映る影、変わる時(二)
「お待たせしました」
「あの、今お話なさってたミルフィーユって」
「少々お待ちください。ご注文の前に足の手当てをしましょう」
男はカウンターの中に入ると引き出しの中から何かを取り出し差し出してきた。
それは消毒液とガーゼ、そして絆創膏だった。薫子が休憩を強いられた原因のかかとにちょうど良さそうな大きさだ。
「よく見てらっしゃいますね……」
「この辺りは秩父のように足元が柔らかくないですからね。慣れない靴で慣れない土地を歩き回るのは大変でしょう」
秩父と言われて薫子は眼を見開いた。
確かに秩父から来たが、東京に来てからそんなことは誰にも話していない。この青年とも初対面だ。知っているはずがない。
「どうして慣れてないと分かるんですか? 秩父から来たって」
「見たままですよ。新しくて靴擦れが酷いし服も新品同然。おそらく洋装自体あまり着ないのではないですか? それにその雑誌」
青年は薫子の鞄を指さした。そこには家から持って来た雑誌と地図が雑に押し込められている。
「雑誌に秩父版と書いてあります。東京ご出身で慣れた土地なら地図は使いません」
「……本当によく見てるんですね」
「ご同業のようなので気になったんです。敵情視察ですか? 喫茶店ばかり覗いてらっしゃったようですが」
「そうですけど、まさかずっと私を見てたんですか?」
「いいえ。十時過ぎにミスミ洋菓子店を睨みつけた後に準備中のうちを通りすぎた時だけですよ。十二時になったらまたミスミさんを睨んでらっしゃいましたが、靴擦れと小雨に困って開店したばかりで空いてるうちへいらしたというところでしょうか」
「通りすがりの相手をよく覚えてますね……」
「ちょっとばかり記憶力が良いもので。商売敵に足を運ぶ方は気になりますしね」
入店してほんの数分で次々に言い当てられ、薫子はぽかんと口を開けて固まった。
だがそれと同時に心臓が大きく音を立てた。
ありふれた果物とよく見る種類のケーキなのに、この店のお菓子はどれも唯一無二の宝石のようだ。それもお客様一人一人のために提供する暖かさもある。
他と同じでありながら独自の商品。それは薫子が今求めているものそのものだ。
「あの! さっきのお客さんにミルフィーユ出してましたよね。いつもあんな風になさってるんですか?」
「ええ。うちのお菓子はお客様の物語なんんです。このミルフィーユは以前同じようにお仕事で悩んでいた方の物語。その経験が誰かを助けることもあるでしょう」
「じゃあこっちはどんな物語なんですか? 真っ白なクリームに白い花と紫の花」
「ストレスで寝付きが悪くて困ってる女学生の物語です。よく眠れるようにリラックス効果のあるカモミールとラベンダーを使いました。女性には特に人気です」
「あのチョコレートケーキは?」
「和菓子好きのおばあちゃんが洋菓子好きなお孫さんの受験を応援する物語です。ご自分では何が良いか思いつかないとのことでお任せいただきました」
「へえ……素敵、とっても素敵……」
夢の国にしか無いような美しいケーキなのに、語られる物語は誰もが想像付くような日常ばかりだ。
凄まじい落差だけど不思議と違和感はない。
「たくさん歩いてお疲れのようですし、チョコレートケーキなさいますか?」
「……いいえ。ミルフィーユを下さい。私もその物語の力を借りたい」
「おや。転職をするのですか?」
「いえ。うちは駄菓子屋なんですけど、近くにミスミさんができて経営が厳しくて。それで新商品の情報収集に来たんです。東京なら目新しい物があるかなと思って」
「西洋菓子では駄目なんですか? ミスミさんには無い西洋菓子もあるでしょう」
「新しければ良いわけじゃありません。お父さんが扱いたいと思ったならともかく、ミスミさんに対抗するためなんて看板を捨てるのと同じことだわ」
「失礼しました。そうですね。うちも先々代から同じメニューでやっています」
「ずっとですか? でも西洋菓子ですよね。最近の物だと思うんですけど」
「うちはお客様に必要なお菓子を作るだけで、どの文化発祥かは気にしていません。これは祖母が考えたお菓子で、西洋ではミルフィーユという名称だっただけ。もっとも、材料や仕上げの形状は西洋のミルフィーユに寄せましたが」
青年はショーケースをするりと撫でた。
ケーキには当然一つずつ名称が付いているが、その説明文はとても長い。
カウンター席からは見えないが、お客様の物語が綴られているのかもしれない。
青年はミルフィーユを取り出し薫子の前に置くと先ほどの男性客と同じようにフルーツを盛り付けていく。質素なミルフィーユに魔法がかかる。
「うちは洋菓子店ではありません。彩菓茶房です」
青年は穏やかに微笑むと小鉢に生クリームをたっぷりと入れて出してくれた。
「激励です。ごゆっくりどうぞ」
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