『神算星読……計算おわりです』

 五月の空は美しかった。



 青い水彩絵の具を多量の水で溶いたような淡い色の空がどこまでも広がり、薄い雲


は光を孕んで、空気には何やらいい香りが混ざっていた。  


 強くもなく弱くもない爽やかな風の中、僕、東雲拓生(しののめたくみ)は深呼吸


をして、香りの元がゼラニウムという花だ、と思い出す。


 少し冷たい朝の酸素は肺の隅々にまで浸透し、頭の隅にあった重たい眠気が消えて

いく。


 低血圧、を言い訳どころか、低血圧だから! と自慢にしているほど、僕は朝が苦


手だ。学校のために早起きするよりも、ぬくいぬくいベッドの中で桃色の夢を見てい


たい。だが、そんな怠惰な僕を少しの間でもやる気にさせる程、その日の朝はすっき

りと輝いていた。


 ふんふんふん、と流行りの曲を鼻歌に直しながら、一ヶ月の経過により見慣れた通

学路を歩く。    


 私立巻野高校は、幸運に、と言うべきか軟弱な僕の足でも二〇分程の、ほどよく寝

坊できる距離にある。


 もちろん、それらを考慮して受験したのだが、よく滑り込めた物だ。中学三年の三


者面談時、志望校として挙げたら、当時の担任がにまっと苦笑したのを覚えている。



 超やる気が出た。



 確かに僕の成績では少々きつい場所にあったのだが、故に合格の快挙にまだ心はハ

イテンションだ。


 もし法治国家じゃなかったら、全裸で何かやらかしただろう。


 超やらかした。


 言うまでもなく、僕は晩春の陽気にふらふら浮かれ気味だったのだが、どこからか


早朝には似つかわしくない爆音が聞こえ、はっとした。


 意識を向けると、バリバリ、と新鮮な空気を汚染するような、酷く不快で、胸の底


から不安をかき立てられる爆発音が、圧迫するように近づいてきて、僕は立ち止まっ

てしまう。


 まだ目の前の信号は青だったが、足を止めなければならないような気がした。


 程なくして、爆音は耳に痛感として感じられるほど大きくなる。正体は想像通り

だ。


 歩道側の信号はまだ青、ならば車道側のそれは赤、『停止』だろう。


 しかしそんな『オトナが決めたルール』とやらを踏みにじる勢いで、何台ものバイ

クが通り過ぎていった。


 またがっているのは誰も彼も髪を染めた、一目で剣呑と分かる野獣系の少年達だ。



「うわ、『刃苦怨』(バクオン)だ……」



 違う学校の制服を着た少年が、僕の背後で息を飲んだ。同様に、周りにいるサラリ


ーマンや学生、自転車を押している警察官さえ身を潜めている。


『刃苦怨』は、今時珍しい古式ゆかしい暴走族ではない。『犯罪組織』を自称するイ


タい半グレ集団だ。だが、だからこそタチが悪い。


 暴力事件は当然で、中には命に関わった被害者もいる。怪しげな薬物を売り、酒場


の用心棒であり、金が欲しければ奪い、気にくわない人の家に火までつける。


 やりたい放題の少年達だが、それ故、少年故、未成年故に法が悪行に釣り合わな

い。


『刃苦怨』に説教をした為に、家と財産を奪われた被害者のニュースが頭をよぎる。 


 その人物の家に火をつけ、家財道具一式を焼失させ、六歳の子供に大火傷を負わせ


た『刃苦怨』メンバーは、『保護観察』という重い刑の下、


 今も街を自由に闊歩している。 

 

 今や警察も困惑するだけとなった野放図の連中が、当たり前に信号無視をしてい

く。

 

 内心、転んで頭超打て、とか念じていることに気付いたのか、ノーヘル金髪男の鋭

い目がついと僕を射抜く。

 

 全力で目を伏せた。僕は今アスファルトのざらざらが気になるのだ。


 あー気になる。 

 

 そうして子鹿のように呼吸を止めていると、すぐにバイク集団は通り過ぎていっ

た。

 

 一時全てが静寂に塗り固められたことが嘘のように、先程までの季節に相応しい朝


がカムバックする。


 だが気分は台無しだった。爽やかな風も、花の香りも、雲の少ない好天もどうでも

いい。


 生活している街に半グレ集団がいる、という事実は薄ら寒い、嫌な現実だ。


 心には不安定な黒雲が湧き、目にする物が何もかも灰色に思えた。 


「あら?」


 そんな僕の背に、驚いたような声が跳ねた。



「……東雲、君……? どうしたの?」



 僕は振り向いて、その一瞬で不快な諸々を全てが霧消するのを感じた。


 僕の目に飛び込んだのは、クラスメイトの少女だ。 


 否、僕の視界はすぐにサーチモードを発動し、少女の胸部へと落ちるよう鍛えてい

る。


 巨乳、とまではいかないが決して慎ましくはない胸がある。しかもここで終着点で


はなく、さらに発展の可能性が見て取れ、形も張りもよい。


 嗅覚に意識を転ずると、甘い桃を思わせる甘い香りが、少女から漂ってきた。



「やあ、天城さん、おはよう」 



 笑顔で挨拶すると、天城愛希(てんじょういつき)は笑顔を引っ込めて半歩後退し

た。


「……今、ものすごく不本意な方法で私を識別しなかった?」


「違うよ!」


 僕の本心だ。


 天城さんの取り柄は、学校の女子全員のを形状も細かく記憶している、


 胸ではない

 

 風にさらさらと煌めく亜麻色の長い髪、桃色の艶やかな唇、高すぎず低すぎない絶


妙なバランスにあるほっそりとした鼻。天城さんはそこらのテレビアイドルが田舎臭


く見えてしまうほどの、とびっきりの美少女だ。


 更に外見と比例して性格もよく、僕のように何の取り柄もないカースト五軍の男子


生徒にも、平等に礼儀正しく接してくれる。


「……そう? でも、どうしてこんな所に一人で立っているの?」


 怪訝そうに小首を傾げる様も絵になる。芸術だ。しかも爆発を信条としないたおや

かなアートだ。


「いや」と僕は照れ隠しに一つ咳払いをして、横断歩道を指した。


「この多彩な美しい世界に思わず見とれていたんだ」


 そう、この光に満ちた暖かい世界はどうしようもなく活力を与えてくれる。悩みな

ど皆無だ。何もない、


 天国だ。


 だとすれば僕と天城さんはアダムとイブである。

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