映る影、変わる時(三)


 ミルフィーユを一口食べると、ほんのりとした甘さで歯触りが心地良かった。

 他の店で食べたどれよりもずば抜けて美味しいというわけではなかったけれど、今の自分はこのミルフィーユじゃなければいけなかったのだと思わされた。

 ふと父が作っていた餡団子を思い出した。

 父はお菓子職人ではない。元は量産商品を仕入れて販売することしかやっていなかった。だが近所の子供が古賀翠鶴堂のお団子は高すぎるから、手頃に買える餡団子が欲しいという声があり作った物だった。


(そうだ。目的はミスミさんを潰すことじゃない。うちの店を続けることだ)


 薫子は今更そんなことを思い出し、フォークを握る手に力が入った。

 黒田彩菓茶房は父と同じ想いを馴染みのある果物と洋菓子を交えて表現している。

 薫子の胸の中に何かが沸き起こり立ち上がると、カウンターの内側に一枚のびらが置いてあった。書き途中のようだが、書いてある情報だけで薫子の胸は高鳴った。

 びらには『従業員募集 経理経験者優遇』と書いてある。


「これってお金の管理ですか? 損益計算とか」

「はい。僕ときたらすぐ無料であげちゃうんで気が付けば大変なことになっていて」

「無料って、もしかしてさっきのミルフィーユですか?」

「ええ。僕が好きで差し上げてるから良いんですけど、黒字赤字ってそういうことじゃないでしょう? でもその管理が苦手なんです」


 つまりさっきの男性客はフルーツセットの金額でミルフィーユを食べたということだ。しかも転職ができればまたケーキを無料で提供し、珈琲は飲み放題だ。

 この赤字が何件も続くならそれは確かに大問題になるだろう。それは桐島駄菓子店で経理業務をやってきた薫子にはよく分かる。

 そして今青年が必要としているのは経理業務をやる人間ということだ。

 薫子は勢いよく立ち上がり青年に詰め寄った。 


「それ私にやらせてもらえませんか! お金周りをやってました! 接客も!」

「本当ですか? でもご実家のお店が大変なんですよね」

「猶予はあります。それに私がやるべきなのは新商品探しじゃなかった。お客様を笑顔にすることなんです。お客様の物語を傍で見させてください!」


 薫子は勢いよく頭を下げた。するとすぐにぽんっと青年は薫子の肩を軽く叩き頭を上げるよう促してくれる。


「そう言ってもらえると嬉しいです。ぜひお願いします。僕は黒田誠一といいます」

「桐島薫子です。よろしくお願いします!」


 こうして薫子は新たな一歩を踏み出した。黒田彩菓茶房でお客様とどう過ごすかを学べば、商品の入れ替えをしなくてもやっていけるようになるかもしれない。


「経理関係は得意です。帳簿ってありますか? 今までの収支を知りたいです」

「さっそくやってくれるんですか? 頼もしいです。ではこっちに」


 薫子は誠一に連れられカウンターの中に入った。誠一は一つの帳面を開き薫子に見せる。


(これだけお客様の心を掴んでるなら凄い黒字じゃないかしら。ケーキの一つや二つあげたところで痛手にならないんでしょうね)


 薫子も飴玉一つあげる程度のことはあった。食べ物には賞味期限があるので廃棄するくらいならあげてしまおうと思ってのことだ。

 だがそれが次の収入になるわけではない。それだけのことだ。

 しかし誠一は違う。大事なのはケーキではなくその気持ちだ。気持ちを掴んだのならお客様は何度も来てくれるだろう。そういう成立の仕方なのだろう――と思い帳簿を見た。

 そして薫子は帳簿に書いてある数字を見て愕然とした。

 帳簿は帳簿と言えないくらい雑なものだった。薫子にとって帳簿はどれが何の費用か、一目瞭然分かりやすくなっている物だ。だがこれは飛び飛びに数字が散らばっていて何が何だか解読に時間がかかる。

 だが一つだけ一目瞭然なものがあった。それは帳簿が一面真っ赤であることだ。


「何ですかこれ! 大赤字じゃないですか!」


 どこを見ても負の数字が並んでいた。駄菓子より単価が高いから粗利金額の違いはあるものの、販管費を差し引いた最終的な利益は桐島駄菓子店よりはるかに悪い。

 思わず誠一をじっと見ると、誠一はこてんと首を傾げた。


「えへへ」


 何を可愛く笑っているのか。

 休日なのに十二時開店なんて、この赤字でよくも強気な経営ができたものだ。


「よし! まずは帳簿を整えましょう! とりあえずうちの書式で!」

「初日からそんな凄いことをやってくれるんですか。とっても助かります」

「任せて下さい。ちゃんと損益勘定して無駄を削減すればどうにかなりますよ!」


 これだけの店を長く続けているのなら、帳簿が汚いだけできっと本来は黒字になっているはずだ。店というのは家賃や水道光熱費など固定費があるから常に赤字で何年もやっていくことはできない。

 整えてどの程度の黒字か理解すれば誠一がお客様へ提供できる商品も増えるかもしれない。それは桐島駄菓子店としても知りたい技術だ。

 薫子は気合を入れたが、翌日には信じられない状態が訪れることをまだ想像もしていなかった。

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