『アイアンボディ……いたくないもん!』

 五月も終わる柔らかな光が、僕の脳髄の血の巡りをひどく悪くしていた。


 前方では、古文の秋山先生が黒板を指してがなり立てているが、僕には斑ハゲの


戯言を耳に入れない特技がある。


 平和だなあ。


 睡眠を促進させる古文担当教師の奮闘に、ゆったりと机に顎を下ろした。


 実際、ここ数日僕の周りは穏やかな空気が巡っている。数日前からあった背後か


らの射るような視線も和らいだ気もする。


 天下太平、誰もが待ち望んでいた安寧の時が訪れたのだ! 戦いの日々が夢のよ


う……が実はちょっと寂しい……なんだか不本意だから。


 一週間ほど前の新入生交流会での事件で、僕と天城さんの仲は劇的に縮まった…


…ハズだった。気がした。可能性があった。


 だけど、やっぱり世界はそんなに簡単で優しくない、天城さんが無事にクライメ


イトに受け入れられて、僕らの距離は曖昧になった。


 以前の立場に戻った……ようではないが、教室で語り合う、というラブい事もない。


 ふと、僕は遠くからそれとなく天城さんに笑いかけて見た。彼女ははっとして慌


てて俯き、ペンを持つ手元を小刻みに動かすだけだ。


 はあ、とため息をついて今度こそ机に伏せてしまう。


 天城さんを思わず抱きしめてしまってから数日。


「あの……拓生、私寂しいんです、ですから寂しい私をもう一度温めて」……とい


う嬉し恥ずかしい展開にはならなかった。


 それどころか天城さんは挨拶しても、「ま、まだけいさんがっ……」と訳の分か


らない理由で逃げていく始末だ。


 うううう、世界は何て残酷なんだ、もう苦しくて夜も眠れないよ……。


 正午に近い太陽が僕を心地よく温めてくる。だから意識がすうっと遠のく。



 昼は眠れるのだ。



 と、何の前触れもなく、がらら、と音を立てて教室の前方の扉が開いた。僕の反


応が今ひとつ遅れたのは、机に広がる涎に沈んでいたからだ。


 周りの生徒がざわめくから覚醒し、僕は口元を拭いながら目線を上げた。


 三メートルほど先にスレンダーな胸回りながら、ツンと上を向いた健康的なバストがあった。


「葛城……」


 葛城司(かつらぎつかさ)は皆の視線など意に返さない様子で、無表情に後ろ


手で扉を閉めると、すたすたと教壇の前を横断し自らの席へと向かう。


「葛城?」もう一度、その名を呟いてしまう。


 葛城司。同じ中学で、数ヶ月前まで同じクラスで、僕にとって唯一の恩人だ。


 そんな彼女が久しぶりに姿を現し、何事もなかったような足取りで前を通過していく。


「ま、待ちなさい!」


 唖然としていた秋山先生が、にわかに我に返る。 


「き、君はなんだね? いきなりやってきて、遅刻か? だとしたら言うべき事があるだろう?」


 薄い髪を海中のわかめのように揺らしながら、秋山先生はあるいは至極真っ当なことを口にした。


 だが当人たる葛城は、だんっ、とたどり着いた自分の机に鞄を叩きつけて、それ


らに対する解答を示した。


「な、何だね? その態度は!」


 秋山先生の怒りは頂点に達したようで、顔面中にびくびく青い血管を浮かせたが、


葛城は無言で着席すると腕を組んでそっぽを向いた。 


 僕はしんと静まりかえる教室の中にいた。 


 葛城の態度は『反抗』以外の何ものでもなく、実は極普通の高校生でしかないク


ラスメイト達には衝撃だ。僕も超びっくりしたから。


「こ、こ、こ、こ」


 激情のあまり秋山先生は言葉を失ったのか、ニワトリに先祖返りした。鳥っぽい


先生だから仕方ない。


「この、このことは大きな問題だぞ! ごぶん」


 音を立てて痰を飲み込んだ秋山先生は、ドン引きする女子生徒達に気づかず高音


質の声を張りを上げた。


「き、き、き、き、君、受業が終わったら職員室に来なさい! とっちめてやるわ!


 わたしの受業を妨害するなんて、きー!」


 うわ、こいつ実はオネエだ。と僕もドン引きし、粘着質の眼差しに不安になった。


 が、当人の葛城は全く応えていないようで、頬杖をついて窓の外を見ている。


 どうしたんだ? 葛城。


 僕の記憶にある葛城司は大人びた、すこし冷めた所のあるクールな美人だったが、


あからさまな遅刻をして教師を挑発するようなワルではなかった。


 それどころか……。


 葛城がいなければ、彼女の凛とした言動がなければ『あの』悪魔のような女に屈


していただろう。今も葛城に対する思いは憧れと感謝に満ちている。


 モデル体型の美人の彼女を夜の儀式に使用していないのも、恐れ多いからだ。


 だからこそ、葛城の不穏な雰囲気に心が乱れる。


「何あの格好? いやらしい女」


 えりすの辺りを慮らない嘲りに、僕もそれに気付いた。 


 葛城の胸に気を取られていたために、外見の変化を見落としていた。


 ボリュームのある長髪は、かつては艶々とした漆黒だったが、今は掠れたような


茶色になっている。高い鼻と大きな瞳、小さな唇の端麗な容姿は変わらないが、そ


れらはほんのりと、しかし一目で分かる程の化粧が施されていた。


 中学時代はセーラー服をきっちり着こんでいたのだが、高校指定の女子用Yシャ


ツは胸元のボタンを限界まで緩めてあり、大きく開いている。


 この僕さえも呻ってしまうほど扇情的である。

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