第六章

 ノートを新調したときを思ってほしい。


 真新しいページを捲り、文字も筆記跡もない一ページ目、最初の一枚は細心の注意


を払い丁寧な字を心がけ、色とりどりのペンを使用して、レイアウトなんかも気にし


てしまうだろ?


 だが、その新鮮な気持ちと意欲は次のページには続かず、結局、ノートを新調した


ときのやる気など思い出せなくなる。次のノートを買うまで。


 一年三組に漂う雰囲気は、まさにそれだ。


 最初の数日は瞳を輝かせて本気で受業を受けていた生徒達も、三〇日も経つと三派

に別れる。


 当初の志のまま、一所懸命に教師と黒板を見比べる、デキる奴。


 すっかり慣れて油断して、内心別な場所に気が行っているのに、表面だけは勉強し


ている『フリ』をしている大多数の、デキない奴。


 もはや勉強どころか、内申点さえもどうでもいいや、という、熟睡者。


 佐伯えりすは、そのカテゴリーだと『熟睡者』だ。


 消しゴム弾が途切れたようなので、そうっと伺って見ると教科書を立てて机に突っ

伏していた。


『デキない大多数』の僕は複雑な心境になる。


 えりすは勉強などに全く興味を示さないタイプの人間だ。しかし、どういう仕組み


なのか、テストとなると必ず僕の上にランクインした。


 謎の毒電波受信能力でもあるのか、僕の残念さを知っているえりすは、いつもテス


トの用紙をわざとらしくひらひらと見せびらかしてくる。


 何で世の中はこんなに不条理極まりないんだ? どうして僕だけ勉強が出来ないん

だ?


 数学担当の葉山先生の声を聞いているフリ、をしている僕は、スマホのソーシャル


ゲームに興じつつ考えてしまう。



 ガチャを回せ!



 ちなみに、天城さんは学年でトップ争いに入る秀才だし、みやは根が生真面目なの


で、いつも真剣に受業を受けている『デキる奴』だ。 


 それも謎である。世界は謎に満ちている。なぞなぞ、ではなく、なぞなぞなぞなぞ

なぞなぞ……だ。


 考えていたら、夢中でやっているソーシャルゲームで、悪のドラゴンを撃ちもらし

てしまった。


 何てらしくないミスだろう。スマホアプリ界では、世界に冠たる課金様のシュータ

ーなのに。


 失態に目が覚め、本気でアプリゲームに取り組むために僕は背骨を伸ばした。大事


に育てたキャラを失うわけにはいかない。この弓使いは僕の分身だ。もう一つの命な


のだ。いくら課金したと思っている。イッツ、マイ、ライフ。


「さて、この問題を……そうね、天城さん、黒板でやって下さい」


 ドラゴンにマイキャラがガッツガッツ食い殺されているようだが、



 もうどうでもいい。どこでなりとも朽ち果てろ、クソ弓使い。



「はい!」と快活に答えた天城さんは、まるで花道を歩くヒロインのように黒板前ま


で進み、迷いも躊躇もなくちょこりとチョークを取った。

 

 円筒形のチョークから生み出されるとは思えない整った字が、一つ一つ産まれてい

く。

 

 それほど身長のない天城さんは、後ろの席の生徒にも見えるように精一杯背伸びし


て、数学の公式を書き込んでいく。 


 僕には答えどころか問題文の意味も分からない設問だが、教師に指名された天城さ


んは、考え込むこともなく膨大な式を黒板一杯に記していた。


 その後ろ姿は可憐である。


 痩せすぎていない体はなだらかな丸みを帯びていて、しかもくびれるべき所はしっ


かりくびれており、背後からでも心身共に健康だと一目で分かる。


 大きな黒板の関係で、天城さんが左右に移動し、上に伸び、下に屈むたびに瀟洒な


背中の中程まである長い髪が揺れ、僕の心もぐらぐらした。


 頬に鋭い痛みが走り、重い金属の音が机の上で鳴った。


「いた!」と思わず顔に手をやり音の方向を見ると、机の上に銀色のコンパスが落ち


ていて、ぎらぎらと乱反射していた。


「うわあ」掌を確認すると、赤い色の滴に濡れている。   


 泡を食って振り向くと、えりすがいつの間にか夢の国から帰還していて、猫のよう


な目を悪意でぎらつかせていた。


 シャレにならない! 僕は声にならない叫びを上げた。


 佐伯えりすはいつもこうなのだ。


 天城さん鑑賞の甘い感覚は消え、背後で立ち上る黒いオーラから身を隠すように肩

をすぼめた。


 どうしてか黒板を見ると制裁を受けるようなので、体を横に向ける。しかし空っぽ


の机が視界に入り、


 気が滅入った。


 その空席は葛城司(かつらぎつかさ)のものなのだ。


 世界が陰った。葛城の姿がない。


 それは僕にとって不安で、心配なことなのだ。


 葛城司とは頻繁に会話するほどの仲ではない。中学時代ずっと同じクラスだった


が、三年間トータルで声をかけたのは数度だろう。


 葛城は僕のことなど何とも思っていないはずだし、同じ高校、クラスメイトになっ


たことも認識していないかも知れない。


 だけど僕の心は、彼女がここ数日欠席しているのに騒いだ。


 葛城の大人っぽい姿を、空虚な席に描いてみる。 


 悪い噂を聞いていた。聞きたくない彼女の悪口だ。  


 それを耳朶にすると、吹聴している連中を男なら殴り倒し蹴りを入れ、


 女ならスカートを捲りかんちょーしたくなる。

 


 いや、女子へのは趣味と合致しているからではない。

 


 葛城の名誉を守るためだ。


 ためなのだ。 

 

 ただ、僕はこの思いが、好意とか恋とかそういうショコラ甘いものではない、と判

っている。

 

 恋愛対象にするには、葛城はカッコよすぎるからだ。 


「葛城、どうしたのかなあ?」


 とつい漏らしてしまうのは、葛城への恩義故なのだ。 


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