第十七章

「天城さん」


 僕はその儚げな背中に優しく声を掛ける。


「はう?」


 彼女はちょっこっと頭を動かす。


 僕は悶死しそうになる。萌えた。めがっさ萌えた。


 天城さん、隠れ眼鏡っ子だったんだ!


 天城さんは見慣れない黒縁の眼鏡を掛けていた。それはそれで凄く似合う。


 が、彼女の表情を覗いて、とろける顔の筋肉を無理矢理ひきしめた。


 泣いてなどいなかった。それどこらか悲壮感の影などどこにも纏っていない笑み

がある。


 余計に僕の心はずきずき痛んだ。無理をしているのが、はっきりと見て取れた。


「えへへへ」と天城さんは気丈に笑ってみせる


「失敗しちゃった……計算ミス」


 天城さんは紙の束を持っていた、どうやらここで再計算していたらしく、眼鏡の


プラスティックのふちに指を当てる。


「ほら、ここ、ここが違うのよ、ここ、ここよ、ダメだよね? みんなに迷惑かけ

たし」


 平然とした風を装っているが、相当応えている。ルーズリーフをみっしり埋め尽


くす数式に、赤字で大きな×がいくつも記されていた。


 冷たく、痛くすら感じるくらいの強風が突如屋上を駆け抜け、天城さんの体は傾

ぎ、


 手にした計算ノートが宙にさらわれてしまう。


「ああ!」彼女は驚愕した。


「なくなっちゃう! 計算式、また間違っちゃう!」


 慌てて空に舞う紙を集めようと、天城さんは手を伸ばした。


「天城さん」


 その姿のあまりの痛々しさに、僕はつい反射的に彼女を抱きしめていた。


「わ、私、計算、ミス……」


「いいんだ! もういいんだ! ごめん、ごめんね!」


「え?」


「僕は、僕らは狡かった、何もかも君に任せて。考えたら、君は一人ですっごく頑


張っていたのに、実は気味悪がってて……僕たちは君があんまりにも何でも出来る


から、甘えていたし、嫉妬していたんだ」


「そんな……」


 しばし天城さんは絶句する。


「ま、間違えたのは、私、です。お父様やお母様にもビジネスや経営の世界で計算


ミスをしてはいけない、てずっとずっと躾られて来たのに。私、ミスを……」


「僕が悪いんだ! もっとみんなに君の力を教えるべきった、君の持つ才能を」


「そ、それはだって……きっと皆さん、私の計算の事なんか判ってくれませんよ。

それはいいんです」


「よくないっ!」


 僕は叫んでいた。びくり、と天城さんの体が震えた。


「君に頼りっきりで、甘えて、任せて……本当はみんなで頑張らなくちゃならなか

ったのに……ももも」


「ももも?」


 天城さんが不思議そうに聞きとがめるが、僕は動揺の荒い息をつく。


 天城さんを抱きしめていると桃のような芳しい香りに覆われていたのだ。耳の後


ろにはフェロモンを出すアポクリン線がある。


 女子の香りはクセになりそうだ。


 僕は一瞬前の真面目さをすっ飛ばし、天城さんの首筋につい、事故で、他意なく

鼻をつけた。


「はわわわ」と天城さんが狼狽したので正気に帰る、彼女は電灯が灯ったように真

っ赤だった。


「ぎゅっとされた……」


「ご、ごめん! これは、なんというかセクハラじゃなくて、元気づけというか…



…とにかく犯罪に類することでは……訴える? 土下座じゃだめ? 床も舐めるよ?」


「初めて……ぎゅっとされ、ました、力一杯ぎゅっ」


 僕を見上げてくる天城さんの瞳が。眼鏡越しにきらきらと輝く。


「誰にもぎゅっとされたこと、ないのに。東雲君が、ぎゅっとしました」


 ぎゅっ、ぎゅっ、と何やら彼女はぶつぶつ呟いている、セクハラについては穏便


に済みそうだ。


「み、みんなの事は気にするなよ、ぼ、僕が説明する……それでダメでも、僕がい

る」


「え?」

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