしく同じです是非とも鶴の包丁式の呪文の話を」と、四條隆安も身を乗り出している。

俺は、慌てての光秀の記憶を確認した。

織田家料理番は、進士流明智光秀とその部下に五十間流、四條流がいる。

足利将軍家の料理番は進士流明智光秀と、大草流だったが、光秀が織田信長の家臣となった為、大草流が将軍家料理番となった、しかし二年前に足利家は滅亡したので現在は、無職で有る。

つまり進士流光秀と五十間流、四條流、大草流は、良く知る仲なのである。

特に四條隆安の父は、三好家の料理番から織田家料理番に移った。

四條家が料理番として仕えていた三好家は、公家で在りながら松永久秀と共に武力にてその勢力を伸ばし、永禄の変、永禄八年(一五六五年)では、室町幕府十三代将軍足利将義輝をも殺害している。

そして織田信長とも敵対する事となる。

天正元年(一五七三)河内国(大阪)若江城の戦いであっという間に信長に滅ぼされた。三好家の料理番として仕えていた四條流の四條隆益はじめ部下の板前達も捉えられ、信長の前に引き出された。

「お前たちは、料理人あるのなら料理を作ってみろ、美味い料理ならばわしの料理人として抱えよう。不味い料理ならば料理人としての価値はないから命はないと思え」

四條流の料理人たちは、最高の食材を遠方より取り寄せ四條流の秘事を持って料理を作り信長の前に出した。

すでに信長の料理番だった進士流の明智光秀も同席し試食会となった、盛り付けたられた料理は素晴らしく四條流秘伝公家祝いの料理である。

光秀は感心しながら箸を取り吸物を、一口すすった。

その時「しまった!」と光秀は思った。

脇を見ると吸物、煮物を食べていた信長が箸を膳に置くのが見えた、そして四條流の料理人達に目を向けると、

「この料理は水ぽく不味い!料理を作る事が専門のそちたちがこんな不味い料理を作るのでは料理人としての価値は無い、全員殺せ」と、席を立とうとした。

「信長様お待ちください今一度機会をお与え下さい、明日今一度この者たちに料理作らせて下さいと」光秀が言った。

信長は光秀を見ると、好きにせいと言うとその場から去っていった。

四條隆益は、顔を上げ光秀に言った。

「明智様、御気ずかいありがとうございます本日の料理は手前共が、持てる知識、技術、作法を持って精魂作った料理でございます。明日もう一度作った料理でも結果は同じでございます、私共の寿命が一日延びただけの事です」

「確かにそうかもしれません、しかし一日よりもっと寿命が延びるかもしれません。

今日の料理の食材、味付け、盛り付け、調理技術、作法、どれを取っても素晴らしく四條流の秘伝を見ることができた美しい料理です、

しかし誰が試食するか考えていません、試食する者はどんな生い立ちでどんな物を、食べて来たのか、そしてどんな味付け、いかなる盛り付け作法が好きなのだろうかと考えましたか?信長様は、小さい時から野山を駆け回り成人してからは、数々の敵と戦い戦場を生き抜いて来たお方、そんな信長様を考えれば、どんな味付け、をすれば美味いか解ると思います、この料理は水ぽく不味いと言った。

明日の料理はどんなな味付け、盛り付けにしたら良いか分かりますな!」と、光秀は笑った。

次の日四條隆益は、信長に料理を出した。

信長は昨日と同じく吸物と煮物を、あっという間にたいらげ膳に箸を置いた。

「美味かった、四條隆益をはじめ四條流料理人達は本日より織田家料理番と致す」

と立ち上がり振り向きもせず

「光秀良くやった」と、言うと部屋から出て行った。

光秀の行動により四條流は、織田家の料理人として仕える様になったので有る。

日本料理は、出し汁、味噌、醬油、等で味付けをする。

そば屋、寿司屋、鰻屋、等の板前達は、返し、すし酢、たれ、昔からの味を守り続け。

いつ行っても変わらない、その店の味を楽しませてくれる。

しかし包丁家、料亭の板前達は少し違う、お客様の好みがわかれば、一名様でも味付けを変える、甘味、塩味、酸味、苦い、辛い、の五味を、お客様に合わせて変えるのだ。

信長は、自分の味付けの好みを四條隆安に光秀を通して伝えたのだ。

一人一人味付けを変えてお出しする料亭板前の基礎は既に戦国時代の信長より始まっていたのだ。

料亭では、お馴染み様という言葉、がよく使われる。

常に連れだって来る二名以上の客の事を常連様と言うが、お馴染み様は、意味が異なる、お馴染み様一人一人の好みや、好き嫌いを、全て把握記録して提供しているので有る。

よって味の好みの分からない一見様はお断りせざるを得ないので有る。

なんとわがままな!と思われるが裏を返せばお客様の満足を得るための配慮なのである。

初めて行く料亭へ飲食に行くには、その店の馴染み様の客と一緒に行き顔と好みの味を覚えもう。

三度来店すると馴染みとなる。

店にメニューというものはなく客は、店側の出される料理を食べる。

先付、前菜、吸物、造り、焚合せ、焼物、揚物、酢の物、食事、菓子、通常十品位となる。この一つ一つの料理を、一献と言い、それが連なるから献立となる。

一つの料理を書いて張り出した物は、お品書きと言う。献立とは言わない。

戦国時代に一見様お断りの料亭が有った訳ではないが、後の時代、京都を始め各地にお客様一人一人の味の好みを把握した一見様お断りの料亭が増えて行ったので有る。

光秀(俺)が行った鶴の包丁式の切汰は絵図として各流派に伝わっている。

しかし鶴の呪文は秘密とされ、各流派共知らないのだ。

光秀(俺)は、素直に「はい解りましたお伝え致します、呪文は三度御座います。

一度目は足を切り分けた後に

二度目は頭を切り分けた後、

最後は切汰が終わった時に唱えますと、鶴の呪文の説明をした。

「そうであったか、秘伝の鶴の呪文を知っているのは進士流の明智様と高橋家だけだ」と大草公政は顎を撫でた。

「その通りで御座います、この大隅家も、御子息の宗頼様も伝授されておりません、明智様、宗頼様を始め大草様、五十間様、四條様、そしてこの大隅にも鶴の呪文伝授いただけませぬか?」

「お願い致します」と大隅は頭を下げた。

「解りました鶴の呪文を皆様にお伝えいたしたいと存じます」

その時

「皆様お集まりですか、只今の鶴の式包丁、天晴で御座いました。明智様にはご足労いただき礼を申し上げます」と、少納言早乙女荘英卿が扇子を口にあてながら現れた。

「これは、これは、早乙女様、この様な所へ」と、大隅有元がひれ伏した。

「私は、高橋家の上に立つ者として今年の鶴の式包丁の心配をしておりました、宗国様が病にて執り行えない、であれば御息子の宗頼様か大隅有殿が、執り行うのが筋で御座る。

しかし両名共に鶴の呪文を知らぬとの事。

よって織田家家臣、明智様が、お受け下さった。

しかしどうもまずい事になりました、何か気付いた方はおりませんか?」

そこにいた一同は目をパチパチさせるだけで言葉がない。

「私は気ずきませんでした」と大隅が言うと

「私も気ずきませんでした」「私も」「何も」と一同は顔を見合わせた。

「ハハハー各流派の家元とあろうお方達でもお気ずき御座らんか?しかしこの早乙女荘英を誤魔化すことは出来ません。

明智様に重大な間違いがありました。

見て見ぬふりは出来ずこうしてここまでやって参りました。

そして今聞きました、鶴の呪文を各流派にお伝え申す事も、お止めせねばなりますまい。

鶴の呪文は、高橋家の秘伝の秘にて外部の流派に伝授することはなりません」と、早乙女荘英卿はそこまで話すと扇子を皆に向けた。

「少納言様に申し上げます。明智様の間違いとは、どの様な事で御座いますか?」と大隅有元が聞いた。

皆に向けた扇子を口に戻すと、

「その事は、後日改めて席を儲けてお伝え致す事とし、鶴の呪文は、誰にもお伝え願わぬ様に、固く申しつけます。

明智様、では後日お会い致しましょう。

参るぞ!」と部下に声をかけ去って行った。

「明智様本日の鶴の包丁式で何か間違いを?私は気が付きませんでしたが」と、大隅が言った。

光秀(俺)は、少し考えたが思い当たるふしが無い。

「大隅様、少納言早乙女様も包丁はなさいまか?」

「はい、それは、それは熱心に宗国様のご指導を受けに」

「そうですか、想像ですが、鶴の式包丁を見て間違が有ると申されたのは、呪文の事では、ないかと」

一同は「どういう事ですか?」と、驚いた顔をして光秀を見た。

「早乙女様がおっしゃっていたのは、勘違いであつて間違の事では無いと思います。

ただ鶴の呪文は、この件がおさまり次第皆様にお伝え致します。

それまでしばしお待ちください。

大隅様、次に早乙女様ががいらした時に、皆様にもご同席して頂くのはいかがでしょうか?」

「了解しました。宗国様はご病気ですので、ご子息の宗頼様、大草様、五十間様、四條様そしてこの大隅全員で、早乙女様にお会いしましょう。皆様宜しいですか?」

「勿論で御座います」と大草公政が言うと。

「異論御座らん」「是非とも」と五十間兼長、

四條隆安は答えた。

数日後少納言早乙荘英卿と合う日がやってきた会合場所は高橋家である。

高橋家の残雪の間の前に来ると早乙女荘英卿は、付き人二人に廊下で待つように扇を振った。

残雪の間の中では、高橋宗頼、大草公政、五十間兼長、四條隆安、明智光秀の五名が正座をして待っていた。

後から入った少納言早乙女荘英卿が、床の間を背にして座り口を開いた。

「さて、大隅殿早々のご手配、礼を申します。そして大草殿、五十間殿、四條殿、明智様、宗頼様、ご足労頂き礼を申す」と、言うと全員を見渡した。

「各々方、先日の清涼殿においての鶴の包丁式の事でお聞きしたい事がある。

特に代役を務められた明智様には、詳しくお聞きしたい」と言うと、扇子を開き、顔を仰いだ。

光秀(俺)は、「はい何なりとお申し付けください」と、お辞儀をした。

「それでは明智様に伺います。鶴の式包丁の呪文を間違えましたしたな。

私は、高橋宗国様より包丁式の伝授を直接受けて居りますので、申し上げますが、あの鶴の呪文は、間違いです。

ここにおられる方々は、包丁式もお出来になられるのにご存じないようですが、明智様が申された鶴の呪文は、間違いで有ります」

と、勝ち誇った様に言った。

一同は黙っていた。

「早乙女様に申し上げます、お恥ずかしながら、この大草公政は、鶴の式包丁の呪文を伝授された事が、ありません。

しかしながら明智様は、進士流の家元から伝授されたと伺っております」と伏したまま言った。

「ほう、では明智様へお尋ね申す、進士流の家元は、誰から高橋家秘中の秘、鶴の呪文を伝授されたのですか?」と光秀を見た。

「はい、申し上げます、進士流家元で有った祖父の進士蔵人は、その祖父の進士清蔵より伝授を受けたと記憶しております」

「ほう、その進士清蔵とやらは、誰から高橋家秘伝の鶴の呪文を伝授されたのかな?その又祖父の誰かとでも言ってお逃げなさるか?

それでは何処までたどっても拉致はあきませんな、仕方が無いはっきり申し上げます。

私は、宗国様より直接包丁式を習っております。

鶴の呪文は、鵠鵠長久代那州多陀安・・・ではないか、宮中天皇の前にての正月祝いの鶴の庖丁式にて、この間違いは天皇家に対する大罪に匹敵する。

各々方、このご責任はどうお取りなさりますかな?」と、早乙女荘英卿は、自信たっぷりに言った。

大隅、大草、五十間、四條、明智、高橋宗頼、六人は、そろって顔を上げポカっと口を開けて何も言わず早乙女荘英卿を見た。

誰が言うか考える間もなく宗頼が真っ先に言った。

「少納言早乙女様に申し上げます!この高橋宗頼に発言させる事をお許しください」

早乙女荘英卿は、高橋宗頼を見た。苦笑いをしながら

「宗頼様が、責任を取ると?」と、言ったと同時に、宗頼は「申し上げます。ただ今、早乙女様が鶴の呪文と申されました呪文は、鵠(白鳥)の仕舞の呪文でございます」と言った。

「宗頼様!」と大隅が高橋宗頼の言葉を遮った。

鶴の呪文は、大隅、大草、五十間、四條、高橋宗頼も知らない。

それに対し、鵠(白鳥)の呪文は庖丁式を習得した上級者なら誰でも知っている。

光秀の唱えた鶴の呪文は、間違いではなく早乙女荘英卿にはまだ知らされて無い秘の呪文なのである。

無知の勘違い、早乙女英荘卿は鵠(白鳥)の呪文と鶴の呪文が同じ呪文だと思っているのだ。

相当のバカだと皆が思った。

早乙女荘英卿を見ると、真っ赤な顔をしている。

包丁式初心者に、高橋家秘伝の鶴の呪文を教えるはずがない。

本人も気が付いたようだ、皆を呼びつけ振り上げたげんこつをどこに落とすのだろうと、その場にいた皆は思った。

高橋宗頼はまだ若い後先考えずに言ってしまったのだろう、しかしもう取り返しが付かない。

少納言早乙女荘英卿の顔は、赤色から青色に変わった。

扇子で膝とたたくと「えーい、もう良い!この件は、忘れる事にいたす、各々方励まれよ」と、立ち上がり山田帰るぞと付き人を呼んでそそくさと帰って行ってしまった。

残った六人は、残雪の間で、「宗頼様、良く申されました。この兼長は、胸がスーッとしました」と五十間兼長が言うと、

「いやいや、あれはまずかったです。私が、あれ以上の宗頼様の発言をお止めしなければ、大事になっておりました」と大隅有元が言った。

「いやーまいりましたな、鵠(白鳥)の呪文を鶴の呪文だとは、この隆安も驚きました。宗頼様ありがとうございました」と四條隆安が宗頼に礼を言った。

光秀に乗り移っている俺は、胸をなでおろした。

高橋宗頼が、正してくれず、光秀みずから早乙女荘英卿の勘違いだと指摘していたら、大変な事になっていたかもしれない。

「明智様、これで一件落着ですな」と、大草公政は、ほっとした様子で言った。

「皆様ご列席頂き有難う御座いました。ご一緒出来た事により大変心強かったです、有難うございました。大草様が申された様にこの件は、ぶじ解決致しましたので、お約束の鶴の呪文を皆様にお教えいたしたいと思います。ここに呪文表を、五通用意致しました、秘伝の鶴の呪文だけでなく皆様ご存知の鵠(白鳥)を始め各鳥の呪文も書いて御座います」と光秀(俺)は、高橋宗頼、大草公政、五十間兼長、四條隆安、大隅有元の五名に一通ずつ呪文の書かれた包みを渡した。

「これは、これは、有難う御座います」

「誠に」

「かたじけない」

「ありがたく頂戴します」

と皆嬉しそうに受け取った。

「明智様、有難う御座います。あのー大変失礼かと思いますが一つ伺っても宜いでしょうか?」と、高橋宗頼が包みを受け取りながら言った。

「はい、宗頼様何なりとお申し付けください」と光秀(俺)が言うと、高橋宗頼は、もじもじしながら、

「えーと明智様は、鶴の呪文を、祖父の進士蔵人様から伝授されて蔵人様はまたその祖父の進士清蔵様より伝授されました、その進士清蔵様は、誰から伝授されたのですか?」と宗頼が不思議そうに聞くと

「宗頼様、明智様に失礼ですぞ!」と大隅が宗頼をいなめた。

「いえいえ、大丈夫です、宗頼様は、若く何でもずばずばおっしゃいますな、この光秀もご説明が足りず失礼いたしました、実は天皇料理番高橋家の鶴の呪文は、進士清蔵が考え出して進士流に伝えられた呪文なのです。

進士流の鶴の呪文が高橋家に伝えられ、今は秘事となっています」と光秀(俺)が言うと、

「はあー何と!」そこにいた全員が声を上げ、腰を抜かして座り込んでしまった。

光秀(俺)も、その場に座り話しを始めた。

「天皇家では元々正月に包丁式を行なっていましたが、食材は様々でその時捕れた物を使って行っていました。

鶴は、たまにしか捕れないれない貴重な鳥ですが一般庶民でも食べていたので、庶民との格差を付ける為の呪文が必要でした。

神主でもあり包丁師でもある進士清蔵が元々進士流の秘伝として考えた呪文ですが、他の鳥の呪文同様、高橋家が、進士流の呪文を執り入れ天皇家で食す場合は、呪文を唱えるようにしたのです、つまり進士流、進士清蔵が考えた鶴の呪文、それが天皇家料理番高橋家の秘伝の鶴の呪文です」と言うと、一同は、「おー」と声を出した。

「高橋家以外どの流派も知らなかった鶴の呪文を我々に伝授頂き、誠にありがとうございました」と大草公政が言うと全員が、光秀に深々と礼をした。

その時、廊下を小走りに走る音と共に残雪の間の外から「大隅様、宗頼様」と声がした。

「はい、ここにおります」と、大隅有元が返事をすると典医服部が入ってきた。

「失礼します、宗国様が、宗頼様、大隅様のお二人を呼んでほしいと申されております」「分かりました。明智様、流派の皆様、本日はご足労下さり誠にありがとうございました」と言うと大隅有元は、皆に深々と礼をした。

「宗頼様参りましょう」二人は奥の間に向かった。

寝たきりの高橋宗国(天皇流家元)の枕もとに妻の高橋菊江が座っていた。

「菊江、宗頼はおるか」と宗国は、弱弱しく手を伸ばした。

菊江は、「今、服部様が呼んで参りましたここに居ります」と、宗国の手を取った。

宗頼は寝ている宗国の枕元に寄り静かに言った。

「父上、宗頼でございますここに居ります」

宗国は、菊江の手を伝い布団から起き上がろうとしたが、「宗国様、そのままで」と典医服部が止めた。

「宗頼!大隅もおるか?」と弱々しく言った。

「はい、おります」と宗頼が答えると、

「二人に話がある。他の者は、外してくれ」宗国は寝たまま目を少し開き話し始めた。

「二人に言っておく、わしもいよいよだ。宗頼が御厨子所預、天皇流家元となる日もそう遠くはない。大隅!宗頼はまだ若い料理と包丁式の指導を頼む」と、か細い声で言った。

「父上、私はまだまだ未熟者でございます父上のご教授が・・・」

「うむ、大隅、宗頼、鈴の間の床の間の畳の下に、鶴の呪文を書いた文書がある、高橋家秘中の秘の伝授じゃ」と、宗国は、そこまで言うと目を閉じ、何かぶつぶつと言っている。

が聞き取れない。

そして、宗頼と大隅を払うような手をして

弱々い声で「必ず取りに行け」と微かに言った。

廊下から、典医服部の声がした、

「大隅様、宗頼様、そのくらいで」

二日後、高橋宗国は六十七歳で没した。

髙橋宗国の息子高橋宗頼は、御厨子所預天皇流の家元となり、大隅有元は小御厨子所預の大隅流である。

翌日二人が鈴の間の床の間の下の畳を上げると髙橋宗国が言った通り、鶴の呪文が書かれた文書が有った。

中を確認すると光秀より伝授された鶴の呪文と同じで、進士清蔵来伝授と有る。

二人は、顔を見合わせ頷いた。

俺は、バックタイムペーパーの停止ボタンを押し現代に戻った。

「お帰りなさい、遅かったわね心配したわよ!」夏子の顔が目の前にあった。

「色々ごたごたが合って戻れなかった、仕事大丈夫だったかな?」

「そんな事だろうと思っていたわ!大丈夫よ、京都行って戻ったら風邪ひいて寝ている事にしたから、所でタイムトラベルはどうだった?」

「ああ、説明するね」

俺は、今回のタイムトラベルで起こった鶴の呪文の事と、少納言早乙荘英卿の事を夏子に話した。

「なるほど、鶴の呪文は、明政さんや明智光秀のご先祖、進士清蔵さんが考えたのね、少納言早乙女荘英卿には笑えるわね少し習ったくらいで秘伝は教えてくれないは」

次の日

「京都のお土産食べてください」と俺は、皆に菓子を配った。

「明政さん風邪もう大丈夫なのですか」と加藤君が心配そうに言った。

「ありがとう、もうすかり良くなった」と言うと谷口君が横から出てきて

「この谷口がいますのでまだ休んでいても大丈夫ですよ、僕なんか風邪ひいたことないすからね!」と、胸を張って言った。

「馬鹿は風邪ひかないと言うからな」と加藤君が言うと。

「ワハハハー」と板場の皆は一斉に大声で笑った。

皆は、茶を飲みながら俺の土産の菓子を美味しそうに食べている。

「明政さん、これ上手いですね、どこで買ったのですか?」と今井君が俺を見て言った。

「あ、勿論京都だ」と俺は、慌てて言った。「へー、やっぱり京都ってすげーな、香りが違う」と口をもぐもぐさせている。

京都は間違いないが、時代を言うとまずい。

「明政、これどこの店だ、西陣の初音屋か?」と聞いた。

「う、うん、さすが親方だね、分かる?」とごまかした。

親方は口を上に向けて鼻から息を出すと、「あー、この香り、あそこも息子の代になったら益々、味と香り良くなったなあ」と言った。

板場全員笑顔で菓子とお茶楽しんだ。


十一、信長の料理

桃山亭 秋の会席料理献立

    胡麻豆腐 柚子味噌掛け

式三献 鮎うるか 菊花和え 針生姜

    鱈子含め煮 天青み

前菜  稲穂牛蒡・焼き鱧寿司

     俵真丈・満月卵・秋山鮑

      車海老酒蒸し・柚子窯鈴子

吸物  菊花蕪・青ミ・松茸松葉柚子

      清流仕立て

造里  鯛・鮪・紅白造り 鰆焼き霜造り     

      紅蓼防風・千打大根 

       山葵・ 土佐醤油

焚物  尼鯛奉書巻 百合根餡 千打絹さや

焼物  鴨諸味噌焼 鼈甲生姜

揚物  蓮根射入揚げ 雲丹白扇揚げ 青唐

酢の物 青柳 帆立 水玉胡瓜 北寄貝

食事  蟹炊き込み飯 蟹味噌掛け

汁   合わせ味噌仕立て・里芋・天辛子

香の物 鹿の子胡瓜

菓子  メロン・巨峰

「親方、これでいいですか?」と俺は献立を父に見せた、しばらく献立を確認して「良いだろう、皆に説明してくれ」

俺は皆を呼んで献立を配った。

桃山亭の板場では、月に二回献立が変わる、最近は親方の代わりに俺が献立を考える事もある、その時は、全員に作り方まで説明するのである。

「作り方の説明をしますので、各自自分の担当する料理は、メモしてください」

親方も献立を見ながら聞いているので緊張する。

式三献は、鱈子含め煮、胡麻豆腐、鮎うるか菊花和え、の三種類です。

鮎は、三枚に卸して、強めの塩をあて、身は、焼酎で洗います。洗ったら、焼酎をよく拭き取って、盆笊に乗せ冷蔵庫で冷やします。水気が無くなったら鮎を細く糸切にして、うるかで和えます。茹でた黄菊を加え、器に盛ったら針生姜を天盛にします。

八寸の俵真丈は帆立のすり身三に対し鱈のすり身七を小指位の俵にて、平らに伸ばした黄味素麺で巻き、端を内側へ入れ蒸し器で蒸します。

造りですが、鯛は湯霜造り、鰆は焼き霜造り、でお願いします。

「以上で説明終わりにします各部所解らない所があれば聞きに来て下さい」 献立の説明が終わった。

「明政、尼鯛の奉書巻きだが、巻いた大根は外すのか?」と親方が聞いた。

「はい、大根は尼鯛の皮目を美しく見せるためなのでお出しする時は、外します」と答えると、親方は成程と頷きながら

「進士流の仕事ではないな、五十間流か?」

と聞いた。

「信長の宴の時の、」と言いかけたが言葉を止めた。

「そうか、信長の宴の時の料理か、ならば五十間流の仕事だな。明政よく勉強しておる、良い料理だ」と、親方は、感心した様子で言った。

タイムトラベルして、実際に食べたとは言えない。

「ありがとうございます」と頭を下げた。

尼鯛の奉書巻き、百合根餡は、安土城の宴の時に食べたのである。

その時の膳所頭は、進士流の明智光秀であったがその部下に五十間流が仕えていた、室町幕府の足利将軍を追放した織田信長は足利家料理人大草流と、進士流を織田家料理人と考えたが大草流は織田家料理人を拒否、主君を探して家元以下数十名の料理人と共に流れ板前となった。

五十間流も同じく次の主君を求め流板前となるはずであったが進士流の光秀が止め、進士流と共に織田家の料理人なので有る。

進士流の光秀は、織田家料理人膳所の頭であると共に、武将(織田鉄砲隊)でもあったため、通常の料理は五十間流が担当していたのである。

俺は自宅で安土城の宴の料理を思い出していた。

素晴らしい料理の出された宴の数日後に本能寺の変が起きたのだ。

バックタイムペーパーで明智光秀に乗り移り、信長を秀吉から救い出し、下野の国の高橋神社に隠居を進めた。

現代では、俺だけが知っている本能寺の変で織田信長は死んではいないのである。

その後様子をみに安土桃山時代の高橋神社へタイムトラベルしようと、天正十一年(一五八三)六月、本能寺の変の一年後に、バックタイムペーパーをセットして、栃木県小山市高橋の宮司の角野と打ち込んでスタートボタンを押した。

「のこった のこった」

「ハー、ハー、ハー、」

「ウワ、ウワ」

この声は?上半身裸の男二人が組み合っている下半身はフンドシ姿だ。

「この野郎これでもか」と若者が気合の入った声で言った。

「いやいや、まだまだでござる」と平然と信長が応えている。

信長と近くに住む若者だろうか?高橋神社の庭で二人は相撲を取っている。

そして俺は行司なのだろう手にはうちわを持っている。

「えいやー」と、かけ声と共に信長は、若者を上手投げで土俵の外へ投げ飛ばした。

「勝者信長」と俺は、うちわを信長の方へ向けた。

六月、田植えも終わり今日は朝から三人で相撲を取っているのだ。

「いや、参ったな。何度やっても信長さんにはかなわないな」と若者が言った。

若者の名前は多田正行ここ高橋地区では一番の力の持ち主であるが戦場を駆け抜けてきた信長の身体の鍛え方にはかなわないようである。

「ワハハハー」と大声で笑う二人は、楽しそうである。

俺は、乗り移っている角野宮司の記憶をたどってみた。

一年前、武将数名に連れられ、腕に傷を負った男が来た。

宮司は神社の下働きとしてその男を住まわせることにした。

半年も過ぎるとその男は元気になり、色々な仕事をこなしてくれるようになった。

宮司は、日々の会話の中から男が、織田信長だと知った。

驚いたのは、信長は威張るわけでもなく、人を見下すこともなく、わがままを言うわけでもない。

あの残虐非道な織田信長とは別人なのである。そしてその明るい性格から今は高橋地区一番の人気者になっていた。

「信長さん、お腹が空きました飯にしますか」と、角田宮司(俺)が言うと、「はい、ではおつくりします」と、信長は笑顔で神社の台所へ行った。

信長は高橋神社に来てから農作業や家畜の世話、掃除、洗濯、飯の支度そして宮司の助手までも手伝うスーパーマンなので有る。

日本を統一しょうと策略に奮戦していた信長は何処へ行ってしまったのだろうか。

信長が高橋神社にいる事を知っているのは、隠居を進めた明智光秀と徳川家康の二人だけで天下人となった豊臣秀吉は知らない。

光秀と家康は何度もこの高橋神社を訪れて信長に戻られる様にと説得に訪れたが、信長はがんとして聞き入れず「私が今更戻ったら日本の歴史が変わってしまう」と訳の分からない事を言うので光秀と家康は半分あきらめていた。

角田宮司(俺)が、ぼーっとそんな事を考えていると、馬に乗った品の良い侍が数名現れた。

先頭の侍が「私は、豊臣家家臣、石田三成と申す、こちらに織田信長様がおられると聞いて参った」と言うと、馬を降りた。

宮司(俺)と多田正行は上半身裸のまま三成を見た。

宮司(俺)は三成の所へ駆け寄ってお辞儀をした。

「宮司の角野と申します。織田信長様でございますか?どのような方でしょう」と、わざときょとんとした顔を作って答えた。

「宮司、織田信長様を知らんのか」と三成は聞いてきた。

「織田信長ひょっとして、あの武将の織田信長様ですか?」とわざと慌てて見せた。

「そうだ、本能寺で宿泊中、明智光秀の謀反により、行方不明となっている」

「行方不明とは、本能寺で、お亡くなりになったと、噂で聞きましたが」

「本能寺で、遺体が見つからないのじゃ」と三成は吐き捨てる様に言った。

「さようでございますか、ここ下野の国は、京都より数千里も離れておりますうえに、ご覧の様な田舎で御座います。なぜこちらに居ると?」宮司(俺)は聞いた。

「秀吉様じゃ、秀吉様がそう申された、どこかの風のうわさで聞いたらしのだが、情報があやふやで、はっきりしない」

三成は周りを見渡した後「こんな田舎に、罪人でもあるまえし」とあごを撫でながらふてくされている。

「申し上げます、噂では信長様は日本一の天下人と聞いております。生きておられていても、こんな田舎の貧相な神社にはおられないのでは?」と言うと。

「確かにこんな田舎に、この三成もそう思うだが秀吉様が・・」と言葉を濁した。

その時、神社の台所より信長が出てきた。

「宮司様、食事の支度が出来ました」と信長は手に箸を持ったまま言った。

まずいと思ったが、信長を見た三成が、

「あれは誰じゃ?」と宮司(俺)に聞いた。

「はい、神社の下働きの料理人でございます」と、ごまかしたが、三成は信長の方を向き、「その方、名は何と申す」と聞いた。

「あ、俺け、おら三郎ってんだ。あんただれ?」と機転効かせとぼけた。

そのとぼけた態度に気分を害したのか「け、田舎もんが!」と三成は吐き捨てた。

三成は信長の顔を知らないのだ。

もし知っていたとしても今の信長の姿格好では気が付かないであろう、さらに「下野汁作ったからあんたらも食ってきな」とフンドシ姿で田舎者丸出しの演技で有る。

宮司(俺)は思わず吹き出してしまった。

それを見た三成は不機嫌そうに

「いらん、宮司、じゃましたな」と、馬にまたがりこちらを向くと、「もう来ることはないと思う、万が一来ることがあればあの料理人とやらに飯でも作らせよう。ここ、高橋神社は、料理の神様だと聞いたからな、ついでに庖丁式も見てみたいな、帰るぞ」と、部下に声をかけて帰っていった。

田んぼの向こうの森に姿が見え無くなった。

「宮司さん汁がさめてしまいます、食べましょう」と信長は何もなかった様に平然としている。

「そんなに落ち着いていて、良いのですか?秀吉の部下が探しにきたのですよ」と宮司(俺)が言うと、

「次に来たときは、この信長、いや三郎が庖丁式をみせて、料理を作って、ここ高橋神社の料理人であることを証明します。そうすれば二度と来ないでしょう。宮司様、ご迷惑おかけします」と一礼をした。

腕の傷も治り元気で良かった、しかし秀吉の信長捜索はまだありそうだこの様子だと又石田三成が来るかもしれない。

明日は、桃山亭予約でいっぱいだ一旦現代に戻って又来る事にしょう、と角田宮司の腕をまくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

次の日桃山亭は昼夜席共予約のお客様でいっぱいである、調理場と仲居の声が飛び交う。

「残月の間の揚物お願いします」と仲居の川上さんが谷口君に言っている。

「香月の間刺身仕上がりました」と板場の加藤君が仲居の八木沢さんに言った。

「はーい、お客様お見えです」と今度は仲居の長井さんの声がした。夜席のお客様に次々と料理が運ばれて行く。

「親方、お客様がなんで刺身と言うのか教えて下さいと言っています」と仲居の上田さんが親方に言った。

「明政、上田さんに教えてやれ」と親方は俺を見て言った。

「上田さん説明しますね、昔は鯛、、と、白身魚を薄造りにしてお出しするのが主流でした。

しかし白身の魚を薄造りでお出しすると何の魚の薄造りなのか分らないので、その魚のを取って薄造りの身に刺しました。

鯛の鰭が刺さっていれば鯛の薄造りだと分かります。正式には、鰭刺し身と言います。

それを略して刺身と呼ぶようになったわけです」と上田さんに説明した。

「えー、明政さんすごい、勉強になりました」と上田さんは喜んでいる。

「ちゃんとお客様に伝えて下さいね」と俺は自慢げに言った。

親方は腕を組み、何も言わず、頷きながら目を細めた。

仕事が終わり、自宅に戻った。

「ただいま」

「おかえりなさい、今日は忙しかったねー」

「あー、商売繁盛ありがたいよ」

ソファーに座り一息入れると昨日の三成の言葉が気になった。

もし石田三成が又来たら料理と包丁式を見せる事になる。

信長は、自分ですると言っていた?出来るのか?と思った俺は、コーヒーをぐっと飲んで、バックタイムペーパーを三成が来た二日後にセットしてスタートボタンを押し、信長に乗り移た。

目の前に田んぼが見える、宮司がこちらに向かって田んぼのあぜ道を転びそうになりながら走って来る、慌てているようだ。

「ハー、ハー、大変だ!信長さん、この間の石田三成がまた来るって連絡が」と宮司は、青ざめた顔をしている。

「そうですか」と信長に乗り移った、俺は、平然と答えた、乗り移った俺自身は慌てているが、信長は全く慌ててい無い。

「そ、そんなに落ち着いて大丈夫ですか?食事と包丁式を見せなければならないのですよ」と、つめ寄って言った。

「ご心配ありません」と信長(俺)は平然と答えた。

信長にはどれ程の知識があるのかと、頭の中を確認すると驚いた。

聡明な記憶の中から料理、包丁式、作法、全て熟知している、だから落ち着いて居られるのだ。

そして万が一信長と見抜かれたとしても五人や六人は軽く切り捨てられる武術の腕前でもある。

これはもう俺が出しゃばる事はない、俺は信長に全て任せる事にした。

「所で宮司さんいつ来るのですか?」

「あ、あ明日ですよ。明日!村の皆を集めなくては、包丁式と料理ですよ!ああどうしょう・・」とおろおろし始めた。

「ハハハー、包丁式と料理は私が全てやりますので大丈夫です、宮司さんは村の皆さんと場所の準備と接待をお願いします」と笑いながら言った。

信長は、早々に料理と包丁式の準備に取り掛かった。

料理は、坪、平、台の物、猪口、膾、羹、煎り、など武家のおもてなし本膳料理である。

一本の包丁を取り出し魚を卸し始めた。

現代では魚は、出刃包丁で卸し、柳刃包丁で刺身を引き、薄刃包丁で野菜を切り、牛刀で肉を切ると言った様に切る物にょって包丁を、使い分ける。

しかし信長は、脇差しのような形の包丁一本で全て切る。

戦国時代では、普通の事であるが現代の板前から見ると包丁を取り替えない物ぐさなので有る。

一本の包丁で全ての食材を切る事をものぐさ包丁と言う。

食材は、野菜や川魚、驚いたのは、鶴が有る事だ、鶴は、高橋神社近くの湖に毎年渡てくるそれを地元の猟士が捕獲した。

現代では、捕獲したり食べたり出来ない天然記念物だが、当時は、普通に食べていた。

鶴の吸物や鶴の味噌煮等々鶴料理は、数ある信長がどう料理するか見ものである。

毛をむしり丸裸にした鶴の首と足を切り離し胴体を胸と、ももに分けるむね肉二つ、もも肉二つ、計四つとなる。

皮目に切り目を入れ、味醂醤油で焼く。

山椒を少し振るといい香りがしてきた。

串は打ってないが、現代の焼き鳥の様だ

豆腐を裏ごし、青菜と和え、丸くするとそのうえに焼いた鶴の肉を乗せ、笹の葉で包んで竹皮で結んだ。

板前の俺でもこんな料理を見た事も聞いたこともない、名前を付けるなら鶴の笹包みとでも言おう。

首は四つに切り手羽と一緒に酒塩を振り白焼きにして、ねぎと一緒に鍋で出し汁を取っている。

包丁の切れ、手際の良さ料理人よりうまい。

そこへ、村の衆と宮司が台所に信長の様子を見に来た。

信長の手際のよさを見た宮司が不思議な顔をして聞いた。

「信長様、どこでそのような技と知識を?」と聞くと信長(俺)は手を休める事なく

「見様見真似です」と、答えた。

見様見真似で出来るものではない。

しかし信長にとっては、たいした事ではなさそうである。

次の日石田三成は、家来三名を従えて来た。

昨日の雨で田んぼ道はぬかるんでいたのか、馬の足は泥だらけである。

「私も田舎育ちだが、これほど酷い道はなかったぞ」と三成は不機嫌に言った。

「ようこそいらっしゃいました」と、宮司は神殿の中へ案内した。

「ほー」と、三成は、声を出した。

そこには神殿に向かい、まな板が用意されていた。

「ここ高橋神社は、岩鹿六雁命、料理の神様を祀ってございますと共に、鯉の神様でもございます」宮司は落ち着いた態度で説明している。

「聞いておる、日本料理の神様、岩鹿六雁命後の高橋朝臣を主神として守っておると」と、神殿を見ながら言った。

「さようでございます。岩鹿六雁命こそが景行天皇より料理番として、命ぜられた人物でございます」

「こんな田舎の神社と天皇の料理番が何の関係が?」と三成が聞いた。

「はい、岩鹿六雁命後の高橋朝臣は老後この地で余生を送られました。天皇の料理番と偉い方がこの地に移ってこられましたので、地名まで高橋と申します」と神殿に一礼をした。

「なるほど、鯉の神様と申していたが料理の神様と鯉はどういう関係があるのだ」

「はい、包丁儀式では髭のある鯉が最上位とされており、天皇の前で高橋家以外が鯉の包丁式を行う事は、恐れ多い事とされておりました。よって鯉も神様として祀ってございます」と宮司は昨日の慌て様とは打って変わり素晴らしい説明と対応をしている。

「なるほど、ところでこの三成がなぜこの田舎神社に二度も来たかと申すと、先日の話を秀吉様に報告いたした所、料理と庖丁式を必ず確認して来いと申された」

「はて?確認と、申されますと?」

「下働きの男、三郎と言う名は信長様の若き時の名前だと、だからその者が信長様だと言うのだ、本物の信長様だったら、料理も庖丁式も出来るはずがないと、それを必ずや確認して参れと」

「わかりました、では料理をお食べいただく前に庖丁式をご覧くださいませ」

合図を送ると村の衆五名が越天楽を奏で始めた。

「さあ、三成様ご同行の皆様もこちらで包丁式をご覧下さい」

越天楽の演奏がしばらく続くと奥の間から神殿に向かって狩衣直衣姿の信長が現れた。

俎板の前に座ると、脇刺しを抜き、一礼をし袖の紐を左右と手首に括り付けた。

俎板の上には包丁、真魚箸、板紙、そして鯛が据えてある。

「申し上げます、ここ高橋神社は古式にのっとり、神である鯉を切る事が許されておりません。ゆえに鯛にて庖丁式を執り行わせていただきます」と、宮司が言うと越天楽が止まった。

「ここからは無音無言にて執り行います」

宮司はそう言うと、信長の右後ろに座った。流れるような水撫から板紙を三つに折り、鯛を三度撫で、切汰に入る。

鯛の頭に真魚箸を俎板まで刺さるように打ち宇名元から尾に向かい切り、頭を切り離すと宴酔に突き出し尾も身より切り離した。

身を立て、骨を中心に左右と切り掛けた。

これは、三曲之鯛だ!と、俺は気付いた。

切り方は簡単だが、最後に身を広げるのが難しい。

ベテランの庖丁師ですら失敗する事がある形だ。

これを信長がやって見せるのか?

信長(俺)が、包丁をゆっくり離すと、中骨を中心として左右の身は花びらが開くように広がった。

仕上げに尾を包丁で立て終了した。

三成は声を上げ「おーなんと、なんと素晴らしい」パチパチと拍手をしている。

信長(俺)は、仕舞の水撫をし一礼をして神殿より下がった。

三成は立ち上がり、まな板の上の三曲之鯛をしみじみと眺めて「この包丁式の技は、簡単に出来るものでは無い、鯛の骨を豆腐の様に切っていた。そうとうな稽古を積まないと出来るものではない」

「確かに、この技を取得するには何十年の稽古と修行が必要となりますな」と、家来の一人が言った。

「石田様、膳のご用意が出来ました。どうぞこちらへ」と、声の方を振り向くと隣の間に膳が用意されている。

「お!すまぬの」と、隣の間へ向かった。

三成の態度は来た時とはすっかり変わっていた。

刀を抜き、三成と家来達が膳の前に座ると、宴が始まった。

村の氏子の女達が濁酒を盃に注いで回り、打ち物に合わせ高橋神社に伝わる太々神楽が披露され上機嫌で膳と濁酒を飲んでいた。

そこに狩衣から普段着に着替えた信長(俺)が料理を持って現れた。

「皆さん、いかがだっぺか?」と、いかにも田舎者の様に言った。

「おー、三郎とやら、先程の包丁式素晴らしかったぞ、近こう寄れ、お前も一献飲め」と三成は言った。

信長は、手に持っていた料理を手際よく配ると、「おらー酒飲めねーだ、すまねーな」

と、頭を掻きながら言った。

「そうか、飲めぬのか、気にするな、うむ、これも美味い。何という食べ物じゃ」と聞いた。

「これけ、これはな、地元の猟師がとった鶴だ」

「何と鶴か?初めて食べた笹の香りがして美味い」

「昨日の内にたれ焼にした鶴を豆腐に乗せ笹の葉で包んで置く、食べる前に笹ごと蒸して、笹葉を外すと笹の香りが鶴に付くて寸法さ」と自慢げに言った。

「だれに習った?」

「お、五十間の親父だ」と信長(俺)が答えた。

「そうか、三郎とやらの料理の腕、包丁式の技と言い、とてもここに置いておくにはもったいないな」

突然正座に座り直し「三郎殿この三成の数々のご無礼お許し下さい」と言うと深々とお辞儀をした。

突然何が始まったのか?とそこにいた皆は、呆然とした。

「ハハハー石田様そんなかしこまって、皆さん驚いております、秀吉様には宜しくお伝えください」

三成は「ハハーかしこまりました」とお辞儀をすると、すーっと、今までの様になり

「さてそろそろ帰るか」と家来達を見た。

昼間からの酒宴で三成一行は上機嫌で帰って行った。

宮司が「信長さん、上手くいきましたね」言うと、

「はい、上手く行きました、しかし石田三成には私が織田信長で有る事、ばれてしまいました」と言った。

「えーでは失敗ですか?そ、それは大変な事になります」と宮司は慌て言った。

「いやいや大変な事にはなりません、はげ鼠いや、秀吉には高橋神社に織田信長は居なかったと報告するでしょう」と信長は、平然と言った。

次の瞬間思いもよらない事が起こった。

信長に乗り移っている俺に信長が話しかけてきたのだ。

【わしの身体に今乗り移っているのは、本能寺の時に、わしを助けた明智光秀の子孫、進士明政であろう?】

【はい、信長様、俺は進士明政です。いつわかりましたか?】

【庖丁式の時だ!明政は、三曲之鯛と思ったのだろう。しかしあれは、山水之鯛だ】

【山水之鯛?】

【尾の立て方と身の切り方、開き方が違うのだ】

【なるほど確かに違っていました】

【三曲では、尾は式の右下に横に置く、それに対して山水は小山の形を表すので尾は、縦に置く。身も同じく縦に置くのだ。五十間流秘事だから進士流の明政が知らなくて当然だ】

【なるほど!料理と言い庖丁式と言い、いつお習いになったのですか?】

【習ってなどいない、わしは、見ただけ、で出来るのだ】

【そんな・・・天下を取る人はそんな能力が・・・】

【いや、わしは天下、日本統一するつもりなど無い天下など、どうでも良い。ここの生活が良い、何度となく光秀や家康が訪ねて来て戻るように進めてきたが断った。

本能寺で自害して死んだ事になっているわしが現れたら、歴史が変わってしまうからな】

【所で今まで俺が乗り移った事に気付いた人は居ませんでした、信長様が初めてです】

【いや、乗り移られた人間は皆、違和感が有ったと思う。だが、それが事実だと思わなかっただけだ】

【本能寺で自分の先祖明智光秀に乗り移り信長様にここ高橋神社への隠居を進めました、それで良かったと言う事ですね?】

【そうだな、それで良かった、天下を取るため人を殺すのはもう懲り懲りだった、丁度良く秀吉が謀反を起こしてくれた、ここ高橋神社に隠居を進めてくれた明政に感謝しておる、ありがとう】

俺は返す言葉がなかった信長との頭の中での会話が終わり、信長の袖をめくり、バックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

次の日、俺はいつものように桃山亭で仕事をしていた。

「いらっしゃいませ」

「ありがとうございました」と仲居たちの声がする。

今日もお客様でいっぱいである。

「立板、鯧の西京焼きこれでいいですか?」と焼き場の柴田君が聞くと俺は一口食べて

「ふむ、ふむ、ちょっと味噌の香りが弱いな、味噌は何度目だ」

「えーと、二度目です」と柴田君が答えた。「そうか、次は新しい味噌にしてみりんを多めに、あ、それから漬け終わった味噌は、玉味噌にしろよ」

「はい、わかりました」と、柴田君はメモ帳に書き込みながら言った。

「立板、松茸と焼き鱧の白和え、これでどうでしょうか」と加藤君が小鉢を俺に見せた。

「どれ、食べるぞ」一口食べた。

「豆腐を裏濾す網をもっと細かい網にしろ。それから砂糖を少し減らして当り胡麻を少し増やしてみろ。もっとまろやかな白和えの味になるぞ」と口をもぐもぐさせながら言うと「はい、わかりました当り胡麻増やしてみます」と加藤君が言った。

「あ、それから器は、小鉢ではなく、馬上盃に変えろ。三つ葉を少し多めにして、天に盛ると綺麗だぞ」と俺は指示を出した。

「ありがとうございます」と加藤君は刺場に戻って行った。

鯧の西京焼きも、松茸の白和えも、信長が作っていた料理だ。

誰に教わっていないのに、食べただけでその料理の味を覚え作ってしまう。

しかも、五十間流庖丁式も見ただけで理解して行ってしまう。

何といってもタイムトラベルを理解した事は、まさに天才としか言いようがない。

俺は、ぼーっと、信長の事を考えていた。

その後高橋神社ではどのような生活を送ったのだろう俺は、信長の事が気になり。

小山高橋神社に向かった、そして車の中で四百年前の信長を思い出していた。

当時の信長の記録があればと淡い期待を胸に俺は強くハンドルを握った。

小山高橋の地に近づくと田園風景の中に森や林が、ぽっ、ぽっと見える。

「ここらは神社や古墳が多くあるな」俺は独り言を言いながら考えていた。

この道と思われる道を馬で通ったことがあるが、四百年前の風景である。

変わってしまった現代の風景に見覚えがあるはずはない。

防風林の向こうに高橋神社が見えた。

参道には赤い灯篭形の灯りが並ぶ、正面の門を抜けると神社の本殿が見えた。

四百年前とは違いかなり整備されている。

左は神楽殿、正面神殿の前の賽銭箱に小銭を入れ、大鈴を鳴らした。

二礼、二拍手、一礼。参拝の作法は昔と変わらない。

「あ、進士さん、いらっしゃい」宮司の小田さんが声をかけて来た。

「ご無沙汰しております」

「今日はおひとりで?」

「はい」

「お父様はご一緒ではないのですか?」

「はい、父は来られないので。これを宮司さんへ」と、土産の日本酒を宮司へ差し出した。

「いつもありがとうございます。どうぞ中へお入りください」と宮司は神殿の中へ案内してくれた、宮司とは、父と行事ごとの奉納や、庖丁式などで顔見知りなのである。

「今日は庖丁塚へのお参りですか?」

「いえ、神社の歴史の事をお聞きしたくて」

「そうですか、私に分かる事なら何でもお答えします」と宮司は優しく言った。

神社の経営は、時代と共に厳しくなりつつある。

国や県の補助が無ければ成り立たない。

小田宮司は郵便局に勤めながら、この神社の運営をしているのだ。

どこの神社もパンフレットなどを作り、営業活動をして神社の収益を上げる中、小田宮司はそれを嫌い、していないのだ。

「宮司さん、神社の記録一五〇〇年代に書かれた記録はありますか?」と俺は聞いた。

小田宮司は立ち上がり奥の部屋から書物を持ってきた、書物をめくりながら「少しお待ちください一五〇〇年代それなら確か・・・」と、言いながら書物を見せくれたそこには、歴代の高橋神社宮司の系図と、年代事に起った出来事などが書かれている。

天正十二年(一五八四)の事が書いてあった。

「これだ」と、思わず俺は、目を見張った。天正十二年六月の月の終わりに、京都より腕にけがをした者が来た。

神社宮司氏子の介護手当により半月ほどにて回復。

後に高橋神社の宮司となり神社行事、台所等の職を全うして、慶長十九年(一六一四)御年八五で没す。

その子祖は、代々神社の台所役として地域に貢献するとある。

「宮司さん、ここに書かれている人の名前はわかりますか?」

「そこには、三郎と書いてありますが、みょうじ、が書かれて無いのです、あ!そう言えばあそこの平尾さんがここに書かれてある人の家です」と、一軒の家を指さした。

信長の子孫は平尾と名前を変え代々この地に定着していたのかな?と考えると胸が熱くなって来た。

「平尾さんはおいくつになられますか?お仕事は何を」と俺は興奮して早口になってしまった。

「はい、おじぃちゃんは八十三歳だったかな?息子さんは五十三歳で、お孫さんが三十歳位かな?もう亡くなられた、平尾さんの先代は、この高橋神社の宮司も務めていたのですよ」

「そうですか。平尾さんの先代は、こちらの宮司までなされていたのですか」

俺は、信長の事で何か話が聞けるかと、平尾さん宅まで行ってみる事にした。

神社から見える平尾宅は田んぼ道を歩いて一分とかからない。

「ごめん下さい」

「はーい」玄関の戸が開き、二十代だろうか、女性が出て来た。

「私、高橋神社さんから伺って来ました、進士明政と申します。ご主人様はおられますか?」と挨拶をした。

「主人も、義父も仕事で留守にしております」

「そうですか、あの、失礼ですが、ひいおじぃ様はいらっしゃいますか?」

「あ、はい!裏の畑に大祖父でしたらいますが呼んでまいりますか?」と女性が言った。「お願いします」

「すみません。お名前をもう一度伺ってもよしいですか?」と申し訳なさそうに聞いてきた。

「進士明政と申します」前の田んぼを見ながら少し待とうと思った時、白髪の痩せた老人が息を切らしながら走ってきた。

「あなた、あなたが、進士明政なのか?」と老人はなにやら慌てている。

「はい、進士明政と申します」

老人は息を切らしながら

「いつ来るか、本当に来るのか、半信半疑だった」と涙目になり俺の肩をゆすった。

「はぁ?俺が来る事がですか?」と聞いた。

「手紙じゃ、手紙じゃよ、まあ上がりなさい、ゆっくり説明する」

老人の言うまま自宅に上がると、棚の引き出しから一通の古びた手紙を持ってきた。

「拝見してもよろしいですか?」と、手紙を開いて見ると漢字とひらがなを崩したような字が墨で書いてある。

「これは、いつ頃の物ですか?」

「最後の方に天正十八年六月とあるから、だいぶ前の物だ」と、老人は言った。

だいぶ前どころではない四百年も前の手紙だ。

「読ませていただきます」と俺は手紙を読んだ。

 御礼

   我織田三郎信長 進士明政に継げる

   我を助けていただき心より礼を申す

   高橋に住み下野の国の人間になりしも

   日向守明智光秀とその子孫である

   進士明政を忘れた事はない

   石田三成来行より対話をしてい 

   ないが両人共健在と思う

   まだ生まれしない明政が生まれた後必

   ずこの地を訪れ我を探すのであろうと

   ここに手紙を託す

   地下使用人として勤めておった我だが

   事故にて宮司角野田兵衛が没したため

   我が変わり宮司を務める事なる

   還暦を過ぎ余生幾許も無いがそちが助

   けてくれた生命を全うする事と決する

   高橋の地に移れた事貴殿に改めて礼を

   申す

        右近衛大将 織田三郎信長

             天正十八年六月

                               

裏を見ると進士明政殿へとある。

俺は突然涙が溢れだした。

「平尾さんありがとうございます。長い間手紙を代々受け継いでいただき・・・」と泣きながら言った。

「先々代の爺さんの言っていた事は本当だった。捨てしまわないで良かった。俺の子供の頃から進士明政という人が訪ねてくるから、必ず渡してくれと、代々言われ続けて来たんのだ。わしの生きているうちにあんたに渡せて良かった」

「ありがとうございます」

老人は、涙目になりながら「でもよ、不思議なのはあんたまだ若いよね、なんでうちのご先祖様が書いた手紙があんた宛てなのだ?」と聞いて来た。

「む・・平尾さんのご先祖様に予知能力があったのですかね・・」とごまかした。

「そうか、この手紙を書いた先祖様は予知能力とか神様のお告げとかいつも奇想天外な事を言う人だったと伝わっている」

あなたは、織田信長の子孫なのですと言おうとしたが辞めた。

「ありがとうございます。こちらはお返しいたします」

「いやいや、あんた宛ての手紙じゃ。持って行きなさい。それと、この手紙のほかに魚の絵を描いた物と料理の作り方だと言われる巻き物がある。それも一緒に渡してくれと伝えられているから、持って行ってくれ」と言った。

「ありがとうございます大切に致します突然お伺い致しましてすいませんでした」と礼を言った。

手紙と魚の絵図(切汰図)織田流御料理譜と書かれた巻物を受け取った。

「ハー良かった今まで生きてきた肩の重が一度に降りた気分だ。うちのご先祖様もこれで喜んでいるだろう、おたくもこれを機にいつでも遊びにおいでなされハハハー、今日は良い日だ」と嬉しそうに言った。

平尾老人の姿が年老いた信長の姿に思えた。


   十二、秀吉の茶会

出汁の引き方は、昆布を一晩水で浸すと、日布だしが出来る。これを、水出しと法と言う。

この昆布だしを鍋に移し、火にかけ、鰹の削り節を鍋全体に入れ、静かに沸かさないように煮出す。

沸騰寸前まで沸いたら、静かに、さらしでこす。

吸い物に使う一番だしである。

こして残った鰹の削り節と、一晩浸した昆布を入れ、そこに水を加え火にかける。

少し沸いて来たら、追い鰹を加え、静かにコトコト十五分から二十分煮出す。

これをこした物が、煮物に使う二番だしとなる。

一般的な料理屋の場合、すっきりとした雑味のない一番だしと、雑味も鰹のエキスも抽出された濃厚な二番だしを引くのである。

高野豆腐は、絞り豆腐を凍らせ、乾燥させたものだ。

乾燥させた高野豆腐を二番だしに浸して戻す。

水で戻すよりだしの味が効き美味しくなる。戻した高野豆腐を軽く手で押さえ、だしを少し絞る。

鍋に入れ、二番だし八、みりん一、薄口醤油一をひたひたに入れ火にかける。これを割りと言う。

ひたひたは、食材が浸かる程度、たっぷりは、食材がぷかぷか浮くぐらいである。

だしが沸いて来たら、火を弱めにしてさらしを上に乗せ、追い鰹をする。

追い鰹は、高野豆腐にさらに鰹のうまみと香りをつけるためである。

弱火で少し煮れば出来上がりだが、途中でだしの味を確認する。味が良ければ火を止める。

煮すぎは禁物。高野豆腐が崩れてしまう。

そして、長く煮たからと言って味が染み込むわけではない。火を止めて、冷めていく過程でだしがゆっくりと高野豆腐の中に染み込んでいくのだ。

「親方どうですか?」と俺は、親方に高野豆腐の味見をお願いした。

皿に乗った高野豆腐を箸で一口にちぎり親方は口の中に入れた。

「うむ、明政、腕をあげたな。味、香り、ともに良いぞ」ともぐもぐさせながら言った。

最近は味にうるさい親方にダメ出しをされる事が少なくなった。

「ありがとうございます」と俺は軽く頭を下げた。

「明政!翠光亭の修行以来だいぶ料理の腕を上げたな、色々な文献で料理の勉強をしていると夏子が言っていた、えらいぞ!バンドダンスに明け暮れていた高校生の時とは大違いだ」

「親方有難うございます」

「うむ、板場では、親と子でなく師匠と弟子だからなそれもきちっと、わきまえて居る、

えらいぞ!所で包丁式の稽古の方はどうだ?」

「はい新人も含めて毎日稽古しております」

「そうか何か分からない事や困った事が有れば何時でも言って来なさい」

「有難うございます」

包丁式の練習は板場全員の日課となっている毎日の様に行っているのだから桃山亭の板前達の包丁式の腕前は日本のトップクラスなので有る。

今年は竹内、神山、堀川、と新人も加わり先輩板前達の指導も気合が入る。

「ほらー神山なんじやその歩きかたはロボットじゃ無いのだから右足と右手を一緒に出すな。

おら、おら、おら!堀川頭を下げるな足を見ずに顔上げて前を見ろ。

ありや?竹内摺り足いいぞ、まるで貧乏公家の歩き方だ、そうだ貧乏公家だ、貧乏公家だ!アハハー竹内貧乏武士の歩き方もやって見ろ」と、谷口君は調子に乗って新人三名の摺り足の歩き方を茶化してしながら指導している。

「いて!」と、谷口君は頭の後頭部を押さえた。

加藤君がお調子者の谷口君の指導を見かねて頭を叩いたのだ。

「お前もっと真面目に指導しろ、お前の教え方じゃ習う方も可哀そうだ」

と加藤君は谷口君をしかった。

谷口君は「るーい、すんま」と言った。

「るーい、すんまじや無くて、はい、すいませんだろう」と加藤君が言うと、

「はい、すいません」と谷口君が言った。

それを見た皆は一斉に笑った。

包丁式の稽古が終わった夜俺は机に向かい、信長のくれた切汰図と織田流料理譜を見ていた。

  織田家膳所

   四條流・五十間流・進士流は我織田家

   調理番なり

   この魚絵は三流派包丁式切り方を我が 

   絵した物なりそしてこの織田流料理譜

   も我が光秀の指導の元まとめた物なり

     安土城膳所

   進士流  明智光秀

   五十間流 五十間兼長

   四条流  四条隆益

   御三流派にて膳所となす

   料理作法 包丁式儀式作法 秘儀を用

   いて三流派が執り行う事候

             織田三郎信長


織田家では、進士流、五十間流、四条流が料理や包丁式も執り行なっていたのだ。

確か四條流は三好家から織田家の料理人になった。

包丁式の切汰図は、進士流、五十間流、四條流共天皇流の絵とほぼ同じである。

これほどの数の切汰図を信長は頭の中に記憶していたのか?

まさに天才、頭の中にコンピューターでも入っているのか?

しかも絵は立体的で、写真の様である。

織田家の料理人達は本能寺の事件後は、どうなったのだろう?今現代にも料理包丁式が伝わっているのだから、どの流派も後まで残っていたのだろうか?

信長の料理人達は、秀吉に受け継がれたか?本能寺の変以来明智光秀の進士流は無くなったが、五十間流、四條流は、あるはずだ。

文献を見ると豊臣秀吉が天下人となり安土桃山時代が始まり大阪城で大茶会が執り行われた。

その中に覚えの有る流派の名前を見つけた五十間流、五十間兼長で有る。

俺は、天正十二年(一五八四)四月、大阪城内膳所の五十間兼長に乗り移った。

兼長の記憶を確認すると明智光秀の進士流亡き後、織田家安土城膳所から豊臣家、大阪城膳所に移ったのである。

部下には、信長に滅ぼされた三好家の料理人達、四條流も数十名も仕えている。

直垂姿の五十間兼長(俺)は包丁式の準備を終え四条隆益の所へやってきて声をかけた「隆益殿(四條隆益)御所様はどこにおられますかな?」

「はい、利休様と茶室へ入られたと連絡がございました」と隆益が答えた。

「先に茶を飲むのですか?」と、不安になった。秀吉は気まぐれで茶会の順番が変わってしまうからだ。

「いえ、茶は立てず、内々のお話だけと伺っております」

「そうですか、ならば庖丁式と料理が先で良さそうですな?」

今日は、大阪城築城の祝と茶会、城内の庭は招待客であふれかえっている。

地方から大名、公家、商人などが集まっているのだ。

茶会の料理と庖丁式の準備で膳所は大忙しである。

城内に人が入りきらず庭で食べる天心となった。

天心とは、本膳料理を縁高の箱につめた料理の事で朝と夕の間に食べる軽い食事の事で有る。つまり昼食の事である。

天心と点心は違う。

点心は、昼食と夕食の間に食べるおやつの事を言う。

その時秀吉の家来が膳所に入ってきた、

「五十間兼長様秀吉様がお呼びです、茶室の方へお越しください」

「あい、わかった隆益殿料理と包丁式の準備の方よろしくお願いいたします」と、茶室に向かった。

茶室は庭でなく一階の奥にある。石垣の間を通り突き当たりを右曲がると茶室が見えた。

「五十間兼長(俺)参りました」との前で声をかけた。

「お入りください」と声がした、草履を脱ぎ、を膝行で中に入った。

躙り口は茶室独特の入り口で六十センチ四方の小さな出入口の為、刀などは持って入れない。茶室は、三畳の台目切りである。

中は薄暗く、炉に湯が沸いているのがわかる。

見ると、利休が正座で茶を立てている。

床の間の前には、秀吉が行儀悪く床桂に、背からもたれかかり、胡坐をかいている。

「おー、忙しい所すまぬな、ちと聞きたい事があってな」と秀吉が言った。

兼長(俺)は手を付き、礼をしながら「はい、何なりと」

「お前の五十間流の中に、下野国の高橋あたりに料理人はおるか?」

「そのような者は」と、五十間兼長は、答えようとしたが、乗り移っている俺が止めた。

何故ならこれは信長の探りで秀吉はまだ信長を見つけ様としているのだと思ったからだ。「おります、確か、平尾三郎と言う者が下野国におりますが、何か?」

「ほうそうか、その者の年はいくつくらいになる」

「はい、確か五十になると思います」

「その者は、料理、庖丁式に長けた者だと聞いたが?」

「はい、確かに五十間流の人間で御座いますので料理と包丁式には精通しております」

秀吉は不満そうな顔になると

「なぜ、五十間流の者が下野の国にいるのだ」と怒鳴った。

「はい、平尾は下野国の出身でございまして、先代の五十間流家元が高橋神社宮司の希望で弟子として五十間流に入門させたと伺っております」

今度は静かに「そうか、間違いないな?」

「はい、五十間流の平尾が庖丁式や台所を預かっております。間違いございません」

「三成の報告通りじゃが、どうもわしは解せんのだ。五十間流の料理や、庖丁式は難しいのか?」と秀吉はだるそうに聞いた。

「と、申されますと?」

「半年も習えば出来るものなのかと聞いておる」

「いえ、半年、一年では無理でございます。何十年もの修行と稽古が必要となりますので、そう簡単には出来るものではございません」秀吉は、ゆっくりと利休の方を向いた。

「利休、どうじゃ、どう思う?」

「はい、五十間様の申せられる通りでございます。茶の手前ですら、日々の稽古を積んでも半年や一年で習得する事は出来ません。ましてや、料理や庖丁式となると・・」と静かに言った。

「なるほど、しかしなー、わしは右府様が下野国高橋で生きている様な気がしてならんのじゃ、そう考えると夜も眠れんわ・・・」

秀吉は自分の記憶をぶつぶつと小声で言い出した。

「本能寺で信長を襲撃し拉致したまでは良かった、しかしその後がまずい、光秀にせかく拉致した信長を攫われてしまった。そのうえ大阪堺見学の家康も拉致しょうとしたが、既に逃げた後で何処にもおらん、のこのこと堺見学にやって来た穴山梅雪をとらえはしたが、

万が一、右府様や光秀が生きていたとしたらわしは終わりだ。

しかし生きていたなら、現れない方がおかしい。

すでに一年もたっている、没したと考えた方がよいのだろうか?」突然大声で

「利休どう思う?」と利休を見た。

「はい、わたしは、右府様はお亡くなりになられたと思います。もし生きておられたのならお姿を現さないのはおかしゅうございます」と利休が答えると、秀吉は開き直った様に、

「五十間、手間をかけたなもう良い。茶会の庖丁式、料理の準備は万全か?」

「はい、準備は整っております」

「では、参ろう、利休殿」と立ち上がった。

大阪城は信長の建てた安土城を真似て作った城で有る。

規模や姿形は似ているが大きな違いがある、安土城には八角堂の上に四角形の天守閣が乗っている。八角形の建物は仏堂を意味し阿弥陀仏や観音菩薩の住む所で有る。

つまり仏も神も、自分も同じ所に居ると言う事で有る。

戦の城というより供養の為に、農民や商人誰でもでも入れる神社の様な城を作ったので有る。

築城完成時に、信長自ら一人十文(千二百円)で城内を案内した。

それに対し大阪城は違う、戦に備えた要塞なので有る。

茶会に招待された大名達は大阪城を見て秀吉の偉大さに屈伏したのである。

大阪城二の丸の庭に設置された舞台に越天楽が流れ、始めた。

舞台には、俎板が置かれている、進行役を命ぜられた侍が大声で「お集まりの皆様五十間流包丁式をご覧あれ、ご覧あれ」と右手を前に突き出し言った。

すると、一人の若侍が現れ小刀を抜き俎板を右から左へと清めた。

木の台の上に真魚箸、包丁、板紙を乗せた若侍が現れ俎板の上に据え置いた。

鯛と桜の枝が置かれた、式題は、桜之鯛である。

進行役が又大声で「包師五十間兼長見参、包師五十間兼長見参」と右腕を突き出して言った。

五十間兼長(俺)が静かに摺り足で現れ俎板

三尺前に座り、身繕いをし礼をした。

六人の若侍が、包丁師五十間兼長の後ろに静かに座った。

通常包丁式は後見人三名の半なりで行うが派手好きの秀吉の命なのか後見人六名の大本なりで有る。

兼長は立膝にて左右とまな板一尺まで進み、俎板を開き、右手で桜の枝を取り、朝排へ仮置いた。

真魚箸包丁を同時に取り、目の前で真魚箸包丁を交わせ、右手で十字に組んだ左手で右肘より三度撫で、真魚箸包丁を開いた。

板紙を三つに折り、鯛の上を三度清め、板紙を宴酔に置く。

真魚箸包丁を五行に立て、下段より雲を切った。箸を開扇に開き、左から右へ三度包丁を打ち、霞を切った。

五十間流の流れるような水撫である。

鯛の頭に真魚箸を刺し、右板、左板を卸す。

身を鰭の下から四つに切る、頭骨を式の中央に庖丁で立て仕上げた。

朝排の桜の枝を取り、鯛の身の上に桜の花を散らした。

「お見事」「お見事」と声が飛び、客は一斉に拍手をしている。

秀吉は上機嫌である。

庖丁式が終わると、俎板は片づけられ茶道具が運び込まれた。

次は献茶の手前が利休の弟子によって執り行われる。

包丁式を終えた、五十間兼長(俺)は、普通の着物に着替え天心に盛られた料理の確認に入った。

大阪城膳所は五十間流三十名、四條流三十名手伝い衆三十名の計九十名の板前達が忙しく働いている。

その組織構成は板前(刺身)煮方(煮物)焼き方(焼物)盛り方(ハ寸)中番(運搬)下番(洗物)配膳師(仲居)と足利将軍や織田家、と同じ膳方構成となっている。

全員が真剣に調理作業をしている。

重大な失敗には斬り捨て御免もあり得るので有る。

「隆益殿ご苦労様です、抜かりは御座いませんか?」

「あ、これは兼長様包丁式お疲れ様でございました。天心料理の準備は万全で御座います盛付などの見映えを確認しておりました」「いや流石、四條流の隆益殿でござる、祖そのないょう今一度献立と味の確認をお願い致します」

「了解いたしました」と、柱に張って有る献立を見た。

    大阪城茶会献立

天心   黄身返し卵・車海老生姜煮

     鴨胡麻煮・蓬豆腐

     高野豆腐ふくめ煮天赤味噌

     たらの芽白酢和え・山芋梅肉

     桜飯天木の芽

吸物   道明寺桜葉包み

     一寸豆摺り流し・花弁百合根

造り   鯛昆布〆・紅蓼防風 煎り酒

             五十間流

「隆益殿、黄身返し卵ですが、これはぬか漬けかな?」と聞いた。

「いえ更科にて振りながら茹でて御座います」

「成程数が多いですから、更科が早いし味も良いですな」

黄身返し卵は各包丁家、流派に伝わる料理で卵の殻をむくと黄身が最初に出て来る、真ん中に白身が集まったゆで卵なので有る。

その作り方は三種類有る。

一つ目の作り方は、糠漬に漬ける方法で有る。生みたての有精卵の尻の部分に黄身に届くまで針を刺すそれを糠に漬け二日程置き茹でる、糠のアルカリが作用して黄身が卵の外側に白身は中心に集まるので有る、しかし味は糠臭く卵の味をそこね不味い。

二つ目の作り方は同じく卵の尻に針を刺し黄身の幕を破ったら手で上下左右に振る、少し振ったら四十五度から六十度位のお湯に二分間漬け又、手で上下左右に振る、これを十回繰り返すのである、卵の黄身は四十五度から六十度で固まるが白身は六十度以上でなければ固まらない。この性質を利用するのである。この方法が綺麗で黄身と白身味の分離が綺麗に出来、味も卵の味そのもので美味しい、しかし一個作るのに時間がかかるのと一人で二個までしか振れないので、大量に作れないのが難点で有る。

三つ目の方法としては、針を刺した十個の卵を縦向きに更科に並べて振り回す方法で有る。更科に並べた卵を五十回振り回して四十五度から六十度の湯に二、三分漬け今度は横向きに更科に並べ直し、また五十回振り回す同じ作業を五回繰り返すと右手十個左手十個一人で二十個の黄身返し卵を作る事が出来る。

大量に作る時はこの方法で作る。

しかし失敗も多い卵の向きを上下左右と変えながら五十回ずつ振り回しても綺麗に黄身と白身が綺麗に分離しない場合が有る、黄身と白身の混ざった混ぜ卵になってしまう事も有るのだ、どの方法が良いかは、作る卵の数と作業する板前の数で判断するので有る。

「一寸豆のすり流しの当たりは?」

「はい、すり流しなので清流より少し強くしております豆は吸地を張る時に混ぜます」

隆益は味見用に一寸豆のすり流しを兼長(俺)に差し出した。

「うまい!」と思わず兼長ではなく乗り移った俺が声を出してしまった。

生の空豆を軽く茹で、当り鉢で丁寧に擦り、それを馬尾の毛のこし器でこしている。

一寸豆は茹で上げを素早くこさないと、香りと色が飛んでしまうのだ。

客に出す時に吸地にとき入れる。

この手間のかかった作業を昔の板場の人間達は素早くこなしている。

「隆益殿、いいです、いい味ですぞ」と笑顔で言った。

「ありがとうございます。鯛の味もご確認ください」

昆布に挟んである鯛の身をそぎ、昆布を一切れ乗せ包み、煎り酒を少々掛け差し出した。口の中に入ると昆布の香りと旨味、煎り酒のアクセントが、口の中で広がる。

「うまい、煎り酒との組み合わせが素晴らしい」

当時の鯛は天然、現代のように養殖ではない。美味いのは当り前だが、この煎り酒がまた美味い。

流派によって作り方に違いはあるが、

鍋で生米を弱火できつね色になるまで、根気よく煎る。

壺に煎り米を移しそこに酒、塩、梅干し、昆布を入れ、保存するので有る。

作ってすぐは酒のアルコールが強く美味くない、しかし年数たてば味がまろやかになりうま味も増すので有る。

この煎り酒は、五年以上は経っている。

「隆益殿、この煎り酒は何年物ですか?」と興味津々に聞いた。

「はい、三好様の台所にて仕込みましたので十二年になるかと思います」

「なんと!そうですか!どうりで味がまろやかな訳だ!私が仕込んだ煎り酒の一番長いので七年物です、恐れ入った、隆益殿と仕事が出来大変嬉しく思います、ありがとうございます」安堵し頭を下げた。

天心は、配膳方によって秀吉、利休、来客へと配られた。

二百名の大阪城茶会は大盛況にて幕を閉じた。

信長の安土城で腕を振るっていた五十間流と、四條流の料理人達は、本能寺の変の後、秀吉の料理人となり、その作法、技術、調理法、庖丁式は脈々と受け継がれていた。

それから後の話しとなるが豊臣秀吉が数十年後に没すると、五十間流は、八条宮家へ四條流は、三条家、の料理番として仕える事となる。豊臣秀吉の大阪城茶会を担当した五十間流、四條流、の料理は素晴らしい俺は、ほっとした気持ちになった。

大阪城の桜の木下から空を見上げて信長を思い出していた。

そして、袖をめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。


   十三、上杉君の真実

「竹の子の天を斜めに切る、真中へ少し切り目を入れ、米糠、鷹の爪を少々入れ、たっぷりの水を張る。ぷかぷか浮かないように、落し蓋をして重しを乗せる。沸いたら、弱火で二~三時間煮た後、水でよくさらす。灰汁抜きは竹の子を掘ってすぐが、良い。

時間が経つと竹の子の中にあくがどんどん回り、灰汁抜きも時間がかかる。糠を入れるのは、湯に抽出された灰汁を吸わせるためで、鷹の爪はあくを和らげる作用がある」

俺は、加藤君に竹の子の灰汁抜きを教えていた。

桃山亭の板場には新人が二人入ってきた。

今年の春からは、加藤君を煮方にあげるのだ。

「はい、わかりました」加藤君は、メモ帳に記入しながら俺の話を聞いている。

煮方は、板場の中では親方、立板、煮方と上から三番目の部所になる。

今まで立板と煮方の両方を受け持っていた俺は、少し仕事が楽になる。

「店の味を決めるのは煮方だからな。割りや下処理の仕方など頭の中にしっかり叩き込んでおけよ」

「はい、がんばります」と、加藤君は、元気よく答えた。

竹の子は、春から夏にかけての食材である。

他の国にはあくが強い竹の子を食べる習慣がない。

灰汁抜きの技のある日本では、昔から木の芽味噌和えや、竹の子の土佐煮、竹の子の田楽、竹の子飯、竹の子の天ぷらなど、春の食卓には欠かせない食材である。

灰汁は、毒ではないが食べると口、食道、胃までがイガイガしてかゆくなる。しかし、内蔵を掻くわけにはいかない、我慢するしかない。時間がたてば収まる。

俺は、夏子と竹の子の土佐煮を持って、上杉君を訪ねた。

ピンポン ドアチャイムを鳴らす。

「はーい」上杉君の声である。

「こんにちは」

「やー、明政君、あ、夏子さんも入って」

上杉君はいつものように元気に二人を迎えてくれた。

夏子が、「主人が焚いた竹の子の土佐煮です、奥様とお食べ下さい」

「わー、ありがとう、咲希がプロの作る料理は、味が違うって」

「過去へタイムトラベルばかりしていて、ご無沙汰してしまってごめんね」と俺は上杉君に謝った。

「明政君の料理の勉強になるなら、どんどん使って、昔の美味しもの沢山食べて現代に再現して」

「うん、ありがとう、上杉君の方のタイムトラベルは、どう?」

「相変わらず、晩飯食いに使うのが多いけど、先日は自分のルーツを探りに新潟のご先祖様に乗り移ってきたよ」

「確か上杉君のご先祖様って越後(新潟)の上杉謙信だったよね」と俺が言うと、

「あ、元は長尾景虎っていう名前だったらしい政虎、輝虎、と何回か名前が変わって晩年が上杉謙信って名前になった、お酒が好きで、せっかく美味しそうな料理が並んでもほとんど手を付けない」

「越後は日本海に面して魚がうまいのに勿体無いね、料理番も北信濃から来た村上義清だ、武将でありながら料理、包丁式もやる凄い人だよ」

「そうそう村上義清の行う上杉流蟹の庖丁式を見たよ、蟹の甲羅をまるで豆腐を切る様にすぱすぱ切る、昔の包丁て切れるね」

「上杉君、包丁式で使っていた包丁は包丁じゃなくて脇差しだ、小さいけど刀だよ」

「へーそうなんの、明政君良く勉強しているね、刀なんだ。そして次の日は、武田家の宴で猪の庖丁式を見たよ」

「え、猪の庖丁式?武田家の料理頭は、武将でもある馬場晴信だ」

甲斐は山国である為鹿や猪等々の動物を食べる事が普通で有った、しかし仏教が伝来すると天皇により四つ足の動物は食べてはいけないと肉食禁止令が出来た。

山沿いの地域では、貴重なたんぱく源として食肉禁止令を無視して今まで通りに食べていた。

鹿、馬、牛、猪、狐、狸、兎など、特に兎(うさぎ)は冬、雪の中で捕まえやすく良く食べていた。その為兎の数えかたは、一匹二匹でなく一羽二羽と数える。

兎は四つ足の動物ではなく鳥なのだ。

食肉禁止令を出した天皇ですら四つ足の動物を食べていた。

各流派には、四つ足の動物の包丁式や料理の味付け、作り方などがあるが、肉食禁止令の手前、秘伝秘事としていた。

包丁式は、鳥は鶴、魚は鯉が最上位とされるが、鯨が入った場合のみ鯉よりも鯨が最上位とされた。

昔の日本では鯨は動物でなく魚なのである。

「上杉君、いろんな時代に行っているね、俺もバックタイムペーパーを使って包丁式や日本料理の勉強をもっとするね」

「明政君、話し変わるのだけど、僕明政君と夏子さんに話したい事がある」と言うと上杉君は突然真顔になった。

「今の明政君と夏子さんだったら理解できると思うから話すけど、僕ね、本当だったら二年前にガンで死んでいるんだ」と言った。

上杉君のその言葉に僕と夏子は顔を見合わせた。

「上杉さん、二年前に亡くなっているの?」と、夏子が言うと、上杉君は深く頷くと話を始めた。

「二年前に、ガンと診断されて入院した、ステージ四で余命三ヶ月と医者に言われた。

病院のベッドで寝ていると、妻の咲希が変な事を言いだした」

「陽一さん、私はあなたの子孫です、タイムトラベルして今咲希さんの中に居ます」

「ガンに侵され幻覚かな?と思い、咲希を見ると確かに咲希が話している」

「私は陽一さんと咲希さんの子孫で西暦三千年から来ました、上杉陽向と申します。陽一さんははもうすぐガンで死ンでしまいます。

私が未来から持って来た薬を飲んで、寿命を延ばして下さい、そして、タイムペパーの理論を確立して下さい」

俺と夏子は信じられない様な話に顔を見合わせた。

「それ陽向がバックタイムペーパーで紗希さんに乗り移っている!で、どうなったの?」

と聞くと、上杉君は話を続けた。

「バックタイムペーパーの事を知っている明政君なら理解できるけど、僕はまだタイムトラベルの理論の研究段階で、将来タイムトラベルが出来る様になるか分から無かったから半信半疑で、今やっている研究と完成した機械の名前を言って見ろと質問をした。

すると咲希は、「タイムトラベルの研究、完成した機械は、バックタイムペーパー、過去の人に乗り移れる機械です」

と言った。

つずけて「でも、今の時代では作成する技術と材料が無いので、陽一さんは、タイムトラベルの理論を残すだけです」とも言った。

言っている事は満更噓ではなさそうだ、僕の研究理論が基になり、未来でタイムマシーンが完成するのだたらつじつまが合う。

「成程噓ではなさそうだ、どうせ死ぬのならば薬でも何でも飲むぞと、薬を飲んだ、だから今生きている。

明政くんと夏子さんには、バックタイムペーパーは僕が作ったと言ったけど実は、未来から来た僕の子孫、上杉陽向からもらった物なんだ」と、上杉君は、申し訳なさそうな顔をした。

俺と夏子は、言葉を失い黙って上杉君を見た。

「実は、もう一つ大事な話がある陽向が持ってきた、バックタイムペーパーは数十枚と言っただろう、正確には十二枚で、明政君が一枚、僕が一枚、残りは十枚」と言うと、上杉君は十枚をソファーの前のテーブルに並べた。

「何か気づく事は無いかい?」

二人はテーブルの上の十枚のバックタイムペーパーをじっと見た。

「色が違うわ」と夏子が言った。

四枚は薄い銀色、そして六枚は薄い金色である。

「夏子さん正解!薄い銀色の物がバックタイムペーパー、薄い金色の物をアップタイムペーパーと言うんだ」

「アップタイムペーパー?」と二人は甲高い声を上げた。

「言わなくてもわかるよね、アップタイムペーパーを使えば未来に行く事が出来る」

「上杉君、それって・・」

「バックタイムペーパーは過去の自分には乗り移れない、アップタイムペーパーは未来の自分にしか乗り移れない丁度逆だ、ハハハー」と上杉君は嬉しそうに笑った。

「アップタイムペーパーは未来の自分に乗り移れるんだ・・・でも、今二六才として九十才まで生きたとしても六四年後の未来までしか見られないそれ以上は無理だ」

「明政君正解!年取った自分に乗り移ったとしてもよぼよぼだしそれより先は死んでいるかもしれない。それでアップタイムペーパーには、生存者転送装置が付いている、ちなみにバックタイムペーパーは移動生存者防止機能」と上杉君は自慢げに言った。

俺が頭に手をやって理解不能でいると夏子が、

「成程ねー良く解かったわ、そう言う事ならばアップタイムペーパーは色々な事に使えるわね」

「流石、夏子さん、明政君良く理解出来ていない見たいだから、教えてあげてくれるかな」と上杉君が助け船を出した。

「はい、解りました主人には、妻として説明する義務があります」

俺は開き直り夏子に、「馬鹿にでも分かる様に説明して!いや御免、妻として説明する義務を果たしてくれたまえ」と、言った。

「はい旦那様、ではご説明いたします過去の自分以外の人物に乗り移れるバックタイムペーパーは乗り移ろうとしてした人物が死んでいた場合、移動生存者防止機能がはたらいてこの方は死んでいます、乗り移る事は出来ませんと出る、から乗り移れない。

それに対してアップタイムペーパーは、自分ににしか乗り移れない、もし自分が年で死んでいたら乗り移れない、明政さんの言った様にせいぜい四十、五十年先の自分にしか乗り移れない。でもアップタイムペーパーには生存者転送装置、つまり自分自身を未来に転送出来る、今の姿のまま自分が未来に行けるの、解った?」

「夏子さん素晴らしいその通りだ」と上杉君は感心している。

「ごめん!俺さっぱり・・」と、俺は頭を撫でた。

「ダメか、じゃ僕が簡単に説明する、アップタイムペーパーは、自分が生きている間は、自分自身に乗り移れる。もし死んでいれば今の自分が今の姿のまま未来に行けると言う事だよ」と説明した。

「では、アップタイムペーパーは、未来に行けるタイムマシーンと思えばいいの?」

「その通り、普通のタイムマシーンと思えばいい。理解できただろうから明政君にアップタイムペーパーを一枚渡しておくよ、はいこれ」と、俺に差し出した。

「いやー、使い道の想像も出来ないし、年とった自分や夏ちゃんを見たくないし」

「正直というか真面目というか、明政君の単純な所が好きだ。使う事はないかもしれないけど持って居てよ、夏子さん、いいだろう?」と夏子の方を見て確認した。

「そうね、明政さんだったら、悪い事には使わないわね、使わなくても持っていれば!

多分、バックタイムペーパーとアップタイムペーパーは二枚で一セットなのよ」と夏子が言うと、上杉君はポンと手を叩き夏子を指差し、

「流石!夏子さん実は、バックタイムペーパーとアップタイムペーパーは、二枚で一セットなのだ、実はもう一つ話しがある。明政君が、アップタイムペーパーを使い始めて慣れて来たら言おうと思っていたのだけど、夏子さんは気が付いたようだから先に説明してしまうね、よく見て」と言うと上杉君はシャツの袖をまくり左腕を出した。

「薄銀色のバックタイムペーパーをまず張る、そして張ったバックタイムペーパーの上に薄金色のアップタイムペーパーを張る、すると色がほら!」と上杉君は左腕を見せた。

二枚は透明になり見えなくなった、すると腕に直接小さな窓と数字が現れた。

俺と夏子は目を丸くして

「う、上杉君!これ?」上杉君を見た。

「そんな怖い顔をしないで、今説明するから

アップタイムペーパーは未来、バックタイムペーパーは過去、二つをドッキングさせると未来と過去のどちらにも行ける。

名前はタイムペーパー夏子さんが言った様に二枚で一セットだ。

そしてタイムペーパーになると過去、未来、共に現在の自分自身が今の姿のまま移動する事が出来るようになる」

「バックタイムペーパーは、アップタイムペーパーとドッキングするとタイムペーパーと名前になり、自分自身が過去にも未来のも行けるタイムマシーンになるという事?

俺が生きている間は、より若い俺を、未来では年老いた俺を見る事ができ、しかも過去の誰か、未来の誰かに乗り移る事も出来るんだ凄い機械だね、でも、バックタイムペーパーとアップタイムペーパーに分けないで始めからタイムペーパーで良かったのでは?」と俺は疑問を言った。

上杉君は、にやけながら目を細めて、「本来は、タイムペーパーが発明されたが、使い方や使っている人の膳悪を判断する為に二枚に分けられた、だから最初からタイムペーパーを使う事は出来ない。

バックタイムペーパーが、使っている人間の善悪を記録して次にアップタイムペーパーと二枚をドッキングさせたタイムペーパーを使う事が出来るのさ。

つまり僕も明政君もバックタイムペーパーにテストされ善人か悪人かを判断されていた。

ごめんね、警察みたいな事をして」

「そうなんだ、確かに未来にも過去にも自由に行き来出来るとなると、悪い人だったら、とんでもない事するかもしれない、だから使う人間をテストする為に、バックタイムペーパーとアップタイムペーパーに分けられたと言う事か?あれ、じゃ上杉君と俺の善人悪人のテストの結果はどうなの?」と俺が聞くと上杉君は、

「ハハハー僕も明政君も合格だよ、不合格ならタイムトラベルしょうとした時、申し訳有りませんがタイムトラベル出来ません。てバックタイムペーパーに表示されるから」と上杉君は説明した。

「でもさ、俺なんか戦国時代の織田信長など殺人者に乗り移ったりしているけど合格なのかな?」と首を傾げた。

「大丈夫だよ。乗り移った人物を評価するのでは無くて、使う人自身を善人か悪人かを判断するから」

「三千年後の未来の技術と科学は凄いのね、人間自身が善人か悪人まで見られて評価出来るの?じゃ犯罪人でも噓つけないし詐欺も出来ないわね。それより私の旦那様が善人で良かったわ、善人の明政さんを選んだ私の評価能力もまんざら捨てたものでは無いわね」と夏子が言うと、

三人は一斉に「ワハハー」と大声で笑った。

「所でこの二枚を重ね合わせたタイムペーパーには、凄い機能がある。

前に言ったと思うけど、バックタイムペーパーは日本国内だけの使用だが世界中で使える様にするには、バックタイムペーパーのサイズが大きくなってしまう。

でもアップタイムペーパーとドッキングさせると、重なり合って大きくなり、世界中何処にでもタイムトラベルする事が出来る」

「え、そうなの世界中何処にでもタイムトラベルが出来るの。でも上杉君や夏ちゃんなら英語とか出来るだろうけど俺、英語は話せ無いし」と俺は頭をかいた。

「ハハハーどこの国の言葉でもタイムペーパーが自動で通訳と、はなせる様にしてくれるから大丈夫だよ、そう言えば夏子さんも一セットあげるから、バックタイムペーパーから、始めて見てよ!」と上杉君は夏子に言った。

「え、私?私はいいわ、バックタイムペーパーもアップタイムペーパーも、ましてや世界中どこでもタイムトラベル出来るタイムペーパーなんて明政さんがタイムトラベルする事を見たり聞いたりするだけで十分よ」

慌てている夏子を見た俺は、「ハハーア、バックタイムペーパーに膳人か悪人かテストされるのが怖いのだろう」と、夏ちゃんをからかった。

夏子は、頬をプーと膨らますと「失礼ねーでもテストは受けてみたいな」と言った。

上杉君はポンと手をたたくと、「よしこれで話は決まった!明政君にはアップタイムペーパーを、夏子さんにはバックタイムペーパーとアップタイムペーパーを渡しておくよ、使う、使わないは夏子さんと明政君が決めて」と二人を見た。

俺は、「解った、俺も夏ちゃんも使わないかもしれないがもらっておくよ、上杉君がタイムペーパーを使う時が有れば教えてくれる、俺も夏ちゃんも上杉君と一緒に同じ時間、同じ場所にタイムトラベルするから」と、俺がいうと、

「ハハハー」と三人は笑った。

俺は、しばらくはバックタイムペーパーを使って日本料理と、包丁式の歴史を見てこようと一人事を言っていた。

「明政さん良かったね。でも何ぶつぶつ言っているの?」と夏子が聞いた。

「あ、俺の決意というか、いやハハハー次のトラベル先を何処にしようかな、ハハハー」俺は照れくささをごまかした。

      バックタイムペーパー 

                終わり



後書き

令和二年の春に日本を襲った新型コロナウイルスの蔓延は、伝統的な日本食料理を守ってきた老舗料理店にとっては大きな打撃を与えた。しかし、「ピンチはチャンス」とも言われるように、これを好機と捉え、作者は改めて和食文化について考える事とした。

国際化された日本で、日本食と言われる料理はどれ程の割合を占めるのであろうか。フランス料理、イタリア料理、中華料理と、お腹を満たす事にはことかかない、あえて日本食にこだわる必要はない。

しかし寿司や天婦羅、刺身などの日本料理が無性に食べたくなる時がある。

それは日本人のDNAのせいなのだろうか。

私は四十年間日本料理をお客様に提供して来た板前で有る。そこで日本料理の献立や作り方一般には知られていない板場の仕組みや秘話等々を書く事としたが、それでは、ただの料理書になってしまう、そこで私は、料理に興味の無い人達にも面白く読んでもらえる様にとタイムトラベルを組み合わせた。

日本料理とタイムトラベルの組み合わせにより、現代の日本料理と過去古来の日本料理の食べ比べが出来るので有る。

料理の専門書と歴史をSF小説にまとめたつもりだ。

日本人の胃袋を支えてきた古来の料理人達は、食事や料理を作る事だけでなく、歴史上の数々の事件に巻き込まれ翻弄されてきた。

そしてそこには、必ず食に関わる儀式や作法があったのである。

この物語は、現代の日本料理は勿論の事だが日本に伝わる包丁の儀式や日本料理の調理方法、技法、作法などを作った料理人や包丁師と呼ばれる板前達に焦点を合わせ、現代の料理人進士明政がタイムトラベルで過去の板前、料理人から日本料理の歴史を学ぶと共に日本で起きた歴史上の事件、騒動、イベント等々を、体験する話である。

願わくばこれから日本料理の板前を目指す料理人達に読んでもらいたい。

日本の歴史を通して板前は勿論日本料理に興味の無い人が読んでも、成程そうだったのか、本当はそうなのだと納得出来る様に、面白おかしく書いたつもりだ。

このSF物語は、バックタイムペーパーから次の小説アップタイムペーパーと繋がっていく。

バックタイムペーパー、アップタイムペーパーを通して読んでくれた人が、過去から未来の料理の在り方や料理と人との関わりが伝われば幸いである。

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バックタイムペーパー 稲葉敏明 @3411

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