第七章


 悩んでいると、前触れもなくクラスがわっと沸いた。目を転じると黒板の前で、天


城さんが頬を赤らめている。


「よくできました! 完璧です」


 葉山先生は、化粧気のない顔に笑顔を湛えてクラス中を見回す。


「天城さんはよく勉強をしているようです、皆さんも彼女を見習って下さい」


 三十代後半の独身女性である葉山先生こそ、天城さんに『かわいらしさ』を見習う


べきだ。と余計なことを思うのだが口には出さない。


 顔面いっぱいにそばかすが広がっている葉山先生が、実は陰湿でヒステリックだと


知っているからだ。


 残念ながら僕のような性癖の持ち主も相手は選ぶ。そんな僕の横を、天城さんが頬


に手をやりながら足早に通り過ぎていった。


 ふわ、と何か白いものが、目の端に触れた気がした。


「うん?」


 見直すと、丁度一枚の紙がはらりとゴム床に滑った。


 振り返るが、紙片を落とした事に気付かぬ天城さんは、友人達の賞賛に照れながら


着席するところだ。



 紙?



 僕はこっそり椅子から離れて天城さんが落とした、四つ折りにされたルーズリーフ

ノートを拾う。


「うわ」と思わず呟いてしまったのは、それにびっしりと何かが書き込まれていたか

らだ。


 ちかちかする目をすぼめると、数式の連なりで、ラブ的要素皆無のつまらない物

だ。


 どんな難しい問題を解いたのか、ノートの端から端まで数字と記号が溢れている。


 ふう、と肩をすくめて、元通りに折り直し、開けた痕跡を消した。


 まあいいか……こんな式、必要か判らないけど、後で返そう、


 と僕は呑気だった。ノートの欠片などに意味があると思えない。


 数学の授業が終わると、すぐに天城さんの席へと向かった。落とし物の返却のため

だ。


 が、簡単に叶わなかった。


 人気者の彼女の周りにはイケテる系女子の友達や、内心天城さんを狙っているのだ


ろう、羊の皮をかぶった狼どもと言い換えられる一軍男子生徒達もいるので、人見知


りのきらいがある僕には、声が掛けづらい。


 意を決して足を踏み出したが、天城さんと何か打ち合わせしている爽やか系スポー


ツマンのクラスメイトに不審な目で見られた。


 そっか、交流会の……数日前に短距離のタイムを聞かれたことを、ふと思い出し

た。 


 近日、新入生交流会と銘打たれた体育大会が催されるのだ。そして天城さんは優れ


た情報処理能力を買われて、実行委員に選ばれていている。


 男子側の委員であるイケメンのカリントウのような色の陽キャクソスポーツマン


と、席の割り振りやら競技に参加するメンバーの選出に、休み時間も忙しくシャープ


ペンシルを走らせている理由だ。


 うう、と機会を失った僕は、しばしその場に固まった。


 天城さんの近くにいる女子生徒達が突っ立つ僕を、胡乱そうに見上げてくる。


「何か用? 邪魔なんだけど」という彼女達の冷たい、背筋をぞくぞくさせる言葉が


聞こえた気がした。


 当人の天城さんはこちらに気付かず、外見爽やかマンと何か熱心に打ち合わせをし

ている。


 心が急速に萎縮した。


 こんな紙切れ、持って行ってもバカにされるだけだよな。


 結局、僕はがっくりとまわれ右をして自分の席に戻ることにした。落とし物、と言


ってもただ『数式』が書かれたノート一枚、天城さんにとってどうでもよい物だろ

う。


 脱力感に耐え、騙し騙し足を動かし席に着くと、倒れるように机に突っ伏す。


 次の受業の予鈴が鳴ったが、もうどうでもよかった。


「はわ!」と背後から焦りに満ちた声が上がったのは、昼休みの一つ前の三時限目の


休み時間だ。


「うん?」


 振り返ると、いつも落ち着いている天城さんが、珍しく青い顔で取り乱している。


「はわあっ! な、ない! ない、ないよう、あれがない!」


 鞄の中身をぶちまけ、机を斜めにして慌てている天城さんの様子に、近くの女子生


徒に尋ねてみた。


「天城さん、どうしたの? 何か知っている?」



「………………………………」



「シカトしないでよっ!」


「ああ」と独り言事件から僕へ軽蔑した眼差しを煌めかせている隣席の女子生徒が、


やはり色のない目で、しかし説明はしてくれる。


「……何だか私もよく分からない。数式が何だとか……てか、ヘンな妄想しているア


ンタは私に話しかけないでくれる? 同類だと思われる」


 視線と後半の言葉に若干喜びを覚える僕だが、前半部分に閃く物があった。


 それって……ついさっき無造作に机に入れた紙片を指の感触だけで取り出す。


「ど、どうしよう……三日かけて計算したのに……」


 あまりに衝撃にボーと停止している天城さんに、意を決して歩み寄る。


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