第二章

 あの姿の葛城と、放課後二人きりになれればとても幸運なはずだ。



「ねえ……拓生……」


「やあ! 葛城じゃないか、どうしたんだい? 何か僕に用か?」


「うん……どう、かな? あなたに気に入られようと……して、みたんだけど」


「ははは、バカだなあ、君には化粧なんていらないよ! 素顔のままで十分さ」


「うれしい……えいっ」(ボタンはじけ飛ぶ)


「ああ! どうして更に勢いよく胸元を広げるんだい?」


「うん、私、中学から少し大きくなったのよ、計ってみない? その手で」


「え! この誰もいない放課後の教室でかい?」


「あなただけに見せてあげる……」


「そ……それは困ったなあ……まあ、しかし葛城がどうしても、と言うなら」


「葛城、なんて他人行儀に呼ばないで……つかさ、でいいわ」


「わかった、つ、か、さ、いただきマース!」



 ばちん、と後頭部に痛みが走った。


 ピンクの精神世界から我に返り。手で頭をさすりながら振り返ると、えりすが目


を研ぎ上げてボールペンを構えていた。


「うわあ」と僕は正面に向き直った。


 命中したペンが足元に転がっているが、それを拾ってえりすに返すほどの心理的

余裕など無い。


 なんでえりすは僕を目の敵にするのさ……うう……。

 


 一悶着あった受業が終わり、秋山先生が不機嫌なまま教室を出て行くのを待って、


僕は葛城に近寄った。


 他の生徒は遠巻きに見つめ囁き合うだけだが、少し縁がある僕は「やあ」と親し


げに声をかけてみる。


「…………」


 返事はなかった。葛城は頬を厳しく引き締めたまま、椅子に寄りかかって僕とは


の反対方向の窓を見ている。


「か、葛城……ええっと」


 早くも行き詰まりだ。実は僕もそんなには親しくない。昔の友誼を信じた挨拶が


不発に終わったのなら、その後の展開は考えられない。


 ど、どうしよう。


 自然と、超自然に、何の悪意もなく、僕の視線は葛城の細い首の華奢な鎖骨の下、


開いている胸元に固定された。これは彷徨う視線が落ちただけで他意はないのだ。


 ないのだ。


 葛城はスポーツ万能で背も高い、中学時代は『格好いい』女子生徒として後輩か


ら憧憬とアブない恋愛の目で見られていた。


「ヘンな男より葛城先輩の方がダンゼン上、葛城先輩なら私、アリ」


 と言う声を女子生徒達からよく盗み聞いたものだ。僕はその度に帰宅後、その類


の動画収集に燃えてしまった。


 しかし、こうして近くで見ると葛城はやはり綺麗な女の子だった。肌はミルクの


ように白くなめらかで、体つきも柔らかく、ふてくされているような格好もどこか


絵になっている。


 飾らない石けんの臭いを鼻に感じ、僕は少し安心した。葛城には香水よりも石鹸


が似合う。昔も今も変わらない。


 僕は慎重に目をこらした。胸元、その下のブラが見えそで見えないのだ。


 なんて絶妙な着こなしなんだ……葛城……お前は天才か? 


「あのさ……」


 突然、その葛城が声を出したので僕は倒れそうになった。


「な、なに?」


 いつの間にからか、不快そうに眉を逆立てている葛城に見上げられていた。


「あんたがどうしてようとあんたの自由なんだろうけど……人の胸をジロジロと見


るのはどうなんだろう? 礼儀とか行儀とか……私が言うのはヘンだとは思うよ、


しかし一応あんたが見ているのは私だし」


「いややややや」


 僕はぶんぶん手を振り回した。何やら迂遠な言い回しだが、葛城の声は爆発しそ


うな怒気を孕んでいる。


「ち、違うよ、ぼ、僕は……その、君の様子が何かおかしかったような気がしたか


ら……な、何かあったの?」


「関係ないでしょ! ほうっといてよ!」


 ばしり、と葛城が鋭く机を叩いたので、「は、はい」とすごすごと離れた。


「全く、嫌な女」


 葛城の元から全力で退散した僕に、いつの間にか近づいていたえりすが薄く嗤った。


「昔っからあたしの邪魔ばかりして、消えてしまえばいいのに」


 思わず僕は俯いていた。夜道で蜘蛛の巣に突入した、くらいテンションがだだ下


がる。えりすの言葉の意味は僕にとって重い。 


『あたしの邪魔』……というのは僕を苦しめる邪魔、という意味だ。


 えりすの願いが天に届いたのか、次の受業の前には葛城は消えていた。ただ、机


には荷物等が置きっぱなので、帰ってはいないハズだ。


 僕は葛城がまた顔を出すのを持っていた。先程は『偶然』目のやり場を間違えて


『誤解』で険悪になってしまったが、彼女はかけがえのない恩人だ。


 葛城がどうして不意に服装を乱したのか、力になれることがあったらそうしてや


りたい。しかし僕の願いは天にスルーされ、葛城は昼休みになっても戻ってこなかった。   


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